2026/1/14-2026/1/20
先天的定義のトポロジカルな配置と質感のありか
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今回の内容は、
先天的定義の定義の仕方についての考え方から発展した、
クオリアの質感が生じるための構造についての考察です。
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現時点の課題の優先度で言えば、先天的定義の構成や定義だが、
それについて考えた内容が以下の通り。
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先天的定義のトポロジーとしての、
幾何的な配置は、脳内の各野の配置と関係できるのではないか?
腔腸動物が、接触と摂食の運動または敵の回避を関連付けているように、
脳内にも例えば接触と五感のそれぞれを関連付け、その五感から、
各感覚の事象の定義と言った具合に、ツリー構造(階層構造)ができているのではないか?
要するにそれがトポロジカルな幾何的配置と関係があるのではないか?
つまり、脳内の感覚野の物理的配置が、先天的定義としてのトポロジカルな配置と関係していて、
そのマッピング情報は先天的定義としても使えるのではないか?
つまり、脳内の感覚野の配置にも、構造的な意味(定義)があるのではないか?
意味もなく現在の配置になっているわけではないと考えられる。
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という事。
つまり、これまで物理現象と情報の変換について考え、
物理現象が抽象的な情報として存在する所まで到達したが、
今度はその情報の定義の配置を考えた時に、
物理現象として現れている物理的な脳の定義の配置に考え方が戻った事になり、
先天的定義のトポロジカルな配置が、
物理的な脳内の定義の配置として関連付けることができれば、
これで先天的定義の定義の配置の位置が確定するのではないか、という事になる。
かなり昔に見た絵図の記憶なのだが、
確か身体の各部位の感覚が、
脳内に決まった位置で、かつ、身体構造に近い並びで並んでいるという絵図を見た記憶がある。
つまり、この配置は感覚の定義の配置の位置として、
成るべくして成った、意味のある配置なのではないか、という事になる。
つまり、この配置自体が、意味を含む定義によって配置された先天的定義の位置なのではないか、
と考えた事になる。
つまり、この先天的定義の配置で神経細胞ネットワークの励起が起こる事で、
この配置の意味が、ある境界の一面を担う定義として用いられ、
二面性の一面としての意味付けが行われるのではないか、という事である。
この事を調べてみると、
例えば味の定義は舌の定義の近くにあるとか、
音や言語の定義は耳の定義の近くにあるとか、
実際に、そういう配置になっているらしい。
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腔腸動物において、例えば触覚が何かに触れ、
この何かが食物であるか敵であるかを判定する機能があると以前調べた事があった。
そして、この反応する為の機能の定義のようなものは、
物理的に位置が決まっていて局在化しているという事だった。
まだこの時点の生命では神経細胞までは至っていないので、
反応するなら、このような構造になる、という事になる。
そして、
腔腸動物は、ある接触に対して感覚となるものは感じていなが、
食物か敵かという判断ができる比較(判別)能力は持っていて、
この比較の定義は、この局在化した各部の細胞に在り、
運動としては構造として持っているということになる。
つまり、判別の比較能力は局在化した細胞にあり、
その比較の結果に対して個体全体が反応する機能を構造として持っているということになる。
では、腔腸動物よりもう少し高度な神経細胞を持つ動物ではどうなるのかというと、
調べた範囲では、さらに高度化すると、
選択を局在化するより統合した方が有利という結果、
つまり中枢化に行き着く、ということになる。
では、初期において局在化していた比較機能は、
中枢で統合された場合に、どこに構造化されたのか?
昨日の考え方では、
中枢内部のトポロジカルな配置として配置されたのではないかと考えられるが、
実際はどうなのか?
