2026/1/28-2026/2/3


定義「質在感」について


質在感(Shitsuzaikan):(造語)

「質感」の構造を表そうとした時に
既存の用語だけでは表せないので、自作した造語。

質感を構成する「在る」という感じだけを対象として存在化したもので、
神経細胞ネットワークの励起におけるエネルギーが「質在感」となり、
質感を構成する要素の1つとなる。

「質在感」を用いて「質感」説明すると
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質感=質在感+事象の脚色情報

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となる。この時、

「在る事」(定義)→質在感(存在)

「事象の差を生む要素の定義」(定義)→事象の脚色情報(存在)

「脚色=差異を意味づける定義の操作」

という事になる。

定義の階層においては、

神経細胞ネットワークの励起(存在)→先天的定義のトポロジカルな配置(定義)→
→質在感(存在)→質感の要素を分ける定義(定義)

であり、二面性においては、

質在感=存在

であるため、定義の二面性の間にあり、
先天的定義のトポロジカルな配置の定義の中に、
「在る事」と「事象の差を生む要素の定義」が定義されていることになり、
「質在感」だけについて言えば、

その二面性は、

定義:(存在):定義

であり、

先天的定義のトポロジカルな配置:(質在感):質感の要素を分ける定義

このようになる。

定義と階層の二面性で言えば、

神経細胞ネットワークの励起(存在)→先天的定義のトポロジカルな配置(定義)→
→質在感(存在)→質感の要素(定義)

この先に在るのは、

質感の要素(定義)→知能が自然界の事象の要素から取り入れた事象(存在)

という事になる。
つまり、限りなく根源的な、知能の構成に用いた自然界の事象を構成する「要素」という事になる。

この「要素」については、再度、改めて定義することにするが、
現時点では、「事象の差を生む要素の定義」の一面を持つ「自然界の事象を構成する要素」としておく。

つまり、上記の「質感=質在感+事象の脚色情報」
という関係式における、「質在感」と「事象の脚色情報」を構成する要素という事になる。

少しだけ先に説明しておくと「自然界の事象を構成する要素」の概念としては、
情報としてなどの分類はできないが、
自然界を構成する事象があれば、その事象をさらに下支えして構成する要素、
という事になる。

例えば、質感の「色の赤さ」があった場合、
この「赤さ」が色という分類や定義をされる前に自然界に在った事象の要素、という事になる。

つまり、
自然界には色や明暗や重さというような情報の区別の概念ではなく、
赤さや青さ、緑、重さ、軽さ、明るい、暗い、痛い、といった、
事象の差を分ける要素だけはあったという考え方になる。
そして、生命の知能はその要素を用いて、要素に対して質感を定義したという考え方になる。

そして、この考え方の場合「質在感」は、その事象の要素が「在る」事に特化した抽象的状態、
という事になる。

そして、この関係を下支えするのが、自然界がエネルギー分布から成り立つという概念と、
そのエネルギー分布から自然界を構成するのが定義の階層と二面性という事になる。

つまり、この場合の要素の区別は、
自然界がエネルギー分布であり、ある事象が存在とした場合、
その存在を区別して差を生じさせる定義で関係づけられるという考えになる。
この場合、自然界はエネルギー分布であり、
・・・存在<->定義<->存在<->定義・・・という入れ子状態で
エネルギー分布のゆがみの様な「差」を生じさせ、
この定義の二面性の間の「差」が境界を持ち「存在」となるという考え方になる。
また、存在の二面性の間にも「差」が境界を持ち、これが「定義」になる。
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以下は「質在感」に至る「気づき」や「考え方」や「思考実験」など。

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2026/1/31

質感において質在感が無い場合どうなるか?

