2025/12/6-2025/12/15


学び方の学び方「メタ学習」


まず、学ぶ前の前提として、
知的活動に必要な考え方と定義の獲得について。

基本は身体動作においても知能活動においても、
「模倣」「試行」「修正」「変更」
があると考えられる。

先天的な実体の身体の可動範囲が有限であるため、
その組み合わせから可動可能な動作は有限である。

身体の力学的に基本的な力点や支点や作用点は決まっているので、
効率的な可動や動作はさらに絞られる。

知的な活動も同様で、
感覚器官が限定されている為、
自然界の事象に対する定義を知能が自身の定義として学習する場合、
その自然界に起こる事象について、知能が得る定義は有限であり、
組み合わせも有限であるため、
刺激においても、概感においても、
学習した定義と、出力できる定義は有限であると考えられる。

そして、知能の出力においても、もっともらしさや現実性などとして、
出力に対して自身が「もっともらしい」と感じる出力は、さらに限られる。

人間の成長において、初期は身体の動作、
その後、外部より得る知的な学習を経て、
自身の独自の知的活動が行われるようになる。

そして、その間に、定義の獲得が行われることになる。

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どの時点で「学び方」を学ぶのか?:

私の記憶の例で言えば、
学校教育においては、
小学校低学年の間は、教えられた事をそのまま自身の定義として得ていたと思い出せる。

この時点では「学び方」を学んでいたというよりも、
「教えられた事」をそのまま学んでいただけ(覚えるだけ)と言える。

ただし、「どう思うか」など、自身の感想や意見などを必要とする「道徳」の授業であったり、
国語の読書感想文などにおいては、自身の感想や意見を作り出していたように思う。

ただ、まだこの時点で、「どのように学んだらよいか?」などの考えは思いついていなかったように思う。

今思い出して、その「学び方」の初期段階として、
自ら、自らの為に「学ぼう」という感覚があったのは、
小学校の中~高学年になり、班分けによるグループ学習などがこれに相当していたのではないかと思い出せる。

つまり、先生の提示した目的に対して学ぶのではなく、
グループで独自に目的を設定し、その目的に対して回答を得る方法を独自に設定し、
その方法に従って自ら調べ学び、答えを出す、という活動である。

つまり、それまでの教科書や先生より一方的に与えられる定義を学ぶ事は、
上記の知能活動においては「模倣」に過ぎないが、
グループ学習などの班などの活動は、「学び方」が与えられるわけではないので、
そのメンバー内で独自の「学び方」や「目的」が創出され、
これに従って、上記の知能活動における「試行・修正・変更」が行われるという事になる。

教育のカリキュラムについては、私もそこまで詳しくは無いが、
まだ、この時点では「学び方」を学ぶ事については、
初期段階であるため、それほど高度であったり精緻である必要は無く、
「学び方」を学ぶ試みだけが目的であったのではないかと思うが、

一方的に与えられる知識や目的ではなく、
自分らが自ら「学び方」その「目的」を作り出す事は、
「学び方」を学ぶ始まりであったのではないかと今は思う。

つまり、「どの時点で「学び方」を学ぶのか?」という答えについては、
今思い出せる範囲で言えば、
自ら何らかの目的を作り出し、この目的を達成する方法として、
「学び方」を作り出した時、ではないか、という事になる。

つまり、当時、自分で「学び方」を作り出したなどという感覚や思いは無いが、
自ら作り出した「目的」に対して、自らその対処方法を作り出す事、
恐らくこの時点では目的に対して何か「調べる」事、
これが「学び方」の1つとして、その方法である「調べる」事を得たと考えられる。

ただ、この「調べる」事についても、まったく自身が独自に作り出したものではなく、
恐らくその初期においては先生より指示される「調べてみましょう」というような指示により、
目的に対する答えを得る方法は、その時点で獲得していたものと考えられる。

つまり、まったくの独自に「学び方」を自ら出力できるわけではなく、
「調べる」というような、ある手段の体験や記憶を持っていて、
それを独自の目的に対して適応する形で「調べる」手段を想起したのではないか、
という事になる。

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2025/12/7

定義の階層と二面性における「学び方」の定義:

昨日は経験による漠然とした「学び方」についての考えであったが、
明確な定義をする必要があるので、
今日は定義の階層と二面性における「学び方」の構成について考えてみた。