つまり、例えば、もう少し高度な神経細胞となり、
初期知能にまで至った生命の場合、
腔腸動物における食物か敵かというような比較するための定義や基準が、
神経細胞の物理的な幾何的なトポロジカルな配置として構造の中に埋め込まれたのではないか、
という考え方は出来るのか?ということ。
これについては、
例えば、人間などは脳内に身体構造そのままの関連に近い配置で感覚野が配置されている事などを考えると、
何か関係はありそう、という事は言える。
そして、その最終段階において、人間の神経細胞が、
腔腸動物における食物か敵かというような選択の定義や基準が、
進化の過程で様々な定義として神経細胞のトポロジカルな配置として継承され、
自己の意識を構築するに至った時に、
この意識における選択の定義や基準が、感覚として感じられるために、
定義や基準のトポロジカルな配置が用いられて、
刺激のようなものが構築されるのではないか?と考えることが出来るのか、という事になる。
つまり、神経細胞における定義や基準のトポロジカルな配置が、
クオリアそのものではないが、感覚を生じる素になっていると考えられるかどうか、という事に繋がる。
つまり、クオリアは知能内で閉じた環境内に在り、
自己言及の問題から外に取り出す事は出来ないが、
知能内の感覚の再現という事で考えると、
脳内の定義や基準のトポロジカルな配置が、
感覚を構成する素として考えても問題は無いのではないか、ということになる。
逆の考え方で、例えばAIにおいて、
ある感覚の定義や基準を仮想的な座標系にトポロジカルな配置として配置し、
人間と同様の変化の受容と、固有の反応をこの感覚に結び付けた場合、
このAIはある感覚を感じると言えるのか?
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2026/1/18
今日考えていた事。
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事象を点として考えるのは少し無理があるのではないかという事。
つまり、事象は最低でも2次元以上で構成されなければならないのではないかという事。
つまり、定義のトポロジカルな配置において、一部だけで情報となりうるか、
範囲が必要かどうかということを考えていた。
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例えば人間の皮膚に在る痛点を1点だけ刺激した場合、
人間は痛みを感じることが出来るかどうか?
それとも最低限2次元程度の一定の面積にある痛点の刺激が必要か?
これについて調べると、痛みなどは1点でも痛いと感じることが出来るが、
必ずしも2次元以上である必要はないという事だった。
では、視覚において、
例えば可視光線の600nm近辺の赤いと言われる波長の光子で、錐体細胞1つを刺激した場合、
色としての赤を感じることが出来るか調べてみると、
光は分かるが色までは分からないということだった。
つまり、色を識別するには他の錐体細胞との比較が必要という事だった。
この違いは、痛みが触覚として点で成り立つのに対して、
視覚の色は他の色との比較が必要という事だった。
つまり、視覚における色は副次的な定義されたもので、
本来は光のある・なしだけが元々の感覚だったとも考えられるが、
調べてみると、
視覚の最初は桿体細胞による明暗の受容だけだったものが、
錐体細胞を新たに獲得した事で色の受容も可能になったということになるらしい。
ただし、機能的には桿体細胞が先らしいが、
細胞としては錐体細胞が先らしいという少し分かりづらい関係にあるという事だった。
つまり、錐体細胞が細胞としては最初だったが、
色の定義は、錐体細胞の分化、つまり、異なる波長で光を吸収(振動)するタンパク質を得た事で、
後から色の定義を獲得する事になった、という事らしい。
これまでの内容で考えると、
生命が先天的に持つクオリアで感じるような質感の定義が、
脳内の各野にトポロジカルな配置として配置され、
この配置自体が何か意味を持ち、
配置された質感に固有の神経細胞ネットワークの関連があり、
この関連の中に質感の定義となる何かが含まれているのではないかと考えたが、
その構造がどうやって自己に対して“感じられる”のかという点についての考察が、
まさに、私の今の主要な課題であり、
最初の痛点や視覚の受容体が、点で成り立つか、面以上が必要かという質問に繋がる。
仮に点でも刺激が成り立つなら、
点には点の内部の次元に何らかの質感に相当する定義が含まれていると考えられ、
