2025/12/5-2025/12/22
意識とエネルギー分布の境界
今回は、できれば前回の内容を踏まえたうえで、
以下の内容を読まれる事をお勧めします。
前回「468:定義の階層における「定義」の定義」で、
定義と存在の階層構造について考え直したが、
今回は、定義の階層におけるエネルギー分布の考え方を、
意識やクオリアが現れるための境界にあるのではないかと考えられる「要素」のような対象について、
考えてみる。
つまり、現時点では、定義の階層における、
ある定義の境界に存在として意識などが現れるという考え方になるが、
では、この境界における存在の二面性を構成する定義は何であるか、
また、意識などの存在は、その境界においてはどのように生じるものであるか、
これについて考えてみる。
------------------------------------------------------
現時点でおよそ見当がついているものは、
例えば刺激などにおいては、
意識などの存在は、意識を含む「体験する存在」として考えると、
これまで通り、
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
であるので、変化情報と自己情報を関連付ける先天的定義のどこかから、
「体験する存在」が生じるという事になる。
また、想起する対象の概感もこれまで通り、
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
であるので、刺激を体験した時に、先天的な定義として存在しない、
変化情報と自己情報の関連を後天的に定義したものである、
後天的定義のどこかから「体験する存在」が生じるという事になる。
また、意識などの存在は情報の境界を持つ抽象的なものとして考えられ、
実体があるわけではない、という事も言える。
また、境界単体を存在として表すためには、
「468:定義の階層における「定義」の定義」で考えた
------------------------------------------------------
つまり、事象を構成して、知能が意味付けする情報の要素、
これらだけではルールや規則が構成出来るわけではなく、
あくまで要素を関連付けた時の「境界」に抽象的な存在が生じるのではないか、
という事になる。
------------------------------------------------------
こういう事から、
単に関連が意味を生じさせているわけではなく、
刺激であれば、刺激という情報全体に意識などが含まれるという事になる。
つまり、
それぞれ単体では成り立たない、何らかの「要素」が、
複合的に関連する事で「要素」が「意味」を持って成り立つという事になる。
それを、仕組みとして今回は突き止めようとしている、という事になる。
「468:定義の階層における「定義」の定義」でも例に挙げたが、
「痛い」という事は、それ単体では意識的には意味が無いが、
「手が痛い」という事は意識的に意味が生じている。
当然、「手」だけでも意識的には意味が無い。
「手が痛い」から、
「痛みを持つ→手」と「手→痛みを持つ」
という二面性の間に「意識」のようなものが生じるという事になる。
この概念を何とかして取り出して定義しようということである。
今1つ思いついたのは、
二面性を一面ずつに分解し、
ある一面から見た境界面を射影に落とし、
また逆の面から見た境界面を射影に落としたらどうか、という事。
何か、この「差」の中に存在と定義はできないだろうか?
例えば「痛み」自体から見た時、「手」は「痛み」で照らす対象のようになる。
逆に「手」自体から見た時、「痛み」は「手」が触れる対象のようになり、
また追加で、感覚として自分に返ってくる対象のようになる。
視点→「痛み」→「手」→射影「手が痛い」
視点→「手」→「痛み」→接触「手が痛い」
つまり、この2つの視点において、どちらが意識的であるかというと、
明らかに「手」が先の側から見た時である。
まあ、意識が主体的で主観を持つ「存在」であるから、
手という身体性は主体的にも不可欠であると考えられるが、
ということは、意識が境界にあるといっても、
どちらかに存在が偏っている可能性はある。
また、定義の関連の連続性の観点から言うと、
定義の関連における励起の連続性から考えると、
刺激としては痛みも手も両方とも再構築される必要があるが、
これは、同時というよりも、必ずどちらからかの偏りで、
順序があるのではないか、と考えられる事になる。
刺激の構築の関連の連続性において、
イメージで考えてみると、
仮に「痛み」が先行して、後付けで「手」が再構築されると考えると、
「痛み」で後から来る「手」を照らし、その射影が「手が痛い」という刺激の縮約ということになる。
また、「手」が先行して、後付けで「痛み」が再構築されると考えると、
「手」が出来て、そこに「痛み」の範囲で切り出す(浮彫にする)射影が、
「手が痛い」という刺激の縮約という事になる。
つまり、どちらにしても、「痛み」も「手」も必要なのではあるが、
刺激の生じ方が少し異なるという事になる。
ただ、私の感覚で言えば、目を閉じて自分で手を反対側の手で何度も叩いてみると、
「痛い」が先に来るような感じ、「痛い→手が」という感じはするし、
よくよく思い返してみると、「痛かった→手が」という感じで思い返せる。
普通に考えれば「手」が先で「痛み」が後の方が都合が良い感じはするが、
実際の感覚としては「痛み」が先で「手」が後の様に感じられる。
刺激の認識の連続性で考えると、
恐らく「痛み」が先である方が生物的には問題が少ない。
反射や概感の想起が反応が早くできるからである。
そして、意識の一意性と連続性から
同時ということはほとんど考えられない。
変化情報が先か?