まず、「学び方」というのは、手法や論法のようなものであり、
明確な対象として「在る」ものではないので、
「存在」というよりも、「定義」であると考えられる。

つまり、「学び方」によって、「存在」を別の「存在」に定義しなおす形の二面性を持つと考えられる。

であれば、「学び方」は、
定義の階層としては、上位の存在を下位の存在に置き換える定義であり、

上位の存在→「学び方」の定義→下位の存在

という事になり、この場合の二面性は、

存在:(定義):存在

という二面性になるので、

上位の存在:(学び方の定義):下位の存在

こういうことになる。

また、「学び方」自体は、事象として自然界に存在するわけではなく、
知能が自身の内的な定義を置き換える「定義」という事になるので、
「学び方」というのは、知能内の「定義」という事になる。

現在、人間のような生命の知能では、先天性に「模倣」する機能を持っていると考えられているが、
自然界の事象をそのまま「模倣」するわけではなく、
刺激や概感として構築した主観を含む情報として、射影の事象として「模倣」できる事になる。

(詳しくは「462~464」などを参照してもらいたい)

つまり、「模倣」においても、体験したそのままの事象を「模倣」するわけではなく、
情報に変換した後の事象として「模倣」する、という事になる。

この場合、「学び方」を用いた「存在」と「存在」の置き換えは、
全て知能内の定義から構築された情報同士で行われることになる。

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情報の変換の要素と定義について:

そして、これは今日の「気づき」になるのだが、
例えば、数学で「1+1=2」を学ぼうとした時、
これは、自然界の事象ではなく、当然知能内で行われる「計算」という事象として行われる事になるのだが、
「1」や「+」や「=」という情報は、
元々自然界に事象として「存在」するものではなく、
人間がある事象に対して記号を割り当てたもので、
知能内で抽象化された「情報」としての事象という事になる。

つまり、実体が無いが、概念として抽象的に「存在」する情報であるという事になる。

この考え方を元にすると、「1+1=2」という式は、
「抽象」と「抽象」を足す事、
という事になっている。

もう少し詳しく言えば、「抽象:1」と別の「抽象:1」を「抽象:+」を間に加えて、
さらにその後に「抽象:=」を加え、「抽象:2」を加える。

つまり、抽象化された情報を次々に足した上で成り立つ、
まとまった情報が「1+1=2」という事になる。

つまり、知能内で何らかの事象を定義から構成する場合、
神経細胞ネットワークを使う事になるが、
この場合、ある事象は常に定義を足して構成するしか、
事象の定義の構成は作れないという事になる。

仮に、「1-1=0」であったとしても、「-」マイナスは定義を差し引く事ではなく、
「1+(-1)=0」という考え方で事象の定義が構成される、という事になる。

つまり、
足し算は抽象化事象と抽象化事象を「増加」させる、
引き算は抽象化事象と抽象化事象の「減少」を「増加」させる、
という考え方になる。

他の例で言えば、
掛け算は抽象化事象と抽象化事象の「増加」を「繰り返す」事で「増加」させる事、
割り算は抽象化事象と抽象化事象の「分割」を「増加」させる事、
この様な事になる。

つまり、数学の計算は、いずれも、抽象化した情報が増える方向にしか構成されないという事になる。

つまり、抽象化事象に対して、構成する要素として変化する抽象化事象(+や-や=)を足す事で、
計算という事象の定義の構成が成り立つ。

そして、この時、
例えば「足し算」であれば、「+」は、ある「数字」という定義の要素において「増やす」事の定義であり、
「1+1=2」であれば、最初の「1」に対して、後の「1」の定義の要素を、
最初の「1」の定義に「+」の定義を追加する事で、
左辺の「1+1」が異なる定義として意味ある情報を持つ事象として成り立つ。
そして、この左辺は、右辺の「2」とは異なる事象だが、情報が持つ定義の要素としては、
「ほとんど」等しいという関係にあり、これを「=」という定義を追加する事で、
2つの「2」の事象を関係づけることが出来る、という事になり、
結果的に「1+1=2」という式が事象として成り立つ、という事になる。

そして、ここから思いついたのが、
この数式における数字が持つ情報としての要素に対して、
「増やす」という要素があり、
仮に「1-1=0」の引き算であれば、
「マイナス」という要素として、「消える」、つまり「消す」のを増やす要素があるのではないかという事。
さらに、掛け算であれば、「増やす」を「繰り返す」という事を増やす、
割り算であれば、「分ける」事(場合によっては繰り返し分ける、または分岐?)を増やす。
この考え方が思いついた。

少しまとめると、
どのような考え方であっても、ある事象を構成する定義は常に増加する方向にしか進まない事、
例えば計算式においては、事象を置き換える要素がいくつかあり、
それぞれに定義を持つ事。
それは、引き算でも割り算でも、定義は増加する事。

