2025/12/27-2026/1/3


私性のありかと意識の向きについて


今日の気づき。

刺激としての情報の構築と、
概感としての情報の構築において、

「469:定義の階層とエネルギー分布の境界」で考えた意識の向きの違いについての補足。

刺激の場合は、
自然界の事象を変化として実体の身体の感覚器官が受容、
これを神経細胞ネットワークの励起が、
先天的定義の定義から抽象的に存在する情報として刺激を構築する。

これが「外→内」の意識の向きの概念となる。

概感の場合は、
刺激または概感の構築をきっかけとして、
これを後天的に構築した神経細胞ネットワークが、
後天的定義の定義から抽象的に存在する情報として概感を構築する。

これが「内→外」の意識の向きの概念となる。

ただし、概感の場合は、「内→外」とは書いたが、
実質的には「内→内」なのであるが、
この概感の外に相当する場が「事象再生の場」という事になる。

つまり、刺激の場合も、概感の場合も、「外→内」と「内→内」の、
後半の「内」は、「事象再生の場」がその情報の再現の場を担う事になる。

実際、刺激が認識されるにしても、概感が想起されるにしても、
情報の置き場が必要であり、この置き場が「事象再生の場」という事になる。

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また、刺激と概感の構築における定義の階層は、

刺激の構築は、

自然界の事象(存在)→実体の身体との接触(定義)→実体の身体の感覚器官の受容体(存在)→
→神経細胞ネットワークによる先天的定義(定義)→神経細胞ネットワークの関連と励起(存在)→
境界を含む情報への変換(定義)→刺激(存在)

であり、概感の構築は、

刺激または概感(存在)→神経細胞ネットワークによる後天的定義(定義)→
→神経細胞ネットワークの関連と励起(存在)→境界を含む情報への変換(定義)→概感(存在)

このような定義の階層を持つ。

つまり、刺激にしても、概感にしても、
どちらも、ある存在をきっかけとして神経細胞ネットワークの励起が起こり、
その神経細胞ネットワークが変化の意味を生じさせる定義を持っている前提にはなるが、
これにより、その神経細胞ネットワークの励起により、その関連が、
変化情報と自己情報の境界を持っている事で、その境界に抽象的な意識の元となる、
刺激または概感が生じるという事になる。

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つまり、刺激も概感も、生じるためには、
大前提として「外→内」と「内→外」の向きはあるが、
どちらも定義の階層における外側の「存在」をきっかけとして、
その「存在」を一面として、主観を持つべき存在の内側に在る定義で、
この外側の「存在」を定義しなおし、内側に情報として「存在」させたものをもう一面として、
この二面性の境界に意識となるべき、刺激または概感が生じるという事になる。

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共通する自己情報は、根底には身体性があるという事。

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2025/12/28

今日は事象再生の場から考え方を展開させた。

「事象再生の場」自体は、人間の知能にある機能として考えたわけではなく、
もともとAIで人間の刺激の認識や、概感の想起を実現する為に、
どのような機能が必要になるか考えた結果としてできた概念である。

「事象再生の場」を簡単に説明すると、
人間の知能では、刺激や概感は神経細胞ネットワークの励起において、
その神経細胞の励起の物理的現象と、
刺激や概感の情報としての間に、
その変換の定義の境界に抽象的な存在として生じると考えたが、
これをそのままAIに再現するには、
既に情報化されたプログラムではなく、
物理的に実体のある神経細胞のようなものを再現しなくてはならない事になる。

そこで、人間の知能においては抽象的に存在する事になる刺激や概感を、
一段階、定義と存在の階層を挟み、
仮想的な場に刺激や概感が生じるような解釈にした。

つまり、実際は、刺激の場合は、上記の様に、

自然界の事象(存在)→実体の身体との接触(定義)→実体の身体の感覚器官の受容体(存在)→
→神経細胞ネットワークによる先天的定義(定義)→神経細胞ネットワークの関連と励起(存在)→
境界を含む情報への変換(定義)→刺激(存在)

