2026/1/11-2026/1/13
注意と意識のフォーカス
今日の気づきの内容から。
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・体感として概感を意識する時も視覚の刺激の内容が把握され続けているという事。
つまり、例えば視覚で何かが見えている状態でも、概感の想起が出来るという事。
厳密に言えば、概感の想起と同時に、刺激が明確に認識されているというよりも、
概感の想起の背景として、注意できない刺激が構築されているという事。
・概感を想起して意識する時、
その意識は事象再生の場に刺激と重なって意識されるという事。
つまり、事象再生の場で、概感を想起する場合も、
刺激は構築され続けているのではないかという事。
ただし、逆に刺激の認識に対して、背景で概感が構築されるという事も考えられる。
これは、
これまで考えてきた刺激ドリブンとでも言う考え方からすると、
基本的に意識となる刺激も概感も開始のきっかけは刺激であり、
刺激の場合は、刺激の構築の後、
刺激を認識した時点で意識に至るため、
刺激の認識の背景に概感があるという意識はされないと考えられる。
しかし、意識されないだけで概感が構築されないということではないと考えられる。
概感の場合は、刺激または概感からの想起対象として、
「刺激→概感」「概感→概感」という構築順序があると考えられ、
また、「概感→刺激」という順序は無いので、
概感の想起の背景に刺激があるという意識のされ方はありえるが、
刺激の背景に概感があるという意識のされ方は無いと考えられる。
これは意識の生じる順番による意識のされ方の違いで、
刺激の認識についても、概感の想起についても、
意識されるタイミングで、その直前の関連する事象が背景に残り得るかの違いから、
この様な意識のされ方の違いが生じると考えられる。
これは以前考えた事象再生の場における刺激と概感が別々のレイヤー構造を取っている事から考えた。
・知能の観測者としての視点から、事象再生の場を観測した場合、
事象再生の場の2つのレイヤーは概感が刺激をオーバーラップして、
同時に意識されるのではないかという事。
ただし、刺激と概感が同時に意識されるのではなく、
意識は刺激か概感のどちらかをフォーカスしているのではないかという事。
つまり、全体として事象再生の場で刺激が再構築された状態のまま、
概感が構築される場合があるのではないかという事。
これは、以前も同様の事を考えたが、今回はもう少し詳細について気づく事になる。
・この事象の観測の意識のフォーカスは、
境界から生じる抽象的な情報である主観的体験を感じる存在に対して、
知能の観測者としての視点からフォーカスされるものであるという事。
・意識のフォーカスは、事象の情報の精度という点にも働き、
情報に対する注意の範囲を指定することになるという事。
つまり、事象再生の場の情報に対して、範囲を広げれば、
注意する範囲が広がるが、個別の情報の精度は落ちるという事。
逆に注意する範囲を狭めれば、個別の情報の精度が上がるという事。
この時の情報の精度は、認識でも想起でも、
ある情報量には限界があり、(例:短期記憶のマジカルナンバーの概念等)、
その範囲内において1つの事象を構成できる情報量が変化するという事。
つまり、複数の事象を同時に意識しようとすると、個別の事象を構築する為の定義が減り情報量が減り、
事象の数を絞れば、個別の事象を構築する為の定義が増え、情報量も増えるるという事。
・これまで、刺激と概感の定義から、存在である情報が構築される際に、
この定義の境界に主観的存在となる存在が抽象的に生じると考え、
刺激の認識と概感の想起は、背反的に連続性を持ち、
結果として意識の連続性になると考えてきたが、
境界から背反的かつ連続的に情報が生じる事だけで連続性が成り立つのではなく、
知能の観測者としての視点も必要になるのではないかという考えになった。
つまり、刺激と概感の構築は場合によっては、
事象再生の場で刺激に対して概感がオーバーラップして構築される可能性が有るという事、
しかし、知能の観測者としての視点からの観測に対しては、
「刺激」だけ、または「刺激+概感」が観測される場合があり、
さらに意識のフォーカスとして、刺激だけ、あるいは概感だけが意識されるのではないかという事。
このような事に気付いた。
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2026/1/12
今日は昨日の考えの続きで、
主観的に意識のフォーカスを変えることが出来る理由や構造について考えていた。
これまでは、自構性や自己モデルといった後天的な「私」自身を構成する定義から、
「もっともらしさ」として考えてきた概感が想起される事で、
主体的な行動を起こしていると考えてきたのだが、
「もっともらしさ」自体がまだ漠然としたものであり、
これをもう少し詳しく構造解析のようなものが出来ないか考えていた。
そこで少しだけ気づいたのは、
刺激とその反応のように先天的定義で定義と反応の定義が決まっている場合、
入力される定義に対して、反応の定義は知能側が提供し、
自己の身体が媒体となり、定義が媒介し、行動を起こすという事。
