2026/2/7-2026/2/18
「感じ」とエピフェノメナリズムとセマンティクスの自然化問題
今回は、エピフェノメナリズムの考え方とセマンティクスの自然化という「問い」を起点にして、
質感における「感じ」がどのような構造で生じるのかについて考えてみる。
ちなみに、質感における「感じ」が何らかの構造で定義できれば、
エピフェノメナリズムについては、根本的な解決には至らないまでも、
ある程度の議論の進展にはつながるらしい。
そして、
セマンティクスの自然化問題もある程度解釈できるようになるらしい。
ちなみに、今回のエピフェノメナリズムでは「因果」についての考え方が出てくるが、
「あらためて因果とは?」と再確認すると、
原因が在って、その結果に繋がるという事、
簡単に言えば「原因と結果」があらかじめ決まっている事であり、
因果は、原因だけでもなく、結果だけでもなく、
原因と結果がセットで決まり因果となる。
という事になる。
ちなみに、「因果律」とした場合、
例えば私がこの先に選択しようとしている事は「律」として既に決まっているという考え方になる。
つまり、「過去から選択する直前の今」、までの原因によって、
私がその先に選択する未来は結果として決まっている、ということになる。
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エピフェノメナリズムの考え方とその考察:
エピフェノメナリズムの考え方を簡単に言えば、
脳の物理現象として生命の反応などが決まっていると考えるなら、
「感じ」や「感覚」がなぜ表れて、こんなにも意味を持っているのか説明ができない、ということになる。
つまり、自分が受ける何らかの事象について何かを感じるが、
この「感じ」自体が何かの意味のあるきっかけとなるか?という事。
そして、事象とその反応が物理現象として決まっているのに、
「感じ」を生じさせる必要はあるのか?という事らしい。
さらに言えば、物理現象として事象と反応が決まるなら、
「感じ」について言及の対象とする必要さえあるのか?という良く分からない問題もあるらしい。
そして、この事を、エピフェノメナリズムでは、
「感じ」自体が何らかのきっかけに「ならない」のではないか、という考え方になるらしい。
要するに、ある事象に対する反応が物理現象として因果的に決まっているなら、
「感じ」はその因果の中に含まれる必要があるの?という事らしい。
逆に考えれば、
脳の物理現象として現れる、生体に対するある変化とその反応に対して、
「感じや感覚」を伴う「必要性」が示せれば、この問題に対する一定の説明になる、ということになる。
以前、因果や自由意志については考えた事があり、
この時は「選択」が、過去と今と未来の繋がりと「選択」の位置が関係あるのではないかと考えた事があるので、
因果の問題は、「変化に対する反応」と「感じ」が現れる順番が、
明確に決まっていないから出てくる問題なのではないかと、最初に思った。
そして、この考え方で、「感じと反応」を、
仮に順番を固定して決めたとして、
「反応→感じ」とした場合:
感じは「後付け」になり、因果的には働かない事になる。
感じが「あろうとなかろうと」、反応は起こる事になる。
「感じ→反応」とした場合:
感じが物理現象に関与することになり、エピフェノメナリズムの問題には至らなくなる。
仮に同時に起きるとした場合:
これだと、どちらとも言えず、今回の考えようとする問題以前の話となる。
つまり、今現在の私の感覚としては、
どうもカギになっているのは「選択」と「感じ」の出現ポイントの違いのように感じている。
つまり、単純に順番を決めれば因果の問題が消えるというわけではないが、
どうも「感じ」の発生位置が不明瞭であるための問題なのではないかと考えた。
因果という点であれば、以前の自由意志について考えた際の結論としては、
仮に何らかの選択が因果(律)で決まっているなら、何を感じようが何を思おうが、
その因果に従って行動や反応する事になる。
また、選択が因果ではなく完全な自由であるなら、
因果と思しきものは、あくまで結果を振り返った時に見える結果までの過程であり、
今より先には無く、因果は常に今より後に結果として見えるものという事になる。
そして、この時の結論としては、
