2026/1/16-2026/1/24


「もっともらしさ」の構造


現時点で主だった課題は、
先天的定義の構成と、もっともらしさの定義だと考えていたが、
先天的定義の定義の配置が、実際の脳の各野の配置と関連付けられるとすれば、
幾何的でトポロジカルな配置が可能になるという方針が出来たので、
であれば、まだ明確に理解できていない「もっともらしさ」について考えようという事になった。

これまで「もっともらしさ」は、定義の階層と二面性理論できっちりと定義してこなかったと思うので、
現時点で分かる範囲で分析してできるだけ詳細に定義してみる事にする。

まず、
「もっともらしさ」は、何か対象として指し示すことが出来ないので、
「存在」では無く「定義」であると考えられる。

であれば、定義の階層では、

存在→定義→存在

であり、二面性で表せば、

存在:(定義):存在

であるので、「もっともらしさ」は、

存在A:(もっともらしさ):存在B

という事になる。

つまり、「もっともらしさ」は、何らかの2つの存在の間にあって、
それらの存在の境界にある何らかの関係を表し、
上記の場合、存在Aから存在Bに変換する定義であり、かつ、
存在Aのある一面と、存在Bのある一面の境界にある抽象的な定義という事になる。

つまり、「ある関係性がもっともらしさ」という事になる。
もう少し言えば、「ある関係性の定義としてもっともらしさがある」という事になる。
さらに言えば、

「ある2つの存在の間にある共通する要素があり、この要素に対する各存在の面の境界に、
もっともらしさの定義がある」

という事になる。

先に「もっともらしさ」を表すための一面の存在Bは、
ある程度予想はついていて、これは「概感」か「意識」であろうと考えられる。
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後述するが、実際に刺激の場合、受容した変化に対して特定の刺激が構築されるのは、
「もっともらしい」というよりも「当然」である。
例えば、

強い衝撃を受ける→痛みを感じる

これは「もっともらしい」とも言えるが、
「当然」や「当たり前」の事である。
厳密に対象を「もっともらしさ」とした場合は、
「もっともらしさ」は刺激ではなく概感における関係性であるという考えになる。

最終的には概感における「もっともらしさ」があるように、
刺激の場合は暗黙の「当然」「当たり前」という関係があると分かるが、
それについては後で述べるので以下の考察に続いてほしい。
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つまり、「もっともらしさ」を感じる時、この変化は、
刺激として身体性で感じられるものではなく、
「もっともらしい」という後天的な定義が必要であろうという事。
つまり、「もっともらしさ」は、刺激の認識として体感するものではなく、
概感の想起として想像するものである、という事である。
つまり、抽象的な何かとして意識される、という事になる。

であれば、「もっともらしさ」が含まれるのは、
存在Bは存在であるので、この対象は想起に関連するわけなので、
「概感」か「意識」であり、この場合の「意識」は、
概感を想起した場合の意識という事になる。

つまり、「もっともらしさ」は、以下のどちらか、

存在A:(もっともらしさ):概感
存在A:(もっともらしさ):概感を想起した意識

という事になる。

ここで、概感か概感を想起した意識かをはっきりさせるには、
存在Aが何か?という答えが必要になる。

仮に、「もっともらしさ」の一面が概感であると考えると、
存在Aは、もっともらしくなる前の何かであるので、
概感としての想起対象であるなら、
それは刺激を認識して意識し、それを体験や経験として記憶したものと考えられる。

つまり、もっともらしくなる前の刺激の体験の記憶という事になる。
つまり、それがもっともらしいかどうかは別として、
もっともらしいと定義される前の体験の記憶という事になる。

そして、この体験の記憶というのは、そのまま後天的に定義されたものであるので、
この定義から存在化したものであると考えると、
後天的定義から存在化するのは概感であるので、

この場合、概感→定義→概感という事になり、
つまり、存在Bが概感である場合、存在Aも概感であり、
つまり、存在Aの概感を「もっともらしい」という定義で変換して、
「もっともらしい概感」としたものが存在Bという事になる。

そして、この「もっともらしい概感」を想起して意識して、
この想起した存在について「もっともらしい」関係性を意識しようとする事ができるという事になる。

ただし、存在Bが存在Aのもっともらしい変換後の存在、

存在B=もっともらしい変換(存在A)

という事ではなく、存在Aと存在Bの関係性として、
「もっともらしさ」の定義で関連すると考えられる。

つまり、あくまで二面性として、

存在A:(もっともらしさ):存在B

こういう関係性であるという事になる。
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会津磐梯山の民謡の小原庄助さんの例で言えば、
存在Aは、朝寝朝酒朝湯が大好き
存在Bは、身上潰した
関係性が「もっともだ」
という事になる。
ただし、もっともらしさ変換(朝寝朝酒朝湯が大好き)が、身上潰すとは限らない。
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では、今度は「もっともらしさ」の一面が概感を想起した意識であると考えると、
存在Aは、もっともらしいと意識する前の何かであるので、
存在Bとは異なる何らかの意識という事になる。
つまり、刺激を認識した意識か、別の概感を想起した意識のどちらかとなる。

