2026/3/14-2026/3/22


内情覚感と知能の評価について


前回の「484:「感じ」の構成と事象再生の場について」を考えて、
知能の構造についてはおおよそ目途が立ったと思うが、
内情覚感については、「ある」と考えるにしても、
もう少し詳しい構造や、その定義のありかなどについては考える必要はあった。

そこで今回は内情覚感についてもう少し詳しく考えてみる事にする。

そして、内情覚感と知能が用いる評価に関係があるだろうということは考えてきたが、
その関係についても、もう少し詳しく考えてみる事にする。

考え方の方針としては、
質感や内情覚感が神経細胞ネットワークの励起として「ある」として、
構造でその「感じ」毎に分かれているとした場合、
この「感じ」と構造がどのような関係であり、
構造から「感じ」が生じる、この間にある何かが分かれば良いという事になる。

今回は何らかの結論にまで達しないまでも、
考え方のアイデアの創出や問題提起ができれば良いと考えている。
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2026/3/14

内情覚感は、おおまかにまとめて言えば、

「質感が持つ感じに対して感じる「感じ」」

という事になる。

つまり、自分が、ある質感を感じたとして、
その「質感の感じ」に対してどのような「感じ」受けるか、
といったものである。

例えば、質感として「痛み」を感じたとして、
その「痛み」に対して、自分がどう思ったか、その思いの「感じ」が内情覚感という事になる。

そして、その「感じ」には、例えば「嫌だ」とか「好ましい」とか、
異なる「感じ」があるので、これらの要素が「内情覚」としてあると考えた。

つまり、単純に「痛い→嫌だ」となるわけではないので、
この「感じの感じ」を内情覚感として取り出し、造語した、というわけである。

そして、その内情覚感としての「感じる「感じ」」となる内情覚の定義は、
先天的定義として持っているはずと考えた。
つまり、生まれてすぐにも、心地よさを良しとし、居心地の悪化を悪しと感じると考えられるので
定義自体は先天的なものとして持っていると考えられる。
そして、この定義は知能の先天的構造として初期の内に構造化され、
神経細胞ネットワーク構造の内に、先天的に展開されていると考えた。

ただし、ある質感に対して関連する内情覚感は、1つと決まっておらず、
各個体でまちまちなので、ある事象の質感に対する内情覚感の関連は、
後天的に接続の可塑性を持つ、ということは分かる。

つまり、例えば何らかの質感の感じに対して自分が感じる「好きだ」「嫌いだ」という内情覚感は、
「好きだ」「嫌いだ」自体の感じは先天的に持っているという事であるが、
何らかの質感の感じは、後天的に関連が構築され、
またさらにその後に「好きだ」から「嫌いだ」が変化しうる、
つまり後から逆に関連する事もあり得るという事になる。

つまり、仮に、ある事象の質感Aに対して2つの内情覚感A・Bがあった場合、
「質感A」や、「内情覚感A」または「内情覚感B」の定義は、
先天的に知能の神経細胞ネットワークの構造内に構造として展開済みであり、

知能の神経細胞ネットワークの構造←質感A
知能の神経細胞ネットワークの構造←内情覚感A
知能の神経細胞ネットワークの構造←内情覚感B

このようになり、
また、質感Aに対して内情覚感A または 内情覚感B の関連がどちらが主として関連(接続)するかは、
後天的に決まる。

つまり、以下のどちらかが優先的に関連(接続)する。

質感A→(後天的関連)→内情覚感A
質感A→(後天的関連)→内情覚感B

ただし、ある質感に対して優先する内情覚感があり、
仮にこの優先度が「内情覚感A>内情覚感B」であれば、

質感A→(後天的関連)→内情覚感A

この関連がしやすいということになる。
これは生命の系統樹の進化に従い、それぞれの種が優先する内情覚感があるということでもある。

さらに、後天的に質感Aと優先して関連する内情覚感が変化する場合がある。

優先する関連→内情覚感A
↓(置き換わり)
優先する関連→内情覚感B

また、基本的に、
神経細胞ネットワークの構造の損傷により、関連が失われたり、構造自体が変化してしまわない限り、
内情覚感自体が変化したり、無くなったりする事は無い。
これは質感も同様。

そして、この質感と内情覚感の関連は、
一定以上の複雑さや機能を持つ知能においてのみ生じ、
基本的に本能だけで活動するような生命や知能では生じない関連ということになる。

また、内情覚感の「感じ」には、向きと強さのようなものがあると考えた。
これは、スカラーというよりベクトルのようなものであると考えている。
つまり、「嫌だ」「好きだ」にも程度と強さはあり、
どのくらいの純粋さで「嫌だ」「好きだ」なのかとか、
他の「感じ」と比較して強いか弱いかなどの要素を持っているとは考えている。
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内情覚感が持つ「感じ」の情報的な「意味」について:

