2026/2/27-2026/3/3
質感の「質在感」と「事象の脚色情報」の始まりについて
今日は質感の始まりについて考えていた。
質感=質在感+事象の脚色情報
と考えた時に、
質在感の始まりは、神経細胞ネットワークの励起として考えられるが、
事象の脚色情報の始まりについてはまだ分かっていない。
これを、生命の初期の神経細胞のような働きで考えた場合、
ある事象を変化として受容し、
その変化に対して反応を起こす機能があった場合、
この時の事象の変化と反応は、
生命は、質感として把握しているわけではなく、
単に変化と反応だけが決まった機能として用いている事になる。
つまり、初期の神経細胞を持つ生命にとって、ある変化は変化としてのみ、
反応は反応としてのみ「あり」、
質感や感じなどというものとは無関係な機能として持っていたという事になる。
------------------------------------------------------
2026/2/27
今日の最初の気づきとしては、
この場合、生命にとって、
変化(入力)=神経活動の入力のみ
反応(出力)=神経活動の出力のみ
として考えると、
変化は、ある自然界の事象の変化に生命が接触して得た入力であり、
これを質感より前にある(前駆体のようなイメージ)状態の何かとして考えると、
変化=質在感(の入力部分)
反応=質在感(の出力部分)
だけとして考えられる事になる。
つまり、生命が自然界の事象の変化に接触して、
なんらかの入力を得て、この入力に対する変化が「ある」とすることだけなら、
質在感だけあるとも言えるし、質在感だけで十分とも考えられる。
つまり、この時点では「質感や感じ」は必要が無いわけであるから、
何かしらの入力があったことだけ生命は入力できれば良いという事になる。
つまり、質感を感じる必要性のない初期神経細胞のような機能を持つ生命においては、
変化があったという質在感だけを入力や反応として、機能を構成していたと考えられる事になる。
つまり、
「変化→神経細胞→反応」だけで成り立つ、
「質感=質在感+事象の脚色情報」
の前身機能と考えられる。
つまり、生命が得てきた機能の順から考えて、
変化=神経細胞の励起
と
質感=質在感
における、この「神経細胞の励起」と「質在感」が一致するのではないかと考えられる。
もともと質在感が神経細胞ネットワークの励起であると考えた経緯の裏打ちにもなる。
ただ、そういう事であったとしても、
未だに何が分からないかと言うと、
「事象の脚色情報」が、どの時点で、どのような経緯や必要性で、生命が扱うに至ったか?
という事となる。
変化とその反応だけであれば、神経細胞ネットワークの励起だけ、
つまり、質在感だけでも十分に機能は構築できる。
しかし、生命はなぜ、色や音、匂いや味、感触などの五感を意味づけるに至ったのか?
これが分かれば、事象の脚色情報が分かる事になるので、
質感も一定の説明がつくことになる。
------------------------------------------------------
今日の気づき2点目になるが、
上記の「変化と入力」がある場合、
五感による質感は、身体が直接接触して得ている変化となるが、
質在感が神経細胞ネットワークの励起として考えられるなら、
「事象の脚色情報」は、身体に直接接触する際に得ていると考えられる。
つまり、事象自体は自然界由来で、
脚色情報がどこかの時点で生じて後付けになっているという事になる。
つまり、ある1つの事象だけについて言えば、
事象を脚色して「分ける」意味が無いという事になる。
これは、初期の神経細胞を持つ様な生命の機能としても言える。
つまり、機能が独立しているなら、入力を後から分ける必要はない。
入力が混在しているから分ける必要が生じる。
という事になる。
恐らく視覚の入力が光だけ、単色だけであれば、脚色して意味を分ける必要はなくなる。
未だに人間の「反射」も同じである。
例えば膝のへこみ部分を叩いて膝先がピョンと跳ねる事に脚色している意味はない。
この場合入力も反応も脳にも至らず、まさに「変化=質在感」だけで機能していると考えられる。
つまり、「事象の脚色情報」には、ある感覚の「入力を分ける」必要性に対して生じたのではないか、
という事だけは分かった事になる。
------------------------------------------------------
現時点で分かったのは、
変化と反応だけなら質在感のみで構築可能であるという事。
そして、
事象の脚色情報は、入力を「分ける」必要性から持った可能性が有るという事。
そして分からないのは、
なぜ事象の脚色情報は、その分けた意味毎に種類を持つのか、
そして、その種類の分類の定義の出所、という事になる。
事象の脚色情報としては、
上記や、前回の「482:定義「内情覚」と「内情覚感」について」などでも書いた通り、
身体性に関わるものと、自構性(自己モデル)に関わるものがあると考えられるが、
今ふと思ったことは、
「ある観測の結果として生じる変位分が脚色ではないか?」という事。
つまり、前回「482」で、「感じ」が変化と反応に関わるのは、体験が経験として保有された後、
と考え、これは、「感じ」が因果的に後から意味を持つ事になるという考え方になるが、
これと今回の事象の脚色情報の起源と重ね合わせた時に思いついたのが、
上記の内容、「ある観測の結果として生じる変位分が脚色ではないか?」という事。
つまり、知能の観測者としての視点から、ある変化と反応を見るに至った際、
つまり、知能の観測者としての視点を持つ前は、変化は分ける必要は無かった。
しかし、知能の観測者としての視点を持った後では、
恐らくこの観測対象について変化と反応の分類が必要になったのではないか?という事に気付いた、
という事になる。
少々説明がややこしいのだが、
観測対象のラベル付けが必要となり、分類された、分けられた、とも言えるし、
分けられた、分類された結果として、観測が行われるようになったとも言える。
つまり、ある対象を分ける事に対して、観測する事象が起こったのではないか?