因果は今より過去にしかなく、自由意志は今より未来にしかなく、
「今」把握できるのは、因果でも自由意志でもなく「今」の状況だけであるという事。
そして、自由意志は可能性だけとして見えて、因果は結果として過去に積み重なっていくだけという事だった。
そして、これまでの考え方と最近の考え方を合わせると、
実際の知能における選択は、
選択に対して物理構造として個体固有の構造があり、
その構造に対して「今」感覚が受容した変化に対して、この構造が半自動的に反応を準備し、実行する、
その過程を知能自身が観測する事で、自分が選択したという気がする、というものとなる。
そして、この場合の「感じ」の在りかは、
脳の物理構造が変化に対して、知能が観測し、
自己に起こった変化であるという体験とするための意味付けの定義に含まれている、という事になる。
つまり、なぜそれを選択するのか、選択したのか、
その評価の指標として「感じ」が使われているのではないか、という事である。
そして、この意味付けは、「今」必要になる物ではなく、
後の自身の知能の構造を修正するための「感じ」ということになる。
つまり、「感じ」の定義を自身の構造に適用して、
次の似たような事象の選択の評価に用いようとする、という事になる。
つまり、現時点では、「感じ」は、「今」遭遇している因果には関係していないが、
次に訪れるであろう因果に対しては、反応する力を持つ、という事になる。
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セマンティクスの自然化問題の考え方とその考察:
これは、要するに自然界の事象を知能内で解釈した時の意味はどこから生じているのか?
ということになる。
つまり、
ある色がその色である事や、
ある音がその音である事、
ある味がその味である事、
その意味はどこから生じているのかということにもなる。
これは質感における「感じ」がどこから生じているのかが分かれば、
ある程度解釈できる問題ということになる。
まさに今回の鍵になる点。
現時点では、エピフェノメナリズムの方が片付けば、
このセマンティクスの自然化問題も一定の解釈が出来ると考えられるので、
まずは、エピフェノメナリズムの方を優先して考える事にする。
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エピフェノメナリズムの問題についての考察:
おおよその方針で言うと、
例えば、手が何かに触れて痛かった時に手を引っ込めたが、
この時の「痛い」は何か働きがあるのか?何か意味があるのか?という事が分かれば良いという事になる。
普通に考えれば、痛いから手を引っ込めたと思うが、
物理現象で解釈すれば、神経細胞ネットワークがあり、
入力に対する反応として出力が起こり、
痛くなる前には手を引っ込める事は分かっている(決まっている)はずなのに、
なぜ「痛む」必要がある?という事。
さらに、この「痛み」について語るにしても、
語ることは物理現象として解釈できるが、
その必要性さえあるの?という事。
若干「477:変化と構造から生じる目的と意志」この内容を似ている気がするが、
「477」では、ある知能系の構造に対して入力が在れば、
その構造から目的や意志のようなものが半自動的に決まるというような考え方であり、
まさにエピフェノメナリズムの問題そのものが当てはまる事になる。
物理現象として入力に対する反応が自動的に決まるなら、
「感じ」そのものは必要か?という疑問が生じる事になる。
「477」では、その考察の過程で入力と反応の構造を考えていて、
「477」の答えとしては、ある反応の結果は、体験として記憶され自己の構造にフィードバックされ、
自己の構造自体が変化するので、次の目的や意志の選定の際には関与するというものだった。
つまり、今回の「感じ」を含めた結果であれば、「今」の反応には影響しないが、
次の選択や反応には「影響がある・意味がある」という事になる。
そして、今回の新たな課題の、
自身の「感じ」について語る事について言えば、
聞かれたから語るか、自発的に語りたいか、という構造に今自分が在る、
という構造に「今ある」という事に落ち着くことになる。
これをまとめると、
現時点での考え方であれば、「感じ」は「今」行われようとしている反応や選択には、
