2025/11/15-2025/11/22
情報の抽象化と時間の感覚
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今回は前回「462:物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性」に至った経緯における、
気付きや、その解説となる。
時間軸が逆行するが、こちらを考えていた上で気づいたのが「462」の内容である。
最後におまけとして最近の考え方の問答を繰り返して時間感覚についての考察を追加で記載している。
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一応今回の内容が理解しやすいように前提の考え方を記載しておく。
「461:主観における境界の在り様」より
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「460:物理現象と情報の変換・その3・主体的体験における体験する事象」で、
主観的体験における「体験する存在」が、
定義の階層と二面性理論において、
神経細胞ネットワーク(存在)→先天的定義(定義)→
→体験する存在(存在)→身体性や自構性の定義(定義)→神経細胞ネットワーク(存在)
この様な位置にあると考えた。
つまり、
物理現象と情報の変換において、
意識を構成するために必要な認識と想起において、
その認識や想起を構成する為に必要な刺激と概感において、
意識の連続性=背反的な認識または想起の連続性
認識の連続性=刺激の構築の連続性
想起の連続性=概感の構築の連続性
刺激と概感は以下の構成、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)
変化情報と自己情報は以下の構成、
変化情報=先天的定義の神経細胞ネットワークの励起
自己情報(身体性)=先天的定義の神経細胞ネットワークの励起
自己情報(自構性・自己モデル)=後天的定義の神経細胞ネットワークの励起
先天的定義は、生命が遺伝的に継承し、
生命として誕生時に先天的に展開されて構築され済みの神経細胞ネットワークであり、
後天的定義は、以下の3パターンから構成、
後天的定義=先天的定義+先天的定義
後天的定義=先天的定義+後天的定義
後天的定義=後天的定義+後天的定義
であると考えると、
「体験する存在」は、刺激か概感を構築する際の
「変化情報+自己情報」の境界に発現する、という事になる。
そして、「体験する存在」は、上記の様に構造的には定義してはいるが、
ハードプロブレム同様、というかそのものでもあるが、
「体験する存在=主観」を客観的に見ようとすると、
論理的に証明できない、という事になる。
(つまり、定義の置き換えをしたものを同じものとは証明できない)
つまり、主観的体験における「体験する存在」としての主観が発現するであろう位置を、
これまで考えてきた場所より狭める事は出来たが、
なぜ、主観が発現するかの理由や原因の解明までには至っていない、
という事になる。
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今回の内容はここから。
最初に意識のハードプロブレムのように、
物理現象と情報が変換される事で生じる事象などが他にあるか調べていた。
調べた結果としては、
事象そのものというわけでもないが、
例えば、
DNAの塩基配列とか、
ランダウアーの原理とか、
量子の観測とか、
CPUなどの計算装置とか、
人間のコミュニケーションにおける会話や文字など、
ある物理現象と情報が変換されて発現する事象の例は割と多く存在した。
これらの事象は、
物理現象を表す定義と、情報を表す定義が異なり、
定義の変換によって事象が変化する現象という事になる。
もう少し詳しく言えば、
これまで考えてきた定義の階層が異なるので、
それぞれの定義から発現する存在が異なるので、
これらを関連付けようとすると、また別の定義が必要になり、
この事が「事象」の「変換」になる、
というわけである。
つまり、
物理現象(定義)→物理現象(存在)→物理現象を情報に変換する定義(定義)→情報(存在)
こういうことになる。
つまり、それぞれを別の体系として考えると、
物理現象の体系:
物理現象(定義)→物理現象(存在)
情報の体系:
物理現象を情報に変換する定義(定義)→情報(存在)
こういう違いがある事になる。
そのため、これらを「変換」という関係で結ぼうとすると、
存在:(定義):存在
という定義の階層と二面性の関係から、
物理現象:(変換の定義):情報
こういう関係が現れるという事になる。
そして、この考えの時に最初に気付いたのは、
物理現象や情報がまず、何らかの定義から構成されていると考えると、
この変換は、定義としての「抽象化」であるように感じる事。
実際はこれは広い意味で「抽象化」と言え、
細かく言えば「射影や縮約」といったものであると、
後で調べて分かったのだが、
少なくとも一部の定義は変換時に削られていて、
変換前と変換後では定義が異なっているという事は分かった。
つまり、体系の違いというものは、
物理現象を情報に変換した結果として、
定義の違いという形として現れていることなのではないか、
と気づいた事になる。
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ちなみに「抽象化」「射影」「縮約」について少し調べてみると、
抽象化というのは大枠としての広い意味があり、
抽象化として「射影」や「縮約」が含まれるというイメージになる。