という事である。
つまり、意識などにおける知能の観測者としての視点は、
ある事象を分ける事に対して生じたものではないか?という観点が出来るのではないかという事。
つまり、知能の観測者としての視点ありきではなく、
事象を分類して分ける操作に対して、
知能の観測者としての視点のようなものが必然的に立ち上がったのではないか?
という事。
視点を主観から見れば、自分が分類していると感じられるのだが、
機能的には分類が先で、観測の視点は後付けなのではないか?という事になる。
つまり、この場合、事象の脚色自体も、
脚色ありきで、事象が分かれるのではなく、
事象が分かれた結果に対して脚色が生じた、という事も考えられる。
つまり、これまで考えてきた、知能系はある構造として成り立ち、
この構造を構成するのが神経細胞ネットワークであるなら、
ある事象を分化するために、分岐して構造化された神経細胞ネットワークの部分ごとに、
脚色の定義が含まれるようになったのではないか?という事になる。
つまり、ある事象における神経細胞ネットワークの分岐部分は、
その脚色の為の事象の差異の構造を成すのではないか、という事になる。
つまり、これも分岐構造が先で、脚色の意味合いが後付けなのではないか、という事になる。
現時点で、この分岐の構造に、どのように定義が格納されているかは明確ではないが、
これまでの考え方の候補で言えば、神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置という事になるが、
事象の差異の分類と、事象の脚色情報の間には何か関係があるのではないか、
ということまでは考えられる。
ひとまず簡単にまとめると、
必要や必然はとりあえず脇に置いておいて、
「事象を分けようとする事に対して視点が生じたのではないか?」という事は言えそうである。
------------------------------------------------------
定義の階層における観測の階層位置について:
上位階層:
神経細胞
神経細胞ネットワークの構造
主観
客観
下位階層:
としたときの関係は、
観測可能な存在階層から見た時、
同じ階層は観測対象ではなく主体的に直接感じる事ができて、
その1つ上の階層を観測できるが、
2つ上の階層は観測しても直接意味が分からない。
また、
下に向かって観測はできない。
主観→客観が観測できると感じるのは、
主観が客観を主観内に客観的に構築して、
それを観測するのに過ぎない。
直接、主観から客観を観測しているわけではない。
例えれば、
私があなたを理解する時、
私が理解したあなたは、
私の頭の中に構築したあなたであるという事。
------------------------------------------------------
事象の意味付けと分岐構造の関係について:
神経細胞の接続の分岐に意味があるという事。
つまり、例えばポストを見て、
ポストの内部に空洞を持つ形状であるとか、投函口であるとか、
その姿かたちに特定の機能を持つという意味はあるが、
その形状に意味があるわけで、素材や物体の構造が意味を持つわけではないという事。
つまり、形状を組み合わせた構造の差によって、
機能という意味が生じるという事。
つまり、神経細胞や、その接続1つ1つには意味は無いが、
構造における接続の分岐、そのネットワークにこそ意味が生じるという事。
しかも、その意味は、1つ下の階層の存在から観測されることによってのみ生じるという事。
逆に言えば、下位階層の存在から意味付けされているとも言える。
ということは、
観測可能な存在層があるということと、観測機能の、この2の要素が重要ということになる。
要するに、ある事象に対して、事象ごとに分岐する構造を持ち、
そのある事象に対して、変化として受容する事と、反応を出力する機能を持つ構造が、
観測する機能であり、観測する存在であるという事になる。
さらに言えば、そこから発展して、ある事象を後天的に保持する機能を持つと、
自身に対して事象として保持し、これを観測する事が出来て、
これによって主観を持つ事が出来るという事になる。
------------------------------------------------------
2026/2/28
昨日の続きで、
事象の脚色情報をどこから手に入れてるかを考えた時、
やや語弊はあるが、
どうも、神経細胞ネットワークに定義らしいものは保存されていないのではないかと考えた。
つまり、定義そのものがある事さえ怪しいのではないか、という事。
もう少し丁寧に言うと、「480:脳内スクリーンと事象の概形」で考えたように、
神経細胞ネットワークに定義が保存される、保存されているわけではなく、
あくまで、事象を体験した概形のみが神経細胞ネットワークとして保存され、
刺激の認識においては事象は自然界由来、
概感の想起においては体験の記憶の概形のみの再構築なのではないかと考えた。
つまり、ある事象に対する固有の神経細胞ネットワークの励起が、
その事象そのものを表し、定義としては保存されていないのではないかと考えたわけである。
つまり、
神経細胞ネットワークの構造=事象の概形
であり、
刺激の認識時は、身体性に対して再構築される自構性があるので、
直接見聞きしている様に感じられるが、
神経細胞ネットワーク自体が定義を持っているわけではなく、
あくまで事象の概形を構造として受け取り、それを実際に「ある」質感として、
