2026/2/13-2026/2/25


定義「内情覚」と「内情覚感」について


内情覚(ないじょうかく):(造語)
内情覚感(ないじょうかくかん):(造語)

質感だけでは説明の出来ない「感じ」の構造を表そうとした時に、
既存の用語だけでは表せないので、自作した造語。

他の研究や理論で同義の用語が成されている可能性はあるのですが、
その場合は私の勉強不足として、ご容赦ください。

「質感」が、ある事象に対して、生命が感覚器官を用いて受容する変化を「在る」と感じるための情報であれば、
「感じ」は、その事象の質感に対して生じる、自己にとっての反応として生じる「意味付け」であり、
質感とは異なる、もう1つの感じるための情報であることになる。

生命はある事象の変化を質感として感覚で受容し、
どのような変化があったかを質感をもって理解する事は出来るが、
質感はこの事象の変化そのものについての情報であるが、
それだけでは、この質感を伴った変化に対して「良し悪し」「好嫌」などの「感じ」を把握できない事になる。

つまり、
質感が「体験する対象を表す質」であれば、
内情覚感は「体験する対象を表す質に対して感じる質」という事になる。

この場合、「内情覚感」は、ある事象の理解に対して、自己の「感じ」となるものであり、
「内情覚」はその「感じ」の元になる「良し悪し」や「好嫌」などの要素という事になる。

そして、内情覚感は、その質感の体験に対して、
後に同様の質感の感覚の受容に対して評価を行うための指標基準として用いられると考えられる。

おおまかに説明すると、
内情覚感は、質感を認識したり想起する場合に、質感に合わせて自己が向かうべき方向付けをする情報。
内情覚は、内情覚感を定義づける要素という事になる。

内情覚や内情覚感と刺激や概感、意識との関係を先に書いておくと、

定義の階層と二面性においては以下の通り、

質感(存在)

質感と内情覚感の関係(定義)→内情覚(存在)←内情覚の定義(定義)

内情覚感(存在)

刺激の認識と概感の想起においては以下の通り、

認識=(刺激の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
想起=(概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

意識との関係は以下の通り、

意識=(刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

意識の連続性=((刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測)←この連続性


これらに至る内情覚や内情覚感の定義の詳細や過程は以降で説明します。

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「内情覚」と「内情覚感」を作り出すに至った経緯:

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2026/2/13

科学的用語として、ある感覚に対する「痛さ」とか「心地よさ」「苦しさ」など、
実際に身体で感じる「感じ」についての呼称を調べてみると、
「感覚」や「クオリア」、「情動」「感情価」などがあったが、
一般的には質感とその質感の感じが一緒にまとめられたものが「感じ」という意味で用いられているようであった。

ただ、今私が考えたい対象の意味合いとはニュアンスが異なり、
「質感とその質感に対して感じる事」をまとめたものではなく、
感じた「感じ」だけを対象とした名称が知りたかった。

一応、医学的な情動的側面の用語もこれに近いようにも感じたが、
体験に至る前の「感じ」だけという事の意味合いでは何か少し違う感じがした。

そこで、一応「内情覚感」という名称を仮に用いる事にした。

「内情覚感」は現時点のイメージで言えば、
知能系がある変化を感覚器官で受容し、質感という刺激の情報として認識した後に、
この質感の感じに対して、
自己がどのように「感じたか」という、この「感じたかの感じ」を対象とした用語ということになる。

現時点では、内分泌系のホルモンに対して脳神経系が最も初期の反応として意味付けする要素と考えている。
つまり、これは体験に含まれる対象だが、体験そのものではなく、
体験に付加される自身の「感じ」ということになる。

要するに、ある質感に対して、自分がどのように「感じ」るかは、
その質感に対して分泌されるホルモンによって決まり、
「快不快」や「好嫌」「良し悪し」など、
このホルモンが「内情覚感」の意味付けのきっかけになるのではないか、と考えたわけである。

そして、この「感じ」は、自己の状態の連続性としての「恒常性」から考えると、
「内情覚感」の「感じ」はホルモンに起因する恒常性からの差という事になるが、
単に良い方向のや、悪い方向としての意味に限定するわけではなく、
あくまで、状態の「差」として現れる「何か」であると考えている。