自己情報が先か?
では、どちらが正しいのか?
ただ、例えば反射などで熱い物を触って手を引っ込めるような場合を考えると、
「熱い」が先に感じられたとしても、
「手」を引っ込める事は「熱い」より先に行っているように感じる。
身体性が先にあっても身体性を感じようとする事は遅くなり、
変化が先に感じられるということであろうか?
今自分の手を叩きながら考えていて、
思い出して気づいたのだが、
つまり、以前考えた事で、
刺激の最初期の感覚として、
初回の刺激は身体性が感じられないというものがあった。
厳密には、初回の刺激も自己情報としての身体性はあるが、
後天的な定義としてはまだ構築前であるという事になる。
つまり、思い返した時のみ「身体性」を「自分」の身体として感じられるという事。
この「刺激の認識」と「概感の想起」における自己情報の順序が必要という事。
つまり、刺激の構成は変化が先で身体性が後付けになるが、
概感の構成は身体性が先で変化が後付けになるのではないか。
つまり、
初回構成時の定義の関連の連続性は、外から内への方向で、
変化→身体性
このような関連の順番となるが、
だが、思い返す時は、内から外への方向で
身体性→変化
という順になる。
つまり、刺激として「手が痛い」のは、
外から受けた変化の感覚としては「痛い→手が」なのだが、
内部から見なおすと「手が→痛い」(実際は「手が→痛かった」)になる、という事になる。
つまり、知能の内部的な定義としては、
関連の連続性は、「手」の身体性が先で、「痛い」は後付けになる。
これは、恐らく想起時の概感の構成において、
後天的には自構性(自己モデルを作る性質)は、
自身の身体性のきっかけで構成されているのではないか、
という事になる。
つまり、これまで知能は基本的に刺激ドリブンのような、
刺激を発端としたきっかけで、刺激の認識も概感の想起も行っていると考えてきたが、
その「きっかけ」はさらに2つの向きがあり、
変化情報をきっかけとして自己情報へ向かう場合と、
自己情報をきっかけとして変化情報へ向かう場合があるのではないか、という事になる。
つまり、概感の想起においては、
自己情報(自構性・自己モデル)の変化に対して、
関連して励起する変化情報があるのではないか、という事になる。
この場合は、自己モデルにおける身体性が優位であり、
「私の手が→痛かった」というように想起されるのではないか、という事になる。
つまり、知能内の定義の連続性は、基本的に身体性や自己モデルであるような、
「自己」が神経細胞ネットワーク内の分岐の起点となっており、
そこへ「変化」が関連付いていくのではないか、という事になる。
ただし、刺激の場合は、
「変化」が身体性として自分に起こったものであるという認識や意識は出来るが、
この身体性が「自分」に起こったものであるという、
「身体性=自分」という事は、概感の想起を行うまで意識できないという事。
つまり、自分の定義自体は、身体性としては先天的に持つが、
「自分」という定義が後天的に出来上がる物なので、
「身体性=自分」であるという定義は後天的に得るものとなる。
つまり、刺激の認識では、自己情報(身体性)に起こった変化情報が最終的に意識されるが、
身体性は実体の自分の身体ではあるが「自分」という感覚が無い、
もしくは先天的な「自分」の定義があったとしてもかなり希薄。
しかし、概感の想起では、自己情報(自構性・自己モデル)に起こった変化情報が最終的に意識されるが、
自構性は「自分」の「自己モデル」であるので、「自分」という感覚がある。
つまり、これは、かなり前に考えた意識には2種類あって、
「刺激を認識した場合の意識」と、
「概感を想起した場合の意識」があるという事。
この説明になるのではないか、という事になる。
つまり、同じ境界ではあり、
この境界に意識が生じるという考え方自体は同じだが、
「外→内」の意識と、
「内→外」の意識の間にも「差」、「境界」があるのではないか、
という事になる。
まだ私にもはっきりとした意識内の区別は出来ないが、
意識内に意識の起点となるような境界があり、
どちらかから押されるのか、中心から倒れるのか分からないが、
意識の境界から向きが生じるのではないか、
