2025/11/21-2025/11/28


境界の意識の構成


今回はこれまでの物理現象と情報の変換の境界において、
主観や体験する存在としての意識の構成について考えてみる。

今回の気付きへの経緯。

NHKの高校講座の数学の番組を見ていて、
円についての定義である
「ある1点から等距離にある点の集合」
という事が頭に引っかかっていた。

つまり、円の様に線を引くことで形を成して対象として見ることが出来るが、
実際は円は点の集合であり、幅や大きさや線があるわけではないという事、
そして、その点についても、何か大きさや形があるわけではなく、
位置の情報として形を成してはいるが、
抽象的な存在であり、実体としての点があるわけではない事、

つまり、円は円の内側と外側の極限的な境界にある点の集合と考えられる。
さらに言えば、点も座標軸における、ある極限的な位置を表したものであり、
どちらも実体としては見えない抽象的な存在という事になる。

そして、球体であれば、これは3次元に拡張されることになり、
「3次元において、ある1点から等距離にある点の集合」
が「球」ということになる。

つまり、ある事象は境界面で発現するが、
実体は無くとも、存在しうるという事が気になっていた。

そして、以下は、これまで考えてきた内容で、
細かい説明は省略するが、
------------------------------------------------------
「変化情報+自己情報」の境界に「体験する存在」が発現し、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)

の構築と、その連続性における

刺激→認識
概感→想起

この連続性において意識の連続性に至る。

そして、前回の

概感の自己情報が、「後天的定義+先天的定義(身体性)」であると言えるため、


体験そのものが後天的定義であれば、

概感=変化情報+自己情報(体験した自構性)+自己情報(身体性)

という事が言える。
------------------------------------------------------
そして、これを思い出した後、
今日の円の点の集合という気になった事を合わせると、

まず、
この場合の後天的定義は、体験における、
変化情報と自己情報(身体性)の間を関係づける知能独自の定義という事になる。

つまり、生誕後に経験した体験における、その自然界の物理現象を感覚で受容した情報と、
自身の身体性を繋ぎ合わせた、「後天的な自己モデル」のようなもの、という事になる。

あえて「ようなもの」としたのは、これまでの単純な自己モデルの全体像が、
後天的定義で全て表せるわけではなく、
物理現象の定義や身体性の定義なども必要ではないかという疑問が生じたからである。
つまり、

後天的定義=先天的定義(物理現象)+(←この関連の定義・純粋な後天的定義→)+先天的定義(身体性)

「この関連の定義・純粋な後天的定義」=「自構性(自己モデル)」

こうではないかと思うようになってきた。


そして、この事から、
「体験する存在」の発現の定義は、
二面性で考えると、

刺激の場合は、

一面が変化情報から構築された変化についての情報の存在であり、
もう一面は自己情報としての身体性として構築された情報の存在となり、

先天的定義である定義から構築される刺激と、
後天的定義を含む先天的定義から構築される概感においては、

一面が変化情報から構築された変化についての情報の存在であり、
もう一面が、自己情報としての「自構性」+「身体性」として構築された情報の存在という事になる。

つまり、二面性で表わせる、
刺激の場合の「体験する存在」は、

存在:(定義):存在

という事になり、

変化情報:(刺激を体験する存在の定義):身体性

であり、
概感の場合の「体験する存在」は、

変化情報:(概感を体験する存在の定義):「自構性+身体性」

こういうことになる。
------------------------------------------------------
そして、ここからが今回の「気づき」になるが、