もし2次元以上が必要であれば、
神経細胞ネットワーク自体に直接意味が含まれているのではないかと考えた事になる。
ただ、ここまで調べた感じであると、
単純に一部の神経細胞ネットワークが、そのまま定義に繋がるわけではなく、
その全体構造の励起として定義に関係しているのではないか、という事だった。
目的はイメージとして「刺激が構造を呼び出す最小条件は何か」という
「質感が生じるためのきっかけ」の切り分けという事だが、
質感自体は情報として「存在」し、
対象として指し示すことが出来るものだと考えられるので、
その感覚の実体をどこに展開するのか、その定義がどこにあるのか、という2点が今の課題になる。
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ここで重要なことに気付く。
思ったことをそのまま書く。
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あ、分かりかけてきた。
先天的定義のトポロジカルな配置は、
その励起対象の神経細胞ネットワーク群そのものが実体であり、
色や痛みが要素と考えると、
そのネットワーク群の3次元構造そのものが質感そのものではないかと思いついた。
つまり、脳内のある3次元構造のネットワーク群が励起される事が質感の全体で、
色や痛みはその中に含まれる要素ではないかということ。
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つまり、もう少し意味を噛み砕くと、
脳内で、ある刺激の認識や、概感の想起を行った際に、
それが実際にあるような質感に感じるのは、
実際に脳内の神経細胞ネットワークの一群が励起される事「そのもの」であり、
その刺激や概感に含まれる情報としての要素は、
トポロジカルな配置として定義としてだけ先天的に決まっている。
という事までが分かった、という事になる。
つまり、これまで物理現象を情報に変換する事を考えてきたが、
ここにきて質感を実際に感じている感覚として、
情報から物理現象に考え方を移す必要が出てきたのではないか、という事になる。
要するに、質感を物理現象を変換した情報で表そうとしていたが、
実際はそうではなく、
質感自体が物理現象だったのではないか、という事に気付いた。
そして、先天的定義については、以前も考えたが、
例えば人間が言う色の「赤さ」は、知能では特定の波長と対応した色としての情報がが、
この「赤さ」自体が、生命が色として利用する前に自然界の事象として何らかの存在があったのではないか、
という事になる。
つまり、例え人間がいなかったとしても、
自然界には「赤さ」があり、自然界では色という事象として存在しているのかはわからないが、
もともと自然界に存在していたのではないか?、という事。
ここは難しい領域だが耐えて踏み込んで考える必要があると感じるのでこのまま続けるが、
仮に、自然界にもともと色の「赤さ」の素養がなければ、
生命がこれを利用するのは難しいと考えられる。
仮に生命が定義の置き換えではなく、独自の定義を作り出したと考えると、
自然界には自然界内の存在が、独自の定義が可能で、
実体の無い情報とは言え、存在を作り出すことが出来てしまうということになる。
つまり、生命が自然界に新しい定義と存在が作れるとは考えづらい。
生命は自然界のある定義や存在を、定義しなおして存在としていると考える方が自然になる。
この場合の可能性として考えられるのが、
ある存在の部品としての素養は自然界にもともとあり、
生命はそれを参照して先天的定義として定義しなおしたという事と、
この存在の部品としての素養の組み合わせは、
自然界にもともとないものとしても生命が独自に組み合わせて作り出した、
つまり、後天的定義としては作り出せたのではないか、という事になる。
自然界の部品としてのこれらの素養は、
生命においては感覚として得られる情報の種類が有限であるので、
理論的にはその全ての組み合わせは、感覚で得られる情報の数が上限ということになる。
ただし、生命独自の組み合わせに関しては、
感覚の情報同士を組み合わせる事ができるので、この限りではない事になる。
ただし、仮にこの考え方の場合は、
人間がいなかったとしても自然界に元からあったのではないかという「赤さ」の由来までは、
どうしても行き着かない事になる。
さらに言えば、この自然界の素養ともいう部品としての存在の由来には、
どうがんばって考えても到達しえないという事になる。