ここで、刺激は直接「もっともらしい」と感じる事ができないと上記でも書いたので、
存在Aは、存在Bとは異なる別の概感を想起した意識という事になる。

つまり、この場合の「もっともらしさ」の二面性は、

概感Aの想起した意識:(もっともらしさ):概感Bの想起した意識

という事になるが、この場合、
概感Aを想起して意識した後で、概感Bを想起して意識した時に、
「もっともらしい」と感じるわけなので、
もっともらしさが存在の変換の定義であれば、

概感A→もっともらしさ→概感B

という事なので、概感Aにもっともらしさの関係性を足したものが概感Bになる、
という事になる。
つまり、この場合は、概感Aを元にして、もっともらしさの定義を加えたものが、
概感Bとの関係となり、これを連続性をもって意識された場合の構成という事になる。

では、どちらが「もっともらしい」のか?
という事になるが、

基本的に概感は想起して意識され、
定義の階層としては、

概感(存在)→想起(定義)→意識(存在)

であるので、
定義の階層としては「もっともらしさ」の上の階層で「もっともらしく」なるか、
下の階層で「もっともらしく」なるかの違いという事になる。

つまり、
概感A(存在)→「もっともらしさ」(定義)→概感B(存在)
か、
概感Aの意識(存在)→「もっともらしさ」(定義)→概感Bの意識(存在)
このどちらかになる。

では、改めて「もっともらしい」と感じる場合を思い出すと、
概感をもっともらしさの関係性で繋ぐ方が、もっともらしいのではないかと考えられる。

つまり、意識の場合でも、その過程で定義を操作するのであれば、
「概感A→もっともらしさ→概感B」である必要はあるが、
概感Aを想起して意識した後で、もっともらしい概感Bを想起して意識した場合、
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会津磐梯山の民謡の小原庄助さんの例で言えば、
存在Aは、朝寝朝酒朝湯が大好き
存在Bは、もっともな事だが身上潰した
関係性が「もっともだ」と言えるか?
既に「もっともらしさ」は現れている。
という事になる。
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考えようによっては、ある概感を意識してから、
改めてその概感を想起しなおして2つの概感の関係性として、
「もっともらしいか」どうか考える事もできるが、
これは、今目的としている直接的な「もっともらしさ」ではなく、
存在化して意識した後の関係を「もっともらしいか」どうか考えることになる。
つまり、この場合は、ある関係性の「もっともらしさ」が、
「もっともらしいか」考えている事になる。

必要なのは、概感Aから概感Bが、その関係性において励起される場合に、
その関係性を後から取り出した時に「もっともらしさ」になるわけなので、
意識した後の概感Aと概感Bの関係性では、やはり異なる関係性となっている事になる。

つまり、概感Aを想起して意識して、概感Bを想起して意識して、
改めて、この思い出した概感Bがもっともらしいと変化するわけではなく、
知能にとっては「もっともらしい」から概感Bが次の想起対象になったわけであり、

恐らく、

概感A(存在)→「もっともらしさ」(定義)→概感B(存在)

こちらが直接的な「もっともらしさ」であり、
二面性であれば、

概感A:(もっともらしさ):概感B

が正しいのではないかと考えられる。

つまり、概感Aをきっかけとして概感Bが構築される「もっともらしさ」は、
既に概感Aと概感Bの関係性として定義されていて、
そして、その関係性は、表現が難しいが、
その関連が連続する事はもっともらしいのだが、
「もっともらしさ」という感覚として定義されているわけではなく、
抽象的に存在として定義すると「もっともらしい」存在として取り出しうる、という事になる。

ある意識した想起対象の概感を、実際の感覚として「もっともらしい」と感じる際、
明示的に「もっともらしい」と感じなくとも、
本来は「もっともらしい」から、その概感を想起しているはずなので、
あくまで、その想起した概感を「もっともらしい」と感じる場合、
「もっともらしい」概感を想起しなおして「もっともらしい」概感として想起している事になる。

つまり、概感を「もっともらしい」定義の関係性で、想起しなおしている事になる。

では、この場合の「もっともらしい」定義はどこにあるかという事になると、
これは、今は直感だが、概感の自己情報、つまり、自構性(自己モデル)から定義が関連していると考えられる。

つまり、刺激を体験や経験として記憶して、これが後天的定義となるが、
この時点で定義される後天的定義は、
その元の刺激が、もっともらしいから刺激として認識したわけではないが、
結果的に、自分にとって認識して意識した刺激である事になる。

