2026/2/3-2026/2/6


脳内スクリーンと事象の概形


知能内に定義が存在しない場合の質感・想起の構造的な考察。

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2026/2/4

昨日、質在感について考えていた時、
ふと右目の中に右方向から日光がさして赤い光が見えた時思いついたのだが、
この赤い光の意味付けをする定義は、
これまでは神経細胞ネットワークとして定義されているという考えではあったのだが、
仮に、神経細胞ネットワークに定義が無いと考えたらどうか?と思った。

つまり、
自然界の事象には定義があり、神経細胞ネットワーク自体にはこの事象を構築する定義が無いとした場合である。

そして今日気づいたのは以下の事。

・脳内の神経細胞ネットワークには自然界の事象をそのまま情報として構築できるだけの定義は無い事。
・先天的定義として持っているのは、自然界の事象に個別・専用に対応したスクリーンのようなものだけである事。
・このスクリーンに一度感覚から刺激として事象を受けないと、事象が何かは決まらない事。
・このスクリーンが持つ定義だけから構築できるのは、その自然界の事象に対応した概形だけである事。

最初に、神経細胞ネットワークが定義を持たない可能性としてこの「気づき」について考えていて、
それほど不都合はない感じはした。

しかし、途中で想起する為の概感を構築する場合に定義が無いと不都合があると気づく。

つまり、睡眠時に夢でみる概感の定義はどこから来ているのか?という事である。

そして今日考えたうえで思い至ったのが、事象の概形だけを事象を映すスクリーンのように、
神経細胞ネットワークの定義として持つ、という事である。

つまり、「神経ネットワーク上の受容・表象構造としてのスクリーン」というわけである。

つまり、イメージとしては自然界の事象のそれぞれに対応した専用のスクリーンのようなものが、
神経細胞ネットワーク上の構造として構築されているのではないかという事になる。

さらに、この場合、先天的にスクリーンだけがあっても概形さえも構築できないだろうとして考えた上で、
思い至ったのが、一度実際に事象をスクリーンに映さないと、このスクリーンが定義として確定しない、
という事だった。

これは、実際に思考実験として、私が例えば、黄色い文字の「あ」を思い浮かべた時、
確かに黄色い感じもするし、「あ」という形であるようにも、思い浮かぶが、
実際の概感の想起においては、黄色く見えているわけではないし、「あ」の形状がどこかにあるわけでもない。
黄色く「感じる」だけであるし、文字として「あ」の形状である「感じ」だけが概感として想起できる。

それでも、確かに「黄色い「あ」」は、思い浮かぶ。

それぞれの定義の由来として考えると、
黄色の「黄色み」は先天的定義として先天的に持ち、
「あ」はその文字としての形状は後天的定義として後天的に体験した後に定義として得るものである。

仮に私が先天的な感覚の目の機能(視覚)に関する色覚異常で、
脳には異常がない個体で、黄色を一度も見た事がないとして、
その後の生活において想像だけで黄色を思い浮かべる可能性はあるか、
というケースが成り立つか調べてみると、

この場合、視覚としての「黄色」そのものを想像する事は出来ないが、
「黄色」に相当する概念を想像する事は出来るとは考えられるという事だった。

つまり、今回の気づきである「概形」は想像できるだろう、という事になる。

そして、これは「メアリーの部屋」という思考実験とほぼ同じらしい。

メアリーは一度も色を見た事が無いが、
色に関する物理情報はすべて知っている。
この場合にメアリーが初めて色を見る時、
メアリーは新しい知識を得たといえるかどうか?

という実験らしい。

そして、この回答としては、立場によって変わるが、
多くは「新しい知識を得た」と言える、というものらしい。

しかし、
今回の私の中での思考実験では、このメアリーの部屋に関する答えは、
新しい知識を得たか?という問いの答えであれば、

「新しい体験をしたが、知識としての定義(物理情報)に関する構造は、先天的に脳内に展開されていて、
色だけを受け取るスクリーンのようなものは既に持っていて、それを初めて使って色を体験した。
よって、新しい知識を得てはいないが、新しい体験の経験を得た。」

という事になる。

つまり、色を受け取る構造は先天的に既に持っている。
メアリーが部屋を出て色を見る時に起こるのは、
新しい知識を得る事ではなく、
「既に構成されていた構造を新しく使った」、という事。