質感=質在感+事象の脚色情報

この関係において「質在感」が無い場合は?という事になる。
この場合であっても質感が成立するのであれば、
質感を感じるための可能性として「事象の脚色情報」が「在る」という意味を内包する場合だが、
この場合は、

事象の脚色情報が、事象は自然界由来という考え方から生じたものなので、
自然界の事象として最初から自然界に「在る」意味が内包されている必要性や可能性が考えられる。

となると、この場合、自然界に事象として「在る」とするためには、
「在る」事自体を観測する存在として、自然界自体が観測している必要性が考えられる。

つまり、この場合、
事象の脚色情報は、自然界由来の事象として何かの分類や区別がされる前の定義という前提で考えてきたのだが、
「在る」なら自然界内でも存在として何らかの区別ができる事になる。

これでは少しおかしい。

仮に脚色情報そのものが「在る」意味を内包する場合や、
「在る」事自体が不要である可能性はあるか?ということになれば、

「最初から在る」のは少し違うのではないか、という答えになる。

つまり、
クオリアの質感などとして主観的に「ある」と「感じられる」には、
主観と異なる存在として、質感が「在る」事自体が条件として必要という事になるのではないか、
という事になる。

そして、この場合、事象の脚色情報として「在る」が区別されるのではなく、
純粋な「在る」事自体の要素もあるのではないか、という事。

つまり、「主観の在る」から「質感の在る」を観測した時に、
2つの「在る」の境界に質感の「在る」という感じが生じるのではないか、という事になる。

つまり、質感が在るように感じられる事自体、その「在る」が成り立つ条件として、
それがどこに位置するのかは明確ではないが、
「在る」が必要である、という事になるのではないか、というわけである。

つまり、質感において質在感が「ない」とは考えづらい。
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質感と刺激の関係:

刺激=変化情報+自己情報(身体性)

を定義の階層で1階層下げた概念で、

質感→刺激

である場合、

質在感→自己情報
事象の脚色情報→変化情報

となるものである。
自己情報(身体性)であるので、
身体性の元になる情報とも言える。
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「質感=質在感+事象の脚色情報」の関係式について:

質在感:「在る」という情報(存在)

事象の脚色情報:先天的定義による質感の情報の脚色(情報として存在)

という事になる。

つまり、質感は質在感と事象の脚色情報の境界に成り立つ定義から抽象的に存在化したものという事になる。

定義の階層で表すと、

神経細胞ネットワークの励起(存在)

何らかの定義

質在感(存在)

何らかの定義→質感→何らかの定義→知能の観測者としての視点

事象の脚色情報(存在)

トポロジカルな配置の構成(定義)

先天的定義のトポロジカルな配置(存在)

そして、質在感の二面性にある「何らかの定義」は、

神経細胞ネットワークの励起を情報に変換する定義:(質在感):事象の脚色情報の定義

こういうことになる。

これを構造として説明すると、
例えば刺激における質在感は、
変化を受容した際の、神経細胞ネットワークの励起全体に対して生じる事になる。
つまり、質在感は質感を構成する際に、意味付けを行う前の「在る」という事に対する、
フレーム的な存在の感覚の定義として生じる「感じ」という事になる。
また、
刺激の感覚としての情報の意味付けは、
この神経細胞ネットワークの励起に対して、
先天的定義の定義のトポロジカルな配置から感覚の情報の意味付けが行われ、
最終的に質感が構築されることになる。

つまり、神経細胞ネットワークの励起が質感の「在る」事に対する情報となり、
色や痛みなどの感覚としての情報の脚色は、先天的定義が行う事になる。

概感における質在感の場合も同様で、
概感の質感を構築する際の神経細胞ネットワークの励起が質在感となる。

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「質在感」の使用例は以下の通り。(ChatGPTを利用)

「神経活動のパターンは意識に質在感として立ち上がる。
ここでいう「質在感」の発生とは、
具体的内容(色や痛みなど)とは独立して、存在そのものが感覚として生じることを指す。」

Neural activation patterns emerge in consciousness as “Shitsuzaikan,”
a sense of quality-in-being.
The emergence of Shitsuzaikan is independent of specific qualitative content.
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2026/2/1

今日の気づき。

今日気づいた内容は以下の関係。
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まず、以下の関係について考えていて、