つまり、生命の自己の恒常性からの偏移の差の要素が、「内情覚」であり、
その内情覚を知能系が観測するに至ると、それが「内情覚感」になる、
という事になる。

ホルモンに起因すると考えると、
内情覚は一定の時間維持される要素であり、
恒常性からの偏移であり、実際に「感じ」られるとすれば、
決まった方向性はあると考えられる。

そして、実際に「感じ」ることで意味が生じているので、
意識される必要性はあると考えられる。

ただし、現時点では、この内情覚感の定義の場所が決まっていないので、
神経活動と同一か?別レベルの存在か?はまだ分離できていない。

ただ、実際に感じられる「感じ」であるので、
対象として「存在」する抽象的な何かであるという所までは考えられている。

他に、今の考えを言えば、
「内情覚感」は、情動のきっかけにはなるとは考えている事と、
知能系が主体性における観測者という視点を持つ立場と考えた時、
ある変化に対する質感と合わせて「内情覚」が観測対象になると考えられ、
そして、その観測結果が認識され「内情覚感」として意識に至る、
という事。

ただし、現時点で未定の「内情覚感の定義の位置」によって、
観測されない内情覚感は存在すると言えるかや、
それとも観測可能性が存在条件であるかが決まると考えている。
つまり、内情覚の定義が自然界由来の定義か?、知能独自に定義したものか?によって、
もう少し詳細が分かると考えている。

そして現時点では、
意識と同様に、ある二面性の境界に生じる抽象的な情報ではないか?ということは既に考えていて、
この場合、
神経細胞ネットワークの構造と、ホルモンと身体性に関わる何らかの間にある定義ではないか?
という所までは考えている。

「内情覚感」を導入しないと説明できない現象は、
質感を体験として記憶した後、
この質感を体験の記憶として想起で用いる際の評価基準がなくなるということ。
つまり、内情覚感がないと、想起する際に体験の質感だけは分かるが、
これが良いとも悪いとも分からず、何の評価もできなくなるという事。

つまり、簡単な例で言えば、内情覚感が無いと、
何か強い衝撃で痛い思いをしたが、その「感じ」が自分にとっての何であったのか?が決まらなかったり、
気持ち良い体験をしたが、これを思い出した際に、だから何なのだろう?と思う事になる。

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2026/2/13

内情覚の定義の位置:

現時点ではこれが一番の問題であるが、
現時点で考えているのは、
自然界由来の定義として神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置にあるという可能性と、
知能系が独自に定義した構造にある可能性である。

これのどちらかが決まる事で、それ以降の内情覚感の考え方も変わる事になる。

内情覚は、恐らく身体の恒常性に関わる変化に対して生じる「何か」ではないかとは考えている。
つまり、身体の状態が、ある変化に対して構造的に変更されようとする事に対して、
ある「感じ」を生じさせる、それが「内情覚」であり、それを観測すると「内情覚感」になる。

これは、質感とは別の要素になるが、
質感に対して評価できるような存在となる。

つまり、質感を概感として想起しようとした時の、その想起対象として概感を構成する際の、
要素の選択基準として内情覚感としての定義が使われるのではないか、と考えている。

言い換えれば、自身の知能系の構造にとって、
その質感が、良いもの、悪いもの、大きな変化、小さな変化、など、
知能系の恒常性における構造の変化という差を生じさせうるもの、としての評価、その定義、
それが、内情覚であり、内情覚感として質感と共に感じられる「感じ」という事。

つまり、

体験=観測(質感+内情覚)

であり、質感は、

質感=質在感+事象の脚色情報

であるので、

体験=観測(質在感+事象の脚色情報+内情覚)