「482:定義「内情覚」と「内情覚感」について」の最後の方に書いたのだが、

ある事象に対する質感に対して、その質感に対する自分の「感じ」が、
「それができるか」「それができないか」の違いとして感じるものではないか、

という事を書いた。

つまり、ある事象の質感を感じて、その質感の感じに対して、
「自分」が、「できるか」・「許容できるか」・「受け入れられるか」、
または「できないか」・「許容できないか」・「受け入れられないか」、
この「感じ」が内情覚感になるのではないかと考えたわけである。

そして、昨日の夜考えていて適当だと感じた表現が、
その質感に対して自分が生命種として「合理的」に感じるかどうか、
という事だった。

つまり、「生命」である自己の個体にとって、
「生命」としての活動に対して「合理的」であるかどうか、
この評価を「感じ」として感じているのではないか、という事である。

まあ、これまでよく表現してきた「もっともらしさ」とも言えるが、
ともかく、ある「質感の感じ」が、「自分」にとって「合理的か、もっともらしいか、許容できるか」、
その「感じ」が内情覚感であると考えた事になる。

そして、「生命」という点を強調したが、
これは、内情覚感が、知能としての活動から始まったものではなく、
初期の神経細胞的な機能を持ち始めた頃からの、
生命としての機能の淘汰の名残り(機能の洗練化・選択結果とも言える)として、
生命にとって最も効果的な意味を持つ情報として内情覚感に至ったのではないかという事。
何万年、何億年必要だったかは分からないが、
ある事象に対して、2つの選択肢の組み合わせでどうにかしようとした結果が、
内情覚感になったのではないか、という事になる。

この2つの選択肢の組み合わせというのは、
神経細胞の接続の有無、ということであり、
つまり、ある神経細胞の励起を他の神経細胞に伝えるか伝えないかだけの事で、
初期においては入力と反応は直結、
つまり、伝えれば「入力→出力」となり、伝えなければ「入力も出力も無し」、
さらに、これを組みわせていけば、
身体部位で切り分け、感覚毎に切り分け、質感毎に切り分け、内情覚感毎に切り分け、
この組み合わせで最終的に現在の人間の知能の神経細胞ネットワークの構造まで至るのではないか、
という事である。

つまり、今の内情覚感の励起のパターンまで行けば、
ある感覚の、ある質感の、ある内情覚感まで決まる情報とすることが出来る、という事になる。

神経細胞ネットワークの構造は、分岐するので、単純な2値の羅列では定義できないが、
構造的にはある感覚による変化の受容に対する質感と内情覚感は、
決まった接続の有無のパターンで切り分けられると考えられる。
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神経細胞ネットワークの構造内における内情覚感の定義の配置場所:

そして、この場合、
この内情覚感は、どのようにして現れるか考えると、
元々内情覚感は、ある質感の定義(神経細胞ネットワークの構造の特定部位)に「近接」していると考えた。

つまり、質感の感じを請け負う構造は、基本的に先天的定義として展開されているし、
内情覚感も先天的定義として展開されていると考えられるので、
神経細胞ネットワークの構造内には、
質感を感じるための構造も、内情覚感を感じる構造も含まれていると考えられる。

であれば、その配置はどうなるかというと、
つまり、例えば
「衝撃による痛み」であれば、
近接しているのは、非合理的側の「嫌だ」という事になり、
合理的側の「許容」は、非合理的側よりも離れてはいるが近接はしている。
という事になる。
また、「良い香り」であれば、
近接しているのは、合理的側の「好ましい」ということになり、
非合理的側の「臭い」は、合理的側よりも離れてはいるが近接はしている位置にある。
という事になる。

音など音の質感の種類に応じて、落ち着く音や、嫌な音、は、
どちらかがより近接した位置にある。
味もしかり、という事になる。

そして、
内情覚感は、先天的に質感の感じに対して接続されているわけではなく、
事象の変化としての受容に対して、質感の概形に対してであるかのように、
後天的な関連を繋げるということになる。

つまり、質感も知能系が実際に体験するまで、その概形さえも把握できないと考えたが、
内情覚感も同様で、ある質感の感じに対して「感じる」ことで、
質感の感じに対する感じの接続が後天的に生じ、
内情覚感の体験前に、内情覚感自体を感じる事は出来ない、という事になる。

つまり、例えば、痛い思いをしたことが無い個体は、
「痛み」に対する「嫌だ」というような感じを、感じる事は出来ないという事になる。

これは、思考実験のメアリーの部屋の考え方にも似ているが、
つまり、質感を1段階ずらした内情覚感の「感じ」も、
体験なくしては関連が生じず「感じ」には至らないだろうという事である。

また、この内情覚感の定義の「近接」度合いは、
生命の進化の過程で、有利となる内情覚感の感じが、
自己の個体に対する偏移がどちらであったかの結果として今に至ると考えられるので、
検証のしようもなく、私の予想としてだが、
どちらかに偏る事で、結果的に評価がしやすくなるためだったのではないかと考えている。