さらにイメージとして言えば、
「射影」は文字の通り、像に対するその影のようなものであり、部分の抽象化。
「縮約」は全体を1点に集約したような事になり、全体の抽象化、という事になる。
つまり、情報的に言えば、抽象化に含まれる操作として、
「射影」は元の完全な情報から一部の情報を取り出して結果としたもの。
「縮約」は元の完全な情報から1つの情報として結果としたもの。
こんなイメージになるだろうか。
そして、今回の考察での物理現象と情報の変換で言えば、
物理現象を感覚器官で射影という形で刺激に変換し、
その後、縮約したものを認識や意識している、
という感じになるだろうか。
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最近の考え方においては、
物理現象と情報の変換というのは、
A(物理現象)→B(情報)
というように対象を置き換えている感じはするが、
実際には
A(物理現象)→A’(変化情報)
というように、意味ある対象のまま別の形に置き換えるイメージという事になる。
さらに言えば、知能内では物理現象は刺激という情報として認識対象になるわけであるから、
実際には、自己情報などが加わる事になるので、「A→A’」というよりも、
A(物理現象)→A’(変化情報)
刺激=A’(変化情報)+C(自己情報)
こういうイメージになる。
つまり、ある対象としての、
「物理現象」について、
「情報」として異なる定義で表そうとする事が「変換」であり、
一応、仮に人間の知能が行っている「変換」が「抽象化」に関係しているのであれば、
存在→存在の変換と同時に、
定義→定義の変換も行われていると考えられる事になる。
しかし、人間が「変換」で用いる「定義」は、
完全に独自のものではなく、
自然界由来である可能性はこれまで考えてきた通りである。
つまり、先天的定義はあくまで自然界の定義由来で、
人間独自の定義は、後天的定義ではあるが、
その構成要素として用いられる定義は、先天的定義である。
つまり、後天的定義自体は、人間の知能独自の定義であるが、
その先に関連付いているものは先天的定義であろう、という事になる。
つまり、物理現象は自然界の定義で事象として発現している、
人間がこの物理現象を情報に変換する場合、
最初に刺激などは先天的定義を用いて構築される、
これは自然界由来の定義であると考えられる。
また、この刺激の場合の自己情報における身体性も先天的定義であると考えられ、
このパターンが異なる場合は、
自己情報として自構性(自己モデル)を割り当てる場合という事になる。
つまり、刺激の構築の場合の「抽象化」と、
後天的定義を用いる概感の構築の場合の「抽象化」で、
用いている定義の構成が異なっている事が考えられる。
つまり、物理現象を情報に変換する場合でも、
刺激を構築する場合の「抽象化」で用いている定義と、
概感を構築する場合の「抽象化」で用いている定義が、
基底の(先天的定義部分の)定義は共通するものの、
情報への変換時に用いる「抽象化」が異なっていると考えられる。
ただし、これは何を言っているのか?という疑問は自分自身でもあるが、
基底となる元の定義が同じでも、これらの定義を後天的にパターンを変更した場合、
この後天的定義から生じる存在と、先天的定義だけから生じる存在が異なる、
という事になる。
または、基底が同じだからこそ、そのパターンが異なれば、
異なる系の存在として現象が発現している、という事も考えられる。
つまり、基底が同じだからこそ、異なるパターンの定義から発現する事象の存在が、
存在同士として関連できる、とも考えられる。
イメージとしてはプログラムのクラスの概念である基底クラスと派生(継承)クラスのような関係であろうか。
実際問題として、
物理現象から情報へ、という抽象化はイメージできるが、
物理現象から主観的体験へ、というのは、
現時点では抽象化というイメージはできない。
何か本質的な部分が変化しているというイメージである。
「460:物理現象と情報の変換・その3・主体的体験における体験する事象」で書いた、
主観的体験である「体験する存在」が、
神経細胞ネットワーク(存在)→先天的定義(定義)→
→体験する存在(存在)→身体性や自構性の定義(定義)→神経細胞ネットワーク(存在)
ここにあり、
「461:主観における境界の在り様」で書いた、
意識される認識と想起の連続性の中に「体験する存在」があるという事を考慮すると、
物理現象が、先天的定義の神経細胞ネットワークの励起までだとすると、
情報の構築はその後の神経細胞ネットワークの励起で構築されると考えられるが、
この後天的定義における完全に知能が独自に構築した関連である、
純粋な「後天的定義」だけの為に構築された神経細胞ネットワークの部分は、
先天的定義にはない、知能独自の定義であるという事になる。
つまり、神経細胞ネットワークの励起においては、
刺激の様に、
先天的定義→先天的定義
で情報の発現が完結する場合と、
概感として、
先天的定義→後天的定義→先天的定義
で情報の発現が完結する場合の違いがあるという事になる。
さらに、前回の「462:物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性」の考え方からすると、
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「体験は体験した者が持つの定義でしか表せない」
「観測は観測した者が持つ定義でしか表せない」
知能が体験を定義した後天的定義は、何の存在に対応するのか?の答えとして