体験=質感の感じ+内情覚感

こういうことになる。

内情覚感を定義の階層と二面性から考えると、

内情覚感は、抽象的だが対象として指し示すことが出来るので「存在」という事になる。

つまり、二面性理論においては、

定義:(存在):定義

であり、

定義:(内情覚感):定義

こういう事になる。
では、内情覚感の二面性の定義はそれぞれ何か?と考えると、

一方はまだ定義の位置などは分からないが「内情覚の定義」という事になる。
つまり、

内情覚の定義:(内情覚感):何らかの定義

という事になる。
ここで、「何らかの定義」は何の存在との間の定義であるか?と考える。

恐らくその反対側の内情覚の方には、
ホルモンとそのホルモンによる知能系の構造の変化を生じさせる体験があると考えられる。

つまり、物理現象に近い方向性を持つ、身体性や直接的な感覚「感じ」があると考えられる。

そういう事であれば、「何らかの定義」の側は、意識や情報などの抽象的な存在がある方面であると考えられる。

つまり、事象再生の場などの情報を扱う存在があると考えられる。

事象再生の場では内情覚感は現れると考えられるが、
実際に「存在化」するのは、知能系の観測の後であるとすれば、

知能の観測者としての視点の「観測」と事象再生の場において構築された刺激か概感の間に、
内情覚感が生じると考えられる。

つまり、この時点で考えられる候補は、神経細胞ネットワークと情報の間である。
とすれば、内情覚の定義は物理的構造か、情報的構造か、さらにその境界か、にあると考えられる。

構造と構造の境界にある可能性?

つまり、神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置の構造と、
刺激または概感の情報としての構造の間の定義として内情覚の定義があるということか?


2026/2/23:追記
2/13時点では内情覚感はホルモンと強い関係があると考えていたが、
現時点では、まったくの無関係ではないとは思うが、
ホルモンだけが元になって内情覚感にまで至るとは考えていない。

この時は、質感を知能系が観測した後で何か「感じ」が生じていると考えていたので、
私の先入観で、
神経細胞ネットワークの後に働く「感じる事」に対する機能であれば、ホルモンではないかと考えたわけである。

質感と内情覚感の関係については、この時点である程度、定義は決まってきていた。
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2026/2/14

内情覚と情動の関連:

昔に在ったハーロウの代理母猿実験の結果を見ると、
ある質感に対する先天的な内情覚の存在があるように見て取れる。

つまり、代理母猿として、布製と金属製+給餌機能が用意された場合、
布製の側に長く居つくというもの。

この場合、何らかの対象への接触というだけであればどちらも同じで、
また、接触の質感の事象の脚色情報としては「やわらかい」「硬い」の差があり、
さらに、布の感触と、金属の感触の間には内情覚として「快」の定義に「差」があり、
内情覚感として構成される構造に違いがあり、
その後の行動に違いが生じた、と考えられる事になる。

つまり、本能として何かに抱き着く、接触しようとする本能は先天的定義として持ち、
実際にそのような行動を取る事になるが、
この接触における接触対象に対しての質感への差も、
接触対象の質感に対する内情覚にも差を生じうる先天的な定義があると考えられる事になる。

この差が、恒常性との関係があるか、考えてみると、
生命としての恒常性の維持という観点からすると、
自身の身体がより安定化する方へ向かうべきという本能があるとすれば、
ある質感に対して、より向かうべき優先される方向性が有る方が良いという事になる。

つまり、代理母猿実験であれば、「快」と感じる質感があり、
これを優先すべきという方向性を先天的に持っていると考えられる事になる。


例えば、叩かれて「痛い」というのは情動ではない。
しかし、叩かれて痛い事を「嫌悪」するというのは情動になる。
また、好きな人に叩かれて「痛い」というのは情動ではないが、
好きな人に叩かれて「痛い」が「まんざらでもない」のは情動になる。

つまり、「痛い」質感と、情動には少し違いがある。
今回の内情覚感は、情動に近い事になる。

2026/2/23:追記
代理母猿実験であれば、「快」は情動ではない事になる。
しかし、「快」を「好む」ことは情動になる。
この辺りの関係に、質感と内情覚感に差が有ると感じていた事になる。

ただ、14日の時点でも内情覚感の明確な定義には至っていない。
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2026/2/15

内情覚感と定義の階層と二面性について考えていたが、考えがまとまらず記載は保留。
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2026/2/16

内情覚感の定義のありか:

昨日の考えから、質感に似たものが内情覚感であれば、
質感が神経細胞ネットワークの励起と神経細胞のトポロジカルな配置と関連があるなら、
内情覚感が何に対応して生じるか考えた時に思い至ったのが、ホルモンであった。

つまり、質感が神経細胞ネットワークを用い、ある瞬間や短時間の感覚を生じ、
これを知能系に認識させるものであると考えれば、
内情覚感は、ホルモンによって知能系が恒常性の維持という観点において、
ある感覚を状態として維持させるための「感じ」なのではないかと考えた。