つまり、恐らく、「痛い」のは「嫌だ」の方が近い方が有利だったのだろう、という事である。

さらに、仮に、これを過去の「自分」の体験として後天的定義として記憶とする場合、
仮に「今」、同様の事象が起こり受容される場合、
想起される場合の、ある事象としての「痛い」は、
過去の体験の記憶から自動的に「嫌だ」が励起される事になるため、
今の事象に対する反応として「嫌だ」という内情覚感が自動的に再現されることになる。

これは、「481:「感じ」とエピフェノメナリズムとセマンティクスの自然化問題」で考えたが、
内情覚感の「感じ」は、感じた瞬間の判断に用いらわれるわけではなく、
次回以降の同様の「感じ」に対する選択判断の評価基準として用いられる、という事である。
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2026/3/15

質感と内情覚感の配置について:


今の私のイメージとしては、
神経細胞ネットワークの構造内におけるトポロジカルな配置として、
質感の配置とその質感毎の評価の定義の配置は近接していて、
生命として感じやすい評価の方がより近いと考えている。

つまり、例えば「痛い」という質感であれば、
「嫌だ」という内情覚感の定義が近くにあり、
「痛い」に対する「好ましい」という内情覚感は「嫌だ」より遠くにある、
というイメージとなる。

少し話が逸れるが、
これまで、定義は神経細胞ネットワークの構造そのものとして存在していて、
意味付けの定義を持つわけではないと、考えてきた。

つまり、定義を意味として持っているわけではなく、
定義が構造として展開されているというイメージである。
つまり、ある事象とある構造の一部は1対1で対応していて、
ある構造が励起した場合、この事象を表す事と同義という事になる。

これは物理現象から「感じ」のような意味がなぜ生じるかという
ハードプロブレムの説明や証明には一切至らないが、
前回の考えとして、これは棚上げする他ないと考えた上での現在の到達点となる。

そして話を戻して、
つまり、内情覚感の質感に対する近接した配置は、
生命の進化の過程で有利であった「感じ」の名残りという事になる。

つまり、近接している方が評価が高い結果で関連しやすく合理的であった、
ということになる。

さらに言えば、これは先天的定義であり、
後天的定義としては、この関連が可塑的であり、
先天的な事象でない場合の内情覚感は、
先天的な配置として近接しているわけではなく、
後天的に接続が構成・構築されることになる。

つまり、後天的な内情覚感としては、
後天的な体験を構成する先天的な質感の関連に先天的に近接する内情覚感に対して、
後天的に関連するバイパスかネットワークのようなものが構成され、
これが、後天的な質感と内情覚感の関連ということになると考えられる。

ちょっと表現がややこしいが、
つまり、後天的な体験とその体験に対する内情覚感は、
体験を構成する質感群に対して、その質感にもともと関連している内情覚感群に関連があり、
これらの関連が後天的に出来る、という事である。

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内情覚感が目的や意志に関わる可能性について:

そして、
以前から何かの目的や、自分を何かに向かわせる力の元のようなものを考えてきて、
「477:変化と構造から生じる目的と意志」では、
ホルモンが生命を何かに向かわせる原動力となると考え、
その後、考え方を改めて原動力の評価基準となりえる内情覚感となったが、
この内情覚感の「感じ」は、
「今」この瞬間の変化に対しては「感じ」であるのだが、
「今」ではない、想起においては「感じ」でもありながら、
何か自分を向かわせる方向づけを行っているのではないかと考えている。

つまり、これまでも何度か考えてきた「向き」や「勾配」や「指向」のような傾きを与える素、
として内情覚感があるのではないか、という事。

つまり、過去の体験時に評価として生じた向きが、
後に同様の体験をした場合に想起され、
今の自己を向かわせる目的や動機となるという考え方である。

まあ、実際にこの向きが、
神経細胞ネットワークの構造の配置と関連があるかどうかなどは現時点では分からないが、

今の私の考えている目的の生じ方としては、
ある身体内外の変化の質感に対して、変化ドリブンとも質感ドリブンとも言えるが、
この質感に対して過去に同様の質感の体験があった場合、
その体験時の評価が想起で体験ごと再構築(再現)され、
今の自分がこれから向かうべき方向性(目的)を決める要素となるのではないかと考えている。

つまり、過去の体験における質感と内情覚感の関連が、
後から目的や意志として生じる、自分の方向づけに用いられるのではないかという事。

そして、その時の向きは、体験の質感群に対する内情覚感群とでも呼べる方向性から生じるのではないかという事。

ただし、この目的は、「今」の瞬間毎に都度1つだけではなく、
複数が同時に生じる可能性が有る。

ある瞬間において自己の個体の置かれた状況や状態、
環境から同時に入力される質感があるので、
この入力に対して、各体験の想起対象は、それぞれかなりの制限がかかり、
単純な向きの合成で決まるというよりも、
それぞれ合成された向きに対して、
自分が行う事の出来る近似のような方向性が目的として意思決定になると考えている。