つまり、刺激にはもっともらしさの定義は無いが、
結果的に体験した刺激は、「自分にとって」、もっともらしい刺激であった、という事になる。
この「自分にとって」という所が肝心で、
刺激では自己情報は身体性であり、自分(私・自己)の定義にはならないが、
後天的定義として記憶された場合、これを概感として構築する場合、
この概感の自己情報は、自構性(自己モデル)として構築される、
身体性への後天的な定義になるので、
つまり、概感においては、体験した刺激の記憶は、
「自分にとって」もっともらしい刺激であった事を概感として構築した想起という事になる。

つまり、概感の想起では、その概感が想起されるのは「自分にとって」もっともらしいからであり、
直接の想起した概感自体について「もっともらしい」とは感じないが、
「もっともらしさ」は元々含まれているという事になる。

ただし、明示的に「もっともらしい」「もっともらしかった」と感じる場合、
この「もっともらしさ」は、明示的に定義から抽象的な情報として取り出し、
「抽象的なもっともらしい情報」として存在化させて感じるという事になる。

つまり、定義を意識するには、以下の様に、

存在

定義→存在→定義

存在

この様に定義を定義しなおして抽象的な存在とする必要があるので、

概感A

もっともらしさの定義→「もっともらしい」感覚の存在→自分にとってのもっともらしさの定義

概感B

つまり、概感は「もっともらしい」から想起され、
その「もっともらしさ」を感じる場合は、
この「もっともらしさ」を、
知能が持つ客観的な自分にとっての「もっともらしさ」の定義を足して定義しなおしている、
という事になる。

つまり、概感はもっともらしいから概感となり想起されるが、
何かの概感を連続して想起しても「もっともらしい」と意識して感じる事は無い。
しかし、この想起した概感が「もっともらしかったか?」と思い直した時は、
確かに「自分にとって」もっともらしいから想起した概感であると感じることが出来る、
という事である。

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2026/1/17

今日の気づき。
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何らかの概感を想起する場合、
この概感を選ぶ際に、
「静的な選択」と「動的な選択」があるのではないかという事。

これは、自動的に思いついたように何かが想起される場合が「静的な選択」で、
この場合の概感が「静的な概感」となり、
自由意志があるかのように意識的に何かを想起しようとする場合が、「動的な選択」で、
この場合の概感が「動的な概感」となる。

つまり、「静的な選択」の場合は、「静的な概感」、
「動的な選択」の場合は、「動的な概感」が構築されるのではないかという事、

この「静的な概感」と「動的な概感」の違いは、
ある事象の体験の記憶を経験(後天的定義)として既に持っていて、
これを概感として構築する場合、
既に想起する事が決まっている概感を半自動的に「静的な選択」として選ばれた場合の概感が、
「静的な概感」となり、
想起する概感としての事象の定義が、半自動的に決まらない、
つまり、後天的定義として明確な定義をまだ持っていない場合に、
概感を構築する為の定義の組み合わせが、
動的に行われ、この定義で概感を構築した場合、この定義による概感が「動的な概感」となる。、

「静的な選択」と「動的な選択」では、
もっともらしさは、想起対象の概感に対して感じるが、
この概感の構築は、「静的な選択」の場合に限られるという事。
そして、「動的な選択」により「動的な概感」が構築された場合に、
自分が選択したという感じがするのではないかという事。

上記の動的な定義の構成は、
ある状況や状態に置かれた場合に、この状況や状態の刺激を受けて想起を行おうとした場合に、
特定の決まった定義が存在せず、名目上、初の状況下や状態下において、
何らかの概感を想起する必要性に迫られた場合に、
既存の後天的定義からの概感の定義の構成が励起され、
その中から概感として成り立つだけの定義の組み合わせが在った場合、
これを概感として構築し、
この概感が想起された場合に、これが「動的な選択」となり、
「動的な概感」が想起されることになる。
そして、この場合に感じるのが、「自ら選択した」という感覚という事になる。

逆に、静的な定義は、
概感の後天的定義が、既に過去の刺激の体験の定義の記憶として持っていて、
ある状況下、状態下において、明示的に新たな定義を作ることなく、
概感が構築され、想起された場合に「静的な選択」となり、
この概感の想起を「もっともらしい」と感じるという事になる。

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この1/17の気づきを昨日の考え方と合わせ補完すると、

もっともらしさは以下の通りであるから、

概感A

もっともらしさの定義→「もっともらしい」感覚の存在→自分にとってのもっともらしさの定義

概感B

静的な選択で、静的な概感を想起した場合にもっともらしいと感じる定義が含まれ、
動的な選択で、動的な概感を想起した場合に自ら選択したと感じる定義が含まれる、という事になる。