つまり、質感がある事象の瞬間的な「感じ」であるなら、
内情覚感は、ある事象に対する「感じ」の維持に用いられるものではないか、
という考えに至ったというわけである。

そして、質感が神経細胞ネットワークの励起が質在感となり、
神経細胞の構造のトポロジカルな配置として事象の脚色情報が定義されるなら、
内情覚感は、ホルモンの受容構造において、ホルモンの受容が内情覚感の質在感に代わるものとなり、
ホルモンの受容構造に、内情覚感の「感じ」の定義があるのではないか、ということに気付いた事になる。

2026/2/23:追記
まだこの時点ではホルモンとの関係について固執していた。
他に思い当たらなかったという事もある。
ただ、その過程で質感に対する先天的定義のトポロジカルな配置との関係を思いつき、
後にこれが意味を持ってくることになる。
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2026/2/20

内情感覚とホルモンの関係:

質感が瞬間的~短時間的な事象の脚色された「感じ」であり、
内情感が中期的~ある程度の朝敵的な事象の脚色された「感じ」であると考えたが、
想起において瞬間的に過去の幸せな感じなどが概感として構築できることを考えると、

質感が身体性に関わり、
内情覚は自構性(自己モデル)に関わる、

のではないかと考えられる。

つまり、神経細胞ネットワークだけでも「幸せな感じ」のような感じは再現できるが、
身体で感じられるような「幸せな感じ」は再現できないという事になる。

つまり、幸せな感じであれば、私の感覚で言うと、
少し体感温度は低いが空間が暖かいというという感じで、
みぞおち辺りに何とも表現しづらい「いい感じ」が現れる。

恐らくこれは、身体性で実際に感覚として感じている「質感」と、
内情覚として感じている「感じ」であると思われる。

そして、この幸せな感じを思い出す場合、
実際の空間的な実体験のような感覚は感じられないが、
みぞおち辺りに何とも表現しづらい「いい感じ」は現れる。

つまり、想起の場合、身体性として感じられる「幸せな感じ」は無いが、
内情覚として感じられる「幸せな感じ」は現れているのではないかと考えられる。

では、この何が違うのか?

2026/2/23:追記
20日時点でも、身体に現れる質感とは異なる「感じ」がホルモンによるものだと考えていたので、
まだ内情覚感とホルモンの関係について考えていた。
この辺りでは考えが停滞していた。
そして、基本に立ち返り生命の起源から考え直そうとしたのが翌日である。
この方法は、知能について私が考え方に詰まると良く使う方法である。
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2026/2/21

内情覚感の始まりについて:

内情覚感があるのでは?という事はある程度分かるのだが、
内情覚感自体が何の定義から生じて、どこにその定義があるのかがまだ分かっていないが、
これについて生命の進化の過程から考えてみた。

初期の神経細胞らしきものを持つ生命において、
ある変化の事象に対して反応を起こす場合、
この反応には良し悪しや好嫌のような感じは付属していないと考えられる。

つまり、この時点では決まった事象や変化に対しては、
決まった反応を起こすだけという事になる。

次の生命の段階として、この変化と反応が複雑になっていったとして、
本能的に変化と反応を多数の先天的定義として保有する生命の場合について考えると、
恐らくこの時点でも「感じ」は付属していないと考えられる。

つまり、変化と反応の種類が増えたとしても、
本能的、先天的定義として変化と反応が決まっているなら、
「感じ」は不要であると考えられる。
この時点では、前回考えたエピフェノメナリズムから「感じ」を取り除いた考え方、そのものとなる。

つまり、物理的・物理現象として変化と反応が決まっているなら、
「感じ」は不要であろう、という事になる。

そして、またその次の生命の段階として、
後天的な定義を保有する可能性を持つ生命の場合について考えると、
恐らくこの時点で、何らかの「感じ」が生じている事になると考えられる。

つまり、先天的に変化と反応が決まっているなら、
「感じ」る必要性は冗長的であり、生命にとっても単なる無駄な機能であると考えられる。
これは、エネルギー的にも、構造的にも、何ら必要性を感じない。

