2026/3/3-2026/3/8
「感じ」の構成と事象再生の場について
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2026/3/3
「質在感」の素:
ようやく1つたどり着いた。
「感じ」の元となる物の候補。
見落としは無いかと考えていて、
現時点で唯一見落としていたもの。
それは、神経細胞を通る励起そのもの。
つまり、神経細胞ネットワーク上を励起信号が伝わっていくそのエネルギー。
生体上にあって、直接感じられず、
在ることは分かっているが、直接取り出せないもの。
つまり、神経細胞ネットワーク上を励起信号が伝わっていくその「感じ」そのものということである。
もう少し言い換えると、
神経細胞の繋がりの上をなぞるように励起信号が伝わっていくエネルギー。
これを「感じ」として感じていたのではないか、という事。
つまり、生体の細胞としての神経細胞上を励起信号が伝わっていく「感じ」が、
「感じ」なのではないか、という事。
まあ、これが要するに「質在感」の素ということである。
そして、この現象におけるエネルギー差分が「在る」事となり「感じ」となるという考え方になるが、
これは以降で説明する。
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気付きまでの経緯:
483の考えの上で、どうしてもまだ「感じ」そのものがつかみ切れていなかったが、
何か見落としている要素がないかと考え直していた。
例えば人間の個体間では、ある程度共通するもので、
先天的に感じを感じる構造は持っている。
後天的に接続は出来るが後天的に得るものではない。
つまり、遺伝的な何かとして、先天的に身体上に展開される物。
先天的に持っているどこかに「感じ」の素はあるはず。
例えば人間の同じ種の生体間で、
神経細胞ネットワークの構造は割と共通しているので、
同じ事象に対しては似たような「感じ」を得るはず。
ただし、「感じ」を情報とすると、先天的に持つ定義が必要になる。
これが神経細胞ネットワークの構造ではないかとこれまで考えてきたが、
これでは、これまで考えて来たことと同じで、
自然界由来の先天的定義が素であるという考えに行きついてしまう。
そして、他に見落としているものは無いかと考えていた時に、
身体性に思いを馳せ、身体上にある何かで、
「感じ」るなら、何かの実体がある何かと直接関係していて、
この実体の何かから生じているのではないかと考えた。
そこで話しが繋がった。
「神経細胞上を通る信号が通っていく様を見落としていた。」
身体上にあり、実際に現象として現れ、定義ではなく存在であり、
直接感じられず、抽象的な存在としてしか取り出せないもの。
先天的に持つ構造上にあり、後天的に接続が変化しえて、
生物間でも共通するもの。
ただ、すぐに、励起がなぜ「感じ」になるのか?という事も思ったが、
これは今まで通りの考え方で、
自然界がエネルギー分布からなり、事象が定義と存在の関係から現れる現象であれば、
神経細胞上を伝わる励起信号は、定義ではなく実際に存在する事になる。
つまり、あるエネルギーの一形態の状態にある神経細胞上を、異なるエネルギー状態に遷移させた場合、
この神経細胞は、自身のこの事なるエネルギー遷移に対して、エネルギー差の何かを持つ事になる。
これが「感じ」になるのではないか、という事である。
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そして、この場合、すぐ容易に反論できる問題は思い浮かぶ。
つまり、神経細胞らしきものを持っていれば、
どの生物も「感じ」を感じていることになるのではないか?という事。
これは、特に問題ではなく、
神経細胞上を励起信号が伝わっていったとしても、
確かに質在感に相当するものは、どの神経細胞を持つ生命であっても用いる事はできるが、
質在感を用いることはあるとしても、
質在感そのものだけを「感じ」として感じる事は出来ないという事。
この事は、前回も考えた事だが、
これは、人間であっても、「反射」の変化の入力は、その反応までの間に「感じ」ることはない。
つまり、質在感だけでは「変化→反応」には用いることが出来るが「感じ」には至らないので、
神経細胞を持つ生命が全て「感じ」るわけではないという事になる。
つまり質感として「感じ」るためには、「事象の脚色情報」が必要になる。
そして、では質感を感じるための「事象の脚色情報」は何か?という疑問もすぐに生じた。