知能が体験を定義した後天的定義が自構性(自己モデル)の定義なのだから、
これに対応する存在は、「体験」そのもの。
「自己モデル」に対応する事象は「体験」であるが、
体験の事象は失われていて、再現ができない。
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この事から、
鍵となるのは「後天的定義」である「自己情報」、
つまり
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)
における「自己情報」が定義の観点で比較すると大きな違いとなる。
つまり、物理現象と情報の変換において、
物理現象を変化情報として考えた場合、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
これらは全て先天的定義から構築される情報となる。
しかし、
概感の場合は、自己情報が後天的定義であり、
それらが先天的定義を基底を共有しているとはいえ、
定義自体は自然界には存在しない知能独自の定義という事になる。
つまり、物理現象と情報の変換においては、
単に情報の要素としての意味が、抽象化されているのではなく、
独自の定義が加わった上での「変換」になっていると考えられる事になる。
つまり、特に概感においては、
変化情報などは、知能内で用いられる定義は、
物理現象・変化情報・先天的定義→情報・変化情報・先天的定義
で、物理現象も情報化された後の存在も、
定義は一部が削られているとはいえ先天的定義を用いるが、
自己情報の場合は、知能内で用いられる定義は、
物理現象・自己情報・先天的定義(身体性)→情報・自己情報・後天的定義(自構性・自己モデル)
そもそもの定義が異なっている事になる。
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つまり、物理現象は自然界の定義から100%完全に構築されているのに対して、
知能が情報化(符号化)する場合、知能が持ち合わせた定義で情報化するしかなく、
意図せず定義が削られるということになる。
この場合、知能はこの物理現象と情報の変換においては射影や縮約を行っているということになる。
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そして、
実際にハードプロブレムにおける物理現象は、
生命が先天的に持つ感覚における受容体が接触する所までで、
その後の神経細胞ネットワークの励起や情報化した刺激、その刺激を意識する場合、などの情報は、
射影や縮約された情報ということになる。
さらに言えば、個体の身体は、自然界の定義に照らして言えば、
100%の定義(先天的定義)で構築された結果であると言えるが、
知能が身体性や自己モデルとして構築する情報の自己は、
元の身体の100%の定義から構築されているわけではない事になります。
つまり、この違いが、実際の身体の体験と、情報の自己の体験において、
似て非なるもののように感じられる差ではないかと考えられる。
つまり、物理現象を発現させる規則やルールといった定義を、情報として符号化する際に、
知能自身を構成する要素でもあり、知能自身が用いる事の出来る定義で、物理現象を情報化しようとした場合、
完全に定義をコピーするわけではなく、
限定的に定義がコピーされることが「抽象化」ということになるのではないか、
という事になる。
さらに、
この情報としての定義の制限的コピーを、投射して像を結ぶ、投影された情報が主観的体験となるもので、
この場合のスクリーンに相当するものが、
身体性や自己モデルとしての知能が持つ定義から構築された情報(存在)ではないかという事になる。
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今回のまとめ:
今回の重要な「気づき」は、「462」に続く内容となるが、
刺激や概感を構成する物理現象と情報の変換における「境界」を挟む二面において、
物理現象(存在)→変化情報(存在)
の二面性において、
物理現象(存在):(定義の射影や縮約・定義):変化情報(存在)
物理現象から変化情報に「変換」する際に、
物理現象を構成する定義と、変化情報を構成する定義の間に、
意味として共通する要素を「物理現象→情報」として変換する定義がある事と、
表現が難しいが、
射影や縮約のような定義を削る事自体の定義がある事、
また、自己情報、特に刺激の自己情報である身体性については、
同じことが言えるという事。
実際の感覚としては、
物理現象から刺激という情報が構築される場合、
知能内では刺激を構成する変化情報も自己情報も先天的定義を用いて構築する事になるが、
先天的定義自体が、自然界における物理現象の定義からすでに削られた定義であるということになる。
つまり、簡単に言えば、
物理現象を表す事象は、オリジナルの定義として100%定義が揃っている。
変化情報や自己情報(身体性)を表す情報は、元の定義より定義が削られているという事。
こういうことになる。
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以下は最近考えた内容についてと時間感覚にいたる自問自答。
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疑問:“自己モデル”そのものはどう生成されるのか?
答え:これは、実体の自己身体と、自己モデルの情報身体が、
知能が持つ先天的な定義を仲介として1対1で対応することで生成されると考えられる。
疑問:投影そのものの物理実装はどう理解するべきか?
