2025/12/13-2025/12/17
定義の階層における「定義」の定義
今回は、これまでの考察で「定義」として扱っているルールや規則について、
改めて考え直し、
定義の階層における「定義」の定義について改めて考えてみる。
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これまで、定義の階層における「定義」は、
ある存在と存在の間にあり、
存在の質を変化させるルールや規則であると決めてきた。
つまり、
存在A→定義→存在B
というようにである。
そして、
少し前に「存在」がエネルギーの一形態として現れた「事象」であり、
自然界に存在する事象の全てが、
あるエネルギー分布によって構成され、
このエネルギー分布の中で存在(局在)する事象は、
「定義」によって分けられる、という考え方が追加された。
つまり、イメージとして集合の概念を用いて考えると、
エネルギーから全体集合が構成され、
全体集合自体は世界として存在する。
そして、その世界に含まれる部分集合や要素は、
「定義」によって分布が分けられ、それぞれに「存在」する。
そして、今回、その「定義」の中でも、
特に知能内における「定義」の定義について考えた場合、
以下のような存在と定義の関係があるという事になった。
これまでの基本的な定義の階層の考え方においては、
定義の階層としては、
・・・→存在→定義→存在→定義→存在→定義→・・・
このような階層構造を持ち、
それぞれ、「存在」と「定義」は二面性を持ち、
存在:(定義):存在
定義:(存在):定義
このような二面性を持ち、
定義は、それぞれ二面性を構成する存在から互いに別の存在の間にある変換の定義であり、
存在は、それぞれ二面性を構成する定義の間に成り立つ事象の存在という事になる。
というものであった。
そして、ここにエネルギー分布の考え方を導入すると、
存在がエネルギーの一形態であり、
定義がそのエネルギー分布の境界のルールや規則であるということになるため、
存在:(定義):存在
定義:(存在):定義
において、定義の二面性は、
エネルギーの一形態:(エネルギー分布の境界の定義):エネルギーの一形態
であり、存在の二面性は、
エネルギー分布の境界の定義:(エネルギーの一形態の存在):エネルギー分布の境界の定義
このような事になる。
ここまでの内容が自然界における存在と定義の基本的な考え方とすると、
この考え方に知能を含め関連させると、
まず、定義の階層と二面性においては、
刺激の例で考えると、
自然界の事象(存在)→事象と身体の境界の接触(定義)→身体の感覚器官の受容体(存在)→
→先天的定義(定義)→「変化情報+自己情報(身体性)」(存在)→
刺激の認識(定義)→意識される刺激(存在)
こういうことになる。
「先天的定義(定義)」と「刺激の認識(定義)」については、
恐らく境界の概念があり、物理現象と情報の変換が行われていると考えられる。
上記の各項目の詳細説明はこれまで考えた通りで今回は省くが、
前回「467:学び方の学び方「メタ学習」」の学びにおける定義について言えば、
「意識される刺激(存在)」の情報として、
事象に含まれる要素の関連、
これがそのまま刺激を認識した場合に、
事象として意識される情報のルールや規則としての「定義」という事になる。
つまり、刺激の例の場合は、
刺激を情報として構成する要素、
刺激を情報として「在る」ものとする要素、
この関連が「定義」という事になる。
つまり、上記の「先天的定義(定義)」と「刺激の認識(定義)」である。
この「定義」は、
何らかのルールや規則を定義するものではなく、
あくまで刺激を構成する情報の要素毎における関連(神経細胞のシナプス接続)であり、
この関連自体に意味が含まれているわけではない。
ただし、この関連に意味付けされる情報の要素というのは、
先天的な定義として知能が持つ、何らかの意味や構造が必ずあるはず、
と考えられる。
この正体、つまり、一般的に分かりやすく言えばクオリアを構築する素のようなもので、
これはまだ詳しくは考えていないので分からないが、
知能は先天的にこの「意味付けする素」のような、
定義から「意味」を生じさせることができるような意味付けできる定義のようなものを持っているはず、
という事になる。
ちょっとこの文章内で使われる「定義」毎に意味が違うので分かりづらいと思うが、
つまり、知能が神経細胞ネットワークとして、
