2025/12/26-2026/1/4


自己の一意性と連続性


今回は意識における自分らしさ、
つまり、意識がなぜ自分の意識として感じられるのかという点、
自己の一意性と、その連続性について考えてみる。

大筋においては、
自己情報の何かと意識の連続性が関わっているという事になるが、
その関係についても考えてみる。

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私らしさの根源:

自分が自分であるという事は何かに確認する必要はない。
自分が自分であると主張できる事でそれは分かる。

仮に自分が自分について主張する存在がどちらも自分でないなら、
自分と関係のない他人が他人について語っている事のようなものである。

また、仮に自分が自分について主張する存在のどちらかが自分であり、
もう一方が自分でないのなら、鏡に映った自分を自分であると語っているようなものである。
これは、以前考えた自己言及のパラドックスそのものである。

ということは、自分が自分について主張するなら、
まず、主張する存在も主張される存在も、
どちらも同じ自分である必要があるという事が分かる。
そして、この時の自分の視点は、自分を観察する存在として、
その起点が同じである必要がある。

定義の階層と二面性で言えば、
自己言及のパラドックスを構造的に回避した状態で、

実体の自己身体(存在)→先天的定義(定義)→刺激(存在)→事象再生の場での再構築(定義)→
→自構性・自己モデル(存在)

この関係において、実体の自己身体が口を使って、
刺激で感じた存在に対して、自構性(自己モデル)を「これが自分である」と語れば良い事になる。

この場合、
実体の自己身体(存在):
これは、物理的に人間として存在する実体である。

先天的定義(定義):
これは、物理的身体の脳内に知能の定義として先天的に展開された神経細胞ネットワークで、
実体の自己身体の身体性と、感覚で受容できる感覚の定義である。

刺激(存在):
これは、実体の身体が感覚を使って受容した変化と、その変化を受容した部位に相当する身体性を、
先天的定義を用いて構築する情報であり、

刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)

このような構成で、
神経細胞が実際に励起された場合に情報として構築されるものである。

事象再生の場での再構築(定義):
これは、刺激が単体で構築されるわけではなく、
ある瞬間に同時に存在する意識対象の全てが再現される場となる。

自構性・自己モデル(存在):
これは刺激などを体験し経験した場合に、後天的に関連した神経細胞ネットワークが、

概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)

この様な関係性で想起される対象となった場合に、
「後天的定義としての関連+自己情報(身体性)」この部分が相当する事になり、
言葉で説明するなら、ある「変化情報」に対して思い出される過去の自分の実体が体験した身体との関連となる。

つまり、想起対象の概感において、想起された時に過去に自分の実体が体験した時の身体性の記憶、
という事になる。

言葉で表すのが少し難しいが、
つまり、以前、自分が刺激を体験したときの自分の実体の記憶を、思い出そうとする時に、
後天的定義の関連と共に励起される、以前の自分の実体であった身体性を合わせたもの、
つまり、「体験した時に自分であった身体性」ということになるだろうか。
言い直せば「刺激を構成する自分であったもの」とでも言えるだろうか。

そして、この場合に、
「実体の自己身体が口を使って、
刺激で感じた存在に対して、自構性(自己モデル)を「これが自分である」と語れば良い」
ということであるので、

「物理的に人間として存在する実体」が、口を使って、
「自己情報(身体性)」に対して、「刺激を構成する自分であったもの」を、
これが自分であると語るなら、それがパラドックスを回避した自己言及になる、

そして、それを行わせるのが「知能」であり、
実行するのが「実体の身体」である、必要がある。

という事になる。

まあ、簡単に言えば、知能が主体性を持つ観察者であるので、
知能からしてみると、物理的実体の身体と、事象再生の場にある自構性・自己モデルが、
互いに自己であると言及する限りにおいては、
互いの存在は定義の階層において同じ階層に無いので、パラドックスは生じないという事になる。

これは、上記の

「ということは、自分が自分について主張するなら、
まず、主張する存在も主張される存在も、
どちらも同じ自分である必要があるという事が分かる。
そして、この時の自分の視点は、自分を観察する存在として、
その起点が同じである必要がある。」

これにおいて、知能が観察者としての視点を持ち、
実体の身体と、仮想的な自構性・自己モデルについて互いに自分であると語るなら、
この条件を満たすことになる。

これは以前からの考えの通り、
刺激の認識と概感の想起の背反的な意識の連続性の中に在る二面性という事になる。

つまり、知能が観察者としての視点を持つなら、

知能→刺激の認識

概感の想起

知能が連続的に「刺激の認識」か「概感の想起」のどちらかの中の境界にある意識を、
連続的に観察し続ければ良いという事になる。

そして、この知能の観測者としての視点が、意識の連続性の上に、
常に同じである事で、自己の一意性に繋がるという事になる。

さらに、この場合、刺激における自己情報である身体性と、
概感における自己情報である自構性(自己モデル)が、
それぞれの「私らしさ」として感じられるものという事になる。
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次回はもう少し「私」についての内部構造について考えてみる事にする。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。