2026/1/25-2026/1/26


変化と構造から生じる目的と意志


前回もっともらしさについて考えていたが、
そのもっともらしさによって、何か概感が選択される場合、
構造的な励起のルートは何となく出来上がったが、
この選択の基準のようなものが何か良く分からなかった。

つまり、励起はネットワークとして起こるわけだから、
単に1つの概感ができあがるだけではなく、
同時に他の概感ができようとする事もあり得るという事になる。

ここで、前回は自己情報がその影響により、
優先する概感を比較候補の中から順位を押し上げる機能を持つと考えたが、
その候補を選定する構造がまだ分からないという事になる。

恐らくこれは「意識的」とか「意図的」「意志・自由意志」「注意」などにも関わる事で、
最終的には、「目的」や「創造」まで関わる基準になるのではないかと今は考えている。

今回はその基底の構造について考えてみる。

まず、最近意外に答えにたどり着きやすい考え方として、
この働きの物理現象としての構造について考えてみる。

実際の脳部位の活動に照らし合わせて調べてみた所、
完全に正確ではないかもしれないが以下のような事になっているらしい。
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ある目的に対して「意図」を持つ場合、
運動と思考の共通する脳部位としては、
前頭前野(前帯状皮質(ACC)も関係)が共通するということになるらしい。

恐らく神経細胞ネットワークとしては、
前頭前野の励起は維持されるというより周期的になると考えられるが、
その前頭前野を周期的に励起する起点について調べると、

「前頭前野・基底核・視床」の関係性が起点となるらしい、という事だった。

これらで、ループやフィードバックループが起こるらしい。

基底核は割と重要で前頭前野や視床からの調停役のようなものらしい。

物理的に周期の起点で言えば視床であり、他で周期の調整をしている感じになるらしい。

関係性としては、

視床

前頭前野

基底核

前帯状皮質(ACC)

脳幹

こんな感じらしい。

脳幹が生命維持や先天的な本能に関する部位であれば、
間脳に位置する視床などは、後天的な定義を保存する大脳皮質の中間にあり、
そのどちらをも制御する中継役のようなものらしい。

つまり、本能的な脳幹と、経験的な皮質の調停を行う、のが間脳(視床)のような感じになる。

大筋で言えば、機能の物理的配置として、
身体表面→脳幹→間脳→皮質であり、
そのまま情報や運動の扱いで言えば、
身体→運動→制御→記憶のような流れになると考えられる。

ただし実際は機能の働きは一方向ではなく、双方向であったり、ループ(循環)したりもするという事らしい。

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そして、ここから何を考えるのか?何が分かるのか?という事になるが、

今考えたい点は、意図の目的が含まれていなかったとしても、
その意図や目的が生じる最初の起点という事になる。
恐らく物理的な脳のどこかであると考えているので、それが知りたいということになる。

と、ここまで考えると、
知能が何か行動や思索をする意図や目的が生じるきっかけについて考えると、
変化への対応が思いつく。

つまり、意志や目的になる前のきっかけを生じさせる起点は、
変化についての受容、つまり刺激やホルモンなどの受容による励起になるのではないか、
という事が思いつく。

つまり、意志や目的は「最初からあるもの」ではなく、
身体や脳内の物理的な活動に対する後付けの情報なのではないかという事になる。

つまり、意志や目的が出来上がる直前の機能としての構造について考えたという事である。

つまり、生体としての知能の構造は、
生体の変化に対して物理的に生じるホルモンがトリガーとなり、
知能全体をその対応の目的や行動に結びつけて反応・活動させる、ということになる。

そして、ホルモン以外の何かのきっかけの汎用的な存在について考えると、
トリガーを引くきっかけであるわけだから、
何らかの変化が必要という事になる。

つまり、物理的なトリガーは身体における状態変化であり、
それをきっかけとして伝えるのがホルモン、
この時点では別に目的があるわけではないが、
今度はこのホルモンの受容に対して知能系が働き、
ホルモンを情報的に解釈し、
その情報に対して反応する目的が知能系の構造から抽象的な情報として構築される、
結果、知能系の構造は、目的に即して活動している様に見え始め、
最終的に反応として実際の運動や想像や思考などが、
目的を持ってい行われている様に見える、ということになる。

つまり、生命や知能系として見ると、
客観的にも、その活動を主観的に観察するにしても、
その反応自体を観測した時点で目的を持っている様に見えているだけで、
実際は生命や知能系の構造から現れているトリガーとその反応に過ぎないということになる。

ということは、
仮に知能系でループやフィードバックループが起こった時に、
意識的、自由意志的に、自分が何かを目的を持って行っているように感じる。
ただし、その構造はまだ判明していないが、
何らかの知能系の構造から、この目的であるような、
恐らく抽象的な情報が生じていると考えられる、ということになる。

そして、ここでピンとくるのが、「抽象的な情報」という点である。

抽象的な情報は、定義の存在化させたものであると考えられるので、
ということは、目的に行き着くまでの間の定義、
つまり、身体の変化に対してホルモンが分泌されるとか、
そのホルモンによって知能系が構造的に働くとか、
その働きによって、目的をもっているように反応を起こす、
という定義は、ここにおいて「目的」や「意志」に繋がるのではないかという事になる。

つまり、変化に対するホルモンや知能系の働きに対して、
この定義を抽象的に情報として知能の観測者としての視点から観測する事、
これが、知能系にとっての「目的」や「意志」になっているのではないか、
という事になる。
実質的には、刺激の場合と概感の場合があり、
つまり身体外の変化と、身体内の変化が起点となるので、開始は2系統ある事になるが、
内部の知能系では最終的に同じ構造に行き着き、
この入力に対する反応を「目的を持っている様に」処理し、反応をするという事になる。