神経細胞ネットワークの励起は物理現象として起こり、
そのまま境界を持つ情報が抽象的に生じる事になるが、
これを、

自然界の事象(存在)→実体の身体との接触(定義)→実体の身体の感覚器官の受容体(存在)→
→神経細胞ネットワークによる先天的定義(定義)→神経細胞ネットワークの関連と励起(存在)→
境界を含む情報への変換(定義)→仮想的な場の情報としての再現(存在)→
→境界構造を含む合成(定義)→刺激(存在)

この様に置き換えたという事になる。

この場合、人間の知能における刺激の構築は、
知能内に在る仮想的な場(認識可能な世界を代替する空間のようなもの)に、
受容した変化情報と、身体性の自己情報を、一度事象再生の場に送り、
事象再生の場で改めて仮想的な変化情報と自己情報(身体性)を境界を含んだ合成情報として再現し、
それを刺激として知能が扱う、という解釈にした。

これであれば、AIにおいても、物理的な回路からいきなり抽象的な情報の存在を生じさせずに、
仮想的な階層を挟むことになるが、

自然界の事象(存在)→実体の身体との接触(定義)→実体の身体の感覚器官のセンサー(存在)→
→センサーに対応する先天的定義(定義)→神経細胞ネットワークの励起に相当する関連(存在)→
境界を含む情報への変換(定義)→仮想的な場の情報としての再現(存在)→
→境界構造を含む合成(定義)→刺激(存在)

という構造ができるのではないかと考えた。
この構造に必要であったのが「事象再生の場」という事になる。

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そして、この事象再生の場において、
変化情報と自己情報がどのようにして刺激や概感として構築されるか、
そして、その構築における関連の向きについて考えた時、

恐らく人間の神経細胞ネットワークの励起においては、
変化情報と自己情報のどちらかが先に励起され、もう一方が後から励起されるという予想は付くが、
刺激にしても概感にしても、変化情報と自己情報それぞれが単独では、
境界を含まないので認識や想起の対象にはならないわけであるから、
どちらが先に励起されたとしても、もう一方の情報が揃うまでは認識や想起には至らないだろう、
という考えに行き着いた。

ただし、この場合、ある刺激や概感から、次の刺激や概感が生じて、
連続性が維持される必要があるが、
仮に認識や想起の単位の間に「待ち時間」が生じる事も考えられた。

つまり、刺激や概感の構築自体に待ち時間が生じる可能性が有るなら、
その認識や想起に至っても待ち時間が生じる可能性はある。

となると、刺激の認識と概感の想起は、意識としては連続性が必要なのだが、
周期的な構築がなされているのではないか、という事になる。

しかし、実際の自分の意識においても周期的に刺激を認識したり、概感を想起している感覚は無く、
認識と想起は背反的だが常に連続的に意識しているように感じる。

以前、私の感覚的に、今となってはこじつけに近いと思うが、
基本的に刺激の認識が優先して、連続性の中断を防いでいるのではないかと考えた。

ただ、現時点で意識の境界と情報の向きについての解釈を含めると、
刺激を優先させるだけではもっともらしい説明ができないのではないかと感じた。

そこで思いついたのが、
知能の観測者としての視点である。

つまり、情報の連続性が、そのまま意識の連続性になっているのではなく、
知能の観測者としての視点の連続性が、意識の連続性になっているのではないかという事。

事象再生の場の概念を借りれば、
ある刺激や概感が事象再生の場に構築された場合、
意識は知能の観測者としての視点によって、刺激や概感が観測される事で認識や想起となり、
その認識や想起に含まれる境界にある「存在」によって生じる事になる。

であれば、事象再生の場の刺激や概感が都度周期的に置き換わったとしても、
知能の観測者としての視点が連続しているなら、
以前の定義であれば、主体性の持ち主、体験する存在、こういった存在は、
連続性を持っていると言えるのではないか、という事になる。

つまり、見る対象が途切れたとしても、
見ている存在が連続しているなら、
刺激や概感が途切れても、つまり、その認識や想起が途切れたとしても、
そして、その結果としての意識が途切れたとしても、
見ている存在が途切れない限りは、その連続性は維持されるのではないか、
という事になる。