質感=質在感+事象の脚色情報

この質在感が定義の階層における「存在」であるか「定義」であるか考えていて、
質感が抽象的な情報として「存在」するならば、
二面性において、

定義:(存在):定義

この関係から、質感は、

定義:(質感):定義

こういうことになる。
この場合の質感を構成する各面の定義は、
要するに「質在感」と「事象の脚色情報」を構成要素としているわけだから、
考えようによっては、

質在感の定義:(質感):事象の脚色情報の定義

こういうことになるのではないかと考えた。

という事は、例えば「刺激」が、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)

この「変化情報」と「自己情報」の境界に生じる抽象的な存在であると考えているわけだから、

質感=質在感+事象の脚色情報

この場合の「質感」は、「質在感」と「事象の脚色情報」の存在化したものの境界に生じる、
関係をさらに抽象化して存在化させたもの、なのではないか、
という考えに至った。

つまり、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)

この刺激は確かに「存在」という事になるが、

「変化情報」と「自己情報(身体性)」
この2つの情報の間の関係、つまり「定義」を抽象化した情報として取り出したものなのではないか、
という考えに至る。

つまり、定義を存在化させるには、
定義の階層と二面性の関係において、以下の関係であれば、

(この関係図は、これまでの定義を抽象的な存在として取り出すための関係図を更新した最新の考え方)

存在A

定義X→存在C←定義Y

存在B

存在Aと存在Bの間の関係の「定義X」を存在化させようとした場合、
別の「定義Y」と二面性を持たせる事で、「存在C」という形で存在化させることが出来る。

つまり、刺激であれば、
変化情報と自己情報は、物理的な神経細胞ネットワークの関連を先天的定義として用いて情報化するが、
この意味付け自体は、先天的定義のトポロジカルな配置の幾何的な位置情報を用いるので、

変化情報

境界の定義→刺激←先天的定義のトポロジカルな配置

自己情報(身体性)

変化情報と自己情報の境界の関係(定義)を存在化させたものが「刺激」になるという考え方になる。

そして、これを質感の関係式に適用すると、

質感=質在感+事象の脚色情報

この「質在感」と「事象の脚色情報」は抽象的な「存在」であり、
質在感が「在る」事に対する情報であれば、
質在感は質感を構成する抽象的な「存在」ではないかと考えた。

つまり、「在る」事ではあるのだが、実際に見えたり形になっているものではなく、
意識同様に抽象的な情報のような「存在」なのではないか、という事である。

また、「事象の脚色情報」についても抽象的な「存在」であり、
質感を構成する意味付けなのだが、実際に見えたり形になっているものではなく、
質在感や意識同様に抽象的な「存在」なのではないか、という事になる。

そして、定義を存在化させる関係に当てはめると、

質在感

境界の定義→質感←何らかの定義

事象の脚色情報

という事になる。
ここで、刺激においては「何らかの定義」に対応するのは、
「先天的定義のトポロジカルな配置」であった。
これは、刺激にとっては、刺激の直接的な意味付けであるのだが、
この定義の起源は、自然界の事象の定義である。

つまり、まだ仮説だが、この自然界の事象の定義は、自然界そのものを構成する定義でもあり、
自然界には「赤さ」のような色とも何とも区別できない定義だけはあり、
これを生命が知能において「赤さ」として用いているという考えである。

そして、この場合の「先天的定義のトポロジカルな配置」は、
この自然界の事象の定義を、脳にトポロジカルな配置として置き、
この幾何的な位置を定義として情報の意味付けに用いているという考え方になる。

(ただし、なぜ、自然界の事象の定義が、この定義や配置であるのかは現時点では分からない。)

そして、これを質感の定義の階層の関係に当てはめると、
「何らかの定義」に相当するのは、質感を質感たらしめる自然界の事象の定義として、
何かを「感じる」ための定義があるのではないか、という事になる。
つまり、刺激を感じる事を事象とする「定義」があるのではないか、という事になる。