という事になる。
------------------------------------------------------
エネルギー分布との関係がまだ出てこないが、
この後考えてみる。
------------------------------------------------------
2025/12/20
昨日の続きになるが、
意識の起点となる境界は、
単なる境界ではなく、
向きがあり、何かが通過する境界なのではないかという事になる。
直感的に思い当たるのは、定義の連続性ということになるが、
何かがその境界を通過した際に、境界にある概念が抽象的に生じるのではないか、
という事である。
つまり、前回の考え方を用いれば、
実体の無い存在を定義の間から取り出す場合は抽象的にしか取り出せない、という事である。
上記の例で言えば、「痛い」と「手」はそれぞれ単体では意識的には意味が無いが、
2つが関連した時に意識的な意味が生じる。
そして、それには2つの向きがある、という事になる。
そしてこの場合、
刺激の様に「外→内」に境界を通る場合と、
概感の様に「内→外」に境界を通る場合で、
意識のされかたが異なるという事になる。
特に、刺激の場合は、先天的定義という点からも身体性には行き着くが、
意識としては変化情報が優勢で、
「自分」としての主観や主体性はほとんど感じられないが、
逆に概感の場合は、自己情報としての自構性、
つまり刺激を自分の体験として記憶し、
その身体性が、後天的に構成される自己モデルとして構築される場合、
この身体性が「自分であった身体性」(「自分←身体性」)という意味で関連する為、
主観を持つ主体性を感じるのではないか、という事になる。
------------------------------------------------------
そして、ここからエネルギー分布との関係を考えてみると、
神経細胞ネットワークにおける神経細胞の関連が、
エネルギー分布における、ある連続性を表すもので、
実際に神経細胞が励起する際に、
定義という神経細胞の関連を通る際にエネルギー分布の偏りができて、
何か存在が生じる。
そして、この関連の連続性の中で、
ある事象に対する定義の変化する場が、「境界」という事になる。
つまり、
「外→境界→内」
「内→境界→外」
といった具合である。
そして、この「境界」においては、
「外→内」に情報が生じる場合と、
「内→外」に情報が生じる場合で、
抽象的な意味が異なる事になる。
これは、
「外→内」の場合は変化情報主体の刺激として、
「内→外」の場合は自己情報主体の概感として、
という意味になる。
そして、
これは、境界は「外→内」と「内→外」の向きによって、
直線的に連続性があるというわけではないが、
偏りや向きができるのではないか、という事になる。
そして、この連続性の上をエネルギーとしての流れ、
つまり、神経細胞の励起が通る事で、
抽象的な存在の意識が生じるのではないか、という事になる。
そして、今の私の直感として、
この境界の点は、エネルギーの性質そのものの何かと関連した要素ではないかと感じた。
つまり、エネルギーには傾きのようなものが常にあり、留まることが出来ないという事。
イメージとしては分水嶺のような感じだろうか。
例えば、この分水嶺のような境界点において、
エネルギーの勾配が無くなるような事は普通は考えづらいが、
仮にそういった状態になったと考えると、
エネルギーの揺らぎさえないので、
勾配が無くなると意識は正真正銘の「無」に帰すということになると考えられる。
神経細胞の関連で言えば、「無」に至るというわけではないが、
基本的に生命は刺激優先「外→内」が優先なので、
今ある状況を認識し続けている状態ということになるだろうか。
また、勾配がある一定の最大傾斜になった後、意識はどうなるかと考えると、
基本的には意識はどちらかの向きを持つが、
常に勾配が最大のままにはならず、
勾配無しの状態に戻ったり留まるわけではないが、
勾配をもって傾き続けるには限界があり揺り戻しが起こると考えられる。
例えば、人間は刺激側と概感側があるが、