つまり、自然界の事象を定義として受容した場合、
この定義に対する反応の定義は知能が、先天的定義を解釈した形で自己の身体に送り、
反応を起こさせる、という事である。
ここから考え付くのは、
「では、主観的に何か行動を起こす、起こせるというのは、
何かをきっかけとして知能が、何らかの定義から事象を起こし、
この事象を実体の身体に媒介させることで、主観的な行動などを起こしているのではないか。」
という事である。
もちろん、この定義は、先天的定義で無いとすれば後天的定義しかありえないのだが、
であれば、「私」自身が「もっともらしい」行動を起こす、起こせる理由というのは、
「私」を構成する定義から、刺激に対する反応にしろ、概感としての反応にしろ、
先天的定義にはない定義の事象を構築する事のできる構造にあるのではないかと考えた。
つまり、普通に視覚で景色を見る、これは先天的定義で完結するが、
その景色の中の「山」だけを「注目」して見る、これは先天的定義だけではなく、
自身が意図する目的が含まれる反応の行動という事になる。
この場合の「自分が意図する目的」を構築する場合、当然、後天的定義が必要になる。
つまり、「景色を見ること」についてだけ(見えるだけの事)の先天的定義以外の定義が含まれる事になる。
そして、この場合の「山だけを注目して見る」事は、
予め反応として決まっていて、それを決まった反応として行った、という考えが、
これまでの到達した地点であったが、
そこから先の「私」が自身の目的として行う「もっともらしさ」について考えると、
今、「私」がそれを目的として行う「もっともらしさ」は、どこに在るのかと考えると、
完全に偶然に、たまたま、「山」だけを見たいという結果に到達したわけではなく、
何か「私」の定義の中の、どれかの定義が、その「山」だけについて、
強く反応を起こす原因や理由を持っていたから、その結果に到達したのだろうという事に考えが至る。
つまり、ある事象群の入力の中から、
自身の個体が物理的に事象の定義を入力できる対象
(例えば、視覚で「見る」にしても、眼球の向きによって事象群はある程度物理的制約を受ける)
(もう1つの制約が上記のマジカルナンバーなどの一度に受容できる定義の制限・これも神経学的な物理的制約)
について、
「私」が反応を起こすべき事象が含まれていて、
そして、先天的定義でない、後天的定義の定義の中からという条件から、
知能が、その受容できた定義に対する反応の定義を選択する事、
これが「もっともらしさ」という事になり、
この「もっともらしさ」というのは、後天的定義が元になっているわけだから、
過去の体験・経験によって、
前回「472:感覚と反転事象」の内容にある、
「私であった」再現に繋がる選択になるのではないか、という事になる。
つまり、単に過去の体験・経験を概感として再構築して想起し、反応とするのではなく、
そこには「もっともらしさ」の選択として、
「472」の最後に書いた課題の、
「事象再生の場で主体性が視点を持ち、事象に対して自分に起こった何かであると分かる構造としての仕組み」
の考え方としては、その相対する二面性のもう一面として、
「自分である事」に対する「自分らしいもっともらしさ」という定義の選択になるのではないか、
という事になる。
つまり、「自分」が存在として在るなら、その二面性は存在の二面性であるので、
定義:(存在):定義
であるので、存在が「自分」であるなら、
自分らしいもっともらしさの定義:(自分・存在):自分である事の定義
こういうことになるのではないか、という事になる。
つまり、考え方としては、「自分」という存在は、
後天的に定義される「自分」という概念の定義、これは「私」ということではなく、
一般的に抱く定義としての「自分」という概念の定義という事、と、
知能が選択した「自分」らしいもっともらしさとして、
ある事象に対する「私らしい」反応の定義が、相対した抽象的な存在、
という事になる。
「自分」が2つの意味で使われているので分かりづらいが、
もう少しまとめて言えば、
自分らしいもっともらしさとして用いられた定義:(自己モデル):一般的な自分という定義
このように書ける。
つまり、知能が実体の身体について、それが「自分」であると感じる場合、
実体の事象として存在する身体の自分についての定義と、
仮想的な自分についての定義(後天的に体験や経験した際の自己情報としての自分の定義)の間に、
「自分」の存在を感じる事になるという事となる。
意識のフォーカスから少し話がそれたが、
話を戻すと、つまり、知能が、実体の身体に対して自分であるという定義と、
自分とはこういう存在、こういう反応をする存在、そういった「自分」に対する定義が先にあり、
そこに「今ある状態や状況(上記の物理的制約を受けた状態で受容できる情報)」という、
複数の事象が受容された時に、
知能は「自分」であることに対して、「自分としてもっともらしい」反応が選択されるのではないか、
という事である。
これが意識のフォーカスに繋がることになるのではないか、というわけである。
つまり、恐らく先に持っているべき自分の定義は、経験や体験の記憶として後天的定義として持っていて、