つまり、刺激より定義の階層が一段下がり、より抽象的な刺激のさらに抽象的な存在として、
質感が存在する事になるが、

つまり、

事象の脚色情報

境界の定義→質感←刺激を感じるという事象の定義

質在感

であり、質感が刺激の抽象化した存在であれば、
変化情報の抽象化した存在は「事象の脚色情報」、
自己情報の抽象化した存在は「質在感」、
「先天的定義のトポロジカルな配置」の抽象化した定義は「刺激を感じるという事象の定義」
という事になるのではないか、という事になる。

つまり、「先天的定義のトポロジカルな配置」というのは、元は自然界の事象の定義であり、
実際に脳内にそのような定義のまま幾何的配置になっているという事になるが、
これを抽象的に取り出した場合、「刺激を感じるという事象の定義」ということになるから、
これは、刺激そのものが変化情報と自己情報の関係を抽象的に存在化させたものと考えると、
これは、刺激の意味付けの定義として用いている定義という事になり、
変化情報と自己情報の境界の定義というのは、刺激が存在するための定義という事になる。

つまり、

事象の脚色情報

境界の定義→質感←刺激を感じるという事象の定義

質在感

これは、

事象の脚色情報

境界の定義→質感←質感の定義の配置の定義

質在感

こういうことになるのではないか、という事になる。
現時点では、「質感の定義の位置の定義」これがどこを指すものであるか、
どのような定義であるのかは分からないが、
質感が何かということの定義を、何らかの配置を用いて定義されているのではないか、
と考えられる事になる。

つまり、刺激の抽象的な存在を質感として考えた場合、
この質感を抽象的に定義する「定義」ということなので、
これは刺激を抽象化して、さらに抽象化した定義という事になる。

ただ、この考えであると、刺激を抽象化した存在が「質感」であれば、
当然、概感を抽象化した存在も「質感」として考えられる事になる。

これは、刺激が先天的定義から構成され、概感が後天的定義を用いたものであると考えれば、
後天的定義は、先天的定義を関連付けた定義であるので、
概念として言えば、「概感=後天的定義+刺激」という事になる。
つまり、概感もその要素として「質感」をそのまま用いることが出来るという事になる。

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2026/2/2

今日の気づきから。

昨日は刺激と質感を別物として考え、その構成や、定義と存在について考えていたが、
なかなか分離してその構成を定義するまでには至らなかった。
そして、刺激と質感が別物として分けづらい理由を考えていて気づいたのは、
刺激と質感の構成が似ていて、分けて考えると何か少し違和感を感じるという事だった。

そこで、では、仮に刺激と質感が何か共通する要素を持つのではないかと考えるとどうなるか、
考えてみた所、以下のような関係に行き着いた。

刺激が

刺激=変化情報+自己情報(身体性)

この構成で、変化情報と自己情報が先天的定義から構築される存在であるとすれば、

質感=質在感+事象の脚色情報

この「質在感+事象の脚色情報」も、先天的定義の何かから構築される存在では無いかと考えた。

そして、刺激の認識という観点から、質感と刺激を見比べた場合の違いについて考えると、

「変化情報と事象の脚色情報」と「自己情報と質在感」が、
非常に似ている感じがした。

これの関係を考えてみると、
刺激を認識した時に、その質感を感じるわけだから、

「質感→刺激」という方向性の変化があるのではないかと考え、
刺激の認識という観点で何があれば質感を刺激として認識できるかというと、
「認識」それ自体は、刺激を知能の観測者としての視点から観測することであるから、
「質感→刺激」というのは、「知能の観測者としての視点」が関係しているのではないかと考えた。

つまり、以下の関係が成り立つのではないかと気づいた。

刺激=質感+知能の観測者としての視点からの観測

つまり、質感は主観から観測される前の情報で、
質感を主観が観測すると、この質感が、主観にとっての刺激になるのではないか、
という事である。

つまり、質感という「感じ」だけがあっても良いが、
このままでは帰属する主観が無いという事になる。
つまり、何か質感があると感じられるが、自分で感じているかは分からないという状態になる。