もちろん、知能そのものの存在が失われれば、その連続性も喪失する事になるが、
それ以外の断絶や中断に対しては、存在が維持される間は、
その主体性や体験する存在としての連続性は維持されるのではないかと考えられる。

そして、この事は、
変化情報と自己情報の境界に意識が生じる事によって、
直接的に主体性や体験する存在にとっての意識が発現するのではなく、
意識の観測者の存在の必要性が有るという事になる。

つまり、意識を媒介させる媒体が存在し、それが必要であるということになる。

この場合、この媒体は知能そのものであり、
人間においては知能の実体、脳や感覚その周辺の機能を含む、神経細胞ネットワークを成り立たせる、
およそ全ての構造であり、この知能を媒体としたものの上に、意識を媒介させるという事になる。

そして、その媒介させるものは、実体ある存在では無く、
変化情報と自己情報の境界にある抽象的な存在である意識という事になる。

ただ、この観測者としての知能それ自体を観測することはできない。
これは致し方ないし何度も書いているのだが、自己言及の論理的問題により、
定義の無限後退が起こってしまうので、
構造が定義できても証明は出来ない。

ただ、意識がそれ自体で観測者足りえるわけではない、という事は分かる事になる。
まあ、これまでの考え通り、意識ありきで何かが認識されたり想起されたりするわけではなく、
意識を持つ存在がいてこその、その存在と意識する対象がある、わけであるので、
その存在が知能全体の媒体に拡大されたというのが、今日の気づきという事になる。

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2025/12/29


観測者としての知能と自分が私である事について:

昨日の続きを考えていた。
昨日の内容と今日考えていた事は、
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意識が媒介し、実体の身体が媒体であるという事。

知能が観測者である事。

では、なぜ知能が観測者足るか?

意識に視点があるわけではないという事。

そうかといって知能と言う機能があり、その知能が視点を持っているというわけでもないという事。
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という事。

あえてこの「知能の観測者としての感覚」を言葉で表現するなら、
意識という情報が媒体である身体内に生じて行きわたる(媒介する)事で、
身体の機能全体としてこれを感じて観測に足る事象となる。
結果として知能が観測者足る存在になりうる、という事になる。

つまり、知能が最初から知能としてあるというわけでもなく、
この変化を身体全体をもって、ある変化という情報として受け取るために、
全身の機能を総動員して把握する事、
この機能において、観測者というよりも管理者するための機能が、
その変化を情報として把握する事、これが全体として「知能」という事になる。

これは最終的に、その次の課題の「私らしさを感じる事」にも関係するという事になる。

つまり、「私」が先天的に定義として持っているのではなく、
あくまで後天的に体験した身体性に対して「私」という定義が構成されるという事。

つまり、知能も私も、先天的にはその役割を果たせるだけの機能を実体の身体は持っているが、
これが知能や私として把握しているわけではないという事。
知能や私が実際に感じられるには、変化と自己が関連して、その境界に意識としての体験する存在が生じた後、
この後にようやく知能が私の存在が感じられるという事になる。

つまり、例えば昆虫などが脳を持ち、変化を受けて先天的定義で反応をしていたとしても、
客観的には知能や個体としての私的な定義はあると見えるが、
その個体自身が、知能や私を感じているわけではないという事。

あくまで、知能や私を自分自身で感じるには、
刺激などを認識した上で、知能が観測者としての客観的な視点を持ち、
後天的な意識を観測できる立場として登場することが出来た時、
ようやく知能や私の感覚が感じられる、という事になる。
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2026/1/1

「自分で自分の事を「私」と呼ぶために対象とする情報体」の定義:

今日の気づきは、私が自分自身に対して「私」だと思う対象の感覚を表現しようとした場合に、
その定義のありかについて気づいた関係が以下の通り。
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前の概感