見聞きしている様な質感で感じているのではないかという事。
そして、概感の想起においては、事象そのものは既に失われているので、
概感を想起しても、その事象そのものが思い出される事にはならないが、
体験を神経細胞ネットワークの構造で経験の記憶として対応させている為、
これを概感として構築した場合、実際に事象は無いが、
それを「ある」と感じている事だけは想起できるのではないかという事。
つまり、神経細胞ネットワークの構造には定義が含まれるのではなく、
事象毎の構造が先天的に決まっている、後天的に決まるのではないか、という事になる。
一見、「構造=定義」の様にも感じられるが、
昨日の考え方に従えば、これらは定義の階層が異なるので、一致するわけではない。
つまり、
神経細胞ネットワークの構造=事象の概形
ではあるが、
事象の概形=定義
ではない、という事である。
敢えて書くなら、
構造→定義←観測の視点(主観)
構造を観測した時に定義が見えるという事になるので、
構造と定義は一致しないと考えられる。
こういうことになる。
そして、昨日の最後に考えていた、
神経細胞ネットワークの構造における接続の分岐から、
なぜ事象が割り当てられる構造に至るのかについて、
今日考えていたのは、
「何かを分かつ事に定義が生じる可能性」という事。
つまり、
例えば道路であれば、道路自体は各地を繋ぐ道というだけであるが、
その接続は入り組んで、名称が付いたり、目的地に続いていたり、
道路自体にも様々な意味が含まれる事になる。
また、例えば、Aの札を持っていれば右、Bの札を持っていれば左に進む道があれば、
分かれ道自体には意味が無いが、
その道を通る存在にとっては、定義がある事になる。
つまり、構造のそれ自体は、物理現象としての構造として何か意味を持つわけではないが、
その構造を用いる存在にとって意味や定義が生じる可能性が有るという事になる。
つまり、神経細胞ネットワークの構造自体に定義が含まれるわけではない可能性があり、
実際に意味や定義が生じるのは、励起の連続性と分岐が用いる構造部分にあるのではないかという事になる。
つまり、神経細胞ネットワークの構造自体に意味や定義があるわけではなく、
その構造上で、この構造を用いた励起のパターン構造の方に意味や定義が含まれているのではないかという事。
そして、その元をたどると、自然界由来の事象まで辿っていけるのではないか、という事になる。
つまり、ある神経細胞ネットワークの構造の励起パターンと自然界由来の事象が繋がるのではないかという事。
極端な言い方をすれば、要するに意味や定義は不要で、
事象と励起パターンだけが一致すれば、後は不要とまで言えるのではないか、という事になる。
これは今日の私の「気づき」に過ぎないが、
考えれば考えるほど、別に定義など無くとも事象は表せるのではないかという所に行き着く今の思考の感じがある。
------------------------------------------------------
「何かを分かつ事に定義が生じる可能性」について:
以下はかなり抽象的な考え方になるので、
私しか(場合によっては私も)分からないかもしれないが、
自身の思考実験の記録として残す。
つまり、構造に含まれる分岐に対して、なぜ分ける事の出来る何かが生じるのか?
という事。
ある構造に対して観測する視点は、恐らく定義の階層において、
系が閉じる事によって主観に相当する視点が生じる可能性が生じる。
つまり、知能系が、自然界の定義の階層という集合という観点で言えば、
子の集合となって系が閉じ、その系の中で、自身の要素を見るに至った為に、
主観が生じたと考えられる。
主観はこれで良いと考えられる。
次に、その系の中、ここでは知能系となるが、
この知能系を構成する構造が物理現象としてのある存在として構成される。
これも良いと考えられる。
そして、ここからこの構造内は、ある構造の関連と関係から構成される。
これが開始と終点がある、ある連続的なネットワークとして構成される。
これも良いと考えられる。
では、ここから先、この知能系の構造を用いるとして、
この系は何が必要かというと、集合の外にある要素について、知る事、という事になる。
この「知る事」は、意味を解釈する事ではなく、
この集合の外の要素が、中の要素で1対1で対応できれば良いと考えられる。
観測する視点は系の内部にもっているので、
前回の「482:定義「内情覚」と「内情覚感」について」の考え方をもってすれば、
外の事象を「知る事」については何か方向性は系の内部の構造として生じさせる余地はある。
例え外の事象が意味を持たなくても、系の内部で方向づけができる可能性が有るという事。
事象の分岐は、ある1つの感覚においては、1つの事象ではなく、
色なら、色ごとに分けられ、音も匂いも味も感触も一意ではなく、
多様な入力があるが、1つの感覚として受容するという構造なので、
その異なる事象毎の「方向づけ」を内部の構造では、分けて割り当てる必要がある。
事象の分かつことについてはこれで良いと考えられる。
では、ここで、核心に迫るが、
この「分かつ事」と「意味や定義をどうするのか?」をどう結び付けるのかという事。
「ある事象に対する行うべき反応をパターン化する事?」
例えば、植物は自然界の事象に対して行うべき反応は、
自身の構造のパターンとして確立している。
知能系は、先天的部分はある程度確立されているが、
それ以外の後天的パターンが、
それが確立されていないということか?