つまり、「今」の自分を把握し、そこから想起する「過去」の自分の体験からは、
「今」自分が向かう事の出来る方向は多数生じるが、
どれでも選べるわけではなく、主体的に選べるわけでもなく、
最も「今」ふさわしい向きを持つ「1つ」が「生じる」事になる。

この場合の「生じる」は、客観的に言えば「選択」、
主観的に言えば「自分」と関連して意識対象となった刺激か概感という事になる。

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想起と評価の決定について:


何らかの質感の入力があった場合、
この質感に対する反応として何を目的として持つのか、
それを決定するために、
ある質感の入力に対して想起された質感は、
この意思決定に影響を与えると考えられる。

これは、ある質感の入力に対して、関連する想起も自動的に行われるため、
質感の直接的な体験の再現だけ、という事でもなく、
その体験時の結果等も想起対象になる、ということになる。

つまり、ある意思決定における時間的な猶予によっては、
過去の体験の結果やその時の感じや、
さらに対策までも想起対象とできる可能性が有る事になる。

この時の想起のされやすさとしては、
評価の強さと関連の強さや優先度は比例するべきとは考えている。

つまり、強化された神経細胞のシナプス接続のように、
関連度の高い(強い)接続は、評価としても優先されると考えている。

ただし、優先される評価の高さがそのまま意思決定対象にはならず、
意思決定時までに最も自分の評価の高い目的となるかは、
やはり制限との兼ね合いと、優先される評価と関連した想起によって変化すると考えている。

つまり、常に意思決定時に最も自分の評価の高い目的が作れて選択できるわけではなく、
ある優先する評価に関連した想起によって、一定の目的ができてしまい、
再考する猶予などがなければ、
それが自動的に意思決定対象となる事もある、という事になります。

または、同等の評価の目的が同時にあれば、
結局決定に至らない場合さえある、という事もありえる。

この辺りは漠然と「決断力」などと言われる概念になるが、
常に決定に至る知能の構造や、常に決定に迷う構造もあるという事になる。
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2026/3/16

今日考えていた事。

1:初期神経細胞において、変化を入力して反応の出力が直結していると考えると、
内情覚感は不要となる。

2:変化の事象の定義も自然界に在り外部依存とすれば、
内情覚感の定義のみ知能系にある事になる。

3:質感の感じの感じとして内情覚感があるなら、
その質感から分岐して配置される位置関係は、
配置が生じるかだけの最初の分岐は、関連する接続の有無だけとなる。
つまり、ある質感に対する内情覚感は、最低1つは必要だが、
関連する接続が無いと質感に対する内情覚感がまったくない場合が生じる為、
これは「反射」に近い事になるので、
最低限、内情覚感は2つ必要となる。

という事を考えていた。

そして、
内情覚感の必要性が関わるのは、
「自己の出現」、または、「体験の記憶」、または、「評価の保存」、
または、その全てか、これ以外の何かとなるが、
必要性として俯瞰して見ると、「変化に対する反応の出力の保留」が、
その根底にあるように感じた。

つまり、初期の神経細胞の機能としては、
ある変化の入力に対して、適切な反応を出力できれば良かったわけで、
これは、関連の接続としては直結で十分となる。
逆にそれ以外の接続は冗長的で無駄とも言える。

そもそも、質感の事象としての定義は自然界依存で知能内部に保持する必要が無く、
必要なのは、自然界の事象に対して適切な受容機能が有れば良い事になる。

出力としての反応も、生体の機能として運動などを起こす必要があるが、
これは生体内の機能や問題であり、これは自然界との事象とは関わり合いが無い。
あるとしても、反応に対する、新たな自然界のフィードバックとしての事象の変化という事になる。

つまり、初期神経細胞の働きとしては、
都度、「今」存在する事象の連続性に対して、変化として入力し、
決まった反応を出力として行う事だけ、という事になる。

当然、質感や内情覚感などは不要・無駄となる。

仮にこの生体から、生命の系統樹を先に進めるとして、
1つの生体内に機能が多種多様化したとして、
極端に考えれば、全ての機能において変化と反応が直結しているだけでも良かったことになる。

問題はここからで、恐らくこれでは何かが無駄で、
生命はシンプルさを求め、
事象の存在としてのエネルギー的な余剰を、
定義で取り除こうとした結果が中枢ということになるのだろうが、
逆に生命の系の中にシンプルさとは逆の複雑な関連を保有するに至った。

つまり、生体内に一見余剰の定義を持っても、
生命の個体としてはエネルギー的に有利だった、ということになる。

つまり、必要なエネルギーとして、
系内に留めるエネルギーを最小にするための「中枢」に繋がるという事になる。

脳の様に中枢化させ、
情報的な構造として局所的にエントロピーを減少させて、
消費エネルギー的には不利であっても、
生命全体の系としては何か有利であったという事になるだろうか。
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2026/3/17