このような事が言えるのではないかというわけである。
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「学び方」と情報の変換の定義の関係:

数学的操作として考えるわけではなく、
知能における情報の変更としての定義として、
計算式の例を「学び方」と関連付けて考えると、
つまり、この事自体も私にとって「考え方」の要素の定義が増加方向へ向かっている事になるのだが、

ある、「何らかの情報の変換」という事象がある場合、
この事象を定義として知能内に構成しようとする事、
この事が「学ぶ事」であり、
この事象の構成を作り出す工程、これが「学び方」という事になる。

つまり、「学び方の学び方」という考え方であれば、
「何らかの情報の変換」における、
「変換の要素の定義の構成を作り出す工程」を、
「作り出す方法」、これが「学び方の学び方」という事になる。

もう少し簡単に言えば、
情報を変換する方法を新たに作り出す方法を、
どのようにして構成するか、構成できるか、これが分かれば良い、
という事になる。

そして、現時点で分かったのは、
情報の変換においては、

・事象の要素の定義が増加方向にしか進まない事、
・この「要素」として、今の所「増やす」「消す」「繰り返す」「分ける」が在る事、

これが分かった事になる。

そして、
神経細胞ネットワークを用いた定義として考えても、
「情報の変換」をある事象として定義する場合、
情報を変換する要素を必要とする事と、
基本的には定義を追加する方向にしか進まないという事が言える。

一応、神経細胞ネットワークにおいては、抑制や忘却の概念もあるので、
常に増加するだけではないというのは注意点として挙げておく。
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定義の階層と二面性との考え方の接続:

まだ、「学び方の学び方」についてのイメージが漠然としたままだが、
「学び方の学び方」における最初の「学び方」については、
先天的に持つ「模倣」などの機能によって、
ある事象についての操作する「要素の定義」、
これを獲得する事から始まると考えられる。

この時点では、まだ「学び方」までは到達せず、
その「学び方」を構成するパーツを「模倣」によって得るだけに過ぎないと言える。

ただ、初期機能として考えれば、「模倣」自体が初期の「学び方」であるとも言える。

仮に、身体が人間と同様の可動ができるとして、
人間の動作を「模倣」が出来るAIがあったとして、
ある人間の動作を見たまま「模倣」できたとすると、
客観的には動作を「模倣」し、学ぶことが出来たと言えるが、
AIの主観から言えば、あくまで動作という事象の要素を「模倣」して、
再構築して再現しただけという事になる。

これは、「学び」ではなく、機能としての「模倣」だけになる。

恐らく、ここで必要になるのが、
学ぼうとする主観たる意識ということになるが、
定義の階層と二面性から、

「465:概感における後天的定義の役割」より

刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)

こういうことであったから、
「学び方の学び方」という観点から、
最初の「学び方」の定義について考えると、

「模倣」は、先天的定義として持っているので、
「刺激は模倣できる。」という事になる。

つまり、「模倣」は先天的定義で持っている為に、
論理的に証明できないが、構造は定義できる、はずである。

また、「学び方の学び方」が事象として在るのであれば、
これは、先天的定義ではなく後天的定義による定義であるので、
「学び方の学び方」は後天的定義で定義されるものである。

つまり、「学び方の学び方」は概感で定義できる。
つまり、概感であるなら、「学び方の学び方」は想起できる対象である。

ここまでは分かる。

また、これで分かるのは、順不同で羅列すると、

「模倣」が先天的定義に含まれているなら、
「模倣」される情報は射影である事。

「学び方の学び方」には主観が含まれている事。
つまり、意識できる対象である事。

上記で「模倣」も知能内での情報の変換であると考えたので、
「模倣」は「刺激」の直接の射影ではなく、
「刺激の射影の変換後の事象」であるという事。
つまり、もともとの刺激の射影として、
定義の削られた事象として再構築できるが、
学ぶ際の定義が増加方向にしか進まない可能性を考えると、
その後、定義の追加が行える可能性が有るという事が言える。
つまり、模倣した後の定義を修正や変更できる可能性が有るという事になる。

これは、「学び方の学び方」についても同様で、
学ぶ定義が増加方向にしか進まないなら、
「学び方の学び方」も同様に後から可変性(可塑性)を持つ事が出来るはず、
という事になる

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2025/12/8

今日考えていた事と気づきについて。

今日は昨日の考えからより詳細に構造の要素を分解しながら考えていた。

今日の気づきとして、
まず、「学び」が何かというと、
学びは、「知能が新たな定義を得る事」、という事に行き着いた。
定義としては、遺伝的に継承される先天的定義は、既に先天的に持っているわけだから学ぶ必要が無いわけで、
基本的に後天的定義として定義を「学ぶ」事になる。