要するに、新しい知識は得てはいない。

この実験における脳の働きとしては、
錐体細胞からの視覚の神経細胞ネットワークとしては、
先天的に展開されているものが多いらしい。

つまり、色を受け取るスクリーンのようなものは、
実際の神経細胞ネットワークとしても考え方は似ていると言えるらしい。

つまり、何かを「新しく知った感じ」は、
この構造を「新しく使った感じ」なのではないか、
という事になる。

そして、ここから上記の疑問になったのが、
概感を想起する場合の事象を受けるスクリーンのようなものは、
それだけで想起対象となるのか?という事だった。

この疑問は、
仮にスクリーンのようなものは、先天的に持つものと、後天的に獲得するものに分かれる事になる。
例えば上記の例の黄色い「あ」の文字を見た時、
文字の概念や「あ」の形は後天的に専用のスクリーンを持つ、というイメージになり、
これを想起する時、実際に黄色くもなく、「あ」の形状を持つわけではないが、
黄色い感じの「あ」の概形を持つイメージとしては想起できるかどうか?という事であれば、

先天的な構造で体験し、
後天的な構造を体験から構築したのなら、
概形も想起できるという考えになる。

つまり、先天的定義を用いて後天的定義の関連で繋いだ新しい神経細胞ネットワークの構造を使った事があるなら、
想起時には事象そのものではないが、概形としては想起できると考えられるという事になる。

そして、最初の質問に戻るが、
仮に私が視覚の目に異常があり、脳には異常のない色覚異常であった場合、
黄色を概形としてだけでも想起しようとした場合、このスクリーンの概形としては想起できるかどうか?

について言えば、恐らく「黄色み」は「想起できない」という事になる。

つまり、構造だけがあったとしても、一度もその構造を使っていないなら、
定義としてはあるが、後天的に想起できるきっかけを関連付けた事が無いのだから、
実際に構造があったとしても、主観的に見れば構造の存在すらも怪しいという事になる。

つまり、
黄色を見ない限り、概形としても想起できない。
という事になる。

これを脳神経学的に、このような結果になると考えられるか調べると、
恐らく、「黄色を見ない限り、概形としても想起できない。」という結果になると考えられるという事だった。

先天的な構造としては視覚としての感覚の錐体細胞から始まり、
脳の視覚野が神経細胞ネットワークを持ち、
色ごとの反応部位を持つ。

これは、恐らく生まれた時には既にこの構造で構築されていると考えられる。

発達神経学から言えば、
構造だけでは想起には使えない。

例えば、先天的な色覚異常であると、
視覚の見る事自体のイメージが想起できないらしい。

そして、この内容に繋がるが、私が考えたのは、

「脳の神経細胞ネットワークが、実際は事象を意味づける定義を内包してはいなくて、
自然界の事象に対応した専用のスクリーンが神経細胞ネットワークとして構築されているだけなのではないか」
ということ。

そして、想起時に把握可能な情報はスクリーンの概形だけだが、
概形だけでも「っぽさ」は無くても想起できるか?

という事が知りたかったという事になる。

つまり、意味付けの意味はどこに在るのかという事になるのだが、

ここまでで、定義の概形だけで想起には至らないということなので、
意味付けできる構造だけあっても、概形すら想起は出来ないという事になる。

そして、今回の気づきである、「定義が脳内に無い事」について、ちょっとおかしな言い方になるが、
意味付けできる構造はあるが、意味は外から持ってくるしかない。
という事になる。

つまり、意味付けできる構造を別の構造として客観的に定義づけて想起はできるが、
その構造を用いた事象そのものは想起できない。

これを合わせた時にどうなるかというと、

最終的に概形だけでは想起できないなら、
概形だけでも想起できるようになる「きっかけ」として考えたのが、
「一度スクリーンに事象を映す」という事(必要性)になる。

ただし、これは事象に意味付けをしているのではなく、
神経細胞ネットワークが励起する事によって、
質感の構成における「質在感」を生じさせているだけという事になる。

そして、質感における事象の脚色情報の「定義」は、外部から得るという事になる。

そして、このスクリーンを用いる事は感覚から事象を受ける以外にはできないのかと考えれば、
恐らく、事象の定義の意味付けが脳内に無いのであれば、
感覚を用いない以外の方法は思いつかない。