そして、これは概感についても当てはまり、

概感=質感+知能の観測者としての視点からの観測

から、「概感→想起」に至るのではないか、という事になる。

この場合、
刺激は変化を実体の身体から得た情報として構築する場合であり、
概感は変化を身体内から得た情報として構築する場合に分けられる事になる。

また、この場合、
刺激は先天的定義だけを用いて構築する情報であり、
概感は後天的定義+先天的定義を用いて構築する情報である事。

ただし、その構成は「質感+知能の観測者としての視点からの観測」という事になる。

そして、この場合考えられるのが、

質感には2種類あり、
実体の身体の変化として受け取る変化に対する質感と、
体験や経験を記憶した変化を再現する場合の変化の質感があるという事になる。

つまり、

刺激=質感+知能の観測者としての視点からの観測
概感=質感+知能の観測者としての視点からの観測

ではあるが、この2つの質感の構成は少し異なる事になる。

ここまでに、

質感=質在感+事象の脚色情報

として考えてきて、刺激と概感における質感に違いがあるとすれば、
このどちらかに違いがあるという事になる。

ここで、そのそれぞれの由来を考えてみると、
分かりやすいのは「質在感」で、
これは、元は自然界の事象の定義という由来が「ある」と考えてきたので、
「ある」か「ないか」だけなら刺激でも概感でもそれほど違いがあるとは考えにくい。
さらに、これらはどちらも先天的定義に含まれるので、
自然界の事象の定義として後天的定義で定義されることは無い。

であれば、「事象の脚色情報」に何か違いがあるのではないか?という事になる。

質在感は、神経細胞ネットワークの励起が元であると考えたが、
刺激であっても概感であってもその構築は神経細胞ネットワークの励起である事には違いが無い、
では、何が違うのかというと「後天的定義」を使うかどうか、という事になる。

刺激も概感も、その構築において「先天的定義」を用いる事は共通しているが、
明らかに異なるのは概感が「後天的定義」を用いる事である。

つまり、
刺激における質在感は、刺激における質感が「ある」という感覚という事になり、
概感における質在感も、概感における質感が「ある」という感覚という事になるが、
この「ある」という感覚自体にそれほど違いは無い、という事になる。

しかし、
刺激における事象の脚色情報は、刺激における変化情報がどのようなものかという「感じ」という事になり、
概感における事象の脚色情報は、概感における変化情報がどのようなものかという「感じ」という事になるが、
この「感じ」という感覚に何か違いがあるのではないか、という事になる。

そして、「刺激の認識」と「概感の想起」、という観点で考え、
実際に自分の感覚でこの感じを説明すると、
刺激の質感の事象の脚色情報は、「実体が質感を「感覚の感じ」と感じている」ように感じられ、
概感の想起の事象の脚色情報は、「仮想的な質感を「感覚の感じ」と感じている」ような感じがする。

つまり、より現実的に実体があり、この実体が感じるように質感を感じるか、
仮想的な実体があり、この仮想体が感じるように質感を感じるかという違いがある、という事になる。

つまり、どちらも「ある」という感じはするが、
少なくとも実際に質感に違いがある様にも感じる。

私の思考実験の「感じ」の結果だけであるので、
この「事象の脚色情報」が明確に「違う」とは言えないが、
その構成を考えると、まったく「同じ」とも言えないと考えられる。

そして、さらにここから分かるのは、
「質在感」が「ある」という意味付けを行うものであり、
これについては刺激も概感も同じであるとすれば、
「事象の脚色情報」の先天的定義と後天的定義の違いについて考えると、
後天的定義から構築される情報の元になる神経細胞ネットワークは、
「自然界由来の事象の定義ではない」という違いがある。

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そして、この違いを生じさせる存在についてだが、

つまり、体験や経験は、生命の個体がその瞬間にだけ得る定義であり、非再現性を持つ。

しかし、概感としては再現性をもっているように感じられるが、
実際は概感の自己情報である自構性(自己モデル)は常に変化して同じにはならず、
概感も非再現性を持つ。

そして、先天的定義について言えば、基本的に先天的に生命の構造として展開されている定義なので、
後天的には変化しないので、同じ変化の入力であれば同じ刺激が構築されるという事になるが、
実際は、知能系の構造はその連続性において同じ構造にはならないという事。