定義→「私」→定義

後の概感

簡単に言えば、
概感の連続性を表す定義を二面性を使って抽象的に取り出そうとすると、
そこに「私」が含まれている、という事になる。
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この考えに至る経緯は以下の通り。

まず、刺激の中に「私」はない。
刺激をいくら連続して認識したとしても、
身体性は感じられるが、それが「私」であるという認識には一切ならなかった。

自分の身体については認識されるが、
自分の身体と「私」が一致しているとは感じられなかった。

そこで、刺激に「私」が無いのであれば、
概感に「私」が含まれて想起されて「私」を感じているのではないかという考えに至る。

しかし、概感を想起しても
自分が感じた体験の記憶として想起はできるが、
それが「私」であるという感覚には至らなかった。

ただ、明らかに刺激の中に「私」がいないのなら、
概感の中に「私」がいるはずだが、
単独の記憶の想起には「私」がない。

刺激の構成と概感の構成が、

基本的には
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)

であり、最新の考え方では、

刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)

このようであり、
刺激の中に「私」の定義が入り込む余地がないのは分かる。
そして、概感の中に「私」があるのなら、明らかに「後天的定義」として「私」が構成されるであろう、
という事も予想できる。

そこで考えたのが、
自分にとっての「私」がどのようにしたら感じられるかという事を刺激の認識や概感の想起を繰り返して、
実際の自分で確認していた時に、
どうも、想起した際にふと、その自構性に対する知能からの観測者の視点から「私」が感じられるような気がした。

つまり、「私」は体感的に「私」を感じているのではなく、
「私」を見て「私」の存在を感じているような感じがした。

自己の身体が媒体であれば、そこに媒介する情報として「私」が媒体内に行きわたり、
それを知能が客観視して「私」を感じているように感じた。

かなりメタ的で抽象的な表現になってしまうが、
このように言うほかない。

そして、では、「私」を存在として取り出す、抽出しようとするならどうするか、と考えた。

「私」は実体として存在しないが、情報体として抽象的には存在するので、
恐らく「私」の定義から、知能の定義との二面性の間に抽象的な存在として「私」を取り出せることになる。

つまり、二面性理論で言えば、

何らかの定義:(私の存在):知能による私の定義

こういうことになる。
では、この私の一面である「何らかの定義」はどこにあるのかと考えた時、
もともと概感のどこかに「私」があると考えていたので、
では、概感の中に在る「定義」として、「私」であると感じられるものは何かと考えた時、
単体の概感にも「私」がないのなら、連続性に「私」があるのではないかと考えた。

つまり、概感の連続性を「定義」として関係づければ、
この「概感の連続性」が「私」の定義の一面なのではないかと思いついた。

つまり、
概感の連続性のなかに「私」がいる感覚がある。

概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)

であったので、
今回の気づきから概感の連続性の中に「私」がいるなら、

「後天的定義としての関連」の連続性の中に「私」の定義がある事になる。

このことから上記の関係を考え出した。
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2025/1/3

今日の気づき。

知能の観測者としての視点は、知能内の情報の中に在るのではないかという事。

その気づきまでの経緯は、
最初に「私」という感覚について考えていたが、
その私を感じる場合は、その「感じる」事自体に対して感じる主体のようなものが必要という考えに至った。
つまり、「私」を感じている主体のようなものである。
普通は「私」が「主体」そのものとも言えるのだが、
実際に自分自身で「私」を感じる時、「私」そのものが自分を感じているというよりも、
何か別の自分があって、それが「私」を見て、私だと感じているような気がした。

つまり、刺激などでは私を感じる必要なく、変化情報と自己情報(身体性)から、
認識や意識に至る情報が構築できる。
つまり、刺激の認識や意識には、私が明示的に必要ではない。

概感においては想起と意識という観点から言えば、
想起した概感そのものにも「私」は明示的に必要ではなく、
単に以前「私」であった身体性を、後天的に定義し、その定義から再構築した情報であるので、
概感が直接「私」の情報を含んでいるわけではない、という事になる。