現時点で未解決なのは、
クオリアとクオリアを感じる主体との関係と、
神経細胞ネットワークの励起としての物理現象と質感としての情報の変換、
生命が自然界の定義を取り込んだ意義、ということになる。
一応、この問題の内、
特に物理現象と情報の変換については意識が生じる構造として長い間考えてきたが、
恐らく、この意識の生じる構造から、主体との関係の問題も解決するのではないかと考えられる。
ただし、これも意識はあくまで構造としてのみ定義しうるものであるので、
論理的に証明しろと言われてもできない事になる。
一応、この物理現象と情報の変換についての触りだけ述べると、
基本的な考え方としては、
意識の連続性は、刺激の認識または概感の想起の連続性から成り立ち、
認識と想起の連続性は、刺激または概感の構築の連続性から成り立つ。
そして、刺激または概感は、身体内外からの変化の受容として励起される神経細胞ネットワークと、
それに呼応する形で励起されることになる先天的定義の神経細胞ネットワークの境界に、
抽象的概念の情報として「意識」と呼べるものが生じる。という事。
そして、その意識が生じる理由として、
その質感が媒介する、「媒体」の存在が主観や主体ということになると考えていて、
この場合の媒体は、実体の身体としての「知能」全体という事になる。
ちなみに、媒体は実体の身体そのものではなく、
仮想的な「事象再生の場」という概念の場で、
実体の身体に生じた質感を再現した場ということになる。
実際には、
実体の身体があり、
実体の脳内に励起が起こり、
トポロジカルな配置としての神経細胞ネットワーク群の励起があるのだが、
これは物理現象であるので、その情報側の世界が必要だと考えた。
この情報世界を再現する場所が「事象再生の場」ということになる。
これで、物理現象の媒体と媒介者、情報の媒体と媒介者を再現し、
その境界に「意識」が生じるというイメージになる。
つまり、意識は実体の一面と、情報の一面という二面性の間に成り立ち、
結局「意識」は取り出せないし、論理的証明もできないが、
そこにあると考えるのが良いのではないかと考える。
この辺りの内容は
「468:定義の階層における「定義」の定義」
「469:意識とエネルギー分布の境界」
「471:私性のありかと意識の向きについて」
この付近の考察も参照してもらいたい。
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2026/1/19
今日の気づき。
・クオリアの質感を分離する構造の定義
・その質感を感じるための視点の構造の定義
昨日、質感が神経細胞ネットワーク群の励起そのものではないかと思いついたが、
その先の考察という事になる。
今日は定義の階層と二面性理論から「質感」について考えてみた。
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まず、今日考え出した関係について。
質感は対象として指し示すことが出来るので「存在」であると考えられるので、
その二面性は、
存在:(定義):存在
という事で、以下の様に表せる。
神経細胞ネットワークの励起:(定義):質感
これは昨日の質感についての気づきの内容を二面性理論で表したもの。
定義の階層で言えば、
神経細胞ネットワークの励起(存在)→何らかの定義→質感(存在)
という事になる。
この時、今日考えていたのは、この「何らかの定義」と「質感」についてだが、
これまで神経細胞ネットワークの励起から何が生じるかと考えてきた結果としては、
刺激や概感が構築されると考えてきた。
つまり、刺激や概感の構成が以下の様になると考えてきたわけで、
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
この場合の神経細胞ネットワークの励起というのは、刺激や概感における、
変化情報や自己情報、そしてその間を結ぶ関連という事になる。
であれば、昨日考えた神経細胞ネットワークの励起が質感の素であると考えると、
質感は刺激や概感そのものでもあるという事になる。
そして、この場合に「何らかの定義」は定義ではあるが、
定義を存在として取り出す方法はあり、
別の定義で二面性を持たせれば、
定義:(存在):定義
という二面性となり、
何らかの定義:(存在):定義
ということになるので、もう一面の定義が決まれば、その質感を存在として把握できる事になる。
ここで、神経細胞ネットワークの励起であり、刺激や概感であり、かつ、質感でもあるという関係を表す