ただ、昨日の考え方では、
実際に単独の概感の想起において、「もっともらしさ」が直接含まれていないと考えたわけなので、
静的な選択で、静的な概感を構築しただけでは「もっともらしさ」が含まれているわけではなく、
「もっともらしく」なる素養があるだけ、という事になる。

では、この概感における「もっともらしくなる素養」は何か?という事になる。

この事について思い返すと「もっともらしかった」と感じる事に何かヒントがあるのではないかと思う。

そこで思いついたのは、
概感の定義のルートが確定している場合、つまり、容易に概感が構築できたことに対して、
「もっともらしかった」と感じるのではないか、という事である。

つまり、
この比較基準は、時間的な制約か、神経細胞ネットワークの励起のエネルギー的な制約ではないかと考えられる。

ある明確な判断基準があって、当然とも言える「もっともらしさ」と、
自由意志的な「自身の選択」という切り分けができるわけではなく、
「恐らくもっともらしい(弱)+自身の選択(強)」や、
「もっともらしい(強)+自身の選択として(弱)」というような、
どちらかに振れた感覚として感じられる事になると考えられる。

そして、さらに、ここから先に考えられるのが、
「473:注意と意識のフォーカス」の考え方を足すと、
もっともらしい概感が構築される場合の、
「もっともらしさ」や「自由意志のような自分で選択した感覚」は、
単純な時間やエネルギーのコスト比較から生じるという事ではなく、
構造的に、それらの感覚に至る定義が生じるようにできているのではないか、
という事になる。

つまり、容易に概感が構築できる定義の構造、
例えば定義が近いとか、関連が定義として既にあるなどの構造であれば、
そこから概感を構築した場合、
「もっともらしく」感じる関係が生じる。
逆に、新たに概感の定義を構築する必要がある構造、
例えば定義が遠い、関連が定義としてまだ無いなどの構造であれば、
そこから概感を構築した場合、
「自分が選択した」と感じる関係が生じる。
こういう事ではないかと考えている。

この考えは「474:先天的定義のトポロジカルな配置と質感のありか」に関係する事になる。

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2026/1/21

上記の時点では気づいていなかった、新たに「474」の質感の考え方も足すと、
「もっともらしさ」も「腑に落ちる」というような質感として考えると、
もっともらしさの方向性には2つあり、
つまり、確からしいもっともらしさと、確からしくないもっともらしさがある事になる。

つまり、腑に落ちる側と、しっくりこないとか釈然としない側があるという事である。

質感自体は神経細胞ネットワークの励起で生じるが、
その質感の脚色として「もっともらしさ」が足されることになる。

では、上記にもあるように、「自分にとってもっともらしいと感じる」意味付けは何になるか?
どこからその定義が持ち出されているのか考えてみる。

概感の構築で質感は確保されている、
では、「もっともらしさ」の定義は?ということでは、上記では「概感」が元になっているので、
考える対象は、「変化情報」「後天的定義」「自己情報(自構性)」に絞られる。
変化情報はもっともらしさの意味合いだが、もっともらしさ自体ではない、
当然、自己情報(自構性)も元は身体性なので、もっともらしさではない。
ということであれば、「後天的定義」が怪しいという事になる。

つまり、ある体験を後天的に定義しなおした、
変化情報と自己情報の関連から後天的な関連の定義ができるわけで、
この記憶が「後天的定義」という事になる。

これ自体には「もっともらしい」という意味合いは含まれていない。

しかし、この後天的定義を元に概感を構築した場合に、質感として「もっともらしさ」を感じる。

という事は、概感を構築する事自体か、構築の連続性における差異、構築対象の選定、
その辺りに「もっともらしさ」があるのではないかと考えられる。

ここで、概感を構築する事自体は、神経細胞ネットワークの励起で質感は生じるが、
「もっともらしさ」ではないと上記で考えているので外し、
もっともらしさには2方向あり得るという事を足して考えると、
何らかの差異か比較の結果として「もっともらしさ」が生じていると考えられる。

であれば、概感の構築の連続性、または、その概感対象の選定、
さらに言えば、そのどちらかか、さらに、その2つを合わせた所にある可能性も考えられる。

基本に立ち返ると、概感の構築は自由意志として意識的に選定はできないという考え方になるので、
結果的に「もっともらしかった」と感じるべきという事になる。

であれば、連続性でもあり、連続性における概感の差異を比較の選定基準として使ったと考えると、
今概感として想起して意識した概感と、その前に想起して意識した概感の連続性内にある移行の向き、
これが「もっともらしさ」になるのではないか、という事になる。