そして、「学び方」は、昨日は「模倣」が先天的な「学び方」として、
知能が持っていると考えたが、
「模倣」自体は、既に得ている、または後から得た定義に対して、
その学んだ事象の定義を再現しようとする事が「模倣」なのではないかと考えた。

つまり、「模倣」は学んだ事象を再現する手段であって、「学び方」そのものでは「ない」のではないか、
と気づいた。

ただし、その後、後述もするが、
定義を得る際に、事象の要素として単に事象を要素毎に観察出来て、
その対象の要素を定義として得た「だけ」だとすれば、
それは学んだことにはならないので、
これは、昨日考えた、事象の定義を情報として獲得する事に並行して、
その関連の概念を含めた情報の獲得が、「学び方」であるとすれば、
「模倣」は、その関連の概念も含めた情報の定義の獲得と考えると、
総合すると、一応、「模倣」も「学び方」の1つとして考えることが出来る、
という事になる。

ただ、現時点では明確な「学び方」の定義がないので、
仮にだが、「模倣」も先天的に持っている「学び方」の1つとして考えられるだろう、
という状態に留めておく必要がある。

そして、では改めて「学び方」が何であるのか?という定義になるが、
「学び」が「新たな定義を得る事」を目的としているのなら、
「学び方」は、「新たな定義を得る事」の「方法」という事になる。

上記の内容を含めて言えば、感覚器官で自然界の事象の変化を受容し、
この変化を先天的定義で変化情報に変換し、同時に身体性で自己情報を補う事が、
これまで考えてきた刺激の構築になるので、

つまり、「465:概感における後天的定義の役割」で考えた

刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)

これは、全て先天的定義による事象の情報化であり、
刺激を認識したとしても、「学び」になるわけではない、という事になる。

ただし、1つの刺激が点の情報ではなく面や立体の情報であると考えると、
この時点で既に先天的定義では賄いきれない「新たな関連」ができる事になる。
(これは次回、説明するが、これが連続性に関わる)

つまり、これは、先天的定義ではなく、後天的定義としての定義の関連という事になる。

そして、この刺激の認識において、単純な身体性に関わる変化だけではなく、
総合的な刺激の情報として体験などを考えた場合、
刺激の認識の後、この刺激に含まれる総合的な関連というのは、新たな定義で、
後天的定義として、記憶される可能性が有るという事になる。

つまり、「学び方」の話に戻ると、
刺激の認識でさえ、「学び方」の機能は含まれていて、
刺激を認識するだけでも、その刺激を構成する情報に含まれる関連の定義が、
後天的定義として得られるのであれば、「学び」を得ていると考えられる事になる。

ただし、全ての刺激の認識が「学び」に直結しているわけではなく、
あくまでその刺激の含まれる情報の関連が、
上記の昨日の考えた情報の構造の定義の「概念」として得るものであれば、
という条件は必要になる。

つまり、ただ事象を見ているだけ、感じているだけでは「学び」にはならないが、
その事象を見た後に、その情報の関連を想起できるようにするなら、
その知能において、この事象を見る事は「学び」になっており、
事象を見て、この事象を想起できる事は、この事象に含まれる情報の関連の「概念」を学んでいる事になり、
想起して「模倣」ができる事は、知能が先天的に持っていた「模倣」としての「学び方」を実践した、
という事になる。

つまり、ここで気づくのは、「学び方」は「実践」が出来るという事である。

これをまとめると、
「新たな定義を得る事」が「学び」であるとすれば、
「学び」を行うために「学び方」が方法として存在し、
「学び方」を「実践」することで、「学び」を行うことが出来る。

という、まず最初の「学びと学び方の定義」ができる事になる。

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現時点での「学び方の学び方」の再定義と次の目標:

そして、「学びと学び方の定義」が出来たという事は、
「学び方の学び方」を考え直すと、

この「学び方の学び方」において前方の「学び方」が学ぶ「方法」であるなら、
「学び方の学び方」の後方の「学び方」というのは、
「学び」の方法を「学ぶ事」であり、
つまり、「学び方の学び方」というのは、
「学びの方法を学ぶ事」であるが、
ここにおける「学ぶ事」というのは、「学び」が必要であるので、
もう1段階、後にくる「学び方」がある、という示唆となる。

つまり、「学び方の学び方」を「学ぶ」必要が先にある、という事になる。

ただし、これは、「学び」と「学び方」の再帰が延々と続くわけではなく、
知能が再現できるのが、概感の想起までであるので、
後天的定義の「学び」の方法としての「学び方」の「学び」までが出来れば、
それ以上に再帰して循環を後退させる必要はない。