これはまだ明確ではないが、
現時点では、脳内スクリーンの際に考えた、事象の概形に対応する神経細胞ネットワーク群が、
事象ごとに対応する事、その対応するネットワーク群が、
そのまま「事象の脚色情報」になっているのではないか?という所まで考えた。
つまり、現時点でも「事象の脚色情報」だけはどうにも説明がつかないのだが、
生命が独自に決められる事象がないのであれば、
自然界の何らかの現象を、変化として受容する変化の現象と対応付けている、
という所に収束するのではないか、とは考えている。
ただし、この事象の脚色情報の説明は私も疑問に思っていて、
現時点では、質在感の説明可能性までは得られたことになるが、
事象の脚色情報の説明までは、まだ及ばないという事になる。
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そして、ここで考えたのは、
「仮に、質在感がエネルギー状態の差であるなら、
事象の脚色情報もエネルギー状態の差である可能性もある。」
「また、この質感によって感じる内情覚と内情覚感もエネルギー状態の差である可能性さえある。」
という事。
今、思考実験で自分の太ももを揉み解すようにしているが、
太ももの筋肉を揉み解して感じる質感は、
実際に身体上で筋肉が揉み解されたように感じる。
これも神経細胞ネットワーク上のエネルギー差として現れている?
そして、この質感から生じる気持ちよさである内情覚、
気持ち良いと感じる内情覚感もエネルギー差として現れている?
恐らくこの場合、例として色覚の色はあまり体感の感じにふさわしくない気がしたので、
自分の太ももにしたのだが、色は感じに直結しづらい。
恐らく色は、この色に対する一度、対象の変換を経てから内情覚感につながると考えられる。
で話を戻して、筋肉を揉み解した質感の感じと、揉み解しの、この気持ちよさに対する内情覚感の感じ、
これらが何らかのエネルギー差である可能性は?
エネルギー差をどのように変換して行き渡らせればよいか?
この変換で差を感じの違いとできるのか?
これを考えて分かれば良いのではないか、
と、ここまでは考えた。
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2026/3/4
昨日と同様に、事象の脚色情報について、また何か見落としている要素はないかと考えていた。
そして、今日の考えで行き着いたのは、
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これまでの様々な関係:
定義の階層:
自然界はエネルギー分布で成り立ち、エネルギー分布は、存在と定義の入れ子状態で構成される。
存在は定義の二面性を持ち、定義は存在の二面性を持つ。
定義:(存在):定義
存在:(定義):存在
定義を存在化させる関係:
存在A
↓
定義X→存在C←定義Y
↑
存在B
存在Aと存在Bの間の関係の「定義X」を存在化させようとした場合、
別の「定義Y」と二面性を持たせる事で、「存在C」という形で存在化させることが出来る。
刺激と概感の基本形:
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性(自己モデル))
刺激と概感の詳細版:
刺激=変化情報+先天的定義+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義+自己情報(自構性(自己モデル))
質感=質在感+事象の脚色情報
刺激=質感+知能の観測者としての視点からの観測
概感=質感+知能の観測者としての視点からの観測
質感(存在)
↓
質感と内情覚感の関係(定義)→内情覚(存在)←内情覚の定義(定義)
↑
内情覚感(存在)
認識=(刺激の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
想起=(概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
意識=(刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
意識の連続性=((刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測)←この連続性
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そして以下の関係に行き着く。