神経細胞間にシナプス接続の関連を構築するが、
この接続自体が意味を持ったり、意味付けしたりするわけではなく、
あくまで、情報として何らかのまとまりを持った時に、
この情報を構成する要素の間を取り持つものが、この関連であり、
その関連を含む全体の構成が「定義」という事になるわけである。
つまり、
例えば刺激は、
情報の要素
↑
関連→情報の要素
↓
情報の要素
これを全てまとめた時に「刺激の定義」になる、
というようなイメージである。
そして、この時の「情報の要素」も、
何か先天的に定義として固定化されているルールや規則があり、
それが、体験時の感覚のようなものとして感じられる事になる。
さらに言えば、それらをまとめて「刺激」が構築された場合、
その情報の要素毎の組み合わせが、事象としての対象の変化として、
ルールや規則という意味付けがされるというより、
意味が発現する・意味が生じる、という事になる。
恐らく、これは、変化情報+自己情報において、意識する体験する存在が発現するのと同様に、
刺激における情報の要素の関連の境界において、抽象的な「定義」と「意味」が発現するのではないか、
という考え方が出来る。
つまり、事象を構成して、知能が意味付けする情報の要素、
これらだけではルールや規則が構成出来るわけではなく、
あくまで要素を関連付けた時の「境界」に抽象的な存在が生じるのではないか、
という事になる。
つまり、知能は、先天的に事象に対するルールや規則を定義として持っているわけではなく、
あくまでその事象の体験に対して、事象を構成する情報の要素の関連が出来る事で、
この関連における情報の要素と情報の要素の境界に、ルールや規則が出来る、という事になる。
つまり、二面性で言えば、
「ルールや規則」の二面性は、
ルールや規則は、刺激などにおいては、恐らく定義であるため、
存在:(定義):存在
この二面性を持ち、それは、
情報の要素:(ルールや規則の定義):情報の要素
こういう関係があるのではないか、と考えられる。
例えば、視覚において、赤いリンゴを見たとする。
視覚情報においては基本的には単純な一枚の画像になるが、
これを1つの情報のエネルギー分布であるとすると、
それぞれ色の定義によって、ルールや規則として色が分けられ画像の中に色ごとの境界が生じる。
この境界は神経細胞的に言えば関連の境界であるが、
画像の情報で言えば、コントラストなどの色の境界という事になる。
つまり、明確な情報の要素の差、この場合は色のコントラスト差によって、
神経細胞の接続の関連の境界ではなく、
情報としての要素の境界としての差が生じ、
1つの画像というエネルギー分布の中に、色というエネルギーの一形態ごとの境界の定義を持つ、
事象としての情報の単位が出来るという事になる。
つまり、視覚で赤いリンゴを見た時、
この赤いリンゴが事象の存在として認識できるのは、
画像の中に多くの境界の定義ができるため、
その画像の一部が独立した事象であるように認識できる、
という事になる。
ちょっと、まだ私の中でも完全に「定義」の整理がつかないが、
ボトムアップで言えば、
恐らく知能内には、「赤」とか「心地よい」とか、「痛い」とか、
「明るい」「暗い」「空腹感」「満腹感」など、身体の内外の事象や感覚に対する、
先天的な、意味付けの定義の素のようなものがあり、
これは、可塑性も持たず、生得的にあり、かつ、
神経細胞からシナプス接続(もしくはグリア細胞の何かの接続)によって関連付ける事が可能な対象がある、
と考えられる。
この対象からどのようにして「体験」や「感覚」が生じるのかはまだ分からないが、
とにかくこの対象は、無いと困るのである。
そして、そこに関連として接続できる機能(シナプス接続かグリア細胞の接続か)があり、
この励起によって、体験や感覚が生じる。
そして、この「関連」自体が、ルールや規則の意味を持つわけではなく、
ルールや規則という意味が生じるのは、上記の「体験」や「感覚」の要素と、
それらを関連付ける「関連」が、まとまりとして構成された時、
「体験」や「感覚」同士を関連付ける「関連」の「境界」にルールや規則としての、
抽象的な意味が発現する、という事になる。
追加で今気づいた内容を足せば、この関連は「連続性」を持つという事である。
つまり、情報の要素の関連の連続性に、ルールや規則の意味合いが生じるという事である。
そして、この情報の要素や、ルールや規則の連続性をまとめると、
1つの連続性を持つ刺激が構築できることになる。