因果的に影響はしていないが、
その後の反応や選択には、因果的に影響を与えているという事になる。
その因果的な仲介を成すのが、知能系の構造であり、
ある「感じ」は、この今感じた「感じ」を元に、知能系の構造をフィードバックで更新する事で、
次の反応や選択に影響を与える、という事になる。
つまり、今の「感じ」は、今の「反応」には、因果的な影響を与えないが、
今の「感じ」は、次の「反応」には因果的な影響を与える可能性が有るという結果となる。
これでエピフェノメナリズムにおける「感じ」の必要性の一定の説明はつくとは思う。
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セマンティクスの自然化問題についての考察:
こちらは「感じ」そのものがまだ明確に説明できないので保留となる。
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そして残る課題:
ここまで分かると、逆にエピフェノメナリズムやセマンティクスの自然化問題とは別にして、
純粋に「感じ」そのものが何なのか?という疑問が生じた。
つまり、「感じ」が生じる意味や働きは理解できるが、
そもそも「感じ」はどこで生じているのか、どこの定義を使っているのか、
そういう疑問が生じる。
恐らく「感じ」は定義の階層で言う所の抽象的な「存在」であるとは思うが、
その階層や二面性の構造が分からない事になる。
こちらの疑問の方がセマンティクスの自然化問題の答えに繋がると思われる。
現時点では、そもそも「質感」と「感じ」は違うのではないかという感じさえする。
例えば何か「痛い」思いをしても、それだけで次の反応の因果に関わるか?と言えば、
恐らくそれはない、と思われる。つまり、「痛い」は事象だが評価の基準にはならない。
これは、
例えば「痛い」衝撃を与えた相手が「嫌いな人」と「好きな人」では「痛い」「感じ」が違うからと言える。
嫌いな人から叩かれて「痛い」のは非常に嫌な感じがするが、
好きな人から叩かれて「痛い」のはまんざらでもない感じがする。
つまり、仮に次に「痛い」だけがあったとしても「感じる」反応の評価基準にならない。
つまり、「質感」と「感じ」が違うように思われるのはこの差である。
これについては次回以降に考える事にする。
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以下は今回の結論に至るまでの考えの経緯:
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2026/2/9-2026/2/10
選択における質感に対する「感じ」の存在意義:
痛みや心地よさ、苦しさ、楽しさ、など、
感覚における質感に対する「感じ」がなぜ必要だったのか考えていて、
では、「感じ」が無かったら何が不都合か考えた時に、
体験の記憶が事象そのままだとした場合、
未選択の未来における、予測や予想という想起の際に不都合が生じると思いついた。
つまり、質感そのものを体験として記憶するまでは良い。
これを想起する対象とするのも良い。
ただし、これだけで予測や予想ができるかというと、そうはならない。
つまり、事象の体験として質感があり、これを記憶できたとしても、
それを想起し、予測や予想に用いようとしても、
単に質感が在るだけでは、体験の想起に過ぎず、
これを比較・評価できる基準が何も無い事になる。
つまり、体験した記憶を元に、何か新しい可能性を構築して想起しようとしても、
「自分にとって」の何ら誘導する指標が無い事になる。
そもそもで言えば、単なる体験の想起自体に何か意味が在るのか?という疑問まで生じる。
仮に、予測や予想のように体験を組み合わせて新たな可能性としての事象を想起するとして、
この想起自体が意味が在るのか?という事になる。
つまり、「感じ」は、知能にとっての自身の評価基準、記憶する体験の指標となるもので、
逆にこれがあるからこそ、想起する意味が生じるのではないか、という事になる。
そして、一気に、この「感じ」の発生源と起源について考えると、
発生源は、感覚に対する質感としての「事象の脚色情報」であるから、
先天的定義に含まれる定義という事になる。
であれば、その定義は神経細胞ネットワークのトポロジカルな配置に含まれると考えられる。