内情覚感と評価について:


今日考えていた事。

生命の進化と知能の高機能化において、
多様な状況に対応する為に、

・内情覚感としての評価を保存し、
次の変化に対する反応の選択に備えるという事。

・内情覚感は評価を非可逆圧縮して効率化しているのではないかという事。

という事を考えていた。

まず、
内情覚感としての評価を保存して、
次回以降の同様の変化の反応に役立てることが、
結果的に多様な状況に適応できる事となった。
これは良いと考えられる。

本能や反射だけでは、多様な状況や状態に対して適切な反応が難しい。
であれば、評価を保存しておいて、
次の反応に役立てれば良い、というのは自然にも起こりそうである。
つまり、知能が未熟なまま生まれ、完成しないが故に可塑性を持つ、
これで新規保存と、逐次更新が可能となる。

そして、内情覚感が評価を圧縮したものではないかという事。
これは、本能や反射などの「変化の入力と反応の出力」において、
内情覚感を用いると、明確な「入力→出力」「変化→反応」という接続にはならないが、
「入力→評価→出力」「変化→評価→反応」とすることで、
入力や変化に対する出力や反応を選択可能にすることが出来ると考えられる事になる。

つまり、「評価」というやや曖昧な「感じ」とすることで、
似たような入力や変化に対して、出力や反応を選べるようになる。
上記の「反応の保留」に関連する事になる。

つまり、例えばAIは人間の知能などより非効率的だが、
パターン等の場合分けは詳細で、
事象の射影などの圧縮はあまり行われていない。
一方、人間の知能は効率的だが、
内情覚感などはかなり情報を圧縮していて、これは非可逆的である。
そして、非可逆的であるが故に稀に間違う。

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2026/3/18

今日考えていた事。

・物理現象から情報としての「感じ」が生じる働きにおける、
神経細胞ネットワークの構造内の励起の伝播との関係。

つまり、「484」で考えた、
質在感の「感じ」の素となるのが、
神経細胞ネットワークの励起のエネルギーの連続性であることについて、
内情覚感の「感じ」でも同じ事になると考えると、

内情覚感も、質在感のような「ある」という情報と、
質感においては「事象の脚色情報」のような、質感の意味を分ける定義と同様に、
内情覚感では「内情覚」が、内情覚感の意味を分ける定義となるのではないかという事。

つまり、質感は、

質感=質在感+事象の脚色情報

であるが、内情覚感も、

内情覚感=「ある」という意味+内情覚

ということになるのではないかと考えた。
もちろん、どちらも神経細胞ネットワークの構造と励起を用いているので、
同じような構成になる事は考えられるが、
そうなると、質感が「事象再生の場」で再構築されるとすると、
内情覚感も「事象再生の場」で再構築されるべきとも考えられる。

そして、内情覚感は、自己には関わり、先天的定義ではあるが身体性に直接関わらず、
どちらかというと質感に対して後天的関連によって意味を成す情報(評価)であるので、
「事象再生の場」で再構築するにしても、
自構性と関連のある構造になると考えた。

つまり、内情覚感は、ある質感に対する自己の評価の定義ということになるので、
一般的に言う「価値観」そのものではないかとも考えた。

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2026/3/20

内情覚感の「感じ」の発生場所:

今日考えていた事。

質感の感じや、内情覚感の感じが「ある」という事は、
神経細胞ネットワークの特定の構造部位が励起することと対応すると考えたが、
質感の「感じ」の意味(種類)や、内情覚感の「感じ」の意味(評価)が、
恐らく神経細胞ネットワークの構造の特定部位との関連から成り立つとは考えているのだが、
「なぜ、構造から「感じ」が生じるのか?」これが今は分からない。

初期の神経細胞では、「入力→出力」がほとんど直結に近いと考えられるので、
質感や内情覚感そのものは必要ないし、生じて「感じる」事も無かったと考えられる。
今も人間の反射では質感や内情覚感の「感じ」は生じていないので、
これは考え方としては間違っていないと考えられる。

仮に、反射にも、質感や内情覚感の「感じ」があるとして、
単に身体性に関わらないので意識に至らないとも考えられるが、
反射自体が体験として主観的にはなり得ないし、体験を経験したからと言って、
後の反射機能が変化する事もないので、
「入力→出力」の直結の反応に、質感や内情覚感の「感じ」はほとんど意味をなさないと考えられる。
または、「感じ」があっても「感じられる」事は無いという事になる。

となれば、少なくとも「感じ」が関係してくるのは、
刺激の認識や概感の想起として、自己と何らかのかかわりを持った際、
つまり、「変化情報+自己情報」となった時点で、
独自の「感じ」が生じるか、
質感や内情覚感と何らかの関係の間に抽象的な「感じ」が発生し、
「感じ」という意味を持つ事になると考えられる。

