2026/1/4-2026/1/10
感覚と反転事象
今回の気づきを先に書くと、
「主観的感覚は、自然界の事象を身体を境界とした時の反転事象と共に現れるという事。」
定義の階層と二面性理論で表すと、
自然界の事象(存在)
↓
接触の境界定義(定義)→主観的感覚(存在)→先天的定義(定義)
↓
反転事象(存在)
という事になる。
これをもう少し分かりやすく書くと、
主観的体験の感覚として感じるもの、
例えば身体が何らかの対象に接触した場合に、
自分が「触れた」と感じる触覚の感覚は、
自然界の事象に対して身体表面の感覚器官の受容体を境界として考えた場合に、
その身体内の内側に自然界の事象に対応する固有の事象が在る事で、
自分がその固有の事象に対して「感じた」と言える事になる。
つまり、境界を介して、自然界の事象に呼応するような形で、
身体内に自然界の事象に対応した事象が現れ、
この関係性によって境界面が現れ、抽象的な情報の存在が現れる事になる。
つまり、例えば、身体が自然界の何かの物体に接触して「触れた」と感じる場合、
自然界の事象として自然界の物体に実体の身体の表面が触れ、
この身体の表面に在る接触の感覚器官が反応し、接触という自然界の事象が生じ、
これに対して、触覚の感覚器官の受容体の励起から、
身体内では神経細胞ネットワークの励起が起こるが、
これまで通り、境界は神経細胞ネットワークの励起が務めるが、
その内側である身体内では、この接触した事象に対して、
1対1で対応する反転事象が存在として現れるという考え方となる。
反転事象といっても、情報の意味が反転しているという事ではなく、
境界を介した場合の、自然界側と身体内側としての「反転」という意味である。
この反転事象は、実際に自分が感じる感覚の二面性の内の一面を担うということになるが、
これを存在として「主観的感覚(存在)」とする場合、
この主観的感覚は、抽象的な情報として構築される事になるが、
上記のように「接触の境界定義」である、
自然界の物体と実体の身体が接触する事を定義とした一面と、
これに意味付けのもう一面を担う反転事象による境界の間に、
「主観的感覚」を構成する一面が現れ、
これを抽象的な情報として存在させるための定義、
これは恐らく先天的定義という事になるが、
事象の関係である定義と、先天的定義の間に、
この二面性から「主観的感覚」が存在として現れる事になる。
つまり、自然界の接触したという事象に対して、
身体内の反転事象が先天的定義を含む神経細胞ネットワークの励起によって、
この二面性の意味付けが行われることになる。
つまり、「触れた」感覚は、
自然界の事象として、自然界の物体と実体の身体が接触した事だけに意味付けしているのではなく、
身体内の「感覚」として身体内に反転した事象の意味付けを設け、
この二面性から「触れた」感覚が現れている、という事になる。
これまでは、刺激や概感において、「変化情報+自己情報」の境界に、
この意識やその主観的感覚が生じると考えてきたが、
その考え方をもう少し詳しく表したことになる。
ただし、ここでも未解決なのは、先天的定義から反転事象の意味付けが行われる、この「意味(感じ)」が、
どのように現れるのか、という事だが、
これは現時点ではまだその構造や構成には考えが至っていない。
ただ、これは前回の「471:私性のありかと意識の向きについて」でも考えた通り、
言及の無限後退に至るわけではなく、
先天的定義までの階層で止まると考えている。
つまり、生命の定義として先天的定義は在るが、
生命がその進化の過程で得た定義として確定したもので、
ある個体が生命として誕生した時点で固有の定義として展開済みのもので、
さらに下位の別の存在から提供される定義ではなく、
「在るべくして在る」としか今は言いようが無い。
あえて下位の存在を明記するなら「遺伝子内の遺伝子パターン」という事になる。
厳密に言えば、先天的定義も、自然界の中に在る規則性として定義となったので、
完全に下位の階層が無い、という事ではないが、
生命が自身で用いる定義としては、その生命の内側で閉じて確定している定義という事である。
恐らくこの先天的定義の在る意味・意義のようなものが分かれば、
つまり、この先天的定義を持つに至った経緯が分かれば、
「感覚の感じ」が生じ、
その意味付けの理由が解決できると思われるが、
まだ、これが思いつくには至らず、今は私にも分からない。
この答えとなるのは、先天的定義を得るに至った過程、
つまり、ある自然界の事象に対して生命が反転事象を定義(先天的定義)して、
その自然界の事象の意味を捉える必要性、
これについて考える必要があるという事になる。
ただ、今回の気づきで分かったのは、
例えば感覚として「触れた感じ」が、接触の事象をそのまま意味付けしたのではなく、
反転事象が現れる事によって生じる「境界」に「触れた感じ」が現れるのではないかという事。
他の感覚の例えなら、光を視覚で見た感じは、自然界の事象として光子の振動が目に入り、
視覚の感覚器官の受容体(桿体細胞・錐体細胞内のタンパク質)で受け、
これから神経細胞ネットワークの励起が起こるが、
この物理現象としての事象そのものに直接意味付けが行われるのではなく、
カウンター的な反転事象として、この光に対応した定義から現れる存在のもう一面が補われる事で、
この境界に「光の感覚」が現れるのではないか、という事になる。
つまり、光による神経細胞ネットワークの励起だけが、そのまま「光の感覚」になるわけではなく、
この光による神経細胞ネットワークの励起の延長上に、身体内の定義である先天的定義から、
反転事象としての存在のもう一面が接触する事で、その境界が生じて、
抽象的ではあるが、その情報が存在として現れるということになる。
そして、この反転事象の考え方を使うと、その他の感覚も、
現時点では生命的や知能的に、先天的に定義として決まっている事になるので、
その発出理由などは何とも説明のしようが無いが、
「感じる感覚」の説明としては、これまでよりも深い所に迫れたのではないかと考えている。