動物などでは刺激側の勾配が優勢と言える。
昆虫などは基本的に刺激側の勾配しかないと考えられる。
この場合、人間は刺激を認識したり、概感を想起したりするが、
動物などでは基本的に刺激を認識し続け、時に自分の状態を把握する程度の概感の想起が行われ。
昆虫などは基本的に刺激を認識し続け、勾配が緩いときは動きを止めるだけになると考えられる。
つまり、「内→外」の概感の構築が無い場合で自構性(自己モデルの生成)ができない場合は、
程度にもよるが本能主体の動物や昆虫などの知能に似た物ということになる。
------------------------------------------------------
2025/12/21
神経細胞の関連から意識される意味が生じる理由:
今回の最後にするが、
今日の気づきは、
「実体の存在と関連しているからこそ意味が生じるという事。」
「意識される意味自体が抽象的という事。」
これはつまり、
身体のある部位を構成する感覚の受容体と、
知能内の脳内にある、ある部位は神経細胞の関連で繋がっている。
しかも先天的にである。
この時思いつく疑問としては幻肢が先天的に身体部位が欠損している場合でも感じられるかどうかで、
調べた範囲では、先天的に身体部位が欠損している場合でも幻肢の報告があるらしいので、
恐らく、先天的に身体性の定義は存在し、これを後天的に自己モデルと関連する事で、
概感の想起としてになると考えられるが、実際に意識できるのではないか、という事になる。
つまり、恐らく身体性の「外→内」の「内」にある身体性の定義は、
先天的に脳内に展開されていて、実体の身体との接続が在ろうがなかろうが、
意味を構築できるだけの「定義」はあると考えられる。
ただし、この「定義」から意識できるだけの「意味」を生じさせるのは、
境界を挟み、二面性のもう一面を構成する対象の「定義」が必要になる、
という事になる。
つまり、仮に先天的に身体部位が欠損していたとしても、
後天的な「自己」にとって、この先天的に持つ「定義」と関連することが出来れば、
この身体部位に対して「自己」の一部として、概感の想起としてだが意識できるようになるのではないか、
という事になる。
さらにいえば、幻肢は、「外→内」の刺激の認識として意識されるのではなく、
「内→外」の概感の想起として意識されていると考えられる。
ただし、この時の「外」となる対象は、実体の身体部位ではなく、
先天的に展開されていた「身体性」であり、
構成としては概感なのだが、実体の身体で刺激を体験した事が無いので、
この場合の「内→外」の概感の構築は、
本来、先天的な定義の「内→内」の関連になるはずなのだが、
後天的な体験自体が無いので後天的定義を用いたとしても、
「内→内」の関連が「内→外」のように感じられるのではないか、
という事になる。
つまり、本来実体の身体部位から先天的定義の身体性に向かう関連が構成されていないが、
後天的に自己モデルとの関連として身体性が直接関連すると、
自己モデルが実体の身体として感じられる場合があり、これが「幻肢」が起こる理由という事になる。
つまり、「神経細胞の関連から意識される意味が生じる理由」としては、
先天的定義として持つ何らかの神経細胞の関連のまとまりは、
先天的に身体部位の特定部位との関連を持っている事に「意味」があり、
その関連こそが「定義」という事になる。
そして、この「定義」が、先天的定義と、後天的に構築される後天的定義との関連において、
刺激が構築されるの場合と、概感が構築される場合があり、
これらの関連の中の、ある二面性を持つ情報の「境界」にある抽象的な存在が生じる。
そして、この抽象的な存在こそが我々が感じている「意味ある意識」という事になる。
------------------------------------------------------
今回の最後に:
そして、これだけは書かなくてはならないのだが、
これは論理的には証明できないものであり、
構造的に定義できる物であるという事になる。
今回はこの辺で。
TOPに戻る
著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。