つまり、
先天的定義から構築される刺激は、
質感を感じるために刺激があり、
先天的定義への後天的な関連(後天的定義)から構築される概感は、
内情覚感を感じるために概感があると考えると、
刺激の元になっているのが質感で、
概感の元になっているのが内情覚感であると考えられ、
質感も内情覚感も、「感じが在る事+感じを分類する意味」として考えると、
質感=質在感+事象の脚色情報
↑
刺激=変化情報+先天的定義+自己情報
概感=変化情報+後天的定義+自己情報
↓
内情覚感=内情覚+内情覚の知能の観測者の視点からの評価
として考えた時、
「感じ」は、質感を感じるか、内情覚感を感じるか、ということになるが、
これを、質感が抽象的な存在、内情覚感も抽象的な存在として考えると、
質感は「感じ」に直結しないが、同じような関係性が有るとすると、
定義:(質感):定義
定義:(内情覚感):定義
こうなり、
この時の「内情覚感」は、
質感(存在)
↓
質感と内情覚感の関係(定義)→内情覚(存在)←内情覚の定義(定義)←何らかの存在(存在)
↑
内情覚感(存在)
質感の質在感(存在)
↓
質感の何らかの定義(定義)→内情覚感(存在)←内情覚感の定義(定義)←何らかの存在(存在)
↑
質感の事象の脚色情報(存在)
になるのだが、この時の「何らかの存在」は、
「知能の観測者としての視点」になるのではないかと考えた。
つまり、内情覚感は、主体的存在から観測された時に「質感の感じの感じ」となるが、
存在化するにしても、別の存在「何らかの存在」から定義で二面性をもって挟まれる必要がある。
定義の二面性を持つからこそ抽象的であっても「存在」できるわけであるので、
定義を供給できる存在として考えると、知能系の中では、
物理的存在としては、神経細胞か、神経細胞ネットワークか、その構造自体、
抽象的存在としては、知能の観測者としての視点か、意識、
などが思いつくが、物理的存在が直接観測しているわけではないし、
意識も観測の結果として生じるものであるとすると、
現時点では「知能の観測者としての視点」がもっともらしいかと考えた。
ただ、確かに内情覚感に対する定義の供給者として「知能の観測者としての視点」という存在を考えはしたが、
その存在は、知能系における物理現象を「在る」と固定化できる存在として考えたものなので、
まだ明確ではなく、現時点では概念の状態にある。
昨日考えた質在感が神経細胞内のエネルギーの一形態の変位として生じた何か、であるようなものと考えると、
知能の観測者としての視点も、物理的に存在する視点などではなく、
物理的な存在の上に成り立つ、何らかの状態か変位を、「在る」ものとして考えた時に、
視点に相当する存在が生じるのではないか、と考えている。
つまり、前回考えた事象の脚色情報が、「神経細胞ネットワークの構造」において、
分岐した差異によって生じるとか、という概念であれば、
この分岐による構造内の対象が何か変化する事で、視点に相当する概念が生じるとか、
今は漠然としたイメージを持つだけの段階にある。
そして、今日考えたのは、恐らく「知能の観測者としての視点」が明確になれば、
内情覚感が明確になり、内情覚感から質感が、質感から刺激や概感が明確になるのではないかという事。
そしてもう1つの可能性が構造のループの存在である可能性。
ここまでを考えた。
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2026/3/4
質感の事象の脚色情報のありか:
今日の結論から言えば、
「事象の脚色情報は、定義ではなく、
神経細胞ネットワークの構造としてある。」
と考えた事になる。
つまり、元々神経細胞ネットワークには定義はなく、
構造だけがあったということになる。
少し分かりづらいかもしれないが、
一定の定義の元、神経細胞ネットワークが出来ている事には違いないが、
神経細胞ネットワークに定義が含まれているというよりも、
構造として定義を持つという考え方となる。
では、定義は何処にあったかというと、
自然界の事象として全てがあったという事になる。
この場合の自然界の事象としての全てというのは、
物理的存在がすべて対象となるので、
生体としての身体や神経細胞ネットワークも含まれることになる。
つまり、生命体であれば、脳の構造を含む身体全てで起こる事象まで含まれるという事になる。
では、例えばこれまで真剣になって考えてきた、
「赤い赤さ」の様な物はどうなるのかというと、