まだ、構造的に明確な定義ができているわけではないが、

つまり、概感Aに関連して概感Bが励起される場合、

概感A→概感B

という概感の構築と想起が起こり、意識し、その連続性があるなら、
概感Bは、もっともらしいとももっともらしくないとも、関係なく質感はあり、
選定としては知能が「もっともらしい」概感として構築したものという事になる。

つまり、
「もっともらしい、かつ、もっともらしい概感」を想起する場合と、
「もっともらしくない、かつ、もっともらしい概感」を想起する場合があるのではないか、という事。

つまり、概感Aから概感Bが想起される事は知能にとっては「もっともらしい」が、
その「もっともらしさ」と「腑に落ちる感じ」のような「もっともらしさ」とは異なるのではないかという事。

つまり、概感の想起は常に知能にとって「もっともらしく」、
これとは別に質感的な「もっともらしさ」には2つの方向性がある。

という考えになる。

何かを想起して「もっともらしい」と感じる時、
それは質感的な「もっともらしさ」であり、
知能にとっては当然想起される概感であり、質感的にも「もっともらしい」。

では、「もっともらしくない」と感じる時はというと、
質感的には「もっともらしくない」が、
知能にとっては当然想起される「もっともらしい」概感である、という事になる。

つまり、当然想起される概感ではあるが、
「もっともらしさ」は別の質感として現れるという事になる。

では、この違いは何か?

質感は存在であり、もっともらしさは定義である。


何らかの定義:(質感):もっともらしさの定義


こういう二面性が成り立つ。
では、この場合の「何らからの定義」は何か?という事になる。

ここまで質感における定義は先天的定義の励起と考えてきたが、
「もっともらしさ」自体が後天的に生じる関係性と考えると、
質感の定義も拡張されて、先天的定義のトポロジカルな配置だけから、
後天的定義のトポロジカルな配置まで拡張できると考えられる。

つまり、先天的定義から生じる質感と、
後天的定義から生じる質感も考えられる事になる。

この場合、「もっともらしさ」はどう考えても後天的定義から生じていると考えられるので、
「もっともらしさ」は、後天的定義から生じた質感なのではないか、という事になる。

つまり、後天的定義のトポロジカルな配置の、神経細胞ネットワークの励起が、
「もっともらしさ」の質感になっているのではないか、という事である。

という事は、また少し話を戻すと、
ある後天的定義に対して、
その体験自体が最初から「もっともらしい」か「もっともらしくない」か、
という定義を含む可能性が考えられる事になる。

つまり、後天的定義とする際に、
「もっともらしい」か「もっともらしくない」かという定義を含むのではないか、という事になる。

では、その質感はどこにあるのかというと、刺激にまで戻る。
ただし、刺激の体験をそのまま記憶したのでは「もっともらしさ」は含まれない。

ある刺激に対して「もっともらしい」かどうか、と感じる必要性が有る。

ここで、自身にとっての先天的な部分として考えると、
ある刺激が自分にとって「もっともらしくて良い」部分と、
「もっともらしくては困る」部分があると考えられる。

つまり、最終的な「もっともらしら」における2方向があるべきという考え方から、
この2つの良い方と悪い方の2方向があった方が良いだろうと考えられる。

では、この基準は何か?ということになると、
これは、生命にとっての良し悪しの判断基準といえば、
ある変化の接触に対する好み、「好嫌」の判定になるのではないか、と考えられる。

今気づいたが、
概感を想起する際に、いくつかの概感が想起できた場合、
優先的に想起できる対象が概感として構築された場合「もっともらしい」、
いくつかの概感の中から、その概感を想起するしかなかったとき「腑に落ちない」
こういう事なのではないかと今思いついた。

つまり、好嫌はあまり関係が無く、
つまり、次に想起する概感の可能性が1つであれば、
「もっともらしい」とも「もっともらしくない」とも感じず想起される。
また、次に想起する概感の可能性が複数あり、

何らかの後天的定義:(質感):もっともらしさの定義

ということであれば、逆に定義を存在の二面性で表すと、

何らかの存在

何らかの後天的定義:(質感):もっともらしさの定義

何らかの存在

こういうことになる。

この場合、何らかの存在は後天的定義を一面として持つので、
これは概感という事になる。

つまり、結局この以下の関係に戻る。

概感A

もっともらしさの定義→「もっともらしい」感覚の存在→自分にとってのもっともらしさの定義

概感B

ということは、概感Aと概感Bの間の関係に「もっともらしさ」の差が生じるという事になる。

※この時点の課題としては上記に戻ってしまい循環してしまう事だが、
後述の先天的定義のトポロジカルな配置における「当然」という概念が入る事で、
後天的定義のトポロジカルな配置における「もっともらしさ」との違いが生じ、
循環しなくなる。
つまり、物理現象に対する「当然の」質感の存在と、
抽象的な「もっともらしい」質感の存在があるという事。
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2026/1/23