つまり、後天的な内情覚感による方向づけは、ある分岐で、どちらに向かうべきかの方向づけが
初期状態では決まっていないので、この分岐の方向づけをパターン化する為に、
内情覚感を用いてパターン構造を構成するという事か?
質感の感じ、内情覚感の方向性、その元となる何かは、先天的に持つとしか考えられないが、
分岐の意味付けの必要性はあくまで後天的な事象に対する構造のパターン化付けの為に必要という事になるか。
これも、分岐ありきではなく、分岐して分ける以外に定義化、構造化できないから、
という事になるか。
そうなると、本当に分からないのは、
質や感じではなく、
「事象の方向づけの原理で用いる、「良し悪し」や「好嫌」の基準」
という事になる。
「482」では、
「内情覚感の基底の定義は、恒常性に関係する・関係しないではなく、
本質的には。「それができるか」「それができないか」この定義なのではないか、」
と考えたが、
その考え方からすると、
今回の課題になった「事象の方向づけの原理で用いる、「良し悪し」や「好嫌」の基準」というものは、
ある自然界の事象に対する、知能系の「それができるか」「それができないか」この判断が、
この分岐として用いられるという事。
つまり、「反応」できるかどうかの分岐になるのではないかという事。
例えば、視覚で色が見えるのは構造の反応としては自然に「できる」、
これは先天的な構造が用意されている可能性が有るので、
自然に色が見える反応が出来る可能性があり、
構造としても固定で良い。
ただし、後天的に、視覚で見えた対象が事象として「赤く」見えるかどうかは、
構造の反応としては自然に出来るかどうかは別問題となる。
「赤く」見えるためには、「赤く見える」構造の方に接続する必要がある。
元々事象の対象が「赤い」事象の要素であれば、
その方向づけは容易となる。
先天的な構造があり、過去に「赤い」を見た事があるならという必要があるが、
(エピフェノメナリズム対策やメアリーの部屋の問題対策として)
これであれば、後天的な構造内の方向づけも容易となる。
これについてはもう少し考えて後でまとめる事にする。
------------------------------------------------------
2026/3/1
今日の気づきから。
今日考えていたのは昨日の続きで、
神経細胞の関連の分岐に意味が生じるまでについてであり、
そこで気づいたのは、
・励起するパターンは固有、違うのはその先の関連という事
これはつまり、ある事象を感覚で受容し、
特定の神経細胞ネットワークが励起する事になるが、
ある事象と、神経細胞の励起するパターンは、
おそらく固有で1対1の関係にあり、
受容毎に異なるのは、その事象によって励起する神経細胞のパターンではなく、
その先に関連している後天的定義としての神経細胞のパターンではないかという事。
例えば、夏みかんが見えて、何かを感じたり思う場合、
夏みかんが見える事自体は事象として見える毎に変化するわけではない。
つまり、見える毎に色が変わるとか、大きさが変わる、夏みかんではなくなる、
ということは無い、というわけである。
見える毎に異なるのは、夏みかんを見ている(観測している)自分(知能系)の構造の方であり、
見る毎に何か異なって見えるのは、その構造の方が変化しているわけで、
この構造は先天的定義ではなく、あくまで後天的定義として都度更新され構造が変化しているのではないか、
という事である。
つまり、ある事象が特定の神経細胞ネットワークにおける先天的な定義の部分を、
特定的に励起しているが、これは、その対象について何か感じたり思っているわけではなく、
単に事象として見えているだけという事になる。
つまり、対象が白く見える、赤く見える、感触がすべすべ、感触がざらざら、
痛い、気持ちいい、美味しい、不味い、という事象は、
先天的定義部分においては、特定の神経細胞ネットワークの励起が起こるが、
これ自体は、感じや思いとは関係ないという事になる。
ただし、この対象について、何も感じや思いが生じないわけではなく、
生命は必要無い情報をわざわざ感覚として持つに至ったわけではなく、
必要であったためにその感覚を有する存在として残ってきたという事になる。
そして、
話の順番が逆になるが、
生命の進化の過程で自然界の選択圧のようなものとして働き、
特定の感覚を有するに至った生命が生き残ったと考えると、
必要であったからその感覚を有したというよりも、
その感覚を持つに至った生命が残っていったと考えられるのではないか、という事になる。
つまり、その感覚で受容可能な対象の情報は、生命が選択したわけではなく、
自然界における生命の機能の有無による生き残りやすさとして、意味を持つ情報という事になり、
現時点では生命が「必要だから」得た機能と考えられるが、
逆に、その機能を得たから「生き残った」と考える方が自然なのではないか、
という事になる。
要するに、自然界における可能性の結果として、今ある生命は残ったという事になる。
そして、この可能性の結果として、