この場合、その構成は「変化情報+自己情報(身体性)」という事になり、
変化情報は実際に実体の身体が見たり感じたりした自然界の事象の変化であり、
その感覚器官に対応した身体性が自己情報として関連している、
そして、
その「変化情報+自己情報」の境界に「意識」となる「体験する存在」が生じるという考え方をしてきたが、
これは、刺激が連続性を持っている事から、意識も連続性を持っている事になる。
現時点で分かるのはこのような事になる。
そして、かなり大雑把な言い方をすれば、
事象や存在が「在る」事、そのものに大した意味は無く、
その関連によって抽象的な概念が生じた時に、
この抽象的な概念こそが大した意味を持つのではないか、
という事になる。
つまり、「痛い」だけでは意味が無いが、
「手が痛い」のは意味がある、というような事である。
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2025/12/14
今日の気づきから。
まず、事象における情報の要素の「変化の連続性」から「変化情報」が出来るという事。
刺激の変化情報は、ある事象における情報の要素が変化する抽象的な情報の定義であり、
これを変化という情報としてまとめるには、
対象が移動するとか、大きさが変わるなどの連続的な変化が必要になる。
つまり、例えば対象が同じ位置で静止しているにしろ、移動や何らかの要素が変化しているにしろ、
連続性が必要という事になる。
つまり、止まっている事の連続性や、対象の要素が変化する事の連続性が必要という事になる。
また、この時、これまでの刺激と概感の定義である、
以下の定義において、
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
この場合の変化情報と自己情報の境界に主観となる「体験する存在」が発現すると考えたが、
この時、この「体験する存在」は、実体が無いが「定義」ではなく、
抽象的で、情報として「存在」するものであるという事。
さらに、この「抽象的で実体が無いが、情報として存在する事象」は、
身体で感じる感覚として、「心地よい」とか「痛い」とか、色や音、味、匂いなども含まれるが、
この「感覚」を表す情報であるという事。
そして、これは、解明や定義ができたわけではないが、
クオリアの素となる定義のようなものがあり、
この定義から発現している情報であるということ。
上記の刺激の定義の、
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
これが、
変化情報(存在)
+
先天的定義としての関連(定義)→体験する存在(存在)(=クオリア+身体性?)→何らかの定義(定義)
+
自己情報(身体性)(存在)
このような関係にあると考えると、
体験する存在は、以下のように、
体験する存在=変化情報+自己情報+「先天的定義としての関連から構築された情報」
こういうことになり、
この時の「何らかの定義」は、
「体験する存在」を構築する際の、
神経細胞ネットワークの関連を1面として持ち、
もう1面を構成する定義がある事になる。
この場合に考えられる定義は、体験する存在を認識したり意識する場合の対象として、
知能が「事象再生の場」で構築する情報の像を形作るための定義、という事になる。
(「事象再生の場」:「432:定義「事象再生の場」について」を参照)
つまり、
体験する存在は、
定義としての神経細胞ネットワークの関連と、
定義としての情報としての自己を構築する為の定義、
この境界に発現するという事になる。
つまり、単に「変化情報+自己情報」の境界ではなく、
この「変化情報+自己情報」の境界にある、この2つを結び付ける関係を、
情報として表す際に、その情報自体がまた別の境界を持ち、
この境界をなす2面性が、
神経細胞ネットワークの関連と、
知能が自己を形成する為に用いている何らかの定義から成り、
この2面性の境界に「体験する存在」が発現するという事になる。
つまり、神経細胞ネットワークを構築する物理的な接続にも境界があるのではないか、
という事である。
つまり、これでもまだ明確な定義にはならないが、
クオリアにまた接近できたのではないかと感じる。
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少しまとめると、
何かが「存在」するには存在させるための「定義」が必要である。
これは良いはず。