これは、今回の気づきでもあり、逆転の発想でもあり、諦めでもあるのだが、
これは定義として取り出す必要というか、意味がないものというか、
取り出すことが無理なもの、という事になる。
つまり、色を感じるのは、
以前考えた脳内スクリーンにおける、事象の概形が、
神経細胞ネットワークの特定の部位の構造と対応して、
神経細胞が励起するからであり、
そこに色があるわけではない。
これは例えば。
想起の際に色を思い浮かべたとしても概形しか思い浮かばないが、
確かに色の質感などがあるように感じられることから考えた。
つまり、実際に自然界の事象として光を受容した場合、
神経細胞ネットワークの構造の特定範囲が励起することで、
色が見える事になるが、色自体は問題ではなく、
その特定の事象と特定の神経細胞ネットワーク構造の部位の範囲の対応の方が重要で、
色はこの際、あまり意味がないという事になる。
つまり、例えば光を見て赤い色の光だと感じるのは、
自分の神経細胞ネットワークであり、
自分は色が見えているが、その色自体にはあまり意味が無いと考えたわけである。
もちろん、自分で色を語る場合、他人が語る色について自分で思う場合、
色は重要な意味を持つように感じるが、
自分も他人も、見えた事のある色は、同じ自然界の事象であったとしても、
見えている色は、自身の神経細胞ネットワークの構造に映った表象のイメージであり、
同じ色として見える必要も、意味もないという事になる。
少し語弊もあるが、同じ自然界の事象としての光であっても、
色は「自分にとってだけの色」であり、
比べる事は出来ないということである。
あくまで、生命種が共通し、神経細胞ネットワークの構造が似ているために、
「恐らく」同じように色が見えているとは考えられるが、
色の意味は自分にとっての色の意味であり、他と比べる事が出来ない意味という事になる。
つまり、ここまでくると、「神経細胞ネットワークの構造」が、
質感の定義の在りかの終着点ということになり、
ここで、諦めるしかないのだが、ここから先を定義しようとすると、
そもそも自然界の色という事象が存在するのかの証明が必要という事になってしまう。
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神経細胞ネットワークの構造が励起する事が「感じている事」と同じになるか?というのは、
これまでの私の形而上学的な考え方として、
自然界はエネルギー分布から構成され、
その構成は存在(事象)と定義(法則)が入れ子状態の関係で頒布されている状態という事になり、
この場合、神経細胞もあるエネルギー状態の1形態として存在し、
この神経細胞に励起がある場合、
このエネルギー差分の変位が神経細胞にとっての「在る何かの存在」ということになり、
これが「感じる対象となる」という考え方をしている。
そして、この構造が「在る何らかの存在」として、
このエネルギー差分をどのように分ける必要があるかというと、
これは、
自然界の存在と定義の集合とは異なる、知能の部分集合内の要素として独自の存在と定義がある事で、
自然界内と知能内は区別が出来る事になる。
つまり、知能内の集合は物理構造までは自然界と繋がっているが、
その励起を境にして、
知能内では自分という抽象的な情報のエネルギーとして意味を持つということになる。
つまり、どちらも同じエネルギー差分であるが、
これは集合の境界にあり、二元論ではないが、互いに扱う層の違いはあるという事になる。
そしてこの場合の自然界の集合内の知能の部分集合としての「自己」は、
自然界の事象を、
個体として閉じた存在が持つ構造で事象の射影を映し(神経細胞ネットワーク構造で写し取るイメージ)、
これを「在る」と存在化したときの個体そのもの、という事になる。
要するに、
自然界の事象を「在る」とすることのできる構造の働きそのものが自己になる。
そしてこの場合の「在る」は自然界側の事象としてではなく、
知能内の自己の側の情報としてのエネルギーが「在る」ということになる。
また、知能にとっての情報は、
自然界の事象を構造で映した時のその構造における配置になると考えていて、
これが神経細胞のトポロジカルな配置ということになる。
(参照先:「474:先天的定義のトポロジカルな配置と質感のありか」)
つまり、知能と言う閉じた構造内のエネルギー分布であり、
区別可能なトポロジカル配置であり、エネルギー差分として「在る」事になる。
ここで改めてトポロジカルな配置について考えると、