生命は、ある事象を特定の神経細胞ネットワークの励起で対応する事を機能として知能とした。
そして次の段階として、特に人間の知能などは、完成する前に寿命が来るというような、
未完成のまま生まれ、後天的に完成に向かい続けるという機能となったが、
その過程で得る励起の構造が、後天的定義という事になると考えられる。
つまり、これについても、結果的に未完成のまま生き続ける事が、
自然界の中の生命として、人間が残るための選択圧に対して優位に働いた、と考えられる。
更に、この知能を未完成なまま留め、後天的定義を得る事は、
ある固有の事象に対して、感じや思いを付加する機能として、
現時点で用いられているのではないかと考えられる、という事になる。
さらにここに昨日までの考え方を足すと、
事象に対する感覚での受容は、情報化という点では固定であり、
何らかの分岐による評価や選択を行わないと考えると、
後天的定義を得る部分で、評価基準を得るのではないか、
という事になる。
つまり、わざわざ体験を記憶して、後天的定義とし、
後で用いようという機能であるなら、
ある事象に対する評価ということではなく、
ある事象と自分との関係における評価になるのではないか、という事になる。
つまり、先天的定義による事象の受容が、固定化されたものであるなら、
そこに単純に評価を足しても、ほとんど意味が無いという事になる。
つまり、例えば先天的な感覚として「痛い」を「悪い」ものとして、
「痛い=悪い」と定義しても、
「痛いのは悪いけど、だから何?」という事になる。
つまり、痛いを受容して、
神経細胞の働きとして物理現象として物理構造だけから「痛い=悪い」を情報化しても、
特に意味はないという事になる。
重要なのは、「痛い」が「自分にとって悪い」事であり、
つまり、この時点で、「痛い」と「自分」と「悪い」という3つの情報が関連しないと、
評価として用いる事ができないのではないか、という事になる。
通常は「自分」の存在は忘れられがちだが、
あえて明示的に存在を明記しないとならないと考えられる。
そして、ここから考えると、
例えば、「自分」の存在は、定義としての存在でもあるのだが、
知能の観測者としての視点における「自分」であるとも考えられる。
つまり、例えば「自分の手」を見て、その手が自分のものと感じる事もできるが、
目をつぶると、その手を感じないこともできる。
これは、観測する対象に「自分」というラベルを張り付ける有無の違いで情報が異なり、
その「自分」であるラベルの付いた対象を観測する事で、
初めて「自分」の何かであると感じることが出来る、という事になる。
これは、上記の「痛い」が「悪い」だけでは、あまり意味が無いが、
「痛い」が「自分」にとっての「悪い」であれば、評価の意味が生じてくることになる。
つまり、事象の評価が「自分にとっての評価」であることの明示であり、
若干話が飛躍するが、今思い至ったのは、、
これが暗黙的に働いているのが、刺激の認識や概感の想起なのではないか、という事になる。
つまり、刺激も概感も「変化情報+自己情報」と考えてきたが、
ここにきて「自己情報」が、今という瞬間の、その刺激や概感の構築に関係しているのではなく、
後の評価の為に、今認識や想起しようとしている刺激や概感の、
自己情報と結び付けようとしているのではないか、と考えられる事になる。
実際、認識も想起も、刺激や概感の構築の後に生じるものであり、
神経細胞の働きを物理現象として考えた場合には、
自己との関係は、その認識や想起の対象の評価や選択には、直接関わっていないと考えられる。
つまり、話を少し戻すと、
事象の脚色情報は、ある事象の認識や想起において、
その認識の対象の刺激や、想起の対象の概感に対して、
今認識や想起されようとしている事象については評価や選択の意味を持たないが、
事象の変化情報に対して自分である事の自己情報を関連付けるが、
これは、直後の事象の認識や想起に意味を持つ事と、
この事象を体験として記憶し、後の刺激や概感を構築する際の評価に用いるためであると考えられる。
つまり、「事象の脚色情報」の始まりは、今の事象ではなく、以前に認識や想起された、
刺激や概感を構成する要素の関係として、
ある事象の変化情報と、自分の自己情報が関係づけられる際に組み込まれると考えられるので、
重複するが、「事象の脚色情報」は、今より前の刺激か概感の構築時、がその始まり、
という事になる。
そして、さらに言えば、概感が過去の体験の事象の想起対象であれば、
「事象の脚色情報」の本当の意味での始まりは、ある事象を「最初に刺激として構築した際」の、
事象の変化情報と、自己、刺激においては「身体性との関係づけ」の際に組み込まれる評価という事になる。
つまり、この考え方であれば、
「最初に刺激として構築した際」の「身体性との関係づけ」は、
これは恐らく先天的定義だけで行うことが出来ると考えられるし、
実際そうなるのであろうが、
先天的に感覚として受容できる事象には、
これも先天的に評価するための指標のようなものが定義されていて、
この関連付けの度合いや対象についてが、後天的な体験によって変化したり決まったりするのではないか、
