2025/11/18-2025/12/2
概感における後天的定義の役割
今回は、
「461:主観における境界の構造」
「462:物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性」
の続きとして考察した内容である。
まず最初に、
体験は基本的に先天的定義を元にしていて、
後天的定義は、先天的定義を関係づける定義であると考えてきた事について。
先天的定義は、先天的に生命としての誕生に展開されている神経細胞ネットワークから構成されていて、
後天的定義は、体験によって生じた先天的定義同士の後天的な関係を、
神経細胞ネットワークで新たに構築したものという事になる。
そして、これらの定義から構成・構築される刺激や概感は、
初期の構成においては、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)
刺激における変化情報と自己情報は、先天的定義。
概感における変化情報と自己情報は、後天的定義として定義される。
このような構成であると考えた。
そして、その後、
上記の「変化情報+自己情報」の2つの情報の境界にある「+」に相当するものが、
主観的体験における「体験する存在」であると考えた。
つまり、2つの情報を結び付ける定義から、その境界に抽象的な存在である「体験する存在」が発現する、
という考え方が出来た。
そして、この事から考えた刺激と概感の構成は、以下の様であった。
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
そして、概感特有の定義として、
後天的定義(変化情報)=体験時の変化情報の関連+変化情報
後天的定義(自己情報)=体験時の自己情報の関連+自己情報(身体性)=自己情報(自構性・自己モデル)
という事が追加される。
この概感特有の定義というのは、
知能がある自然界の事象を最初に体験した場合を考えると、
最初の体験では後天的定義が存在しないので、
この最初の体験は「刺激」を認識して意識した後に後天的定義として定義される事になる。
そして、この「刺激の認識と意識」に対して、
知能は体験の経験としての記憶として「後天的定義」を神経細胞ネットワークで構築する。
この時、この「後天的定義」は、
刺激の構築時に用いた神経細胞ネットワークの他に、
「体験」そのものを定義する他の要素、
つまり、同時に存在していた他の刺激を含む「面」や「立体」としての抽象的な像、
(境界の「面」の考え方については前回の「464:境界の意識の構成」を参照されたし)
これらへの神経細胞ネットワークを含む事になる。
つまり、
後天的定義の変化情報側への関連は、
体験時に同時に関連していた自然界の事象に対する総合的な関連であり、
後天的定義の自己情報側への関連は、
体験時に同時に関連していた身体性に対する総合的な関連という事になる。
つまり、
後天的定義=後天的定義(変化情報)+後天的定義(自己情報)
であるなら、上記の2つを合わせると、
後天的定義=変化情報+自己情報(身体性)+体験時の変化情報と自己情報の関連
という事になる。
また、後天的に感じる事の出来る、後天的定義における自構性(自己モデル)が、
どのようにして構成されるかというと、
ある自然界の事象、つまり、
身体外にある変化(自然現象などの物理現象)、
または、
身体内にある変化(身体内の感覚、ホルモンなどによる身体の現象)を、
体験とした、複合的な変化情報と、複合的な身体性を関連付けたものが、
「自己」にとっての「自己の固有の感覚」として体験されることになり、
この体験を構成した、複合的な神経細胞ネットワークの構成を経験の定義として記憶できたものが、
自構性としての後天的定義という事になる。
そして、
ただし、体験時の関連は100%が後天的定義として記憶できるわけではなく、
一部が削られた射影や縮約としての定義として記憶されることになる。
その為、
概感として想起する場合は、体験時の神経細胞ネットワークの構成そのままで再現されるわけではなく、
射影や縮約された「像」として概感が構成される。
つまり、体験時の自身の感覚は、体験そのままで想起されるわけではなく、
一部の定義が削られた像として想起されるので、
逆に、そのおかげで、客観的に自己モデルとして想起、意識できるという事にもなる。
つまり、
もし、体験時の刺激そのままに想起できてしまうと、想起した事象が「今」の現実と区別できなくなる。
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後天的定義の構成:
また、上記から、
概感における変化情報はもともと先天的定義で、
概感における自己情報は、「先天的定義(身体性)+後天的定義(体験時の変化情報に相対する分の全自己情報(身体性))
という事になるが、
この場合の、「体験時の変化情報に相対する分の全自己情報(身体性)」というのは、
「刺激の体験」における「自分全体」ということであり、
つまり、後天的定義というのは刺激の体験によって、後天的に知能が独自に作り出す自分の存在が体験した事の定義という事になる。