ルールや規則も無しに何かが存在するとは考えづらい。
仮に、定義無しに在るべくして在るものがあるなら、
それは恐らく他の何物とも干渉しない、されないものであるという事になる。
つまり、その存在に対して関与できるルールや規則が無いので、
そもそも、そこに在るかどうかさえ分からない事になる。
この考え方を用いると、「体験する存在」は、
初期の考え方で言えば、「体験する存在」としての同じ対象を指す、
実体の存在と、仮想の存在の二面性の間に発現する存在であるという事になる。
つまり、どちらでもあり、どちらでもない、間の存在である。
ただし、定義の階層においては、存在と定義は交互に関連する関係にあり、
存在→存在→存在
とはならず、
実体の存在→定義→体験する存在→定義→仮想の存在
こういうことになる。
であれば、「体験する存在」を成り立たせる二面性として、
2つの定義がある事になる。
実体の存在から見ると、この一面は、
実在する存在が持つ、何らかの定義となり、
この場合、この境界に限りなく近いのは神経細胞ネットワークの関連という事になる。
これより「体験する存在」に近い定義は考えづらい。
つまり、実際に神経細胞ネットワークにおける励起の関連から先に、
何らかの定義が構築されているとは考えづらい。
また、反対の仮想の存在から見ると、この一面は、
仮想の存在としての自己を構築する為の定義となり、
これは、刺激においては自身の身体性の定義と、
この身体性に対応して受けた変化の定義を合わせた情報から構築された仮想的な自己の情報、
これが持ちうる定義ということになると、
仮想的な自己を、体験する存在として感じる事の定義がどこかに「ある」という事になる。
生物の進化の過程的な見方からすると、
この仮想の存在は、主観を持つ自分であって客観的に見る事の出来る自分でもあるという事になる。
つまり、後天的に自分を体験の結果、
経験として定義を保持することが出来るようになった後の知能における機能として持ったものであり、
割と最近の知能においてのみ持つ機能という事になる。
つまり、体験を記憶した時に体験に含まれていた自己の身体性の名残り、射影、を持つ機能であり、
この自己の射影の記憶の再現時に、この定義が発現している、という事になる。
つまり、刺激の認識時にも、「体験する存在」はあるが、
これは刺激における「体験する存在」本体の実体であり、
「体験する存在」自体を「体験する存在」として定義づけたものではない。
つまり、まだ「体験する存在」としての二面性ができていないので、
変な言い方になるが、刺激の時点では、そこに「在る」のは感じられるが、
「体験する存在」としては感じることが出来ない、
「体験する存在」として感じるには、刺激を認識した後に、
最低でも一度、「体験する存在」として想起しなくてはならない。
実際、想起の対象の概感は、記憶としての定義から構築される必要があり、
つまり、
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
こういう定義であるので、
後天的定義としての関連は、短期記憶であっても長期記憶であっても良いが、
一度構築された定義を、励起しなおす必要があるという事になる。
であると、刺激を1回限りで認識した場合、「体験する存在」はできるが、
認識には至らないという事になる。
概感が、必ず刺激か概感からの関連の励起であるという考え方をしてきたので、
初回の刺激の認識においては「体験する存在」としては認識できない事になる。
つまり、一度「自分という定義」を作る必要があるから、という事になる。
そして、一度でも「自分という定義」が出来た後であれば、
その定義に関連して仮想の自分を構築できる、という事になる。
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2025/12/16
今日気づいた事は、
「定義をそれだけで事象として取り出そうとすると、
抽象的にならざるを得ないという事。」
定義の階層において、
世界のあらゆる存在が、エネルギー分布として存在するものであると考え、
その世界に現れる事象が全て、ある定義によってエネルギーの形態が決まると考えると、
存在と別の存在の間には、この存在を分ける「定義」があるという考え方になる。
つまり、エネルギー分布として、
世界は偏りがあるとしてもエネルギーは全体に満ちており、
ある事象が「存在」するには、そのエネルギー分布の中に「定義」という境界を持つルールや規則がある、