つまり、先天的定義の「模倣」のように、「学び方」の手法を、
先天的に持っているなら「学び方」を学ぶ必要は無いが、
後天的定義における「学び」の「学び方」の「概念」つまり、
後天的定義を学ぶための方法のルールや規則の「学び方」が決まれば、
「学び方の学び方」も構造的に定義が出来ると考えられる。

つまり、現時点の目標は、
後天的定義として得る事になるルールや規則といった「概念」を、
どのような方法で知能が得るのか、得ているのか、これが分かれば良い、
という事になる。

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2025/12/10

昨日までの簡単なまとめは、

「学び」は、知能が定義を得る事。

「学び方」は、知能が定義を得る方法や手段。

こういう事である。

そして、今日の気づきとまとめ。

先天的な学び方は、単純に模倣という事ではなく、
刺激の認識が、そのまま「学び」に繋がる可能性があるという事。

「模倣」は、学んだ定義を用いて、実践してこそ「模倣」であり、
「学び」で得た定義を用いて実践する事が、「模倣」であるという事。

つまり、「学び方」は、「存在→定義」のセットであるという事。

先天的な「学び方」は、受動的であり、
後天的な「学び方」は、能動的であるという事。

自然界の事象から学ぼうとした場合、
定義の階層と二面性から、

自然界の事象の定義:(自然界の事象):知能の定義

この内、「自然界の事象」を刺激を使って認識する事、

自然界の事象→知能の定義

この「知能の定義」を作り出す事が学ぶ事であり、
この場合、
「学び」は、「知能の定義」を得る事、
「学び方」は、自然界の事象を感覚を使って変化を受容、
この変化を先天的定義を使って刺激を構築し、これを認識し、意識する事。
意識の結果、定義が記憶される可能性を持ち、定義の記憶は学びとなる。
結果として学んだ定義が、「知能の定義」になる、というわけである。

この「知能の定義」は、模倣を使って「実践」する場合、
元の事象を完全に再現できるわけではない。

「462:物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性」でも書いたように、
体験は体験そのままに再現できないと考えた。

つまり、事象の再現を実践しようとした場合、
この時、「模倣」しようとした、元の認識した事象は、
知能が定義を得た段階では、必ず情報としては射影となるため、
元の事象そのものの全ての定義を得られるわけではない。
つまり、「模倣」しようとした場合、
観察対象の事象の情報からは必ず定義が削られた状態で知能は定義を得る事になる。
(これは、主観や体験する存在としての制限でもある。)
そして、この定義から「模倣」しようとした場合は、
知能が得た独自の定義で事象を再現する事になる。

ただし、学んだ定義は、後から定義を付け加える事ができるため、
学んだ事象よりも、後に精緻であったり、正確な実践ができる可能性はある。

つまり、師匠より学んだ弟子が、師匠以上の実践ができるという事はあり得る。

つまり、自然界の事象の定義:(師匠が実施した事象):弟子が得た事象の定義

において、

師匠が実施した事象→弟子が得た事象の定義

これが学ぶ事であり、学び方は弟子が師匠が実践した事象を観察し、
定義を得る事。この場合は感覚で変化を受容する事になる。
そして、弟子が「模倣」しようとした場合、
弟子が独自に得た定義を使って、自然界に対して事象を発現させる実践が、
「模倣」という事になる。

「模倣」は先天的定義における事象の実践だが、
例えば後天的定義による「思考実験」などは、
仮想的(事象再生の場)に「定義A:(存在):定義B」を構築し、
「存在→定義B」を感じて、この定義を作り出す事。

この気づきの内容をまとめると、

「学び方の学び方」というのは、
上記の「学び方」は、知能が定義をえる方法や手段、
これ自体の「学び方」という事になるため、
「学ぶ」ために実際に知能が定義を得ようとした場合、
必ず、その定義を得るための事象を存在化させないとならない、という事になる。
そして、「学び方」がその手段や方法であるなら、
「学び方の学び方」というのは、
定義を得るための事象を存在化させる手段や方法を、さらに学ぼうとする事、
という事になる。

つまり、知能が持つ定義を使って、自然界でも仮想空間でもいいので、
刺激や概感として認識や想起のできる事象を構築する手段や方法を学ぶ事、
という事になる。

つまり、これは先天的には、刺激や認識、模倣を使って定義を得たり実践して、
事象を発現させることが出来る。
そして、これは先天的に持つ機能であり、機能自体を構築する必要が無いので、
基本的には受動的に機能させるものである。