円などは、概念として存在するが、
実際に円を描いた線や点のような幅や大きさがあるわけではなく、
あくまで抽象的な境界の集合に過ぎない。

要するに、円の内側と円の外側は接しているわけではなく、
境界を作っており、この境界が円という概念的な存在になっているのではないか、
という事になる。

つまり、この考え方を拡張すると、
基本的に、全てのもの(事象や存在)は、
境界に像を結んだものとして考えられるのではないか、
という事になる。

仮に、物体として存在しているとしても、
その物体は、エネルギーの一形態としてある形を成し、
空間を押しのけて境界を作り、その内側のある体積を占める。
------------------------------------------------------
(ちなみに、話は変わるが、この考え方から個人的な想像だが、
空間自体の存在もエネルギーをエネルギーを持つ事と、
物体(エネルギー体)もエネルギーの一形態であると考えると、
そのエネルギー遷移のどこかに境界が生じ、
重力は、この空間に占めるエネルギー体が押しのけた空間成分が、
元に戻ろうとする働きで生じている力ではないかと思った。)
------------------------------------------------------
つまり、物体の存在は、
空間と境界を接する事で成り立っているが、
その境界自体が明確に線引きできるものではない、という事になる。

そして、あらゆる物体や事象や存在は、
二面性は持つが、厳密に言えば互いに接してはいないと考えられる事になる。

つまり、ここで定義の階層と二面性理論を持ち出すと、
あらゆる存在同士の間は接しておらず、
必ずその境界面で成り立つ「定義」を挟む必要があるという事になる。

つまり、存在同士が接していると見えても、実は、

・・・→存在→定義→存在→定義→存在→定義→存在→・・・

この様になっているのではないか、というわけである。

そして、「境界」は。
存在が発現する境界である場合、
つまり、

定義:(存在):定義

である場合と、
定義が挟まる境界となる場合、
つまり、

存在:(定義):存在

である場合があり、
どちらも、その境界に存在か定義としての「像」を結ぶことになる。

そして、話を統合すると、

「意識は変化情報と自己情報の境界に発現する」

この考え方から、さらなる「気づき」となるのが、

刺激は、感覚器官の受容体が受容する点の変化情報に対して、
その1点から刺激が構築されるわけではなく、
それらの点の集合が「刺激」であるという事。

つまり、刺激は、
刺激の変化情報は感覚器官の受容体の点の集合が像を結んだものであり、
それに対する自己情報は、
この感覚器官の受容体の点の位置にある身体性の点の集合が像を結んだものであるという事。

つまり、分かりやすく言えば、ある刺激は、
受容体の「面」と身体性の「面」の間の境界に発現する、
という事になる。

例えば、皮膚の面は点の集合とも言える。
視覚も同じ。嗅覚や聴覚、味覚についても考え方は同じである。

そして、これは、想起時の概感についても言えて、
概感の場合は直接身体性を用いることができるわけではないので、
基本的には、実体の身体で感じられるようには想起できないが、
事象の定義が縮約されていて、体験した通りに想起できないというのは、
前回考えた通りで、
この場合は、概感は、
後天的定義である体験した際の「体験する存在」を中心とした、
「体験」時の変化情報への関連と、
「体験」時の自己情報(身体性)への関連として

後天的定義→体験時の変化情報
後天的定義→体験時の身体性

つまり、後天的定義内にも変換する定義の境界があることを示唆する事になる。

要するに、上記のように後天的定義は、

後天的定義=先天的定義(物理現象)+(←この関連の定義・純粋な後天的定義→)+先天的定義(身体性)

であり、

後天的定義→体験時の変化情報(=先天的定義(物理現象)への関連)
後天的定義→体験時の身体性(=先天的定義(身体性)への関連)

このように書けるという事。

実際は、この境界自体が「後天的定義」における、
後天的に構築される神経細胞ネットワークを構成する「定義」であるので、

二面性で言えば、後天的定義内に、

存在:(定義):存在

という二面性が有り、

体験時の変化情報:(境界の定義):体験時の身体性

このようになる。

丁寧に書けば、

後天的定義の体験時の変化情報:(後天的定義の境界の定義):後天的定義の体験時の身体性

であり、変化情報や身体性はもともと先天的定義を基底として、
刺激でも概感でも共通して用いられる定義であるので、
ここに当てはまらない後天的定義というのは、

「後天的定義の境界の定義」=「後天的に構築された神経細胞ネットワーク」

こういう事になる。

さらに言えば、概感の像は、
もともとの体験の事象の射影のような存在であり、
定義は元の事象を構成する定義からある程度削られており、
情報は抽象化されている。

つまり、概感を想起した像は、面とも立体とも言えないが、
体験時の変化情報と身体性を、後天的定義で関連付けた像、
という事になる。
------------------------------------------------------
そして、意識の構造に話を繋げると、