ただ、ここに後天的定義が関わってきた場合に恐らく生命の構造における事態が変化し、
「感じ」を生じさせる必要性のようなものが現れる事になると考えられる。

そして、ここから先の生命の段階として、
後天的に定義を持てるようになった生命の場合について考えると、
仮に、逆に「感じ」無しで後天的に定義を行おうとした場合、
その後天的定義に何の意味があるのか?という疑問さえ生じる事になる。
これが、前回「481:「感じ」とエピフェノメナリズムとセマンティクスの自然化問題」で考えた、
「感じ」は今起こった事象としての変化と反応には因果的に影響を持たないが、
次に同様の事象に遭遇した場合に、その変化と反応に因果的な影響力を持つという事の反対の疑問となる。
つまり、「感じ」が無ければ、エピフェノメナリズム通りに、
物理現象として全ての変化と反応が「感じ」とは無関係に決まっても良いのだが、
これでは、この体験を経験としての後天的定義とする必要性が無い事になる。

まあ、限りなくエピフェノメナリズム的に考えて、
「感じ」の必要性を排除し、
この体験や経験自体を、自己の物理的構造の構造変化に自動的に用い、
次の変化と反応に用いるという事も考えられるが、
それなら、そもそも意識することさえ必要ないとも考えられる事になる。

要するに、神経細胞的機能を持つ初期生命が、意識や感じ無しに後天的定義を持てれば、それで良い事になる。

しかし、実際はそうではなく、
生命は知能に「感じや意識」を生じさせる必要性をどこかに見出したことになる。

これも、結果的にそういった機能を持つ種が、単に残っただけとも考えられるが、
それにしても、「感じや意識」には何か有意で有利な点があったとは考えられる。

そして、

「その必要性が何なのか?」という事になるが、

昨日の時点では、内情覚感はホルモンと何か強い関係があり、
ある身体の状態を恒常的な状態からの差が有る状態として、
一定時間、その状態を保つことの意義について考えていて、
その一定時間保持される「感じ」が有る事のメリットや必要性、理由について考えていた。

その時考えて思いついたのは、

・(必要性)ある変化と反応に対する一連の流れを記憶する為の時間稼ぎ
・(メリット)一連の変化と反応について、反応を完遂するまで「感じ」を目的として維持する為
・(理由)「感じ」は変化と反応の一連の流れの連続性から勝手に生じる
・(理由)意識の連続性における「向き」から生じる何かとして
・(必要性)「感じ」を後に評価・指標とするための意味付け(これは以前から考えていた必要性)

この様な事を考えた。

そして、今日の生命の起源から考えた時の「感じ」の生じるタイミングに繋がるのだが、
昨日考えた内容からしても、後天的定義に関わるのではないか、というのは、
この思いついた項目のほぼ全てが関わる。

そして今日考えた事だが、
以前、高度な知的生命は、逆に生命としては不完全な状態で生まれ、
特に人間においては死ぬまで後天的定義を得る機会を持ち、
知能は完成する前に寿命が来ると考えた事があったが、
この未完成である事と、後天的定義と、「感じ」の関連について考えていて、
ある変化と反応が、瞬間的に決着しない場合、
つまり、昨日考えた、
反応を完遂するまでの状態維持と、
後の評価基準とする意味付けという点が関連する場合、
「感じ」は、ある事象の概形の関連した事象群のさらに概形なのではないかと考えた。

つまり、「480:脳内スクリーンと事象の概形」で考えた、
質感を事象とした場合、その概形が定義として残るが、
この定義は基本的には刺激の概形であるが、
これを概感の後天的定義の概形とした場合、
質感の定義となる先天的定義らを関連させる後天的定義が作られるが、
体験などの経験としての記憶となる、
この後天的定義の関連の概形が「感じ」になるのではないか?という事。

私自身もまだ確信までは至らないが、
この後天的定義である、「関連」の構造には、
単なる刺激を関連させて、体験とする以外の意味が含まれているのではないか、
と考えた事になる。

さらにいえば、その元は、先天的定義が脳内にトポロジカルな配置として配置されているのではないか、
という考え方から、
例えば、後天的定義のトポロジカルな配置として「感じ」が定義されているという考え方もできるのではないか、
と思いついたことになる。

その関連には、恐らく先天的定義に近い定義で「好き嫌い」や「良し悪し」のような定義があり、
まあ、この定義も先天的定義であれば、私の現時点の考え方では自然界由来という考えになるのだが、
そういう良し悪しのような向きが、先天的定義の定義として、
エネルギー分布の差異の定義として脳内に在り、
これに後天的定義である事象の定義と関連付けられる事で「感じ」になるのではないか、
という事になる。