体験自体は、これまで考えてきた「刺激と概感による境界モデル」において
「主観的体験における体験する存在は変化情報と自己情報の境界で発現する」ということであり、
この場合は実体の身体が直接感じる変化が体験となり、
実体のの身体は「自己情報(身体性)」として構築、
直接感じる変化は「変化情報」として構築され、
その境界を含んだ情報のまとまり(「変化情報+自己情報(身体性)」)は、つまり、刺激という事になる。
そして、刺激を体験し、これを体験の定義としての後天的定義を構成すると、
概感は、
概感=後天的定義への変換(刺激の変化情報+刺激の自己情報(身体性))
ということになるが、体験の全定義はそのまま後天的定義にはならず、
射影の形で体験の経験(後天的定義)は定義として構成され、
概感=射影(刺激の変化情報)+射影(刺激の自己情報)+後天的定義の何か
という構成になる。
そして、この「後天的定義の何か」というのは、後述もするが、
概感を構築する際に変化情報と自己情報を神経細胞ネットワークを用いて励起する際の起点となる部分になる。
つまり、前回「464:境界の意識の構成」でも述べたが、
刺激や概感は、感覚器官の受容体単体の情報の受容だけで成り立つわけではなく、
面や立体として複数の情報から構成されたものだと考えられるため、
上記の概感を詳しく書けば、
概感=複数の射影(刺激の変化情報)+複数の射影(刺激の自己情報)+後天的定義の何か
こういうことになり、この「複数の射影(刺激の変化情報)」と「複数の射影(刺激の自己情報)」
これらを関連付ける定義が「後天的定義の何か」という事になる。
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後天的定義が内包する情報の要素:
試しに、実際に何か概感を想起しようとしてみる。
例えば「赤いリンゴを右手で持っている」所を概感として想起してみる。
概感の変化情報は物理現象の情報変換後の事象であり想起できる。
「赤いリンゴ」「右手で持つリンゴの感触」匂いなどを想起すれば「リンゴの匂い」も想起できる。
そして、概感の自己情報は、
想起時の身体性というのも想起できる。
「身体の右手そのもの」想起しようとすることも、その時の「自分自身の全身」も想起できる。
私のこの想起は、実際に特定の体験として記憶された体験ではないと考えられるが、
恐らく後天的定義として定義されている体験を組みわせて想起出来ていることになっていると考えられる。
恐らく「例えば」の時点で、「右手でリンゴを持つ自分」を「例えた」想像(創造)を行った時点で、
後天的定義の関連が励起されたのだと考えられる。
つまり、体験を想像(創造)したともいえる。
そして、この場合、
概感=複数の射影(刺激の変化情報)+複数の射影(刺激の自己情報)+複数の射影を関連付ける後天的定義
は、そのまま各要素を概感の定義の構成要素の対象となり、
実際に神経細胞ネットワークの励起により、概感が構築されたと考えられる事になる。
つまり、これらをまとめると、
後天的定義というのは、「刺激を体験した存在」、そのものの定義ではないかという事になる。
つまり、
概感の変化情報の後天的定義は、「刺激の体験における事象の変化の定義」
で、
概感の自己情報の後天的定義は、「刺激を体験した存在の主観となる定義」
ではないか、という事になる。
文字通り、書いた内容で言えば、
後天的定義における「自構性・自己モデル」は、自身の体験において、
自己の存在の定義であるともいえるので、「刺激を体験した存在の定義」というのが、
そのまま当てはまることになる。
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体験時の先天的定義と経験を記憶した後天的定義の関係:
後天的定義の自己情報(自構性・自己モデル)は、
後天的定義内にも変換する定義の境界があり、
後天的定義=先天的定義(物理現象)+(←この関連の定義・純粋な後天的定義→)+先天的定義(身体性)
ということになり、
体験の非再現性から、後天的定義は、
体験時の完全な定義より定義の量が減少していて、
体験時の事象の射影や縮約された像として概感が構築される。
この事から、概感は、
概感=射影(刺激)
または
概感=縮約(刺激)
であるとも言え、概感が刺激の射影であるなら、
概感=射影(先天的定義(変化情報+自己情報(身体性))
このような定義となる。
さらに、刺激における意識や体験する存在が、「変化情報+自己情報」の境界に現れるのであれば、
概感の意識=射影(刺激の意識)
という事にもなる。
つまり、刺激として体験した際の意識と、想起する概感の意識は異なり、
そもそも定義の量が異なるという事になる。
これは刺激と概感の境界についても書いた「体験の事象の定義の量>後天的定義の量」からも言える。
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刺激の意識と概感の意識の関係:
少し話が変わるが、