もっともらしさについて引き続き考えていたが、
もっともらしさと、ある認識や想起における、
刺激や概感の「選択基準」が、後の「もっともらしさ」になっているのではないか、
という事が思いついた。

つまり、これまで、もっともらしいから選択して、
その結果を思い返した時にもっともらしいと感じるとしてきたのだが、
それならば、刺激などにおいても、その認識する対象を決める時の基準があり、
それを思い返せば「もっともらしい」と感じることが出来るのではないかと考えた。

つまり、先天的にもっともらしさを比較する基準があり、
その構造により半自動的に選択が行われ、
その結果を後からもっともらしいと感じるのではないか、
という事や、その順番があるのではないか?という事が思いついた。

実際に自分のケースで考えると、
刺激の場合は、何かもっともらしいから感じているという感覚はまったくない、
思い返しても、もっともらしいからその刺激を感じたという事にはならない、
あえて、刺激であり、もっともらしいと感じるのは、
特定の身体部位の刺激を感じようとした時、
例えば、今から右手人差し指の指先を何かに接触させ、
その感覚を意識的に感じようとした時くらいである。
ただし、これも「もっともらしい」と感じるのは、
刺激を感じた時ではなく、その行為を行った事に対して、
自分で目的を持って実際に行動し、その刺激を確かに感じたことに対して、
「当然」とも「もっともらしい」とも感じたという事になる。

そして、ここで分かったのは、この場合の「もっともらしさ」は、
「自分にとって」もっともらしいと感じた、という事になる。

これは、恐らく刺激でも概感でも同じであると考えられるが、
何が「もっともらしかった」のかと言えば、
自分で目的を持って行動の予想を立てて、その通りに実行して実際に刺激を感じた事に対して、
「自分がその刺激を感じる事がもっともらしかった」、
と感じている事になる。

つまり、ある刺激や概感の連続性において、
結果が当然として受け止められる場合に「もっともらしい」と感じたという事になる。

これはどういうことであるかと考えれば、
つまり、今感じる刺激や概感に対して、次に感じられる刺激や概感が、
既に定義として存在している場合、「もっともらしい」と感じられるのではないか、
という事になる。

つまり、単に刺激を単発で、その瞬間の最も強い刺激として認識することは、
「当然」だが「もっともらしい」わけではなく、
あくまでその刺激の認識がもっともらしいのは、
その刺激の認識が予想に近い、つまり、そう認識する遷移が、
方向性として決まっている場合、「もっともらしい」と感じる事になる。

つまり、刺激の認識ではあるが、後天的定義として、
1つ前の刺激の次の刺激として、単に強い刺激でない、
先に関連する候補の定義がある場合、「もっともらしい」と感じるのではないか、
という事になる。

つまり、少なくとも「もっともらしい」刺激であっても、概感であっても、
その1つ前の刺激や概感と、何らかの後天的定義が確立している場合に、
「もっともらしい」と感じるのではないか、という事になる。

つまり、初めて今の刺激と概感と、次の刺激の概感の連続性が生じた場合、
これは、恐らく「もっともらしい」とは感じない。
しかし、思い返した時は既に連続性が生じているので「もっともらしい」と感じることが出来る。

逆に、「もっともらしい」かどうか、思い返さないと、
例え関連が既にあったとしても「もっともらしい」とは感じない。

「もっともらしさ」というのはそういう定義なのではないか、
という事になる。

この場合、思い返すということは、「もっともらしさ」が定義であるので、
抽象的に「もっともらしさ」を取り出す場合の知能の活動という事になる。

つまり、明示的にもっともらしいかどうか思い返さない限り、
「もっともらしさ」は感じられない事になる。

これは、先天的定義として「もっともらしさ」が定義されているわけではないからとも言え、
また、後天的定義として関連が存在しても、明示的に「もっともらしさ」を取り出そうとしない限り、
抽象的情報として取り出せない定義であるという事になる。

つまり、連続性を後天的定義として定義する事は、
知能の機能として先天的に持っているのだが、
この連続性が自発的に「もっともらしさ」として生じるものではないという事になる。

つまり、単に刺激を連続的に認識する、刺激の認識から概感を想起する、
概感の想起から関連した概感を想起するだけでは「もっともらしさ」は感じられないという事になる。

「もっともらしさ」を感じるのは、ある刺激か概感の認識または概感の連続性に対して、
明示的に概感を構築しようとした場合、その感じが「もっともらしさ」になる、
というわけである。

つまり、言葉で表すと難しいが、「もっともらしさ」は主観的に感じられるものではなく、
主観を客観的に見た時に感じられるもの、を主観で感じたように感じられるものという事になる。