2026/2/23:追記
21日時点でようやくホルモンから少し離れて、内情覚感の本質について考え直すことが出来たように思う。
そして、様々な視点から内情覚感について見て、これらを繋ぎ合わせられるような全体像が見え始めた。
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2026/2/22

今日考えていた事は、
例えば「気持ちいい感じ」とか「嫌な感じ」とか「もやもやした感じ」などは、
内情覚感であるという事になるが、
気持ちよさとか嫌な感じは、背中上部から首の後ろの辺りに感じる気がするが、
およそ、「もやもやした感じ」、「ムカムカした感じ」は、みぞおち辺りに感じるように思う。
腕や足のだるさなどは、腕や足そのものの位置、恐らく筋肉の位置に感じる気がするが、
この違いは何なのだろうかと考えた。

この「感じ」のどれも、教えてもらって感じるものではなく、
先天的定義として本能的に持っている定義から生じる「感じ」になるのであろうが、
そういうことであると、「感じ」は、
身体部位と先天的に何らかの関連があるのではないか?という事になる。

まあ、先天的定義が、
神経細胞ネットワークの構造のトポロジカルな配置として配置されている可能性を考えると、
「感じ」の定義も、
神経細胞ネットワークの構造のトポロジカルな配置として配置されている可能性もあるとは考えられるが、
要するに「感じ」にも先天的定義と後天的定義があるという事なのだろうか?と思った。

私の考え方であるので、昨日までの内容に対して収束していく方向性を持っている可能性はあるが、
仮に質感のスクリーン投影の概形が刺激であると考えると、
内情覚のスクリーン投影の概形が内情覚感であると考えられるのではないか?という事になる。

つまり、

質感=質在感+事象の脚色情報

であれば、

内情覚感=内情覚の「在る」という感じ+内情覚の脚色情報

という構成の可能性も考えられる。

2026/2/23:追記
ようやく内情覚感の詳細について詰め始められた。
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2026/2/23

昨日の続きで現時点の結論としては、

・内情覚は、質感に対する定義であるという事
・内情覚感は質感に関連する存在としての「感じ」であるという事

おおよそ、昨日の考え方で良いのではないかと考えた。

上記の例における、ある「痛い」衝撃が、
痛みをもたらす対象によって、その「感じ」の評価が異なる事が、
その決め手となった。

つまり、例えば、相手が分からずに叩かれて「痛い」と感じたとする。
その後に相手が誰かという事を見て、
相手が嫌いな人であれば、
この「痛み」に対して「不満や怒り」を覚えるかもしれないが、
相手が好きな人であれば、
この「痛み」に対して「まんざらでもないとか、仕方がない」くらいの感じを覚えると考えられる。

つまり、「痛み」までは、質感であり、
痛いからどうこう思うわけではなく、
その質感から派生した「感じ」があるという事になる。

これが内情覚感という事になる。

つまり、質感と「内情覚」の間に何らかの定義があり、
その定義が存在化したものが「内情覚感」になるという事である。

つまり、定義の階層と二面性で言えば、

質感(存在)

質感と内情覚感の関係(定義)→内情覚(存在)←内情覚の定義(定義)

内情覚感(存在)

という関係になる。

さらにここから分かるのは、

質感=質在感+事象の脚色情報

であり、
質在感が神経細胞ネットワークの励起を元にして、
事象の脚色情報が先天的定義の脳内のトポロジカルな配置として配置されていると考えると、

上記の例から、相手によって「感じ」が変化する事と、
「感じ」の「良い方向」と「悪い方向」は教えられる前から用いている事を考えると、
内情覚は、先天的定義として基礎的な要素の定義として評価の方向性を先天的定義として持ち、
後天的定義として、質感と方向性を関係づける内情覚の定義を持つ様になると考えられる。

つまり、先天的定義として質感と内情覚感の関係を持ち、
後天的定義として内情覚の定義を持ち、
内情覚はこの先天的定義と後天的定義から成り、

内情覚=先天的定義

または

内情覚=先天的定義+後天的定義

この様な構成となり、
内情覚は、定義だが、仮に内情覚の定義を存在化させる場合、
「479:定義の存在化と定義の階層の末端」の考え方から、
「先天的定義」または「先天的定義+後天的定義」と、
内情覚の実体である内情覚感の境界に抽象的な存在として生じうる情報となる考えられる。