ある生命種が持つ知能ごとの静的な構造であり、
進化によって動的な可塑性を持ちうる構造ということになると考えられる。
つまり、先天的定義としての先天的な構造を持ち、
後天的定義として後天的な構造を作りうるものであり、
先天的に静的であり、後天的に動的である配置という事になる。
そして、この場合の、
主観や主体性の元になる「知能の観測者としての視点」は、
自己の連続性、つまり、意識の連続性から生じるということになるが、
意識の連続性は、刺激の認識または概感の想起が背反的に連続する事で意識の連続性は成り立ち、
意識は刺激又は概感が、
変化の事象の受容を自らの構造で受け入れ、その変化に対する反応が生じる事で、
その変化と反応の境界に生じるものが、閉じた系の中の主体性というものになると考えられる。
この場合、主体性は、構造が機能的に働く事の結果的に生じる、ということになる。
そしてさらに、
主体の要素の最小単位は、系の中に在るエネルギーということになるが、
これだけでは主体の意味にならず、
神経細胞の励起→神経細胞ネットワークの構造→トポロジカルの配置、
恐らくここまでで情報的主体の境界となり、
その先は、
脳を含む知能系→神経系→実体の身体、
恐らくここまでで人間という自然界の事象の主体の境界となり、
つまり、主体は段階的に主体が拡張されるということになると考えている。
つまり、主体は単一の点に集約されるものではなく、
定義の階層として考えられるような境界を持っているのではないかという事になる。
つまり、情報→神経系→生物としての実体→人間としての種→自然界の中の存在、など、
境界を決める事によって、どういう主体としても考えることが出来る事になる。
つまり、主体は、
個がその系の内部に構成しうる世界の範囲までが、主体に反映できるという事になる。
つまり、自分が身体内の小さい何かと感じるならその世界の主体であり、
自然界と一体化する存在とまで考えれば、主体は自然界全体にまで広げられるという事になる。
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2026/3/6
今日考えていた事は、
上記の続きで、実際に世界や主体性を再現する場の事。
つまり、「事象再生の場」との関係。
・変化を受容して脳内スクリーンに映した概形を事象再生の場で、
知能系が自ら情報として構築するなら、
その構造自体から「知能の観測者としての視点」が生じるのではないかという事。
つまり、「480:脳内スクリーンと事象の概形」で考えた脳内スクリーンの考え方は、
知能の古典的な考え方でもあるのだが、
この脳内スクリーンに映した事象の射影としての概形を、
そのまま認識対象とするのではなく、
この概形を、改めて「事象再生の場」で再構築すると考えると、
この知能系内において、この概形から知能が自ら作り出した仮想空間内の事象とするなら、
知能系にとって、この事象再生の場内に構築した情報(事象)は、
自らの観測対象になっているのではないか、というわけである。
つまり、明示的に観測者としての視点を設ける必要はなく、
構造的に、自らが構築した対象であるので、、
観測していることに相当するのではないか、というわけである。
自らの系で作り出したにも関わらず、それを別の視点で観測する必要性はそもそもなく、
逆にこの自ら作り出した対象を、別の視点で観測するのは、
主観的ではなく単なる客観的観測になるだけという事になる。
例えば「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが、
これは主観ではなく、客観的に火の熱さを見れば、
自分とはかかわりのない事象として感じられるということであるが、
主観で見れば、やはり火は熱いだろう、という事でもある。
つまり、
自然界の事象→感覚→励起信号→脳内スクリーンー>事象再生の場
であるなら、事象再生の場においては、
刺激や概感を再構築する場合は基本的に「変化情報+自己情報」という構成であり、
自己の身体性もしくは、自構性(自己モデル)に張り付けられた「質感+内情覚感」という形で再構築される為、
知能系全体にとっては、事象再生の場に現れる情報は、
自分と必ず関わり合いのある事象という事になる。
つまり、例えば、自分ではない何かを見ていたとしても、
その見ている対象の映像は、自分の目の視界内に張り付いた映像ということになる。
もちろん、身体に触れた何かは身体の部位に接した何かであるし、