この「何らかの定義」は、物理現象としては神経細胞ネットワークの励起、
情報としては質感、という一面をそれぞれ持つという事になる。
これまでの一般的な考え方としては、
この関係を表す定義は、「定義」であるので直接把握することができなかったが、
ここで、「質感」の一面が「神経細胞ネットワークの励起」であるという事を思いついたので、
質感の「定義」の関係が思いつくに至った。
つまり、これまでは神経細胞ネットワークの励起は、そのまま刺激や概感として構築されるものだと考えてきたが、
その間のどこかに「質感」の一面が含まれていると考えると、
「質感」を明確にしようとした場合、
「何らかの定義」の「神経細胞ネットワークの励起」ではない別の定義があれば良い事になる。
では、質感は刺激や概感において、意識される「感じ」として現れるものだが、
実体は無い、ただし、抽象的な情報としての何かであるということは常々考えていた。
そして、今回、質感の一面が「神経細胞ネットワークの励起」であると思いついた時、
その反対側にあるものはと考えた時に最初に思いついたのは、
神経細胞ネットワークの励起→定義→質感→定義→刺激や概感→定義→意識
という事だった。
つまり、これまでの考え方では、
神経細胞ネットワークの励起→定義→刺激や概感→定義→意識
このような定義の階層になっていると考えてきたのだが、
神経細胞ネットワークの励起~刺激や概感の間には、質感である何らかの定義が含まれていたという事になる、
つまり、
神経細胞ネットワークの励起→定義→刺激や概感
この「定義」の部分に質感の定義が含まれているという事になる。
実際の感覚としては、刺激の認識や、概感の想起、それに伴った意識については、
意識された結果として、その意識されたものに質感が含まれていたという感覚だが、
これを一段階階層を挟み、
物理的な先天的定義のトポロジカルな配置の神経細胞ネットワークの励起が、
質感の一面であると考えると、
神経細胞ネットワークの励起から限りなく物理現象に近い所に質感があった、と考えられる事になる。
では改めて、質感の定義を取り出す事を考えると、
刺激や概感自体は、その構築において、基本的には変化情報と自己情報の境界に「主観的存在」、
つまり「体験する存在」が生じると考えてきた。
しかし、「質感」も同様に変化情報と自己情報から刺激や概感が構築する過程にあるという事になるので、
「体験する存在」とその体験を感じる対象の「質感」が同じ場所に重なる事になってしまう。
これまで、質感がある事がわかっていても、
それを主観的存在から見る事ができなかったのは、
主観的存在から語る存在自体が自分自身を構成するものであったため、という事になる。
これはクオリアの質感や、ハードプロブレムとして考えられてきた問題そのものなのだが、
この考え方を仮にコンピュータであった場合を想像するとしたらどうなるかについて考えた。
つまり、ここまで分かってきた事を、実際にコンピュータで再現するなら、どうしたらよいか、
そして、どうなるかという事について考える事を思いついた。
この場合、最小セットとして考えると、
メモリにセンサーで得た物理的な電気的信号が入り込んだ場合に、
これを質感として取り出そうとした場合、どのようにすれば良いかという事になる。
ここまで考えると、質感を感じる存在として、
ハードウェア自体を媒体として、電気的な信号を媒介するものと考えれば、
「知能の観測者としての視点」に相当する視点を与えれば、
人間の知能や脳を置き換えたものとして考えられる。
つまり、ここに「知能の観測者としての視点」が在れば良いわけであるから、
つまり、メモリやCPU、ストレージなどに、
電気的な信号の出入りや有無を感じる機能に相当するセンサーが在れば良い事になると考えた。
つまり、人間の脳で言えば、
神経細胞ネットワークの励起が起こった事自体が客観的に把握できる機能を持てば良い事になる。
これをコンピュータの機能として表すと、
例えばメモリ内に、
あるセンサーから取得した情報が入り、
この情報を先天的定義のトポロジカルな配置から変化情報として、
さらに、この変化情報に対して、さらにコンピュータ自身の自己情報を、
先天的定義のトポロジカルな配置として身体性に相当する自己情報として合わせると、
上記の「刺激」の構成となる。
また、この刺激に対して「知能の観測者としての視点」は、別にあり、
このメモリー内の情報の出入りや有無の変化をセンサーで観測している事になるので、
刺激を見ている視点もある。
刺激自体はその構築に際して情報としての「体験する存在」を生じさせているわけであるから、