であれば、後天的に、「学び方」を構成し、実践しようとする事が、
「学び方の学び方の学びの実践」という事になり、
これは、つまり、知能が持つ定義を使い、能動的に事象を発現させる方法、
これを学び実践する事であり、
であれば、「学び方の学び方」というのは、
「知能が持つ定義を使い、能動的に事象を発現させる方法」を作り出す所までという事になる。

これが何であるのかが分かれば良い事になる。

そして、今日の気づきを関連付けると、
学ぶためには実際に事象を起こして、それを知能が観察する必要があるので、
主観が主体的に事象を実現化させる手段や方法が必要になる。

そして、この場合、知能が用いることが出来るのが、自身が持つ定義であるので、
過去の体験や経験から、実際に自然界か仮想空間に事象を構築する方法を実践するために、
これらの定義を組み合わせて、実際に再現してみる必要がある。

という事は、この「実際に再現してみる」事を学ぶ事が、
「学び方の学び方」に相当するのだが、
「学ぶ」事自体は、知能が定義を得る事に過ぎないので、
「学び方の学び方の学び」として考えると、

知能が能動的に行動を起こし、実践して事象を発現させる事、
この仕組みを知能が持つ事が、まず必要であり、
逆に言えば、その後に、定義を使った模倣や思考実験が出来るかどうかなどは、
それほど重要ではないという事になる。

つまり、知能を持つ個体が、自然界か仮想空間に事象を発現させる事の出来る機能を持つ事。

これが「学び方の学び方」の「学び」になるのだが、これは後から「学ぶ」仕組みではなく、
先天的に持っているべき仕組み、機能という事になる。

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知能において、後天的な定義を得る余裕のない知能は、
後天的に得る事の出来る定義が少ない為、本能的に活動する知能という事になる。
人間は、以前考えたように、知能は未熟なまま誕生し、
後天的定義は死ぬ直前まで得ることが出来て、知能が完成しないまま生涯を終える。

この考えの場合、知能における「学び方の学び方を学ぶ」事が出来るかどうかは、
知能が後天的に学ぶ手段や方法を作り出せるかどうかで、
つまり、知能が後天的に定義を得て、この定義らを組み合わせることが出来るかどうかで、
さらに、それが実践できるかどうかで、
知能が思考できるかどうかの違いがあるとも言える。

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つまり、恐らく「学び方の学び方」だけを解明しただけでは不十分で、
実際は、「学び方の学び方」を作り出す機能の方が重要ということになる。

また、メタ学習をAIなどで実装するには、
事象を刺激や概感として認識や想起の出来る機能が基本的に必要で、
学び方の学び方まで考えをつなげれば、
実体に主体的に事象を起こして、それを自身で観察する事ができる事、
これが再現出来れば良いという事になる。

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2025/12/12

まず、今日の考えた内容から。

「学び」について基本的な事から考え直した。

まず、学びは知能が定義を得る事、
これは間違いないと考えられる。

事象を刺激や概感を通し、認識や想起し、
その定義を抽象的な概念として定義の二面性で存在させる事で、
この存在の関係性を定義として得る事、
これが知能の「学び」という事になる。

次に学ぶための方法が「学び方」になるが、
今日の気づきとしては、先天的に持っている学び方として、
認識や想起がその手段や方法に相当するのではないかというのは、
上記で考えた事だが、
これに類似した学び方は後天的に得ているのか?得られるのか?と考えると、
どうも少し違う様で、
実際は学びの手段や方法自体が刺激の認識や概感の想起であり、
刺激や概感を構築する事自体で既に関連となる定義が出来ている事を考えると、
後天的な学び方というのは、必要が無いというか、
そもそも新たに用意する必要が無いという事になる。

では、後天的に何が必要になるのかというと、
学びにおける新たな定義の創出。
つまり、知能が知らない事象である存在に対して、
新たな定義で認識や想起が出来るようにする事。