という事になる。
これについては、私もまだ正確な考え方の整理ができていないので、
後で考え直すことにするが、
どうやら、
・評価は体験に対して後天的に付けられるもので、先天的な評価の指標などが定義としてある事
・評価と自己(身体性や自構性(自己モデル))の関係が必要である事
・知能が最初に事象を刺激として認識する際に、その後の評価の基底の定義ができる事、
・そして、その知能系の構造は、基本的に寿命が尽きるその直前においても未完成という事
という事まで思いついた、という事にしておく。
つまり、さらに極端なことを言えば、
今の瞬間の刺激の認識として、「痛い→自分にとって→悪い」事まで、認識できて感じられたとしても、
今の瞬間にとってはあまり意味が無いとも言える事になる。
重要なのは、その事象の体験であり、
この体験によって、今の自分の知能系の構造が変化する事、
要するに今の環境に対して自分の構造を適応させる事、
ここまでの意味があるのではないか、という事になる。
つまり、「・そして、その知能系の構造は、基本的に寿命が尽きるその直前においても未完成という事」
この事が自然界の生命の適応に効いてくることになる。
要するに、身体的な構造は変化しないが、未熟であるが可塑性がある知能を用いる事で、
世代交代を経ない当代における進化を続けているのが人間という生命なのではないか、
とまで考えられる。
まあ、基本的にその進化も当代で消えてしまうのだが、
追加で言えば、知識の記録はその進化の適応の手法を後代に遺す手法として得たとも考えられる。
そして、さらに、ここまでは受動的な働きとして考えてきたが、
生命の能動的な働きとして考えると、
この事象の脚色情報や、前回の内情覚感などは、
能動的に、生命がある志向をするための方向づけになるのではないか、
という事になる。
つまり、今を認識したり、想起したりするだけでなく、
その先の能動的な適応・活動・行動のために、自身を方向づけ、志向させる向き、
この役割を担っているのではないか、と考えられる。
つまり、事象の脚色情報や内情覚感は、
今体験し、後の評価に用いるが、これは受動的機能としてであり、
能動的には、後の自分の志向、向かうべき方向づけの機能として用いているのではないか、という事。
そして、この志向の基準はどこに定義されているのかという事になるが、
これは、現時点では、実際の生命の進化の過程で積み重ねてきて、
現時点の人間であれば知能が先天的に持つに至った先天的定義にあると考えられる事になる。
さらに、この場合の先天的基準は固定になるが、
体験を先天的基準に結びつける対象や度合いは、
個体差や環境の差、体験の差、である程度再配分可能であると考えられる。
そして、この先天的基準は「1種類」なのか、それとも複数の基準があるのか?と考えると、
例えば生理的とか社会的とか、個人的な基準がそれぞれあるのかなどの、
生命の時間的連続性において同時に複数を志向することが無い(複数を同時に意識できない)ので、
基準となる基底は固有で、その脚色として様々な方向付けの基準があるように感じられる。という事になる。
ただし、基準が共通する基底があり、様々な方向を向いているとしても、
固定された1つの基底が様々な方向を向いているのではなく、
意識の連続性として考えたように、それぞれの方向性は、
それぞれ独立していて、背反的に様々な方向を向くが、
ある瞬間においては基底が共通しているという考え方になる。
つまり、同時に様々な方向性を持つ可能性はあるが、
ある瞬間においては1つの方向を向いているイメージという事になる。
------------------------------------------------------
今回のまとめ:
質在感の始まりは、生命の進化の過程で、
神経細胞のようなものを持ち始めた時点で現れたという事になる。
ちなみに質在「感」という表記だが、
「感」はあくまで状態として見る事の出来る「感」という事であり、
個体が主体的に「感じている」「感」という意味ではない。
若干、気になったので明記しておく。
そして、事象の脚色情報の始まりは、
おおまかにまとめると、生命にとっての多様な状態が現れるようになり、
これを神経細胞ネットワークで対応付けする事になった時点で現れた、
また、これを体験として記憶し、後から利用できるようになり、
能動的な活用も始まった、
という事になる。
そして、おまけとして
事象の脚色情報については、
受動的・能動的な用い方として、
志向や方向づけの機能の詳細なども考えてみた。
------------------------------------------------------
2026/3/2
今日も昨日の続きを考えていて、
新しい事に気付いたのでまとめ直す。
ちなみに今日の気づきは「変化→反応」に対する「自己」の挿入である。
自然界の事象を変化として受容し、
その反応を行う際に、神経細胞のようなものを用い始めた時点で、
質在感は生じた事になる。
しかし、この時点で主観のようなものは不要で、