そして、この内情覚を「知能の観測者としての視点」から観測すると、
実際に「内情覚感」という抽象的な存在として感じられる、
という事になる。

2026//2/25:追記

内情覚について:

質感は「質在感+事象の脚色情報」という定義に相当すると考えたが、この場合、
内情覚は「質在感をきっかけとする「在る」という事の定義+恒常性に対する偏移(評価)の方向性」
という事になる。

つまり、内情覚の定義は、基本的に先天的定義として定義されていると考えられる。
そして、一部の後天的定義部分は、
ある質感の体験に対する、「恒常性に対する偏移(評価)の方向性」の接続の概形、
これは質感の際にも考えた脳内スクリーンに映った像の概形のように、
その接続の結果が後天的な接続関係として既成事実のように記憶される、という事になる。

つまり、基本的に内情覚は、先天的定義に含まれる定義を用いて構成され、
観測時には内情覚感として構築されている。
そして、この「質感+内情覚感」は、体験という経験として後天的定義を含んで記憶され、
概感の想起の場合には、
記憶された「質感+内情覚感」の関係が、概感の内情覚感として評価の方向性を含むことになる。

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2024/2/24

内情覚と内情覚感の定義のトポロジカルな配置について:

例えば、「痛み」という質感には、
本質的にわずかにさえ肯定や否定の方向の意味付けを含まないと考えられる。
ただし、「痛み」と否定方向の定義がトポロジカルな配置では近接しているのではないかとは考えられる。

つまり、「痛み」の質感の先天的定義が神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置としてあると考えると、
それと重なり合うか同一かは今は分からないが、
別のレイヤで、内情覚感の先天的定義と後天的定義が、
神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置として置かれているのではないかと考えられる。

この考え方であると、予想になるが、
新生児はおそらく何らかの初めての質感を感じた時に、
それが肯定的か否定的かどうか、瞬間的な間(ためらう時間)が生じると考えられる。

ただし、先天的にある質感に対して「近接」する内情覚感の方向性の定義があり、
優先的にこの方向性の「感じ」を感じるとは考えられる事になる。

つまり、ある質感に対して、内情覚感の方向性を決める定義が近くに配置されているのではないか?
という事になる。

つまり、「痛い」であれば「嫌」とか、「心地よい」であれば「好」のような方向性が、
質感の定義に近接して定義されているのではないか、という事になる。
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2026/2/24

内情覚感と質感と意識との関係:

まず、刺激と概感の構成が以下の通り、

刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)

であり、質感は、「478:定義「質在感」について」で定義したように、

質感=質在感+事象の脚色情報

であり、
質在感は「神経細胞ネットワークの励起」から、
事象の脚色情報は「先天的定義または後天的定義」から生じると考えると、

刺激の「変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)」や、
概感の「変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)」は、
神経細胞ネットワークの励起によって抽象的な存在となり情報となるわけであり、

内情覚感も意識される対象として抽象的に存在となる情報であると考えると、
質感の認識と、概感の想起には、
内情覚感も付随すると考えられ、

認識や想起は質感と内情覚感に対して行われると考えると、

認識=(刺激の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
想起=(概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

と考えられ、
意識が、認識または想起に含まれる事象であると考えられ、
意識の連続性が認識または想起の背反的な連続性から成り立ち、
かつ、意識が抽象的な存在であると考えると、

意識=(刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

であり、意識の連続性として考えると、

意識の連続性=((刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測)←この連続性

と考えられる事になる。
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2026/2/25

今日は内情覚と内情覚感についてのまとめを考えていた。

内情覚感が、

認識=(刺激の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測
想起=(概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