今回の内容は、刺激と概感の境界にある意識モデルという考え方の中の、特に「後天的定義」について再考した内容で、
後天的定義は、知能が体験を通して後天的に独自に構築した神経細胞ネットワークということになり、
この神経細胞ネットワーク内に、体験の定義が含まれている事になる。
例えば、赤い赤さや、自身の身体の感覚・身体性は、
生得的に持つ、先天的定義で定義されているという考え方になり、
後天的に体験するあらゆる事象は、
この先天的定義に対する関連という形で、後天的に新たな神経細胞ネットワークを構築し、
後天的定義となる、という事になる。
つまり、これを意識という考え方から見ると、
意識する主観的体験は、
例えば刺激においては、
「変化情報+自己情報(身体性)」の境界として、関連する定義として主観が生じ、
その定義を体験として記憶した場合、
概感においては、刺激の射影(刺激の意識)という形の定義で記憶された定義を概感として想起され、
この場合、
その概感として、体験の定義を元に再構築された「変化情報+自己情報」の形の情報の、
自己情報部分が、刺激の自己情報の射影が自構性(自己モデル)として構築されたものではないか、
と考えられる事になる。
また、意識の連続性が背反的な認識と想起の連続性であり、
認識の対象が刺激、想起の対象が概感であると考えてきたので、
意識の連続性は、実際の体験の刺激における主観か、
体験した射影の概感の主観が、
背反的に連続していることで成り立つ事になる。
さらに、個人的な感覚で言うと、概感の主観を意識する場合、
身体性とは異なる位置に主観があるように感じる。
私の場合は、眉間の脳方向への少し内側に意識できる自構性(自己モデル)の中心があるように感じるが、
実体の存在というよりも、抽象的な概念的な自己の存在を感じる。
さらに言えば、実体の身体の主体にとっては、何となく客観的な存在として感じられる。
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刺激と概感の定義の構成:
最後に、2025/11/30の気づきを書いておくと、
概感を構築する際の後天的定義が、
いくつかの変化情報と自己情報を関連させ、
感覚器官の受容体の点の刺激ではなく、
面や立体的な刺激の複合体を関連させる定義であると考えると、
刺激の場合も、その変化情報と自己情報を関連させる定義は、
単純な点の関連ではなく、
面や立体的な関連を持つと考えられる。
つまり、
今回考えた、
刺激=変化情報+先天的定義としての関連+自己情報(身体性)
概感=変化情報+後天的定義としての関連+自己情報(身体性)
この定義は、刺激においても概感においても、
その構築に用いられる変化情報と自己情報の関連は、
複数の「変化情報+自己情報」という情報が1つの定義としてまとめられ、
複数の変化情報と自己情報を関連していると考えられる事になる。
つまり、
刺激は複数の先天的定義(変化情報+自己情報)から、
概感も複数の後天的定義(変化情報と自己情報)から、
構築されるという事になる。
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今回のまとめ:
刺激の構築は、
自然界の事象
↓
感覚器官の受容体
↓
神経細胞
↓
神経細胞ネットワーク
↓
刺激の先天的定義としての関連→自己情報(身体性)
↓
変化情報
この流れにおける「刺激の先天的定義としての関連」が境界を含む事になる。
また、概感の構築は、
刺激または概感
↓
神経細胞
↓
神経細胞ネットワーク
↓
概感の後天的定義としての関連→自己情報(身体性)
↓
変化情報
この流れにおける「概感の後天的定義としての関連」が境界を含む事になる。
また、「刺激の先天的定義としての関連」と「概感の後天的定義としての関連」は、
単に1つの変化情報と自己情報を関連させるものではなく、
複数の変化情報と自己情報を関連を束ねた「関連」である、という事になる。
現時点で「境界」そのものは明示できないが、
恐らくは、物理的には神経細胞ネットワークにおいて、
先天的定義においても、後天的定義においても、
変化情報側への神経細胞の励起と、
自己情報側への神経細胞の励起の分岐点が、この「境界」に相当する事になり、
構造的には励起の分岐を含む、
物理現象と情報の変換に関係するであろう一部の「神経細胞ネットワーク」が、
この「境界」に相当するのではないかと考えている。
ただし、この「境界」として、
その「分岐点」に何があるか、どのような構造になっているか、その定義までは、現在は正確には分からない。
一応、現時点の個人的な想像・感覚で言えば、
この神経細胞ネットワークの分岐点にある「境界」にあるのは、
生物の本質的な何か、ではないかと感じている。
それは、自然界に無い生物独自の何かではなく、
自然界由来の何か明示的な定義と、抽象的にであっても存在しうる何かがあるのではないかと感じる。
つまり、まだ、何かその境界に近づける可能性はあると考えている。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。