概感の想起にしても、体験時の事象と自己の概形を再構築したものとなり、
自分とは切り離せないものである。
つまり、自己と関わり合いのある事象は明示的な観測者視点を持たなくとも、
事象再生の場で再構築できる事象であれば、観測対象になっていると考えられる。
つまり、知能系が自身に起こる変化として受容したい事象の情報は、
実際に身体では自己のどの感覚においても受容体が事象と直接接触する必要があり、
(光でも音でも匂い、味、感触、すべて細胞としての受容体に直接接触している。)
自分が「感じ」ている何かであるなら、観測はすでにこの構造に含まれていると考えられる。
つまり、事象再生の場で知能が自らの機能として再構築した対象を見ていないわけはないだろう、
ということになり、仮に見ていないと考えられても、その対象に事象を変化として張り付けて、
これが、自身の実体の身体の射影であるわけだから、
実体の身体内にある知能系が自ら作り出した自らの内に含まれる対象を、
その身体内に含まれる知能系が、逆にこれを自分が作り出した対象でないと言い切る方が難しいという事になる。
仮に自ら作り出して、自分で作り出したものではないと言えるなら、
それは、身体と知能が乖離している状態という事になる。
つまり、実体の身体にある感覚で受容した変化を事象の射影として、脳内スクリーンに映し、
これに身体性や自構性(自己モデル)を補完して、
これを事象再生の場で「変化情報+自己情報」として再構築するなら、
自己情報としての「身体性」や「自構性(自己モデル)」を自分ではないと言う事の方が難しいという事になる。
逆にこれが言えてしまう場合は、身体性や自構性(自己モデル)が客観的に見えている場合という事になり、
この場合、別の自己の存在が必要になる。
そして、これは自己の主体としても、自然界の世界としても同様に考えられて、
「事象再生の場」に見える世界は、今自分が見ている世界であり、
「事象再生の場」に在る自分は、今感じられる自分であるという事になる。
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まとめ:
最終的に「赤の赤さ」のようなものは、
知能の構造的に生じていると考えられるが、
見えていること自体は各個体が管理することで、
「感じ」そのものを取り出して客観的に考える事は無意味とは言わないまでも、
たどり着くことのないゴールのようであると考えている。
(本当はたどり着きたかったので、ちょっとくやしいのだが。)
つまり、ある事象に対して赤の赤さが各個体で1対1で対応し、
それらを個体間で語り合う際に同じ事象を指すものであれば、
赤の赤さのような感じは、私自身の考えとしては、棚上げにするしかないという事になる。
「482:定義「内情覚」と「内情覚感」について」の考え方を足しても、
恐らく「質感の感じの感じ」の先には行けないような気がする。
ただし、現時点での分かる事は、
「感じ」には2つあり、
「質感」と、質感の感じに対する自分の感じである「内情覚感」に別れ、
それぞれが、世界である自然界と、自然界内にある自分を、知能内でレイヤー化し、
「事象再生の場」で再現したものという事になる。
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そして今回の考え方で「事象再生の場」がかなり重要な意味を持つことになったのだが、
「事象再生の場」自体は私が知能を考えるうえで必要な概念として設けたが、
ここにおいて「事象再生の場」の登場の必要性は、
構造的な実体としては生物学的な進化の過程の話になるのではないかと思った。
ここからは想像の域を出ないが、
つまり、
知能の進化の過程で、知能が未熟なまま生まれ後天的に可塑性を持つという個体が生じ、
(つまり神経細胞が後天的にシナプス接続ができる個体が生じた事)
先天的定義でない後天的定義を得るに当たり、
つまり、本能ではない、後天的な変化と反応を記憶することが出来るようになり、
これが結果として記憶となったのが原因ではないかという事になる。
そして、先天的な本能だけであれば、
事象再生の場の必要性はなく、
感じる必要性も選択や評価も無く、変化に対する反応が直接決まっていれば不要だが、
後天的な変化と反応の関連は、
それを同じ知能の神経細胞ネットワークの構造というプラットフォームで再現しようとした場合、
変化と反応に対して明示的な再現が必要になったのではないかという事になる。
これは、先天的な変化と反応が「変化→反応」であったものが、