つまり、その存在に対して新たな定義の関係性を得る事が学ぶ事になるため、
その定義の創出方法自体が、後天的な学びの目的になる、という事になる。

つまり、後天的に必要なのは、「学び方」ではなく、
「学び方」の対象とするための「定義の創出方法や手段」である
、という事になる。

つまり、その方法や手段の実体としては、
これまで考えてきた、実践の方法や手段、
つまり、試行や思考実験、想像なども含まれるであろう、
そういった、自然界に実際に起こる事象や、
知能内で保有する定義同士を新たに関連付けてみて、
それを刺激や概感を通して、認識や想起をしてみる。
それによって、ある新たな事象に対して関連付く、
定義の関係性を、認識や想起の後の意識に到達する事で、
結果的に「学び」になり、その過程の先天的な学びの手段や方法である、
刺激や概感と、認識と想起が、「学び方」である、
という事になる。
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そして、今追加で気づいたのは、
最終的にこの気づきの結末は「もっともらしさ」によって「学び」が評価されるという事。
この場合、最初に観察した事象の射影と、
再現した概感の差が最小である事が「もっともらしさ」になると考えられる。
これについては、また別の機会で考えて説明する。
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そして、この事から、「学び方の学び方」について考え直すと、
「考え方の考え方」における前方の「学び方」は、
先天的に持つ刺激や概感の構成、構築方法、それによって認識や想起が出来る工程、
そしてその連続性から意識に至る経路、
これは先天的にもう既に知能は持っている事になる。

であれば、「学び方の学び方」の後方の「学び方」は、
前の方の「学び方」として、先天的に持つもの以外の後天的な「学び方」というのは、
必要ではなく、後天的に必要な「学ぶべき」手段や方法は、
「学び方」に供給できる、「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法である」、という事になる。

つまり、知能は既に「学び方」は知っていて、持っている。
必要なのは、その「学び方」に対して供給するソースとしての情報という事になる。

つまり、メタ学習に必要なのは、新しい学び方ではなく、
「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法である」という事になる。

逆に考えると、「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法である」これを知能が学ぶと、
先天的に持つ「学び方」と組み合わせる事で、
自動的に新たな「学び方」になるとも言える。

これは、説明が重複するが、
先天的には自然界の事象を見る、観察して経験を記憶するだけで「学び」になっているという事になる。
もちろん、この考えの場合、その定義を新たな概感として想起することも「学び」である。

さらなる気づきとしては、
例えば「1+1=2」である事というのは、
「1」「+」「1」「=」「2」これらの全ての概念の定義を持っている上で成り立つ概念の定義であり、
「1+1=2」を学ぶためには、先に各要素を学ぶ必要がある事、
つまり、上記で言う所の、定義は常に正方向に増やすしていく事で「学ぶ」という事になる。

であれば、後天的な「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」が、
新たな「学び方」として重要という事になるが、
「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」というのは、
その結果は、刺激か概感として構築する必要があるため、
ある程度、手段や方法は限られるのではないか、という事になる。

つまり、AIなどにおいては、
新たな定義を既存の定義の限りなく無限に近い組み合わせとして作り出すという事もできない事も無いが、
実際は事象として成り立たせる、つまり、
事象として再現できる「もっともらしい」組み合わせである必要があるので、
荒唐無稽な定義の組み合わせは、実際に事象として再現できない可能性が高い。
であれば、「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」は、ある程度、
自然界の事象や、仮想空間である程度、実体として再現できる定義の組み合わせとして作り出す必要があるので、
現時点では実際の事象に即した定義の組み合わせ方を創出できる方法や手段であれば良いという事になる。

ただし、再現できるかどうか不明な定義も、
AIだけの可能性として無限に近い組み合わせが必要になる場合もあるので、
可能性としてはこういった組み合わせ方も考え方として残しておく必要はある。

ただ、最初は人間の知能に近い間は、実際に起こりうる「もっともらしさ」で、
定義の組み合わせを作り出す方法や手段を考えた方が良いと考えられる。

では、最初にあるべき、考えられる「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」は、
どのようなものであるか?という事になる。

恐らく、上記の実践、想像や思考実験などは、
この「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」という事になると考えられるが、
これを知能が作り出すのは、「目的」とするための、
「現状」と結果の「目的」の間を不確かながら関係づける手段や方法であろうという事になる。

つまり、「学ぶため」には主体的に学ぶための「目的」を作る手段や方法が必要であり、
この手段や方法の為に、現在の知能における定義の状況と、目的の結果として掲げる、
状況を変化させる過程と結果の定義の関連が必要という事になる。

この「考える目的が」ある場合の新たな学び方としての利点は、
「もっともらしさ」の関連が作りやすい事。
これは、既に不確かな定義の関連(関連となる筋道)ができているので、
そこに不足した定義を枝葉の様に関連を補うだけで「学び」になる事。

この「考える目的」が無いと、つまり、学ぶ目的が無いと、
最初から定義を学ぶ事は、学ぶための筋道が出来ていない事になるので、
「考える目的」が無い場合より難しい事になる。

簡単に言えば、学ぼうとして学ぶ場合と、
一方的に教えられて学ぶ場合の学習効率の違いとしてこの差が出る事になる。

つまり、筋道があって進むか、行き当たりばったりで進むかという違いになる。
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では、「新たな定義の関係性を作り出す手段や方法」自体はどのように新たに作り出したらよいのか?
というのは、上記でも何度も出てきたが最終的には事象を発現させるための「実践」が必要になる。