つまり、前回の質感の構造に当てはめると、
その刺激や概感の連続性に対して、その関係を客観的に、つまり抽象的な存在として扱おうとしたものに対して、
知能の観測者としての視点から観測した場合、これが「もっともらしさ」として感じられるもの、
という事になる。

関係性で表すと、

「刺激か概感」A

連続性(定義)→その関係性の感じ(存在)→「刺激か概感」A・Bの関係性(定義)

「刺激か概感」B

その関係性の感じ(存在)

知能の観測者としての視点(観測)

これで知能は「もっともらしさ」を質感として観測するという事になる。
ただし、「もっともらしさ」は先天的定義の無い、
抽象的な存在であり、意識同様に明確な定義が存在しない。
そのため、感じる事は出来るが、実体としては存在せず、
概感の抽象的な存在として「事象再生の場」に構築されることになる。

ここまでの考え方であると、「もっともらしさ」が、
質感の連続性のメタ的定義として、
後天的定義のトポロジカルな配置の関係性の「定義」を「存在」化させて観測したもの、
という考え方が出来る。

つまり、
一般的に「もっともらしい」「もっともらしかった」と感じるのは、
ある刺激や概感の間に既に後天的定義としての関係性があり、
現在の認識や想起を起点として、
次に来る刺激や概感が定まった遷移として成り立つ、
または成り立つと想起でき、
その遷移関係そのものを、
定義として一時的に取り出して観測した場合である、
ということになる。

仮にこの後天的定義のトポロジカルな配置が確定(固定)していたら、
その知能が例えば「赤いリンゴ」を見た時に次に何を刺激として得ようとするか、
または概感として想起しようとするか、ある程度予測がつくということになる。

つまり、「赤いリンゴ」の視覚の刺激の質感の認識に対して、
トポロジーで言えば「近傍」の定義が対象となる可能性が高いという事になる。
次の可能性で言えば「接続」の関係にある定義という事。

この場合の選定の基準や評価について考えると、
人間の知能まで高度でない知的生命においては、
もっともらしくなくとも、客観的に見て、もっともらしい選択が行われているように活動しているので、
恐らく、先天的定義として評価基準や選択の機能は持っていると考えられる。

つまり、先天的な構造的制約として評価や選択の機能はあると考えられる。

この場合、
ただ、思うのは、この評価の定義として何を保存しようとしているのか?
これが今は分からない。

今分かるのは、
この場合の先天的な評価基準は、
配置の可能性を逆に辿れば見つかるのではないかという事になる。
つまり、認識や概感の遷移の連続性において、
より近傍であり、接続できる位置への配置は、
この構造を作る規則を見る事になる。

ただし、今の考え方をどのようにしても、
この規則を独自に想像して構造的に定義する事は不可能に近い事になる。
これは生命デザインに近い事になる。

私は確率的に何かが選択されたり評価されたりしてするのではなく、
何かしら明確な基準が存在しているとは考えている。
この場合確かに推定は非常に難しい事になるが、
あくまで私の想像がが、
評価や選択が確率である場合、
一生の間に僅かな回数にしろ、
何か自分でも考えないようなとんでもない事を想起したりする事が起こってしかるべきではないかと思うが、
実際にそのようなことは無く、思い返せば自分にとって「もっともらしい」事ばかりである。

つまり、何らかの基準の一定基準以下の対象は、
そもそも評価や選択対象から外れているのではないか、
という明確なスレッショルドのようなものはあるのではないか、という事になる。

現時点でそれ以上の選択対象などが「確率的に現れている」可能性も否定できないが、
ある神経細胞ネットワークの励起により、結果的には常に最も強い励起が選択対象になるなどと考えると、
確率でこの励起による情報の強さのようなものが可変するというのもおかしなことになると思う。

以前、もっともらしさの基準として、
事象の変化の情報の強さと、自身の身体性や自構性の情報の強さの総和が、
評価基準になるのではないかと考えた事があったが、
今の考え方で言えば、先天的定義のトポロジカルな配置による情報構築分の情報(変化)の強さと、
後天的定義のトポロジカルな配置による情報構築分の情報(自己)の強さの合計から、
選択対象が決まるということになるのではないかと考えている。

つまり、仮に刺激が弱いものであっても、
自分が強くその刺激を認識しようと想起すれば、
次の認識対象に、その弱い刺激が認識される事もあり得るという事になる。

つまり、現時点では漠然とした言い方になるが、
自分にとって都合の良い刺激の認識や概感の想起がもっともらしい、のではないか、という事になる。

つまり、自分にとってもっともらしいかが、基準であって、人間以外の動物や昆虫が、
先天的定義だけをもっともらしさ(当然の様に)として使っているのと比べ、
人間は後天的定義の自分にとっての定義もこの基準に用いているという考え方になる。
そして、この後天的定義は、一見完全に自分の自由に定義されているように見えて、
実体の自分がいる環境などに左右され構造が後天的に変化しうるもの、可塑性させ持つという事になる。