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上記の構成において、先天的定義を二面性で表すなら、
先天的定義は定義であるので、
存在:(定義):存在
の二面性から、
存在:(先天的定義・定義):存在
こういうことになる。
この場合、先天的定義の意味は、自然界の存在と、身体内の存在の間にあるので、
自然界の存在:(先天的定義):身体内の存在
という事になる。
この二面性の関係性は、どちらの存在にとっても、その反対側の存在は「反転事象」とも言えるのだが、
先に在るべきは自然界の存在であるので、今回は反転事象を身体内の存在とした。
そして、身体内の存在は、物理的な構造は自然界の存在や事象なので、
実際に物体として存在する身体ではなく、情報としての存在という事になる。
さらに、この二面性の関係の場合、「身体内の存在」は、
実際に対象とすることのできる意識される感覚であり、
何か実際にどこかに現れている「はず」とまでは言える。
そして、現時点でその現れる場所の候補であるのが、
「事象再生の場」であり、実際に現れる存在が、
刺激においては身体性、概感においては自構性(自己モデル)である、
自己情報として現れる存在という事になる。
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ただし、自構性自体も、概感が、
基本的には、
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)
であり、最新では、
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
このような構成であるので、概感の自己情報は、
概感の自己情報=後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
こうとも言えるので、
刺激も概感も、自己情報については、
事象再生の場に再構築した自己の身体性について扱える事になる。
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また、今の私の想像になってしまうが、
「感じの感覚」は、
その構造や構成を敢えて言葉で言えば、
感覚に限定されるので、
その意味付けの種類が有限であると思われるという事、
また、後天的に変化する事は無いと考えられる事、
また、同じ生物種であれば個体差は少ないと考えられる事、
また、前回の「私」の感覚同様、連続性が必要であるという事、
こういった内容が思いついた。
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2025/1/9
上記の補足になるが、
この考え方から感覚に対して意味付けを「行える」定義ということになると、
これは「先天的定義」という事になる。
そして、この定義は、現時点で考えられるのは、
後天的に得られるものではなく、先天的に確定して持っているべき定義という事になる。
また、確定している必要があるので、数理的には表したいが、
何らかの感覚を単純に数値で表して定義するものではなく、
何らかの構造として感覚をマッピングするような形で表した方が良いと考えられる。
恐らく数値で表すと、その数値に対する定義が必要になると考えられる。
そこで、
まあ、あくまで現時点の想像になるが、
反転事象や、境界の概念を用いるとすると、
自然界の事象に対する反転事象は、単なる数値ではなく、
「事象再生の場」に構築される「自分」に関連する「情報」という事になる。
つまり、「事象再生の場」には含まれるが、異なる「感覚空間」のようなものがあり、
同様に「身体性の空間」と接し、互いに向きを持ったベクトルの和が「境界の存在」になる、
という構造となる。
つまり、先天的定義について言えば、
その感覚となる条件と位置(配置)によって表したらどうか、
という事になる。
つまり、数値でその空間の位置を表すのではなく、
位置から意味を表したらどうか、という事になる。
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2026/1/10
今回の内容から残る問題は、
先天的定義の始まりは何であるか?
先天的定義の構造や構成がどのようなものであるか?
さらに、
事象再生の場で主体性が視点を持ち、事象に対して自分に起こった何かであると分かる構造としての仕組み、
この辺りが今後の課題となる。
一応この課題に対する今の考えとしては、
「先天的定義の始まりは何であるか?」については、
腔腸動物発生の辺りで初期の神経としての働きが見られるらしいので、
その起源を考えれば、どうにかなるのではないかと考えている。
また、「先天的定義の構造や構成がどのようなものであるか?」については、
ある感覚を定義するのに単なる数値で表すのではなく、
幾何的な空間配置として、感覚をトポロジーを用いて配置するのはどうかと考えている。
さらに、
「事象再生の場で主体性が視点を持ち、事象に対して自分に起こった何かであると分かる構造としての仕組み」
については、
前回(「471:私性のありかと意識の向きについて」)考えた、
観測者の視点から、事象再生の場に構築した身体性の情報に対して、
それが「自分」であるという定義ができれば良いので、
この構造について考えれば良いかと考えている。
一応、これまでも事象再生の場が2レイヤーである事は考えており、
この場合、知能の観測者としての視点から観測する対象が、
刺激と概感であり、
刺激ドリブンの考え方からも刺激側が優先されるとしても、
「私」という定義は概感の自己情報を後天的定義から構築した場合という事になるので、
「自分に起こった何か」である場合は、この事象の中の「私であった」情報がその対象となると考えられる。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。