この説明は「477:変化と構造から生じる目的と意志」を参照して欲しいが、

つまり、何が言いたいかというと、
厳密に言えば、知能の観測者としての視点は、実体の構造が常に変化する為、

刺激も概感も仮にまったく同じ変化の入力であったとしても、
同じ質感や刺激、概感にはならないという事である。

つまり、「質在感」も「事象の脚色情報」も同じであっても、
刺激や概感が異なるのではないか、という事。

つまり、
「知能の観測者としての視点」としてであり「知能の観測者としての視点からの観測」においては、
この観測には対象に「違い」が生じる(意味合い的には違いが付加され続ける)という事、
つまり、その観測対象には連続性はあるが再現性が無い、という事である。

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この場合の感覚の視覚と色における、質在感と脚色情報の励起の順序は?

実際、錐体細胞は目に配置されているわけだから、入力時点で色の励起は分かれることになるが、
刺激として再構築される場合に先天的定義を使うとなれば、
何か順序があるのではないかと考えた。

調べた範囲では、神経細胞ネットワークとして、
先天的定義がトポロジカルに配置されているとして考えた場合に、
励起の順は基本的に明確な順序はなく、全体として励起されるに過ぎない、
ということらしい。

つまり、目で色を見た時、この視覚の画像が「ある」感じと、
画像の中の「色」の感じに、明確な順序はないらしい。

つまり、「色が画像に配置される」か「画像に色が塗られる」か、
という明確な順序は無いか分からないらしい。

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前回「477:変化と構造から生じる目的と意志」の内容を加味して考えると、

刺激の認識活動のどこかの時点で目的や意志が知能系によって把握される、という事になる。

つまり、刺激が構築された時点では、意味付けによって反応を呼び起こす向かうべき力だけはあるが、
方向性は定まっていない状態で、
認識の機能工程のどこかの時点で反応を含む向きが加わり、知能系によって把握され、
目的や意志という形で方向性が定まり、知能によって利用可能になるという事になる。

つまり、質感を観測した時点ではまだ、向かうべき力だけがある。
そして、刺激を知能の観測者としての視点から再観測した時点で、

つまり、事象再生の場で刺激を再構築した時、
目的や意志となって知能系が扱える状態になる。

刺激の認識についてはこれまでの考えがあり、
刺激を知能内の事象再生の場という仮想空間で、
刺激の場合は変化情報と自己情報を存在する情報として構築した場合に認識に至るという事になる。

この場合、最初の知能の観測者としての視点からの観測は、刺激の観測であり、
再観測は事象再生の場における刺激の観測という事になる。

つまり、目的・意志とは何か?という事であれば、

事象再生の場において、
刺激が再観測された結果として生じる方向性を持った把握状態、
なのではないかという事になる。

つまり、質在感は
事象再生の場において
事象が「在る」と感じられるための基底の要素であり、

最初の第1段階の刺激の構築においては

質在感は「刺激がある」という感覚

次の第2段階の事象再生の場においては、

質在感は「仮想的ではあるが実際に事象がある」という感覚

の元になっているという考え方になる。

さらに言えば、事象再生の場は、
刺激の認識と、概感の想起は別レイヤとして構成されていると考えているので、

レイヤ間の関係は、例えば実際に視覚で風景が見えながらも概感が想起できるので、
ベースは刺激の認識で、概感の想起はオーバーラップできるという考えになる。
ただし、刺激の認識を意識、概感の想起を意識する場合の意識の連続性においては、
刺激と概感は背反的に対象になるという考え方なので、
どちらも同時に意識することはできないという考え方になる。

つまり、観測者の視点としては、
質在感は刺激と概感で同時に存在できない。

つまり、刺激と概感は構築の処理としては重なり合うことができるが、
意識という観測においては背反的で、
意識の連続性においては同時に対象化されない。

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最後のまとめ:

今回はクオリアの質感に迫るための「質在感」という造語を定義した事になる。
合わせて「事象の脚色情報」も重要な感じはするが、
これについては後程考えてみる事とする。

今回はこの辺で。


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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。