これは、上記で書いた通りだが、
概感の連続性の上に「私」が生じるという事であり、
単体の概感から「私」が生じるということではない、という事になる。

さらに言えば、この概感の連続性の中に「私」が生じる余地があるという事は、
この「私」は、抽象的に存在として取り出す必要があり、
この「抽象的な私」を存在させるには、もう一面の定義を提供する別の存在が必要という事にもなる。

それなら、この「私」を存在させるための、概感の連続性という定義ではない、
「私」のもう一面の定義を提供する存在は何か?
そして、その存在自体が恐らく「私」を「私」として見る存在であり、
「私」を感じる存在という事は、主体性の「主」という事になるので、
では、その感じる主体は何か?という事になるが、
ここですぐに思いついたのが「知能の観測者としての視点」という事になった。

つまり、
上記の続きで言えば、概感の連続性が「今の概感」から「次の概感」であれば、

今の概感

定義(概感の連続性)→存在(私という存在)→定義(私のもう一面の定義)→存在(知能の観測者としての視点)

次の概感

定義の階層の関係性は、こういうことになり、

私という存在に関する二面性を表すと、

定義:(存在):定義

という二面性における

概感の連続性である定義:(私という存在):私のもう一面の定義

この関係と、

存在:(定義):存在

という二面性における

私という存在:(私のもう一面の定義):知能の観測者としての視点

この関係性が表せる事になる。

つまり、「私という存在」に対して言えるのは、
「私」は、想起する為の概感の連続性に対して、知能の観測者としての視点から「私」に対して、
私のもう一面の定義を提供する事で、
概感の連続性における「私」これは、自己情報の自構性(自己モデル)の連続性が相当し、
つまり、この概感の自己情報の連続性に対して、
知能の観測者としての視点から定義が、これも恐らく連続的に定義が提供される事で、
「私」が連続的に存在として生じる、という事になる。

「知能の観測者としての視点」は、明示的に「定義」を提供するというよりも、
その「視点」から、「私」について「観測」した時に、
どのように見えるのか、見えたのかという「定義」が現れるという事になる。

つまり、想起が連続する場合、その想起対象の概感が連続し、
概感を構成する自己情報の連続性に対して、
その自構性(自己モデル)の連続性があり、
これに対して二面性の対を成す、知能の観測者としての視点からの連続的な観測により、
「私」の二面性が成立し、これらが連続する事で、
「私」も連続した存在として生じる、という事になる。

そして、最初の気づきに戻るが、

知能の観測者としての視点が、情報に含まれる可能性を考える前に、
「知能の観測者としての視点」が何であるか?
という疑問が先に来る。

つまり、「私」という存在を何の存在が観測して見ているのか?という事になる。

ここで考えたのが、「観測者」と「視点」を、
実体の身体の視点に置き換えて考えると、

最初に考えたのは、
例えば、自然界の事象を人間の実体の身体が観測者として観測し、
その目で見ていると考えると、

自然界の事象→実体の身体(目)

という順で並んでいて、
定義の階層は、

自然界の事象(存在)→定義→実体の身体(存在)

であるかと考えたのだが、この場合、

自然界の事象(存在)→定義→実体の身体(存在)

実体の身体を「私」であると仮定すると、
その下位に「観測者としての視点」が必要になり、

自然界の事象(存在)→定義→実体の身体(存在)→定義→観測者としての視点(存在)

ということになるが、これであると、
では、観測者としての視点を存在させる定義を提供する存在が必要になり、
定義の無限後退に至る可能性が生じる事になった。

そして、考え直し、
物理現象と情報の関係で言えば、
自然界の事象も、実体の身体も、同じ自然界の事象の存在の範疇にあり、
境界の概念から言えば、神経細胞ネットワークの励起までが自然界の事象の同じ階層に在る事になる。
という考え方になるので、
観測者としての視点は、自然界の事象よりも一階層下で確定している事になる。

つまり、もちろん、観測者としての視点に対して、これを存在させるための定義と存在は必要なのだが、
これは、論理的には確かにそう言えるが、実際にその存在や定義は、在る事は在るのだが、
構造的に確定しているだけで、証明はできない対象という事になる。