後天的に獲得する場合「変化→反応」を直接記憶しても良かったが、
これでは後天的に後から本当に良い「変化→反応」が得られた場合に比較できない為、
「変化→自己→反応」として感じを加える事で、
後天的に(動的に)効果的な変化に対する反応ができる事が、
生命として最も良い機能だったのではないか、という所に繋がると考えられる。
つまり、最初から「変化→自己→反応」が定義できるわけではないので、
一度「変化→自己」として把握し、その後「自己→反応」で最も良い物を選ぶ、
この選択や評価の為に「自己の感じ」が挟まり、「変化→自己→反応」とすることで、
これが自動的に行われる事ではない為に、
その処理の間の連続性の中に「事象再生の場」での再構築が挟まり、
「事象再生の場」が生じるに至ったのではないか、という事になる。
つまり、見方を変えると、
知能が後天的な変化と反応の接続のための評価の定義に工程の異なる連続性が必要となり、
その連続性の「間」に、
「事象再生の場」に相当する事象の意識が生じるにいたったのではないかとも考えられる事になる。
つまり、変化と反応の連続性の「間」が開いた事によって、
見えなかったものが見えるようになった(観測できるようになってしまった)、のではないかと考えられる。
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2026/3/8:追加
励起のエネルギーから「感じ」の情報への変換:
2026/3/3の考え方の続きとなるが、
神経細胞ネットワークの構造における励起がエネルギーから「感じ」としての情報に変換される場合、
これは、ランダウアーの原理に似た逆の考え方で、
ランダウアーの原理では、ある情報を消去すると最低限以上の熱が放出されるということになるが、
逆に、エネルギーを物理系を特定の状態に配置すると、その状態が情報を表すのではないかという事、
つまり、
例えば、脳内の神経細胞ネットワークの構造に、あるエネルギー状態を励起として通し、
ある特定の意味を持つ構造部分が励起された場合に、
この構造内に情報が生じるのではないかという事。
この情報が「感じ」としての情報になるのではないかというわけである。
そして、この考え方から質感を考えれば、
「質感=質在感+事象の脚色情報」であるので、
質在感は、エネルギー状態の励起から生じ、
事象の脚色情報は、エネルギーとしての励起信号が、
神経細胞ネットワークの構造における「意味」を持つ特定部分の励起によって生じるのではないか、
という事になる。
ただし、この情報は神経細胞ネットワークの構造内では維持されず、
恐らく意識された後は、エネルギーとして発散されてしまい、
今度はランダウアーの原理に従うという事になる。
そして、余談になるがエントロピーまで考えると、
自然界の中に在る固有の系として知能の構造の中でエネルギーを用いて情報が作られると、
その構造内ではエントロピーが減少する。
しかし、その情報ができる過程でエネルギーが系から自然界に放出され、
自然界としてはエントロピーは増大する。
また、この「質感の感じ」の情報が生じた後、
「内情覚感の感じ」はどのように生じるかというと、
「質感の感じ」に対応する神経細胞ネットワークの構造の特定部位は、
その関連としてもう1つ、構造の特定部位があり、
これが内情覚感に相当する意味を持つ神経細胞ネットワークの構造があるのではないか、
という事になる。
つまり、恐らくこれは先天的定義で定義される「内情覚感の感じ」になると考えられるが、
この「内情覚感の感じ」の構造部位に、ある体験の質感の意味に相当する構造部位と、
後天的に関連を持ち接続されるのではないかと考えられる。
そして、その関連の接続が生じるかどうかの基準となるのが、
恐らくであるが、「質感の感じの感じ」としての内情覚感の定義部位が、
ある特定の「質感の感じ」と「近接」しているからではないかという事になる。
つまり、意味を持つ定義構造が、
「痛い」と「嫌だ」で近いとか、「心地よい」と「好きだ」で近いとか、
そういう事になるのではないかと考えられる。
そして、これも後天的な関係であるので、
先天的な近接以外の構造の関連によって、「痛い」と「嫌だ」だけでなく、
後天的に定義された好きな人に叩かれたのであれば、
「痛い」が「嫌だがまんざらでもない」という内情覚感に関連する可能性もあるという事になる。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。