意識の連続性は、

・・・→意識→意識→意識→意識→意識→意識→・・・

この様な連続性を持ち、
この意識の連続性は、

認識または想起の背反的な連続性から生じると考えた。

つまり、仮に順不同で以下のような連続性があった場合、

・・・→認識→想起→想起→認識→認識→認識→想起→・・・

認識と想起における主観の存在の連続性がそのまま意識の連続性となり、

・・・→意識→意識→意識→意識→意識→意識→意識→・・・

こういう事であり、

そして、
認識又は想起の背反的な連続性は、
刺激または概感の背反的な連続性から生じると考えた。

つまり、上記の
・・・→認識→想起→想起→認識→認識→認識→想起→・・・
の場合、
・・・→刺激→概感→概感→刺激→刺激→刺激→概感→・・・
刺激と概感の構築順はこういうことになる。

そして、この時の刺激と概感の構築は、

知能がある瞬間において、一番もっともらしい情報として構築された体験が選択の対象となる。

という事を考えてきた。

そして、これを順に辿って行くなら、
意識の一意性は、認識や想起が連続的に一意であることと、
その認識や想起の元となる刺激や概感が連続的に一意であることと、
その刺激や概感の選択が知能において連続的に1つずづ選択される、という事から言える事になる。

そして、この時の体験の意識は、
「462:物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性」で考えた、
体験の非再現性により、
体験した時だけの事象が意識され、その後はオリジナルの体験は失われてしまい再現できない事、
また、仮にそれを再現しようと想起した場合でも、定義は射影や縮約が行われ、
元の体験の定義から既に定義が削られた状態で記憶されている点からも体験は再現できない事。
このような事が言える。
------------------------------------------------------
今回のまとめ:

今回の考察は、これまで考えてきた考察内容を全て掲載しているわけではないが、
意識が感じられるのに実体が無い事に対する答えとして境界の概念を用いて表した事になる。

今分かる範囲で最も厳密な境界の定義は、

刺激の場合は、
境界の一面が、実体の身体が感覚器官の受容体で受容した自然界の事象を変化として受容した場合に、
先天的定義として生得的に脳内に展開されている神経細胞ネットワークの励起までが、物理現象であり、
もう1つの境界の一面は、
知能内でこれも先天的定義として生得的に脳内に展開されている、
身体性についての神経細胞ネットワークの励起であり、
この神経細胞ネットワーク同士の間を繋ぐものが境界の存在に相当する事になる。

つまり、

感覚器官→受容体→神経細胞ネットワーク「先天的定義」→「変化情報+自己情報(身体性)」

また、概感の場合は、
恐らく起点となるきっかけの刺激または概感に関連した「後天的定義」、
これを起点として励起が始まり、その後天的定義に関連した体験時の変化情報と自己情報(身体性)の、
定義に相当する神経細胞ネットワークが励起されることになると考えられる。

つまり、

きっかけの刺激または概感→神経細胞ネットワーク「後天的定義・自構性」→「変化情報+自己情報(身体性)」

ただし、ここでの「変化情報+自己情報(身体性)」は、体験の非再現性により、
オリジナルの体験時より定義が削られており(「体験時の事象の定義」>「概感の事象の定義」)、
後天的定義の体験の経験としてどれだけ多くの定義に関連しているかによって、
概感の構成としての体験の再現度合いが変わる。

------------------------------------------------------
今回はこの辺で。

TOPに戻る

著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。