結局、質感の「感じ」にしても、内情覚感の「感じ」にしても、
主観無しには成り立たないと考えられるので、
「質感や内情覚感」と「自己」についての何らかの関係として、
「感じを生じる意味や意義」のようなものがあるのではないか、という事は考えられる。

ただし、生命の実体の身体と何か直接関わるわけではなく、
あくまで、知能内に構築される「自己」との関わり合いの間に生じるものであるとは考えられる。

つまり、意識対象で無いと「感じられない」わけだから、
少なくとも「自己情報」である「身体性」か「自構性(自己モデル)」との関係が必要、という事になる。

逆に考えると、意識同様に抽象的な存在の何か、とも考えられる。
つまり、意識が「変化情報+自己情報」の境界から生じる何らかの存在であれば、
質感や内情覚感もこの境界に意識と共に生じるか、意識そのものに含まれる何かとして生じる可能性である。

質感は定義としては自然界の定義依存で、
内情覚感は定義としては生命の定義依存であるが、
どちらの「感じ」も、知能内の「事象再生の場」で再構築される「情報としての存在」ではある。

つまり、どちらも「ある」ことや意味や分類、種類などの定義は、
知能の構造的な機能依存というよりも、物理現象としての物理的構造依存という事になる。

これは要するに、先天的定義に類するもので、あらかじめ決まっているものという事になる。
異なるのは、定義ではなく、後天的な体験や意識時の「感じ」であるので、
これは、先天的に決まっているものではない。

つまり、後天的に生じる何かに対して「感じ」が含まれると考えられる事になる。

つまり、質感や内情覚感自体は先天的に定義が決まっているが、
実際の体験や感じは後天的に生じる。

では、そのどこから「感じ」が生じるのか?

・先天的定義は構造として先天的に展開されている。
・「感じ」は後天的。
・質感や内情覚感の事象は物理現象依存。
・構造が変化する事に対する「感じ」?
・想起の概感の場合は概形(事象の脚色情報・評価)のみ再構築できるが実際の質感や内情覚感の「感じ」はない。

今、冷たい手をおでこに当てて考えているのだが、
この場合の質感は、
冷たい手をおでこに当てるとおでこの冷たい感じは感じるが、
手の暖かさは意識しないと感じない。
質感の感じには優先度がある。「冷たい質感>暖かい質感」
意識した時の優先度は身体性の自己情報が増すため、
トータルとして「温かい刺激>冷たい刺激」となる。
つまり通常時は温度の身体性として「おでこの温度質感>手の温度質感」とも考えられる。

・事象再生の場で身体性に質感を張り付ける時に「感じ」が生じる?

今、目の前の人が寒さで手をする動作を見て思いついたのだが、

・二律背反?感じは常に二面性を持ち、どちらかに偏ると「感じ」が生じる?

質感の二面性は「感じA:(質感):感じB」ということか?
内情覚感の二面性も「感じA:(内情覚感):感じB」ということか?

つまり、手をするのは「寒い感じ:(温度の質感):温かい感じ」という二面性があるためではないか、という事。

(この場合の存在と定義の二面性は「定義:(存在):定義」という事になる。

「感じ」そのものの説明ではないが、
「感じ」には対極的なもう一方の「感じ」が必ず存在するのではないか?

この場合の対極は、内情覚感においては、ということになるか。
恐らく、質感は神経細胞の起源を考えると単独でも成り立つ可能性があるが、
内情覚感は、その構成を神経細胞ネットワークの構造として構築するなら、
シナプス接続の有無が必要になるため、「ある・なし」以外の分岐であれば、
最低2つ以上の内情覚感の「感じ」が必要になる。
つまり、ある質感に対する直結の感じか、そもそも感じが無いか、
感じが分岐する可能性が有るという事。

質感→×内情覚感なし
質感→内情覚感(直結)
質感→内情覚感A or 内情覚感B のいずれか
質感→複数の内情覚感の内1つ

「質感→×内情覚感なし」これはそもそも内情覚感を感じる術がないので除外。
「質感→内情覚感(直結)」これは反射に近い。
例えば「痛い」=「嫌だ」だけのようなもの、先天的や本能的には当てはまるが、後天的には除外。
となると、
「質感→内情覚感A or 内情覚感B のいずれか」か、
「質感→複数の内情覚感の内1つ」これのいずれかが、
内情覚感を説明する1つの定義となる。

普通に考えると、ある感覚から得られる事象の変化は、
受容体ごとに決まっているので、質感の質在感自体は有るか無いかだけ。
質感の事象の脚色情報が、請け負う側の知能の構造が異なるので違いが生じる。
質感の違いはこれで良い。

そして、この質感に対する内情覚感はどうかというと、
後天的に決まり、かつ、感じの量は一定ではないので、
何か1つだけに関連するものという事ではなさそうだと考えられる。

つまり、そもそも1つの質感に対する内情覚感は1つだけ、という事ではなく、
複数の感じが関連するのではないか?