ただし、このままでは、起源が分からないが、
前回の「480:脳内スクリーンと事象の概形」の考え方からすれば、
事象の定義はもともと自然界由来で、その射影が体験としての記憶対象となるので、
可能性としては、「感じ」も自然界由来と考えられる。
つまり、生命の感覚は、「質感と感じ」をセットで受容していると考えられる。
ただし、自然界に「痛い」などの定義があるわけではなく、
この事象の定義としての「感じ」の定義は、
事象を感覚で受容した後、表象としては、脳内スクリーンに事象を映した際の「感じ」なのではないか、
と考えた。
つまり、イメージとしては、「刺青・タトゥー」のような感じである。
仮に刺青であれば、身体に絵を差し入れる際に「痛み」が伴うのであるが、
脳内スクリーンへ事象を映した際は、これが痛みや心地よさ、苦しさ、楽しさ、などに変わる場合がある、
というわけである。
つまり、事象の射影に、事象そのものと、「感じ」が追加されるイメージとなる。
そして、これが何の意味があるかと考えると、体験した事象そのもの「だけ」ではなく、
「感じ」が追加される事で、体験に対して自分の感じがセットとなり、
体験を定義として用いようとすれば、「感じ」も付いてくることになる。
そしてこれは、想起時にも当てはまり、ある体験を想起すれば「感じ」も付いてくることになる。
そして、さらに、想起として予測や予想をしようとすれば、
後天的定義の組み合わせの可能性として、概感として未体験の事象の定義の構成を行おうとすれば、
ここに「感じ」の組み合わせも、もれなくついてくる、という事になる。
そして、「感じ」の起源について考えれば、
これは、「自分」の存在が必要不可欠であるという考えに至る。
つまり、「知能の観測者としての視点」の登場とともに「感じ」が現れたのではないか、という事。
実際、質感は変化の受容と反応までがセットだけでも説明がつく。
つまり、変化が「在る」という事と、変化が「どのような意味を持つか」ここまでは、
質感だけでもどうにかなる。
ただし、質感に対する「感じ」まで含めると、これは質感そのものではなく、
「質感に対する反応」として「感じ」が生じて、
一般的には、質感に含まれていると感じられているだけなのではないか、
という事になる。
つまり、実際には「感じ」は質感に含まれるものではなく、
質感とセットで、質感のように感じられているだけなのではないか、という事になる。
つまり、実際は、質感は質感であり、「感じ」は、質感に対する、
「自分」の評価基準としての「定義」に相当するのではないか、という事である。
つまり、「質感」と「感じ」は別物ではないか、という事である。
ちょっと話が逸れたが、話を戻して「感じ」の起源について言えば、
「知能の観測者としての視点」が生じる前は、感覚で受容した事象を質感として受け入れる事は、
単に変化に対する反応を起こすための、定義(条件)として受け入れていただけという事になる。
そして、
「知能の観測者としての視点」によって、感覚で受容した事象を質感として観測する際は、
変化に対する反応を起こすための、定義(条件)として受け入れる質感の他に、
「知能の観測者としての視点」から観測できる、もう1つの定義として「感じ」が観測できるようになった、
のではないか、という事になる。
この事は、
例えば、自己を認識できない知的生命において、痛みなどは感じられると思うか考えてみると、
恐らく、人間が例えば痛みとして感じる衝撃を、自己を認識できない生命は、
この衝撃を、危険な衝撃として受け入れて、それに反応しているように見えるが、
痛みとして感じているとは考えにくいということになる。
調べた範囲でも、恐らくそういうことになる「だろう」という結果になる。
ただしこれは、自己言及の問題から、この自己を認識できない生命においても、自分以外の他人においても、
仮に「痛い」と言っても、本当に痛いかはわからないということにはなる。
さらに、例えば私が好きな人に叩かれても嫌な気がしないとしても、
この私が好きな人を嫌いな人が別に居て、
その人が私と同じ様に叩かれた場合には、嫌な気分がするのではないか、というような違いも生じる。
とはいえ、「感じ」が生じるために「自分」の視点が必要になる、ということであれば、