答え:これは、神経細胞ネットワークの関連で、
恐らく感覚の受容による励起信号と、
身体性や自己モデルを定義する神経細胞ネットワークとの関連がそのまま自己への投射ということになる。
疑問:投影を行う主体はどこにあるのか?(メタ自己の問題)
答え:これは自己(自分では)は気づかないが観察者である知能。
疑問:なぜ身体モデルが“透明”になるのか?
答え:これは、情報の存在としての性質として実体が無い事。
物体はエネルギーの一形態として存在し、情報のエネルギーの一形態として存在するという事は、
ランダウアーの原理などから推察できる。
物理的な物質も条件によってエネルギーに変換される事は分かっているので、
つまり、身体モデルはエネルギーの一形態として情報として存在しているが、
物理的実体が無いので、存在するが透明にならざるを得ないということになる。
疑問:この投影構造はAIでも可能か?
答え:これは、人間の機構同様に実装すれば可能であると考えられるが、論理的には証明ができないので、
あくまで構造的な定義として、できると考えられる。
疑問:投影と注意の関係は?
答え:これは、逆に意識が認識や想起の連続性の上で成り立つと考えられ、
この認識や想起される対象として、ある瞬間に複数構築されつつある刺激などに対して、
「もっともらしい」、つまりもっとも注意するべき刺激を選択する機能がこの関係となっていると考えられるが、
これについてはまだ良く分からない。
疑問:主観的体験の質感(クオリア)はどこから生まれるのか?
答え:これは正確にはまだ考えられないが、
認識される情報と言及する情報が神経細胞ネットワーク上で特定されれば、
感覚によって得られる情報と、自己モデルの情報として用いられる神経細胞ネットワーク部分を差し引けば、
主観的体験を定義している部分が特定できるかもしれないと考えられる。
疑問:主観と時間意識(連続性)の関係は?
答え:これついては考えがあり、
つまり、主観となる意識の連続性は、背反的な認識か想起の連続性から成り立つと考えられる。
また、認識や想起は、刺激から認識を、概感から想起を行う事になり、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)、概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)から成り、
この変化情報は、感覚器官の受容体への変化の受容に対する励起信号が、
先天的定義としての神経細胞ネットワークを励起する事、
また、
自己情報は、この変化情報に対応した、固有の身体の位置、または、後天的に定義された自己モデルが、
変化情報に関連した神経細胞ネットワークとして励起される事で、
自己を含む体験としての情報として発現する事になり、
結果としては、刺激や概感が連続的に構築され、このどちらかを背反的に認識か想起し、
この連続性において意識が連続的にあると感じられるということになる。
ただし、
時間については意識の連続性から結果的に行き着いた考え方だけであり、
まだあまり深くは考えていないが、
時間感覚について総合的に答えるなら、
仮説としてだが、
意識の連続性が情報の連続性と関係があるなら、
現在の人間の知能が神経細胞を用いて、「ある1つの情報」、
この場合は刺激や概感の1つのまとまりの連続性を構築する際の神経細胞自体の物理的な励起信号の伝達速度によると考えられる。
そして、もう1つ考えられるの仮説は、
認識と想起の切り替わるタイミングによる時間差が次の認識か想起に対して時間を感じさせるものではないか、
という事。
つまり、1つ1つの認識と想起する情報の間隔とその切り替え時に時間の感覚が生じるのではないかという事。
疑問:認識と想起の切り替えの脳ネットワークはどれか?
答え:これは以前フレーム問題に対して考えた時のものだが、
基本的に脳や知能は刺激ドリブンとでもいう刺激を起点とした処理を行っていて、
刺激→異なる刺激、または刺激→想起、想起→想起、のどちらかになると考えた。
つまり、認識と想起の切り替えは、刺激を起点とした後処理によると考えられる。
つまり、次の新しい刺激が認識されるか、それまで想起が続くか、という事になる。
疑問:“今”の時間幅はどの程度変動するのか?
答え:これは、詳しくは考えていないが、
おそらく意識自体が連続性を逆に必要とするので、
仮に現時点で認識や想起している刺激か概感が、
次の認識や想起対象が現れるまで連続的にこの認識や想起が維持されるものと考えられ、
この場合、次に認識や想起される刺激や概感がどれだけの早くか遅く、
次の認識や想起対象となるかによるものだと考えてられる。
疑問:AIでこの認識・想起サイクルを再現できるのか?
答え:これは、恐らく刺激と概感を用いた認識と想起、意識の構造モデルであれば、
同様に再現できるのではないかと考えられるが、
aiの処理は生体の脳より早いので、
恐らくaiにとっては時間が人間の時間間隔と比べると非常にゆっくり流れている様に感じられると考えられる。
疑問:自己モデルの更新速度は時間感覚をどう変えるか?
答え:これは、先の疑問の答えの通りだとおもわれる。
つまり、次の刺激の認識の速さ、または次の概感の想起の速さによると考えられる。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。