という事になる。
つまり、世界の中は、
・・・→定義→存在→定義→存在→定義→存在→・・・
このような関係で繋がっていると考えられる。
ある「存在」は、別の「存在」と境界を持ち、
この境界は「定義」によって、それぞれの「存在」が持つ境界面が「定義」によって決まる。
この「定義」は、「存在」と別の「存在」の境界でもあり、
「存在」同士が変換可能であれば、「定義」によって変換が行われる。
そして、以下が今日の気づきの意味になるのだが、
「定義」は、「存在」のような実体が無いので、
「定義」を「存在」のように取り出そうとすると、
実体が無いが存在するような「抽象的な存在」にならざるを得ないという事になる。
つまり、例えば、数学における「円」は、
ある点から等距離に在る点の集合で、
実体の無い存在であるが、抽象的にそこに在るという事になる。
この場合、エネルギー分布としては、「点の集合」を境界とするが、
この「点の集合」は、
その外側のエネルギー分布と内側のエネルギー分布を分ける定義として、
内側のある点から等距離にある境界にある「点の集合」という事になる。
そして、この時、円は実体が無いが抽象的に存在する。
つまり、円を定義したから、その二面性において円の存在が生じているという事である。
円を定義の階層で言えば、
平面のある点から等距離に在る点の集合、
外側のエネルギー分布→点の集合の定義→内側のエネルギー分布
二面性で言えば、
存在:(定義):存在
として、
外側のエネルギー分布:(点の集合の定義):内側のエネルギー分布
このようになる。
そして、この点の集合の定義は実体が無いが、
点の集合の定義:(円の存在):知能内の円に対する定義
つまり、客観的な円の「点の集合の定義」と、
主観的な円の「知能内の円に対する定義」の二面性から、
知能自身が認識できる「円」が抽象的に現れるのではないか、
という事である。
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意識における境界:
この考え方からすると、
意識は、変化情報+自己情報の間の、神経細胞ネットワークの中から現れる事になるが、
さらに、この神経細胞ネットワークの関連の中において言えば、
意識の実体は構築されず、
厳密に言えば、変化情報側の境界と、自己情報側の境界の間の定義として、
意識が抽象的に在るという事になる。
つまり、意識やクオリアが「在る」事が理解できても、実体がないので、
どのような方法を用いても証明できる実体を持つ対象にはできないということになる。
ただし、境界と定義はあるので、抽象的に「存在」させることはできる。
そして、これは私の想像だが、
エネルギー分布と定義の階層や二面性を用いると、
知能内の人間が現時点で知りうる世界の事象は、
定義と存在で、抽象的だが全てを置き換えられるのではないか、
という事になる。
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定義の誤りや矛盾について:
例えば、何かの定義が間違っている、矛盾するというのは、
上記の考え方での定義として「誤り」や「矛盾」を表すと、
厳密に言えば、未確認の定義を飛ばして関連付けようとしているのではないか、という事になる。
つまり、本来の定義の階層として、
存在A→定義X→存在B→定義Y→存在C
であるものを、
存在A→定義Z→存在C
このように端折っている状態なのではないか、
という事になる。
そして、「誤り」や「矛盾」は、この「定義Z」に相当し、
「誤り」や「矛盾」する理由が実際に在る場合、「定義X→存在B→定義Y」があるのではないか、
という事になる。
つまり、「「誤り」や「矛盾」する理由」そのものが構造としてあるのではないか、という事になる。
この場合、そもそも存在同士を関連付ける定義が間違っている場合と、
関連付け方が間違っている場合が考えられる。
つまり、実際は定義としての関連が無いのに無理やり関連付けている場合と、
定義としての関連があるが、定義の仕方(端折るなどして)が間違っている場合があると考えられる。
しかし、それでも間違っている事自体を構造としてだけは関連として成り立たせることはできるため、
仮のままでも、未確認でも、関連付けだけは出来てしまう事になる。
つまり、定義が本質的に間違っていても、「間違っている」事で関連付けはできる。
これは矛盾することでも同じで、ある存在同士を定義で関連付ける事を、