「感じ」が生じる起源そのものではないとしても、
その起源に重要な存在が「自分」になるのではないか、とは考えられる。
そして、その事から考えられるのは、
質感に対して、自分の評価が「感じ」であるとすれば、
この質感の体験を記憶し、予測や予想の想起を行おうとした場合、
自分にとってのこの、想起する対象として構築される概感に対して、主観的な評価基準ができるのではないか、
という事になる。
つまり、「感じ」があれば、
単に体験を組み合わせて予測や予想をしているのではなく、
あくまで自分にとっての「感じ」を含めた予測や予想が行えているのではないかという事。
そして、これは逆に「感じ」が在るためには「自分」が必要であり、
「自分」が在るためには「知能の観測者としての視点」が必要という事になる。
そして、もう少しメタ的なことを言えば、
なぜ、生命が自身にとっての主観的視点、「知能の観測者としての視点」を持つに至ったか、
そして、その際にある変化を事象として受けて質感だけでなく「感じ」まで定義するに至ったか、
これについて考えると、
生命の起源にまで考えが及び、これについては後で詳しく書くが、
定義の階層の考え方も借りると、
ある1つの存在が1つだけで存在する事の方が珍しいのではないか、という事になる。
逆に自然界の事象の存在としては1つの存在として成り立っている事が多いのだが、
特に、ある複数の存在や定義を内包する系においては、
その系自体の定義の階層の末端が存在で保持された場合、
その内部に最低でも、この末端に相対する存在が定義の二面性として置かれることになる。
イメージとしては以下の様。
自然界の定義の階層:
・・・→存在→定義→存在→定義→存在→定義→存在→・・・
ここから分岐した個別の系:
自然界の定義の階層の存在→・・・
↓
定義
↓
存在→定義→存在→定義→存在→・・・
こうなり、最低でも
自然界の定義の階層の存在→・・・
↓
定義
↓
存在A→定義→存在B
こういうことになる。
この場合、自然界の定義の階層とは異なる固有の「系」であるには、
存在A→定義→存在B
最低「2つの存在」とその二面性の間の「定義」が必要になる。
この場合、この系は最低でも1組の存在と定義の二面性をもって「在る」事になる。
そして、仮に、この関係をRNAを元にした原始の海の仮説に用いると、
ATGCのアミノ酸をそれぞれ個別の存在として考えると、
2つの存在だけでは単なる分子で終わってしまうが、
これが最低で数十のアミノ酸の系になったと考えると、
このアミノ酸群から、特有の機能を持つに至るRNAにまで至るのではないか、という事になる。
そして、途中の考えは今回は省くが、ここから話を戻すと、
知能が自然界の中で固有の「系」として「在る」なら、
物理現象としての自然界の事象を変化として、
物理現象としての個体として現れた実体を身体という事象として、
変化を感覚という事象として、
神経細胞ネットワークの励起までを物理現象として、
その後自然界とは別の系としてこの「変化」を知能系内に取り込んだ場合、
最低でも、この「変化」は物理現象としての末端では、
神経細胞ネットワークの励起という事象であり、定義ではなく「存在」であると考えられるため、
系の中で別の「存在」を定義も用いて「あてがう」必要がある。
つまり、この変化の事象が物理現象としての神経細胞ネットワークの励起として質感として現れるなら、
その相対する「存在」が必要になる、というわけである。
つまり、この「あてがわれた存在」が「感じ」ではないか、という事になる。
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2026/2/15
因果と自由意志について:
因果と自由意志の差について考えていて、
時間の流れ的に考えると、選択の瞬間まで因果は積み重なるが、
自由は未来にしか見ることが出来ない為、
選択時に自由があり得るとは思えない。
ただ、私の考え方にも不確かさはあって、
仮に私の考えがラプラスの魔のようにすべてを知りうる考え方であれば、
確かに因果のみが選択時には関わり、自由は絶対に届かない未来にしかない事になるが、
知能系は全てを知ることは無く、
知らない事があるという点において「自由」の可能性があるのではないか、とも思う。