ある状態や状況の事象を定義として受容した際に、
その反応として励起され概感として想起される事象の定義の組み合わせの中から、
「自分らしい」「もっともらしい」定義の組み合わせが事象として構築されて概感となる、
という事になる。
さらに言えば、前回の「感じの感覚」に似ているが、
「自分」がある状態や状況において、どのように「感じるか」に似た形で、
そのどのように「感じるか」についての反応として、
どのような反応なら「もっともらしいか」、という関連があると考えられる。
つまり、「感じの感覚」に後付けの形で、後天的定義が自分らしいもっともらいさの反応として、
構成されうるのではないか、という事になる。
仮に、選択が新規であれば、上記の様に、
「その反応として励起され概感として想起される事象の定義の組み合わせの中から」概感の定義が構成され、
選択の記憶があれば、それを主として、新しい状況や状態の変化があれば、
改めて、
「その反応として励起され概感として想起される事象の定義の組み合わせの中から」、
新しい組み合わせの概感が構成され、過去の選択と比較が生じる。
この様にして知能が自分にとっての「もっともらしい」選択が行われるのではないか、
という事になる。
これらの考えは、まだ私自身にも納得のいく構造ではないが、
現時点ではこのように考えている。
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そして、この事から考えられるのは、
知能が能動的に選択を行っているというよりも、構造的に選択が行われ、
この選択された事象を意識された結果として知能が観測した場合に、
自分が選択したと感じるのではないかという事。
さらに言えば、この構造的選択は、後天的定義によって更新されうるという考え方ができる。
つまり、例えば人間の知能においては、
初期状態においては、先天的定義がほとんどを占め、
その反応も本能的なものが占める事になるが、
体験や経験によって、後天的定義を得た後は、
単純に考えれば、先天的定義の反応と、後天的定義の想起が、構造的に自動的に起こり、
知能は意識の連続性を維持する為にも、この中のどれかを選ぶ必要性が出てくる。
実際には知能が「選ぶ」わけではなく、構造的に導出される、という事になる。
ただし、「感じの感覚」としては知能がこの結果を観測する事になり、意識されることになるので、
結果として「自分が選択した」と感じる。
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2026/1/13
その先の考えとして、
単に反応をするだけではない「注意」する必要性として、
例えば、「なぜ意識の連続性を維持するための構造が生命にとって必要だったのか?」
という考えができるが、
これは、
恐らく人間に限らず生命が、
ある環境や状態において、恒常性を保てるなら、
意識は途切れ途切れでも、極端に言えば意識が無くても問題はなかったはず、という事になる。
つまり、生命が恒常性を常に保てるなら、
それを維持する為の機能を得る必要さえないという事になる。
であれば、環境や状況、状態の変化に対して反応するということは、
その反応する事自体に対して即応できる連続性が要求されると考えられる。
つまり、例えば人間の知能が安心できる時に眠って意識を途切れされるのは、
恒常性が安定して維持されるからだという考えができる。
この場合、恒常性が崩れる「閾値」のようなものも考えられるが、
どの程度の変化であれば意識が必要になるのかと考えると、
まず、恒常性の評価自体が、どの定義(先天的定義か後天的定義)で行われるのか
恒常性が崩れる事になる閾値がどのようなものかについては、
これは生命デザインとでもいうべき個体種ごとの先天的定義が元になると考えられる。
基本的には先天的定義として定義されるべきものであり、
後天的定義で補正されることになると考えられる。
つまり、恒常性の崩れる閾値と関連して、
先天的定義としては先天的に定義されている、
後天的定義としては後天的に定義される、
と考えられ、現時点では明確な定義や構造は考えついていない。
そして、どの程度の変化から意識が必要になるのかについては、地球上の生命を参考にすると、
ある選択の結果に対して自然界や実体身体の状態や事象が変化し、
その変化を継続して受容する必要性が有る場合に意識が必要になると考えられる。
つまり、ある生命の選択が自然界にフィードバックされて、
その反応を継続的に観測する必要性が有る場合、という事になる。
つまり、単に受動的に反応するだけであれば、即応体制は必要になるが、
連続性自体は必要がない。
連続性が必要になるのは、ある反応に対して起こる次の反応がある場合、
という事になる。
つまり、あくまで私の仮説だが、
生命が能動的に自然界に反応としてのフィードバックを返すようになってから、
恒常性を維持する為の反応の連続性の必要性が生じ、
この連続性が後の知能の意識の発生にまで関係しているのではないか、
そして、その反応の次の連続性に対して注意が必要になったのではないか、
という考えになる。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。