人間の知能では、過去の経験の積み重ねにより、既に効果的な方法が既に確立している。

つまり、科学的な実験や検証などの様に、目的とする事象が起こるかどうかに対して、
定義となる条件を様々に少しづつ変え、実際に事象を実験として発現させ、それを観察することである。

これは、私の個人的な考えだが今の所、
これ以外の効果的な新たな学び方が思いつかないほど良い学び方であると感じる。

そして、この定義を変えた事象を発現させる事の「実践」は、
私自身にとっても後天的に学んだ「学び方の学び方」であると考えられるが、
これを事象として自然界に再現する方法か、知能内の仮想空間内で再現する方法以外に良い方法が思いつかない。

つまり、結果的に「学ぶ」ためには事象を構築して刺激か概感として認識か想起する必要があるが、
新たな定義として刺激や概感を構築するなら、目的となる、初期の定義と結果の事象に対して、
定義を変化させた事象をいくつか作り出し、それを観察するのが最も良いと考えられる、という事になる。

であれば、知能に対して、メタ学習となる「学び方の学び方」の学びとしては、
逆に他の方法や手段は不要なのではないかとさえ感じる。

まあ、「考え方」としての名称や定義は、
条件としての定義の変え方や、目的や結果の定義の度合いや違いによって、
複数が定義されても良いと考えられるが、
実際に行う事は事象の発現や再現であり、方法や手段として行う事は同じであると考えられる。

であれば、「考え方の考え方」は、この条件となる目的や結果、その過程で用いられる定義の組み合わせについて、
組み合わせの可能性だけがあればよいのではないか、という事になる。
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更にメタ的なことを言えば、
これらの事象に対して定義としてどのような意味や価値を持たせるべきか?
という事になる。

つまり、知能が新たな定義を得る事に目的という意味や価値を生じさせるなら、
その目的を作り出す際に情報として意味や価値の定義を関連付ける必要がある。

今私が感じるのは、これは恐らく自身の「もっともらしさ」としての意味や価値として、
基底に在るのは身体的な感覚としての「好ましい感覚」か「好ましくない感覚」であると感じる。

つまり、恐らくこれは後天的な自構性(自己モデル)における、
一般的には「価値観」として言われるものであり、
ある「学び」に対する「目的」として、自分にとって意味があるかどうか、価値があるかどうかは、
自分が「好ましい」と感じる感覚が大本に在るのではないかと感じる。

これが答えであるかはまだ分からないが、
結局、自分にとっての目的というのは、自分にとっての意味があるかどうか、価値があるかどうかであり、
目的を結果を得る「動機」は、この自分が「好ましいかどうか」にあるのではないかと感じる。

仮に、自分にとっての「好ましさ」が目的を作り出す動機になるのであれば、
自構性における自己の価値観というのは、自分が納得や満足する事が基底にあり、
それを自分らしい「もっともらしさ」として定義したものではないか、という事になる。

つまり、言い換えると、
人間の知能などで言えば、そもそも生来的に未熟、未完成のままで生まれてきて、
亡くなる直前でもまだ未完成である事を考えると、
特に人間の知能が定義を得続ける事は、生命における知能という機能の本能に近いのではないかと考えられる。

ただ、明示的に学ぶ事を目的とする事は、
個体毎にその意味や価値の定義に差があるため、
全個体の知能で学ぶ事に意味や定義が関連付くかは一概には定義できない。

とはいっても、本能に近いので意味や価値を意識できなくとも、
亡くなる寸前まで学んでいる事には違いない。

つまり、学ぶ事の意味や価値が、
知能における好ましい感覚によって定義づけられる仕組みが、本能として持っているのではないか、
という事になる。

また好ましさは、好ましいだけではない、好ましくない方向にも定義づけは存在し、
意味や価値が、良い意味や価値としてだけあるわけではないという事になる。
つまり、好ましい方向、好ましくない方向は、どちらにもあり、
目的としてはその絶対値によって目的を生じさせる動機になりうるという事になる。

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今回のまとめ:

少々長くなり、内容や定義が二転三転したが、
最終的に、「学び」や「学び方」や「メタ学習」について簡単にまとめると、
「学び」は知能が定義を得る事であり、
「学び方」は先天的に知能が持っている。
「学び方の学び方」は、後天的に新たな学び方が必要になるのではなく、
実践する定義や目的や結果の条件付けが出来れば良い事、
こういうことになる。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。