実際、意志や目的が実体が無いが指し示す事の出来る対象であると考えると、
抽象的な情報というのはしっくりくる。
この考え方からすると、恐らく自主的な運動や思索のような活動は、
運動したい、思索したい目的ありきで活動しているわけではなく、
その運動したい、思索したい、という身体の衝動が元になって、
知能系で目的に加工され、観測されることになるのではないか、ということになる。

ちなみに、人間の知能において、何かを思索したくなるという可能性のあるホルモンはあるか調べると、
ドーパミン・ノルアドレナリン・セロトニン等が該当するらしい。

つまり、思索したいという行動について言えば、

身体の状態(今回は身体内) → ホルモン → 知能系ループ → 抽象的な情報の目的 → 思索行動

逆に考えて、仮にホルモン無しで、知能系が独自に行動や思索をする必要性が生じる可能性はあるか調べると、
思索のような場合の内部ループについては常にきっかけが必要ではないという事だった。

つまり、恐らく内部ループは独自起動ではなく、
起動後にホルモンの有無の条件が不要になるという事になる。

つまり、思考や創造、思索については、既に目的が成立した後の内部ループという事になる。

ということは、これまでの内容をまとめると、
生命の知能にとっては、身体内外の何らかの変化がトリガーであり、
そのトリガーに対して知能系が対応する反応として行動か思索を行い、
この過程を測定すると、その構造として抽象的な情報として目的が含まれている、
ということになる。

目的という点から、逆に見れば、
生命とその知能系が、ある変化に対して反応を行わなくてはならない構造になっていて、
その「反応を行わなくてはならない」理由が「目的」として見える、ということになる。

ただし、知能が主観的にこれを観察すると、自分が目的を持って変化に対して反応を行っているように見える。

つまり、

身体内外の変化・トリガー

知能系の活動

(ループやフィードバックループ)

知能の観測者としての視点による観測

その構造の活動自体に対する抽象的情報(=目的)

意識・主観的体験

という感じになる。

現時点での「意志」「目的」の構造や定義はこういうことになる。

つまり、
客観的に見れば、単なる反応であるが、
内部から観測する事により主観的には目的を持った行動として把握される、という事になる。

要するに構造としてある知能系を起動、活動させると、
結果的にそれが目的を持って活動しているように見えるという事。

これを知能の観測者としての視点から観測すれば、
主観的な意志や目的として把握される、という事になる。

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例えば、この構造からAIに目的の概念を適用することを考えると、
AIには仮であっても先天的な反応の構造を先に与える必要があるが、
その構造が機能し始めた後は、AIは自分で目的を持って活動しているような状態になる、
ということになる。

また、例えば自由意志という観点で言えば、
知能系が目的を新規に構成できるかどうかになると考えられる。
つまり、この場合、目的は知能系が独自に新規に構成するわけではなく、
周囲又は自身の新たな変化に対して、
既存の先天的に持つ反応を組み合わせた形で構成することになると考えられる。
つまり、最初から新たな反応を作り出す事ではなく、新たな変化に対する新たな反応を作ることが出来るなら、
それが「自由意志」という事になる。

つまり、自己の自由な選択の部分についてまで考えれば、

変化

先天的・後天的な反応の構造
↓(新規の場合)
新たな反応の構造の構築

構造による選択
↑(観測)
知能の観測者としての視点から観測

主観的な選択

という事になる。

この場合の「構造による選択」は、
構造としての定義の組み合わせは、
その組み合わせを行う時点で決まるもので、
最初から決まっているわけではないという事になる。

これが「自由」である事の定義ということになる。

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そういうことであれば、ある選択における責任などについて考えると、
では責任はどの対象について発生するのか?という事について言えば、
究極的には、責任者の置かれた環境と責任者の先天的な構造、
生命で言えば遺伝子パターンということになる。
ただ、これでは身も蓋も無いので、
結局、その責任が生じる時点で、
その責任者が当事者となった事について責任を問うしかないということになる。

つまり、ある事象としての現場は、
そうならなかった可能性も否定はできないし、
そうなる必然性があったとも言えない事になる。

他に、自由の感覚と不自由・束縛の感覚などについて考えると、
例えば自分から見て他人が自由、不自由と見えるのは、
目的を持つ知能系が把握できる定義量によるものだという事になる。
つまり、例えば他人の自由さ、不自由さについて見て考える時、
自分から他人は客観的に見ることになり、
対象が持つ定義はその対象自身の定義を参考にしても全体が把握できない。
当然全容が見えない=境界による範囲が分からないので観測者より多いか少なく見える。
逆に観測者自身の定義はある程度見ることが出来るので全容が見える=限られているように感じる、
ということになる。
この場合、自分と他人を比較して、
他人の定義が多く見えれば自分から見て他人は自分より自由であるように見え、
逆に他人の定義を自分より限定的に見れば、他人が不自由・窮屈な人生を歩んでいる様にも見えるということにもなる。
これは、自分自身を客観的に見た場合でも同じ様に見ることが出来る。

また、生物的に自由意志があるように感じられることについての意味、
生命の進化的意味や必然性などについて考えると、
これは恐らく後天的に、新たな変化に対応する事が進化において有利であったという結果、
今のような知能になったということになる。
つまり、自由意志はこの場合は結果の観測に過ぎないので、
進化の過程がそういうことであったとしか考えられず、
仮に理由を考えるのであれば、
生命や知能の進化の過程で得てきた定義の分類をすれば、
その生命や知能が意図としてきた構造や定義が分かるという事になる。
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今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。