この「質」を「感じ」る必要はなかったと考えられる。
次の段階として、
ある変化を複数種、受容する段階になるが、
この時点でも、まだ神経細胞の関連の分岐だけで説明がつく。
分岐の為に何らかの脚色する定義は必要であるはずだが、
まだ、「質感」や「感じ」は必要無いと考えられる。
そして、その次の段階、
恐らくこれがかなり大きな変化であり、
神経細胞の構造におけるゲームチェンジャー(ちょっと言いたかっただけだが)ともいえるのが、
自己情報の登場であると考えられる。
つまり、それまで神経細胞は変化と反応を直接結びつけて、
変化に対して反応を受動的に処理をするだけで良かったのだが、
自己情報の登場によって、
変化と自己を結び付けた所で、
処理が一旦、そこで止まってしまう事になる。
つまり、自己が変化を受け取った時点で、変化の受容が一旦完結してしまう事になった。
つまり、変化の受容だけが独立した処理になった、という事になる。
こうなると、生命としては変化に対して反応を行うべきなのだが、
変化だけの受容で一旦完結してしまうと、
反応も独自の処理として用意する必要がある事になる。
実際は、もともと変化と反応は直結していたものに、
間に「自己」が挟まった事になり、
その間に自己を経由した分岐が生じる事になった。
つまり、「変化→反応」であったものが、
「変化→自己→反応」に変わったという事になる。
そして、変化の受容が「変化→自己」で完結したなら、
後は生命としては「自己→反応」を行うべきという事になる。
これは、元々「変化→反応」として処理があったわけであるから、
当然という事になる。
しかし、処理として考えると、「変化→自己」で変化の受容は決まってしまうわけであるから、
その後の「自己→反応」をどうするかという事になると、
自己で一度止まってしまった流れを再開する為に、
「自己→反応」の傾きが必要になったというか、
「変化→自己」の時点で、その後の傾きが生じる事になっていたのではないか、
という事になる。
つまり、今の私の知りうる傾き、方向性、「志向」ということであれば、
「事象の脚色情報」や「内情覚感」がそれに該当するのではないか、
という所に結論付けたいという考え方になる。
つまり、この「自己」の定義による存在の登場に合わせて、
「事象の脚色情報」が生じたのではないかと考えられる。
つまり、原始的には、「変化→変化の種類の分岐→反応」だけであったものが、
「変化→変化の種類の分岐→自己」
「自己→反応の種類の分岐→反応」
こうなったのではないか、というわけである。
ちなみに、現時点での「自己」の登場の原因や理由についての私の考えは、
一番大きな理由は、生命の構造が大きく複雑化した事。
要するに身体に複数で多様な機能を持った器官が増えた事で、
変化と反応の直結が難しくなったという事。
これは結果的にそうなってしまったのかもしれないが、
理由の1つではあると考えている。
他には、変化と反応の系が中枢を持った事。
これも複雑化した一貫ではあるが、
中枢を持つ事で、この中枢自体が自己となる要素の集合となり得たのではないか、という事。
つまり、神経細胞ネットワークの分岐の中のハブ的な存在が、
自己の存在となったのではないかという事。
そして、この場合に非常に重要になるのが、「記憶」であり、
「自己」の身体性などと変化が関連し、
これを後天的定義として記憶できるようになったことで、
自然界にはもともと存在していなかった「自己」の存在が生じたのではないかという事。
つまり、事象が起こった時点としての「今」には、「自己」は居ないが、
体験した経験や記憶には「自己」が居る、という事になる。
そして、これは、脳が死ぬまで完成しないが故の可塑性を持つ事で成り立つとも言える事になる。
実際は、上記の様に、
神経細胞ネットワークの分岐に合わせて、「事象の脚色情報」も生じ、
さらに、この知能系の神経細胞ネットワークの分岐構造に対して、
主観となる「知能の観測者としての視点」も、「構造」として生じるに至った、
という事になるが、
いずれにしてもそのきっかけは「自己」の登場がきっかけであったのではないかと考えられる。
つまり、複雑化した系の中の中枢に記憶する機能を持ち、
その記憶の構造の中に「自己」の定義が含まれる事になった、という事になる。
つまり、自己は恐らく自己の身体性などを変化と組み合わせ、
それを構造内に留める事になった事で生じるに至ったのではないかという事になる。
現時点ではかなり漠然として抽象的な考え方だが、
要するに「変化→自己」までが受動的に自動的に行えるとして、
「自己→反応」もそれに従って受動的、自動的であるか?と考えると、
どうも、そのような感じには、感じられない。
まあ、結果的には受動的、自動的にはなるのだが、
「反応を行う感じ」自体は、主体的に能動的に行っている様に感じる。
つまり、恐らくこの「自己」の登場によって、
「変化→反応」の間に「自己」が挟まり、
「変化→自己→反応」となることで、
意識やら、感じやら、質感やら、能動的な主体性なども生じるに至ったのではないか、
と考えている。