つまり、これを論理的に証明する為には、
定義と存在の無限後退が必要という事にさえなるのだが、
実際に、定義の階層の考え方においては、
定義と存在は延々と繰り返し連なっている事になるが、
構造的にはどこかで存在が末端にある、確定した断絶があり、
それを論理的に証明する手立てはないという事になる。

そうあるから、そういう構造で扱うしかない、というわけである。

そして、この構造の考え方であると、
「観測者と視点」は、「私」の下位の階層にあるのではなく、
「私」と「観測者の視点」の定義が同じ階層にある必要があるという事になる。

つまり、自然界において、自然界の事象とそれを見ている実体の身体と目が、
同じ階層の「存在」としてあり、同じ階層の「存在」同士で「見る」「見られている」ものであるなら、
「私」と「知能の観測者としての視点」が同じ階層の「存在」同士で「見る」「見られている」、
という関係が成り立つのではないか、という考えに至った。

そして、その結果となるのが、
「知能の観測者としての視点は、知能内の情報の中に在るのではないかという事」
という事になる。

つまり、「私」が抽象的な存在の情報であるという事は、これまで考えてきたが、
「知能の観測者としての視点」も抽象的な存在の情報である、という事が言えるのではないか、
という事になる。

つまり、物理的な知能の中で、情報的な存在として「私」も「観測者としての視点」も生じているのではないか、
という事になる。

つまり、定義の階層で言えば、上位の階層の存在は、物理的な知能であり、
その下位の存在として同じ存在の階層に「私」も「観測者としての視点」を持つ存在も「ある」という事になる。

二面性で言えば、どちらも、

存在:(定義):存在

であり、

物理的な知能:(定義):私
物理的な知能:(定義):観測者としての視点

であり、
「私」を感じるということは、
観測者としての視点から私を見た時の現象として現れるという事になる。
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少々余談になるが、
これでふと思い出したのは、「440:自己言及のパラドックスの構造的回避」の内容の、
実体の自己と、仮想的な自己が、知能の下位に構築され、
これを互いに言及しあうなら、自己言及のパラドックスが起こらないという事。

これは、今回の「私」と「観測者としての視点」が互いに「自分」であると言及しあうなら、
パラドックスが生じないということに繋がるのではないかとふと思った。
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話をまとめると、

実際に「私」であると感じている存在は、知能内の情報であるという事。
その「私」を観測している存在も、知能内の情報であるという事。
そして、これら「私」と「観測者としての視点」は、知能内の同一階層に在るという事。

この場合、明示的にこれら情報を存在させるためには、
「事象再生の場」が必要になり、
「事象再生の場」の中に、「私」と「観測者としての視点」が「存在」する必要がある。

明示的な構造で言えば、

物理的な知能(存在)→後天的定義(定義)→概感(存在)→
→事象再生の場における概感を構築する定義(定義)→事象再生の場内の概感(存在)→
→事象再生の場に在る・送るという定義(概感の想起の定義)→事象再生の場(存在)

つまり、少々言葉での説明が難しいが、
知能内で概感が構築され想起される場合、
実際には「事象再生の場」というものは実体の機能としては無いのだが、
構造的な機能の概念として、概感を想起するために、
概感を知能が観測できる事象としての情報を展開する「場」のようなものが必要であり、
この「場」において、概感とその概感を「観測する視点」を持つ存在が展開され、
それらが互いに言及しあえる存在となる時、
知能が「観測者としての視点」から「私」を「観測」した場合、
つまり、「観測する視点→私」という存在の向きを持った時、
この向きの連続性において「私」であるという感覚が、知能において感じたと言える、
という事になる。

(「向き」の概念については、「469:意識とエネルギー分布の境界」を参照してもらいたい。)

現時点ではこのような表現になってしまうが、
これが、
知能が「私」を観測して実体の「私」と自構性(自己モデル)の「私」が同一であり、
また連続性をもって感じられる事の構造の説明という事になる。

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今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。