2025/12/5
意識の連続性と時間感覚
今回は意識の連続性から、時間という感覚がどのように生じるか考えてみた。
今日の「気づき」は以下の通り。
まず最初に意識の連続性について考えていて、
「刺激の認識」と「概感の想起」が背反的に連続している所を考えていた。
そして、ふと、過去の体験を概感として想起しようとした場合を思い浮かべた。
この時に、今という瞬間から、過去の概感を構築する間というのは、
何か「間隔」が空いているという感じがして、
これが「時間」の間隔なのではないかと思った。
つまり、今という瞬間から、過去のある体験を想起しようとした時、
この体験から今という瞬間の間に「時間」というものができるのではないか?
という事になる。
試しに、その後少し時間が経過してから、その上記の気づいた「ある瞬間」の時点を思い起こそうとすると、
それまでの間の間隔から少し経過した時間がそこにあるように感じられた。
この感覚自体は当たり前と言えば当たり前であるし、
既存の研究や理論でも、恐らく同じ様に考えられていると思うが、
意識の連続性という観点から考えると、
何か少し新しい気づきがあるように感じられた。
つまり、ある時点から次の時点までの間の意識の連続性が時間感覚と関係があるのであれば、
その「ある時点~次の時点」までの間の意識は、時間と何か相関関係があると考えられる。
であれば、意識の連続性である、認識と想起の背反的連続性とも関係があり、
認識と想起の元となる刺激と概感の構築にも関係があると考えられる事になる。
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そこで、今日の気づきは、以下の通り。
「時間感覚の幅は、今という瞬間に想起した過去の体験までの間に、
神経細胞ネットワークの励起によって情報化された定義の量に比例する。」
つまり、神経細胞の物理的な励起の間隔の制限は受けるが、
刺激と概感の連続性において、ある時間感覚は、その時間感覚を覚える間に情報化された定義の量によって、
時間感覚の幅が異なるという事。
簡単に言えば、客観的な一定時間の間に、
情報化された定義の量が少ないと時間感覚は「あっという間」という感じがして、
情報化された定義の量が多いと時間感覚は「長い間」という感じがする。
という事と、
「意識には連続性が必要であり、覚醒中に仮に時間感覚について想起する事が無かったとしても、
刺激の連続性が有る事によって、一定の情報化された定義があるため、
時間感覚は、必ず正方向(進む方向が正だと定義すれば)に進むという事。」
つまり、時間感覚は、常に進む方向にしか感じられないという事。
仮に、時間を遡って感じようとしても、その遡る情報自体が定義の情報化となるため、
時間を遡って感じるまでに情報化した定義によって、
時間感覚が進むことになる。
つまり、概感の想起自体が今より先に時間を進めてしまうという事。
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さらにこの「気づき」から考えを進めると、
意識の連続性において、最低限保障される連続性として、
刺激の連続性が有るのではないかという事。
つまり、概感を構築しなかったとしても意識を保つためには、
覚醒状態では刺激は常に連続性をもって構築されているのではないか?という事。
これは、以前考えた事象再生の場における刺激と概感のレイヤ構造に繋がる。
この場合、概感は意識の連続性において、刺激の連続性から分岐して枝分かれした情報なのではないか?
という事。
つまり、概感が元々、刺激か概感から関連して発現する情報であるなら、
・・・→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→・・・
・・・・↓・↓・・・・・・↓・↓・・・↓・・・・・
・・・・↓・→概感→概感・↓・→概感・↓・・・・・
・・・・↓・・↓・・↓・・↓・・↓・・↓・・・・・
・・・→意識→意識→意識→意識→意識→意識→・・・
こういう考え方ができるという事。
この場合、常に概感の意識が優先されるかどうかはまだ分からないが、
仮に概感が常に構築されないとしても、刺激によって、意識の連続性が保たれる。
また、定義の階層と二面性、さらに物理現象と情報の変換において、
意識が情報として何かの連続性を持つエネルギー遷移を持つなら、
意識の連続性における刺激と想起の切り替え、または総和が、
時間の間隔と関係があるのではないか?という事。
つまり、定義から情報という存在の構築において、
定義で区切られた刺激と概感の総和か、
そもそも情報のエネルギー分布のある期間の総和の、
その構築された情報量によって時間の間隔が決まるのではないか?
という事が考えられる。
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今回は時間感覚に対する気づきと、問題提起だけになるが、
これまでの考え方を補完・補強する点で意味があるように感じたので、記録しておく。
今回はこの辺で。
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追加:
ボクシングのボクサーにとっての一ラウンドの3分や、
TVのアナウンサーの放送時間(秒単位)などについての、
時間感覚に優れているという事が知られているが、
これは、今回の考え方からすると、
この時間間隔の間に累積される情報としての事象(刺激が概感)が、
一定量を超えた時に、その特定の時間間隔が想起されるのではないか、
という考え方が出来る。
つまり、訓練や練習によって、情報量と時間間隔の間の定義を作り出せるようになるのではないか、
という事が考えられる。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。