「誤り」や「矛盾」の関係で関連付ける事は出来る。
この定義の関連自体が間違っているわけではなく、
「間違っている」という定義の関連は「正しい」と言える。
ただし、定義として本質的にこの関連が「誤り」であるとか「矛盾」するかどうかは、
上記の「定義Z」の位置に相当する本質的な定義がある必要があり、
経験的に存在同士が関連付けられたとしても、その関連の「定義」が本質的に正しいか、誤りであるかは、
この関連における「定義Z」に相当する定義が本当に正しいかどうかによって判明する、
という事になる。
そして、本質的に正しい関連があったとしても、定義の仕方が間違っている場合に、
「誤り」や「矛盾」が生じる場合もある、という事になる。
この場合も「定義Z」に相当する定義が本当に正しいかどうかによって判明する事になる。
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定義の修正と変更について:
仮に知能において定義の修正や変更が必要になった場合、
前回の「467:学び方の学び方「メタ学習」」にも書いたように、
基本的に定義は増加方向にしか進まないので、
「修正や変更」の「定義」は、後から追加されることになる。
つまり、単に定義が置き換えられるのではなく、
「間違った定義」に「修正や変更の定義」が足されて関連する、
という事になる。
つまり、例えば「天動説」が後になって「地動説」という定義に変わったとしても、
「天動説」が置き換えられて無くなるわけではなく、
天が動いている様に見える事象の定義として、
「天動説は間違っているが、新たな正しい定義として地動説が加わった」
という考え方になる。
さらに、連続性が生じると、時間感覚として、
「天動説は間違ってい」「た」という過去の定義であり、
「地動説が新たに加わった」という現在に繋がる定義という事になる。
つまり、一連の定義の連続性が想起される事で、
「天が動いている様に見える事象の定義」が修正や変更がされた、
という事になる。
仮に、定義が間違っている事をどうすれば気づけるか?
ということも思い浮かぶが、
これは、前回のメタ学習としての定義をし直した内容、
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つまり、結果的に「学ぶ」ためには事象を構築して刺激か概感として認識か想起する必要があるが、
新たな定義として刺激や概感を構築するなら、目的となる、初期の定義と結果の事象に対して、
定義を変化させた事象をいくつか作り出し、それを観察するのが最も良いと考えられる、という事になる。
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この考え方を「実践」するしかないという事になる。
つまり、定義が常に正しいとは言い切れない事になってしまうことになるので、
対策も必要になるが、知能がある事象について認識や想起をした時に、
今認識や想起した事象と、過去の経験として持つ記憶の想起から再現した事象において、
その何か異なる差を持つ定義から、事象の何らかの「差」がある場合に、
この「差」の程度によって、「定義を疑う事」を始めると良いのではないかと考える。
これは知能の構成しだいで、鵜呑みにする知能であっても、
疑い深い知能であっても、できる事にはなる。
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今回の主要な用語のまとめ:
存在:
自然界においては実際に起こる事象の事。
知能内においては「事象再生の場」で再構成された情報の事。
定義:
自然界においてはある事象からある事象に変化するルールや規則の事。
知能内においては、
物理現象と情報の変換(神経細胞の励起から抽象的な存在が現れるための関連)についてのルールや規則の事。
境界:
存在同士が接しても接続しない抽象的な「間」の事。
連続性:
自然界においても知能内においても、
基本的に逆戻りする事の無い関連の流れの事。
体験する存在:
簡単に言えば主観を持つ存在。
これまで自己言及のパラドックスを構造的に回避する為にも、
「知能」そのものの全体が、体験する存在として主観を持つ事になる。
ただし、意識などを含め構造として示すことはできるが、
論理的に証明ができないものと考えている。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。