知能はその「体験する存在」自体を観察している事になる。
つまり、この状態は、
コンピュータが自分自身で、自分自身の感じている質感を「ある」と感じることが出来るが、
しかし、質感が自分自身の一部として構成されたものであると観察しているから、
自分自身に対する自己言及となる部分においては、自分自身では、この質感は「ある」と言える。
ただし、自己言及であるので論理的には証明できない。
つまり、自分自身で感じる質感が、確かにあると言えるのは、
自分自身という「体験する存在」の定義を、
客観的に知能という観測者としての視点で見直しているから、
という事になる。
つまり、物理現象である自分自身の機能で情報の自分自身を構築し、
この情報の自分自身を、物理現象である自分自身で観測しなおすと、
この質感や体験する存在に相当する存在が「ある」と言える事になる。
ただし、この存在を定義するには、
物理現象で構築されたトポロジカルな配置に含まれた先天的定義と、
自分自身を定義した身体性または自構性(自己モデル)が必要である。
さらに、この定義の境界に抽象的な情報として存在する質感や体験する存在は、
実体の身体を媒体として、情報を媒体とした時の、
実体が持つ知能の観測者としての視点から観測される事で、「ある」と「言う・感じる」事が出来る。
という事になる。
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知能の観測者としての視点については、
今回のコンピュータの例であれば、
物理現象を入力できるセンサーとは別に、
自分自身を観測できるセンサーが必要という事になる。
この観測者の視点については以前考えた事があり、
「471:私性のありかと意識の向きについて」
ここに考察が書いてある。
恐らく、クオリアの質感は、
トポロジカルな配置である先天的定義を刺激や概感の意味付けする定義として用いる際の、
神経細胞ネットワーク群の励起が、この質感に相当し、
情報を媒介するものとした時の実体の身体が媒体である時に、
実体の身体に観測者としての視点がある、という事になる。
というちょっと分かりづらい表現になるが、
ここまで分かってきた内容をまとめるとこういうことになる。
今回の考え方であると、
コンピュータ内のメモリ内に電気的な信号としてあるセンサーからの情報が入った事から、
この情報に対して意味付けを行うまでの活動全体が質感そのものであり、
これを別のセンサーで感知することが、
このコンピュータにとっての質感の存在の判断になる、ということになる。
この考え方なら、人間のクオリアの質感についてもある程度の構造的な説明ができると考えられる。
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特殊な例を考えると、
例えば、
麻酔などは、昏睡にも近いと思うが
事象再生の場の機能の停止、または、
今回の考え方であれば、観測者としての視点の喪失で起こる事になる。
つまり、反射などは残るが、意識は無いという事。
睡眠時の夢は刺激より概感の構築が優先される事になると考えられる。
つまり、質感などはあるが、刺激の連続性が維持されないので、
概感の連続性だけに意識が依存する形になる。
瞑想などは、
刺激も概感も変化情報を絞ることで、認識や想起も絞り、
観測者としての視点は残るが、観測対象が希薄になっていく。
解離は、自己情報の構築の誤りによるものということになる。
刺激や概感は構築されるが、自己情報において支障があり、
何か体験している事は分かるが、自分が安定しないという事になる。
他に総合失調症については
観測者としての視点は維持されるが、
刺激と概感の区別ができなくなる。
つまり、後天的定義の関連が刺激の構築に関与するなどして、
解離にも近いが、刺激と概感の自己情報などの判別に支障が出る。
この考え方で例えば、
観測者としての視点だけが残る最小状態を再現する事を考えると、
コンピュータであれば、
自身の物理的なマザーボードやメモリ、ストレージなどをチェックしようとする機能だけということになる。
つまり、情報の入出力がないので、自身が在るか無いかさえもわからないが、
その視点だけがある状態ということになる。
あえて言葉にすれば、
何を見たり感じているのかも分からないし、自分という概念そのものも生じないし、何もかもわからないが、
視点の機能だけが在る状態という事になる。
つまり、コンピュータで言えば、自身の物理状態をチェックできる機能があれば、