つまり、知らない未来があるという可能性の範囲における自由度があるのではないか、といういうことになる。
仮に私自身がラプラスの魔の当事者でなければ、
選択後に「選択時には自由であった」と言うしかできないと考えられる。
ただし、
私は客観的視点も、主観的視点も持ち合わせているので、
完全な自由であったとは断言できない二重の視点を持つ者ということになる。
そして、私が一番気になるのは、
人間の知能系における因果がどこまで因果であるのか?という点。
つまり、人間の知能系には2つの因果の可能性として、
・主観的先天的因果
・客観的後天的因果
があるという事。
つまり、主観的存在から見る視点で先天的に持つ因果と、
客観的存在から見える視点で後天的に持つ因果、
要するに、先天的な身体性か、後天的な自構性(自己モデル)の因果と言った方が分かりやすいか。
しかし、視点をもう少し広げると、
自分とは関係のない周囲の因果が関わるのではないかという事も思いつく。
つまり、環境の因果が関わるのではないかという事。
であれば、
・主観的先天的因果
・客観的後天的因果
・周囲の環境の因果
があるという事になる。
ここで、恐らく、自分にとっての物理的に決まる因果は、
主観的先天的因果と客観的後天的因果という事になる。
つまり、自分にとっては神経細胞ネットワークとして知能系の構造が決まっている時点で、
ある反応に対する「感じ」などが生じるのは決まっている。
これは、自分が働きかけてどうなるものではない。
その瞬間に決まっている構造という事になる。
そして、周囲の環境の因果は、自分には関係のない所で起こるので、
自分ではどうしようもない因果という事になる。
ただ、この疑問は、エピフェノメナリズムの問題から生じたもので、
エピフェノメナリズムにおける「感じ」が「反応」に対して因果的に働いているのかどうか、
これが知りたかったという事になるが、
私の今の観点は少しずれていて、
「感じ」は今の選択には無関係だが、
「感じ」の体験は後天的な経験として保持され、
自身の構造を変化させ、次の選択に影響を与えるという考え方になる。
ここで私の考える自己は、
ある構造に対する観測者の視点と、その観測者が観測する対象の構造から成り立つものと考えているので、
この場合、現時点では観測者は実体ではない「知能」そのものであり、
観測対象は「物理的な脳を含む知能構造全体」という事になる。
つまり、構造そのものの中に自身を観測する抽象的な視点があるという系が、自己ということになる。
そして、観測者を観測する視点は明示的に存在するものとしては不要で生じないという考え方になる。
基本となる知能の観測者の視点は、
物理現象と情報を変換する定義を存在化させた抽象的存在であり、
最初から特定の視点のようなものを持っている存在では無いと考えている。
要するに観測者の定義はあるが、存在では無いという事。
観測変換の定義は、固定で変更できないのは生命であれば本能や感覚における先天的定義であり、
更新可能なのは後天的な定義ということになる。
環境の因果については、自己の環境への関与によって影響できる部分はあるが、
その多くは自分で知りようもない因果が大多数であり、
ほとんどは環境から一方的に与えられる因果がほとんどという事になる。
例えばAIモデルに当てはめて考えるとして、
先天的定義は生命であれば遺伝の可塑性分においては変更可能。
人工知能では設計段階において変更可能ということになる。
後天的定義は基本的に後天的に構築するもので変更も可能という事になる。
また、後天的定義の環境因果に対する可塑性は、基本的には自己による更新の自由度は低く、
因果的プロセスが優先されると言えるが、知り得ない自由度に対しては因果であるかを確認できない、
という事になる。
ただし、環境因果の中には知り得ない因果があり、
これが知り得ない事であるが故に、その事に対して、そこに自由を感じる、という事になるとも考えられる。
要するに、自由意志も、全てを把握したうえで選択できる自由ではなく、
把握できて選択可能な複数の選択肢と、まだ知り得ない選択肢があるという不確かさがあるために、
選べる自由と、知らない自由に対して「自由」を感じるのではないかという事になる。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。