ただ、複数の内情覚感の中のある1つの「感じ」については、対極的な向きがあり、
この対極性だけが共通する?

つまり、内情覚感は、「あるかないか」、と「どちらかを向いた向き」の2つから構成されるという事?

内情覚感=「ある・なし」+「向き」

という事か?
例えば温度の質感であれば、変化として生じる差について「ある」とし、
その「向き」が冷たいか温かいかについての「感じ」となるという事?

つまり、質感は「冷たい」か「温かい」に分かれるが、
「冷たい→嫌だ」「温かい→好きだ」
「冷たい→好きだ」「温かい→嫌だ」
というように内情覚感は、ある質感毎に対極的な向きがあり、
この対極的な向きは、質感に関わらず共通する機構なのではないかという事。

つまり、好き嫌いというだけではないが、
安心不安や、美味しそう不味そう、など、内情覚感は、二面性を持ち、
二極化するわけではないが、2つの向きが互いに合成された結果として生じるのではないか。

となると、ある質感の神経細胞ネットワークの構造に対して、
後天的に関連が生じる2つの向きの構造に対して内情覚感の「感じ」が充当される事になるのではないか?
つまり、ある質感に対して決まった1つだけの関連があれば、
それ以外「感じる」事は無いが、
異なる関連が生じればシナプス接続の分岐において「感じ」が生じるのではないかという事。

つまり、内情覚感の「感じ」は、ある質感の異なる関連の差異に局在化する構造ということ?

これでも「感じ」自体は説明できないが、
「感じ」の場所だけは、おおよその見当は付くか?

つまり、例えば温度の質感の「感じ(事象の脚色情報)」を分離すると、
「冷たい」「温かい」に分かれるのではないか?という事。
要するに温度に触れた時、「冷たい」も「温かい」も同時に含まれた質感(分化する前)の「感じ」を構築するが、
これに対して内情覚感の「感じ」が、どちらか一方に偏りを与えて内情覚とする。
この時の偏りが「評価」の感じが内情覚感に相当するのではないか、という事になる。

つまり、

質感=質在感+事象の脚色情報

において、事象の脚色情報は質感の感じとして分けられうる複数が1つにまとめられているが、

これを分けるものが「内情覚」であり、
「482:定義「内情覚」と「内情覚感」について」で考えた
「「内情覚」はその「感じ」の元になる「良し悪し」や「好嫌」などの要素」
という事になり、

これを、内情覚感としての、

内情覚感=「ある・なし」+「向き」

「向き」に相当するのが「内情覚」ではないかという事。
つまり、質感そのものの「感じ」として「評価」を感じるのではなく、
「評価」そのものを「感じ」として感じると内情覚感になるのではないか、
という事。

この場合、二面性の考え方から「定義の存在化」に相当するので、
「479:定義の存在化と定義の階層の末端」
の考え方を用いると、
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存在A

定義X→存在C←定義Y

存在B

存在Aと存在Bの間の関係の「定義X」を存在化させようとした場合、
別の「定義Y」と二面性を持たせる事で、「存在C」という形で存在化させることが出来る。
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こういう事であるので、

質感(存在)

内情覚(定義)→内情覚の存在←内情覚感の極性?評価?(定義)←内情覚感の物理構造?(存在)

内情覚感としての情報(存在)

内情覚感はあくまで抽象的な存在という事になる。
恐らく「内情覚の存在(内情覚としての情報)」、
これが内情覚感の「感じ」に相当するのではないかと考えられるが、
正直に言うと、まだ良く分からない。

そして、それでも質感や内情覚感の「感じ」がなぜこの「感じ」かは、まだ説明が出来ない。
という事になる。

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内情覚感と自己との関係:

質感に対する区切りを「自己」が抽出すると内情覚になるとは考えられないか?

つまり、質感に対する区切りと方向づけを自己に照らして構築しなおすと内情覚になるという事。
とはいえ、内情覚が後付けで生じるということではなく、
あくまで評価する構造はあらかじめ展開はされて知能の構造に組み込まれている事になる。

つまり、構造的に生じる質感の意味の分化において、
内情覚が評価としての意味を持ち、質感の感じとして何を自分が感じるべきかを決める事になり、
これを自己に照らし合わせると、内情覚感として質感の感じの感じに至るのではないかという事。
つまり、質感自体は受容時に決まっていて、質感も決まったものとして入力されるが、
これを、どのような「感じ」として、そしてどのような「感じの感じ」として評価するものが、
内情覚であり、その「感じ」と「感じの感じ」は、
質感を自分に照らし合わせた時、内情覚を自分に照らし合わせた時、
それぞれ「質感の感じ」と「内情覚感の感じ」となるのではないかという事。