これは良いと考えている。

また、意識についても、認識や想起の結果として意識される対象が質感+内情覚感であれば、

意識=(刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測

であり、意識の連続性として考えると、

意識の連続性=((刺激または概感の質感+内情覚感)←知能の観測者としての視点からの観測)←この連続性

これも良いと考えている。

そして、
内情覚感自体の必要性について考えていて、
現時点では恒常性からの差として、
質感に方向性を与えるという意味で、内情覚感があるという考えに至っているが、
内情覚感が、「良し悪し」「好嫌」という、
プラスやマイナスに方向付けるという意味だけではなく、
自分にとっての情報の意味の方向づけを行うが、
それは、単に恒常性に関係するプラスマイナスの方向という意味だけではなく、
あくまで自己のある状態の偏移の方向性だけを表すものではないかと考えた。

つまり、内情覚感は、
刺激や概感において、先天的な身体性や、後天的な自構性(自己モデル)の状態を、
ある意味を持って方向付けるために「在る」が、
この方向性は単に、「良し悪し」「好嫌」だけではないのではないか、と考えたわけである。

つまり、例えば空腹感も内情覚感になるが、
身体性として考えればマイナスのイメージになるが、
摂食の方向付けをする意味を持つ以外の意味はない。
つまり、恒常性としては、摂食する方向へ向かわせる以外の意味は無いのではないか、
というわけである。

これがマイナスのイメージになるのは、向かうべき方向に向かわなくてはならないが、
それを行うことが出来ない場合の、その状態に対してマイナスのイメージが生じるのであるが、
「進むべき方向に対しての障害」に対してマイナスのイメージが生じるのではないか、
ということになる。
そして、このマイナスのイメージ自体も、内情覚感であるが、
内情覚感の基底の定義は、恒常性に関係する・関係しないではなく、
本質的には。「それができるか」「それができないか」この定義なのではないか、
という事になる。

そして、この「それができるか」「それができないか」が、
身体性に関わった場合に、「良し悪し」「好嫌」「プラスマイナス」のイメージとして感じられるのではないか、
という事になる。

つまり、内情覚感は、プラスマイナスではなく、
「それが行えるか」「それが行えないか」の意味づけなのではないか、という事になる。

つまり、叩かれた時の相手によって「感じ」が異なるという例で言えば、
嫌いな相手に叩かれても、好きな相手に叩かれても、
「痛い」ものは「痛い」ので、身体的には「痛みを避けられなかった」事に対してマイナスのイメージであり、
嫌いな相手に対しては、自分が接触したくない相手である事に対して嫌な思いをする相手に対する、
後天的定義の想起で、さらにマイナスのイメージ、
好きな相手に対しては、自分が接触したい相手ではあるので、良い思いをする相手に対する、
後天的な想起で、後付けでプラスのイメージ、
それを連続的につなげた時に、
嫌いな相手であれば、「痛いし嫌い」で避けられない。
好き内あてであれば、「痛いが好き」でまんざらでもない(そんなに嫌ではない)。
という事になるのではないか、という事になる。

つまり、仮に誰に叩かれたか分からなければ、「痛い」に対してのみ内情覚感のイメージ付けがなされ、
後から「誰か」が判明すれば、後付けで内情覚感のイメージが追加され、方向が変化する可能性が有る、
という事になる。さらに、「誰か」を最初に嫌いな人であると言われ、後から好きな人であったと判明すれば、
それに応じて内情覚感の方向が変化するという事も起こる事になる。

つまり、恒常性に対する内情覚感の働きという事であれば、
単にプラスやマイナスのイメージを抱かせるという事ではなく、
そのある変化の事象に対して、自己との関わりとなる「向き」を与えるものではないか、
という事になる。

そして、内情覚感は、あくまで内情覚が先天的定義から構築されるものであり、
先天的定義と身体性を用いれば刺激の認識として、
後天的定義と自構性(自己モデル)を用いれば概感の想起として、
「質感+内情覚感」として刺激や概感が構築されるのではないか、
という事に考えが至った。

そしてさらに、前回の「481:「感じ」とエピフェノメナリズムとセマンティクスの自然化問題」
の考え方を用いれば、
刺激の身体性においては、内情覚感は、既にある定義を用いるために、
刺激の選択などにおいては変化の反応に対して因果的に働くことはできない。
しかし、内情覚感は、体験の経験として記憶される為、
次回以降の同様の変化の反応に対しては遅延して因果的な働きを持つ事になる、そう考えられる。
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最後に:

現時点で「内情覚」や「内情覚感」の存在や定義が確定しているわけではないが、
恐らくこの考え方がある方が、今後の考察に有効であると考えてこの用語を定義した。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。