この考え方からすると、
先ほどの問いの「赤いリンゴ」を見た後にどの刺激を認識しようとするか、
または概感を想起しようとするかの予測も、もう少し詳細になると考えられる。

つまり、次に認識したり想起しようとする刺激や概感は、
変化情報の先天的成分で言えば、色や形状についての関連、
変化情報の後天的成分で言えば、近傍の触覚や匂いや味、接続で言えば最近の記憶、
遠い接続であれば、それに関連する記憶など、
これらが候補となり、ここからさらに自己情報の身体性と自構性(自己モデル)との関連が候補となり、
評価・選択の後、次の刺激か概感として認識又は想起が行われる。

ちなみに、話が少し変わるが、
先天的定義が脳の感覚野などに配置され、後天的定義の長期記憶が大脳皮質に配置されると考えた場合、
この後天的定義の要素は体験時の感覚野に近い場所に配置されてるのではないか?と考えられる。

調べたところ、ある程度近い位置にあるとは言えるらしい。

ただ、ここから先は、先天的定義のトポロジカルな配置同様に、
実際の脳内の配置と比べながらマッピングしてくしかない事になる。
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今日の最後として今ふと思ったが、
つまり、「当然」の定義を抽象的に取り出すと「もっともらしさ」という事になるのではないか、という事。
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2026/1/24

今日の気づきと上記の補足:

気づきの1点目は、

後天的定義がトポロジカルな配置がなされるなら、
その配置には「もっともらしさ」が含まれるのではないかという事。

つまり、逆転の発想になるが、
もともと「もっともらしさ」が概感の何らかの関係性として定義されるものであると考えたので、
見方を変えると後天的定義のトポロジカルな配置自体が、
「もっともらしい」状態で配置されているのではないかという事に気付いたわけである。

これは、先天的定義がトポロジカルな配置であり、
変化情報の先天的定義から構築される刺激が「もっともらしさ」ではなく、
「当然」のように構築されるという事を考えると、
後天的定義の配置にも何か意味があるのではないかという考え方から思いついた。

つまり、先天的定義のトポロジカルな配置が「当然」であれば、
後天的定義のトポロジカルな配置は「もっともらしい」のではないか、
という事になる。

そして、気づきの2点目は、

後天的定義のトポロジカルな配置において、
基本的には近傍と接続の関係にある定義から概感が構成されやすいというのはあるのだが、
これをバイパスするというか、離れた位置にある定義の接続を有効化するのが、
自己情報なのではないかという事。

つまり、ある想起に対しては、刺激や概感の近傍の後天的定義が想起対象になるという事が普通なのだが、
実際の知能においては、ある刺激や概感に対して、遠い接続対象が想起対象になる場合がある。

私のこれまでの考察からの直感だが、
この対象は確率で対象が選択されるのではなく、
決まった理由として、そういう構造があるという考え方をしている。

つまり、仮にまったく同じ刺激を受容し、これから概感が想起されたとしても、
刺激と想起する概感の関係は常に同じではなく、
その時々によって、想起される概感は異なる。

ただし、仮に先天的定義のトポロジカルな配置が固定で、
後天的定義のトポロジカルな配置も固定であれば、
ある同じ刺激であれば、まったく同じ概感が想起されると考えられる。
しかし、実際にそうではないのであれば、
先天的定義のトポロジカルな配置はほぼ固定されている事は決まっているので、
では、変化する可能性があるのは、後天的定義のトポロジカルな配置しかない、
という事になる。

仮に、ある知能に全く同じ刺激を入力させることが出来たとしても、
この同じ刺激が連続する事自体が体験として自己情報の更新(後天的定義の更新)に繋がるため、
まったく同じ概感が構築される事にはならない事になる。
刺激毎に自己情報が変化していく為、自己情報も変化していき、
概感を構築する定義も変化する、つまり、後天的定義のトポロジカルな配置に対して、
指し示す位置が変化するという事になる。

ということは、その時々に応じて、想起される概感が変化するということは、
恐らく後天的定義のトポロジカルな配置が常に更新される対象となっていると考えられる。

確かに、ある刺激と次の刺激が先天的定義としてまったく同じであれば、
特定の概感が想起される場合(可能性)は多いと言えるが、
この概感自体が、後天的定義から構築されるわけであるから、
極端なことを言えば概感の定義は一度きり、つまり、非再現性を持ち、
同じ概感を想起することは無いとも言える。

そして、これは確率ではなく、決まった構造や理由が在ってこその概感の違いであると考えている。

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今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。