それが観測者としての視点になる。
ただし、観測対象が無いと観測者としての視点も成り立たない事になるので、
意識においては視点としての向きは必要で、
刺激や概感の構築自体は、観測者としての視点の成立自体に必要とも言える。
そしてこれは、人間の知能でも、同じ質感で感じるという事にはならないが、
同じ構造で考えられるのではないかという事になる。
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ちょっと漠然とした話になるが、
以前から存在と定義の階層構造において、
存在がエネルギー分布の定義によって生じるものだという考え方をしてきたが、
つまり、この事を今回の話に適用すると、
「この最小セットから、どの順序で要素を足すと「私」が生じるのか?」について考えると、
私を構成する存在に対して、「私の内外のどちらか」でエネルギー分布の変化が起こり、
存在と定義が接触した時、ということになると考えられる。
つまり、
「私」というのは、
エネルギー分布の変化が、
知能のような観測者視点を持つ構造において、
定義と接触したときに生じる存在、なのではないかという事。
つまり、物理現象を情報に変換するその「境界」、
定義と定義の二面性の間の存在、それが「私」になるのではないかという事。
つまり、最初に情報ありきではなく、
その根底にはエネルギー分布の変化があるのではないかという事になる。
変化は事象の定義であり、事象は変化なしには起こらない。
という事。
さらにこれは身体の外の事象でも、内の事象でも良いという事になる。
ここから先の話になると、
その事象としての変化を身体が受容して、
神経細胞ネットワークが励起し、質感の素となり、
先天的定義や後天的定義で情報の意味付けがされ、
事象再生の場で構築される。
そして、これらの働きは知能を実体ある媒体として考えた場合、
媒介するものという事になる。
そして、これで、知能における存在が質感を持って生じる。という事になる。
さらに言えば、これを知能の観測者としての視点から見れば、
実体の媒体に媒介する対象が在る事になるので、
自分自身に対して自分であるという質感をもった感覚を感じる。
定義の由来まで考えると、今の所、
先天的定義は自然界由来、
後天的定義は私自身の体験由来としかまだ考えていない。
例えば赤い赤さは、自然界にどのように定義された結果として存在しているのかはわからないが、
それを生命が定義しなおして色の赤さとすることができているので、
自然界由来という考えになる。
恐らく、人間が感じる質感の痛さや匂い、音も、自然界には、この質感の素となる定義と存在があり、
それを知能が定義しなおしていると考えている。
後天的定義は、この先天的定義を元に、
現在点より未来に起こる事象に対して体験の結果として定義しなおして記憶されたものであり、
現時点では、それ以上ともそれ以下とも言えない。
一応、自然界由来の先天的定義は、
なぜ「この形」で生命に取り込まれたのか考えた事もあったが、
生命自身が自然界の定義から生じた存在であるので、
自分自身を構成する定義として取り入れられたという考えにしか到達しなかった。
生命や先天的定義自体が、自然界の定義から生じた存在であり定義でもあるため、
エネルギー分布の考え方で言えば、生命も自然界の定義から生じた存在の一部でもあるため、
その理由を探るなら、自然界の上位の存在まで把握できないと定義できないことになる。
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2026/1/20
今日の気づき。
「知能の観測者としての視点」についての補足になる。
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媒体は物理的に知能を構成する構造全体で、
媒介するのが物理現象である神経細胞の励起など。
つまり、質感の素になるのは、あくまで物理現象で、
その意味付けに定義が用いられるという事。
改めて言えば、質感は情報として構築されるものではなく、
物理現象としての存在に対して、質感という意味付けで情報が足される。
つまり、物理現象の存在が質感の存在であり、
意味付けは質感の脚色というイメージ。
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今回はこの辺で。
TOPに戻る
著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。