つまり、これまで刺激や概感が基本的に「変化情報+自己情報」という構成であり、
その関連の境界に意識が生じると考えた事もここに繋がるのではないか、
という事になる。
そして、ここまで来て最後に私の漠然としたイメージになるが、
「感じ」る事の内情覚感の「できる・できない」という可否の方向は、
時間の連続性、意識の連続性における、「今」の自己の状態の可否の方向ではないかと考えている。
つまり、「感じ」た事は「今」にとっては既に過去になるが、
「今」から感じようとする事、「今」から向かおうとする方向、
これが、「今」自分が持つ知能の構造として、その先に向かう方向付けに使える手札のようなものではないか、
という事になる。
そして、これは現時点では分からないが、
自然界の可能性の結果として人間やその知能が、このような機能を持つ、そうある事で、
他の種に優先して生き残れたのではないかと考えるのが自然な考え方になるかな、という所にいる。
これを解明するのは、できないとは言えないが、もう少し考察を進める必要がある。
------------------------------------------------------
2026/3/3
今日考えていて気づいたのは、
自己情報の登場によって大きく知能の構造が変化するに至ったのであれば、
自己情報の配置と、観測者の視点の登場がリンクするのではないかという事。
つまり、知能の観測者としての視点は、後付けで、
先に自己の身体性に対する意味付けの構造が先に出来たのではないかという事。
つまり、その自己の身体性を指し示すに至った構造(定義)が先で、
その後、神経細胞ネットワークが未熟でありつづける変位によって、
自己を後天的に保存することが出来るようになり、
そして、
自己が後天的に生じる事により、
自己を観察できるに至ったのではないかという事。
つまり、生命における重要な変化は、2つ。
・自己の定義の発生(身体性の登場)
・後天的定義の保持(記憶能力)
「自己の定義の発生(身体性の登場)」は、
身体性の定義であるので、これまでの考え方であれば、
神経細胞ネットワークとして構成される神経細胞の構造が、
身体性と1対1で対応するトポロジカルな配置となる事。
「後天的定義の保持(記憶能力)」は、
神経細胞ネットワークが完成した状態で生命の誕生に至らず、
死ぬまで未完成で終わる事。
という事になる。
そして、これによって以降の機能が出来るに至る。
つまり、自己の身体のどこに変化が起こったのかという定義は、
ある知能系の構造において生じ、そこから逆算するように、
自己の身体性の定義→自己の存在の確立→自己の後天的保存→
→自己の意識→今より先の未来の想像、これが出来るようになっていき、
生命としての他の種と異なる優位性となったのではないかという事。
そして、最終的に体験の記憶を保持する事により、
自己の保存と、体験の保存から、
それらを組み合わせる事で、実際にまだ起こっていない先の事象の想像ができるに至ったのではないか、
という事である。
つまり、自己の登場は、この身体性の登場と、その身体性と変化が接続され、
これを記憶として保持できるようになった際に登場したと考えらる。
これは、現時点でも誕生時には自己の定義はあいまいで、
後天的に確立されていくものとしても名残りがある。
------------------------------------------------------
今回は、質在感や事象の脚色情報の始まりについて考えていたので、
一応、目標は達せられたのではないかと思われる。
そして、今回の大きな気づきでもあり収穫でもあるのは、
「自己情報」の登場によって、知能の構造が大きく変化するに至ったと考えられる事。
残った課題は「感じ」や「感じる事」の必要性という事になるが、
その発端が、「変化と自己と反応」の関わりであるとすれば、
「感じ」は知能系の構造から出てきてしまった抽象的な対象なのではないかと考えられる。
つまり、「感じ」の定義は無く、構造のある存在間、
恐らく「知能系の神経細胞ネットワークの物理構造と自己の身体性」の間の関係を示す定義を、
抽象的に取り出したものではないか、という事。
つまり、変化と反応に自己の挿入があった事で、
知能系の分岐構造から出てきてしまったのが「感じ」という事になる。
そして、それが「内情覚感」という事につながる。
まあ、「感じ」がなぜこういう「感じ」なのかは分からないが、
これも、事象が自然界由来であるとすれば、内情覚感に対応する「感じ」も、
自然界にありうる事象なのかもしれない。
つまり、これまで通りの自然界があるエネルギー分布であり、
存在と定義でその関係が表せるなら、「感じ」も、
自然界のあるエネルギー分布の一事象として、
何らかの定義の二面性を持つ存在という状態としてあるのかもしれない。
少し長くなったので、
「感じ」や各項目の働きや詳細についてはまた項を改めて考える事にする。
今回はこの辺で。
TOPに戻る
著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。