強制的に電気信号を流すなども考えられるが、
その場合は、何かがスクリーンに事象として映る可能性はあるが、
この場合の事象が感覚の定義として完全であれば、
つまり、ある感覚の決まった構造の全てを用いているなら、
決まった事象として感じる事は出来ると考えられるが、
構造の一部だけである場合は、完全な事象としては感じられないという事になる。

そして、ここまでの事を考えると、

脳内で意味の定義を持っていない。
事象を意味付けできる構造は持っている。
事象の意味付けの定義は感覚で受け入れる。
事象の意味は意味付けの構造を最低1度は機能させないと用いることが出来ない。

この辺りの事が考えられて、
「478:定義「質在感」について」
の考え方から、

刺激=質感+知能の観測者としての視点からの観測
概感=質感+知能の観測者としての視点からの観測

質感=質在感+事象の脚色情報

であれば、
質在感は、神経細胞ネットワークの励起で生じる。
また、
事象の脚色情報は事象そのものから受け入れて、
神経細胞ネットワークに射影として概形が残る。

という考え方となる。

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この考え方の補完として、
後天的定義が、ある感覚の変化を体験する事で構築される事が、
想起の「きっかけ」を作り出す事に関係するのではないかと考えた。

つまり、刺激の認識ルートでは、先天的に構造は展開されているが、
実際に刺激を体験しない事には刺激は構築されない。

つまり、刺激の体験前に刺激を構築することが出来ない。

この場合、刺激の構築の「きっかけ」は、身体内外の変化を要因として、
それを感覚器官の受容体で受容する必要がある。

これと同様に刺激に限らず、概感を構築して想起する場合、
概感は刺激をきっかけとする場合と、知能系の内部ループとして概感自身をきっかけとする場合があるが、
いずれにしても概感を構築するには「きっかけ」は必要である。

そうであれば、刺激はもともと物理的に「きっかけ」を受け取る機能を持つが、
概感はその概感自体を構築する為の体験ときっかけを必要とする事になる。
そして、この時、体験は後天的定義として新たに神経細胞ネットワークとして構築されるが、
この神経細胞ネットワーク自体を励起する為の「きっかけ」となる「開始点」のようなものが必要になる。

つまり、概感はその構築に際して、刺激か概感を「きっかけ」とする必要があり、
この場合の「きっかけ」や「開始点」のような物理的構造は、
体験による後天的な神経細胞ネットワークとして構築されるという事になる。

つまり、上記のスクリーンの概念であれば、
概感の質感における「事象の脚色情報」の定義は外部から得るものであるが、
これ自体は体験そのものであり、その結果として得られる体験の定義である後天的定義の、
神経細胞ネットワークとして構築される構造が、後天的に得る「スクリーン」という事になるのではないか、
という事になる。

つまり、概感は一度でも体験して後天的定義として定義を神経細胞ネットワークとして構築すれば、
その定義を構成する先天的定義群との間の関連が「スクリーン」の概形となり、
この神経細胞ネットワークから励起される概感は、この「スクリーン」に映った体験時の先天的定義の組み合わせ、
という事になるのではないか、という事になる。

少々分かりづらいかもしれないが、
つまり、

刺激は、
きっかけ:身体内外の変化
用いる構造:先天的定義のみ
用いる物理的構造:先天的に展開された神経細胞ネットワーク
体験:最低1度は必要
知能系の構造変化:初回に事象の体験の射影として「概形」を構築

概感は、
きっかけ:身体内外の変化・または知能系内部の励起ループ
用いる構造:後天的定義→先天的定義
用いる物理的構造:後天的に構築した神経細胞ネットワークー>先天的に展開された神経細胞ネットワーク
体験:最低1度は必要
知能系の構造変化:初回体験時に事象の体験の射影として「概形」を「後天的定義の構造」として構築、また、
概感の想起時には「後天的定義の構造」を再構築する場合あり

こういうことになる。
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2026/2/4

現時点での考え方の限界について:

自然界に何らかの「差」が存在するのは確からしく、
生命の知能がその差を事象として把握できる構造をもっているのも確からしい。

しかし、その「差」を知能は事象として把握できても、
その差が元々その差である理由や、
その差が事象として立ち上がったときの質感が
なぜその質感なのか、という点については、知能の理解は及ばない。

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今回はこの辺で。


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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。