つまり、質感はあくまで自然界の事象としての質感としてだけ存在し、
例えば温度なら冷たいわけでも熱いわけでもなく熱としてだけ存在し、
痛覚なら痛いわけでも痛くないわけでもなく衝撃の度合いとしてだけ存在し、
匂いなら花でも薫香でもなく化学物質としてだけ存在し、
物理現象の事象としてだけ「ある」という事になる。
そして、その質感がある感覚にとってのどのような分類対象となるかが、
質感における「事象の脚色情報」の分類や、
内情覚感における「内情覚」の評価という事になるが、
ここから先の分類には「自己」が関わる事になり、
事象が身体性に合わせて感じられるものは質感として、
事象の質感が自構性(自己モデル)に合わせて感じられるものは内情覚感として、
感じられることになるのではないか、
という事になる。

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最後に、現時点で物理層と情報層の境界までは来ていると思うのだが、
物理層の限界が神経細胞の励起のエネルギーであり、
情報層も情報のエネルギーであるとすると、その境界の関連が分からないということになる。

物理層と情報層の間の境界ということであれば、
何か明確な差があるというよりも、境界がそのまま存在するような、
つまり、物理現象を情報として解釈する「自己」があるだけなのではないか。
という事になるか?

つまり、境界から生じる意識や質感、内情覚感などがこの境界にあり、
物理現象と情報の二面性の間を繋ぐのではないか、という事になるか?

まだ、明確ではないし確信も無いが、
今後の課題として記録しておく。
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2026/3/21


内情覚と内情覚感の拡張:


例えば私が何らかの物に触れて、その表面の質感があり、
これをなめらかと感じるか、ざらついていると感じるかは、
同じ質感であり、同じ私であるのに違う質感として感じようとすることが出来る。

つまり、質感が変化するわけでもないのに、感じ方を変えられるということになる。

この場合、自分にとってのこの質感はなめらかでもあり、ざらついてもいる、という事になる。

つまり、この違いを生じさせる要因があり、これが評価になるのではないかと考えられるが、
となると、内情覚と内情覚感はもう少し影響する範囲が広がるということになるか?

自分の定義にこだわる事も無いが、
内情覚や内情覚感が、質感の感じの「感じ」として後付けなのではなく、
質感の構築そのものに関与している可能性もあるという事になる。

まあ、これは、エピフェノメナリズムを考えた時の結果の1つである、
「感じ」は後から因果的に効いてくる、というものでもあるが。

つまり、後の質感の分別(分離)に、内情覚感が用いられる可能性という事になる。

つまり、質感は最初から決まっている何かではなく、
1つの状態として複数の要素が重なった状態で、
この中の何を質感とするか「評価」するために、内情覚感が用いられるのではないか、という事。

つまり、能動的な「選択」に関わっている可能性が有るという事。
まあ、意識的な意味で能動的というわけではないが、
構造として生じた内情覚感が、次の同様の質感の入力に対しては、能動的に働いているのではないか、
という事になる。

つまり、以前、エピフェノメナリズムについて考えた時、
質感の「感じ」は、単に後の質感の評価の為に用いられると考えた事があるが、
今回の考え方を合わせると、質感の感じというのは、
単に質感がどのように感じられるかだけでなく、
内情覚感が追加され
自分にとってどのような質感であるべきかという評価が追加されたものという事になるか?

つまり、恐らく初回の質感の感じは、質感そのものでもあり、分化する前の感じだが、
これを体験として自己を経由すると、内情覚が追加され、
次回の同様の質感に対しては質感の感じとして、
自己がどのように感じやすくなるかの評価結果が、
この新しい「感じ」となる、ということになるだろうか。

つまり、内情覚感が次の「感じ」を決める要因であり、
恐らく意外にかなりの影響力を持つのではないかという事。

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神経学的に、
この内情覚感のような評価がシナプス接続のされやすさに関係することが考えられるか調べてみると、

ドーパミンの報酬予測誤差とか、偏桃体、前頭前野などが関係する仕組みがあり、
つまり、シナプス接続としての報酬や学習や強化などとの関係があるという事は言えるらしい。

つまり、神経学的にも考え方の方向性はそれほど間違っていないらしい。

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ある質感を感じるためのシナプス接続の構造は、
この質感を感じた際に、生物にとって評価の元となる遺伝的な指標や方向性のようなものがあり、
評価を生じることになる。
そして、この評価は、この質感のシナプス接続の構造自体に作用し、
次に同じような質感をどのように感じるかというシナプス接続に対して、
構造の変化を生じさせ、次の質感に備える、という事になる。

そして、「生物にとって評価の元となる遺伝的な指標や方向性」には、
後天的な指標や方向性が「自己」として生じうる可能性が有り、
この質感に対するシナプス接続に対して、遺伝的だけではない方向性の違いを生じさせる可能性が有る、
という事になるだろうか。

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少し長くなったのでそろそろ一度締めるが、

次に進むとすれば、「感じの発生」の考察ということになるだろうか。
考えるポイントとしては、
「感じ」の分岐、差異、自己との関係あたりか?

内情覚や内情覚感にこだわらない事も重要。
常に、自分の考え方さえ疑う事。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。