2025/11/17


物理現象と情報の変換・補足・定義の縮約と体験の非再現性


最初は物理現象と情報の変換における、
定義の変換において、
射影や縮約について考えていた。

つまり、物理現象を表す定義と、
情報を表す定義に違いがある事と、
情報を表す定義の方が物理現象を表す定義にくらべて、
定義の要素が減っている事についてである。

ここに、主観的体験やクオリアの考えを合わせ、
体験する存在としての主観の視点、
つまり、観測者としての視点の存在について考えた時に気付いたのが、

「体験は体験した者が持つの定義でしか表せない」のではないかという事。

言い換えると、

「観測は観測した者が持つ定義でしか表せない」という事になる。

つまり、物理現象は自然界が観測者に相当する事になるが、
この場合、情報は情報を観測する者、つまり「知能」が観測者に相当する事になる。

そして、この観測者の定義において、
「458:物理現象と情報の変換・その1・「赤い赤さ」の存在理由」
「459:物理現象と情報の変換・その2・物理現象と情報の変換の境界」
「460:物理現象と情報の変換・その3・変換の境界と主観的体験の関係」
この辺りで考えた、人間が言う所の色の「赤い赤さ」は、
自然界で色の「赤い赤さ」として用いられているわけではないが、
もともと自然界に「赤さ」のような事象があり、
これを知能が定義しなおして「色の赤い赤さ」として用いていると考えられるという事を加味すると、

つまり、「赤」は、自然界に事象として「色の赤」として存在しているかどうかは分からないが、
「赤さ」自体は存在し、それを知能が「色の赤」として用いていると考えられるという事。

つまり、

事象と定義は1対1で対応しているのではないかという事になる。

つまり、自然界で起こる事象は必ず自然界にその事象の定義が存在する。
逆に言えば、自然界に定義の存在しない自然界の事象は無い、ともいえる。

これは、知能側で言えば、知能内で起こる事象は必ず知能にその事象の定義が存在する。
そして、知能に定義の存在しない知能の事象は無い。という事も言える。

これまでの考えを定義の階層に置き換えれば、

自然界(存在)→自然界(定義)→自然界の事象(存在)

であるし、

自然界の事象としての人間や知能(存在)→知能の定義(定義)→情報(存在)

として、人間や知能が、もともと自然界の定義の組み合わせから構築された事象(存在)であると考えれば、
人間や知能が用いうる定義は、自然界由来の定義と考えられる。

実際、生命や知能自体も、自然界の定義の組み合わせの結果生じしている事象の1つでもあるし、
知能における情報が、知能の定義の組み合わせの結果生じている事象でもあり、
これは、定義の階層の考え方からも、仕方なくもあり、当然とも言える。

そして、ここからが次の「気づき」になるが、

事象と定義が1対1で対応するなら、
事象を体験する主観や観測者という存在も、何か定義と対応しているのではないか、
という考えに至る。

つまり、主観的体験というのは、自然界における人間の身体が、
自然界に起こった事象に「接触」した場合に「体験」する事になるが、
この場合の「主観や観測者」というのは、人間の身体そのものである、という事になる。

つまり、物理現象に直接接触する「主体」は、人間の身体であり、知能などではない。

つまり、物理現象を体験し観測する存在は、人間の実体の身体である、という事になる。

この場合、事象と定義の対応は、
事象が、自然界と人間の身体であり、その定義は、自然界の事象と人間の身体の「接触」である、
という事になる。

ちょっと難しいのだが、
つまり、物理現象において、自然界の事象と人間の身体の接触、
ここまでで、物理現象は存在と定義が完結している。
細かく言えば、その接触後の、感覚器官の受容体の受容細胞の励起と、
先天的定義に対応した神経細胞ネットワークの励起までが、
物理現象としての1つの系、という事になる。

そして、その後、情報として、知能が持ちうる定義の励起によって、
この受容した励起信号を変化情報として、
そして、その受容した身体位置に対応した身体性が自己情報として構築され、
「刺激=変化情報+自己情報(身体性)」として刺激という情報の「存在」が構築される。

そして、ここまでが今回の「気づき」の前置きで、
ここからが「気づき」の本体になるのだが、

「では、知能が体験を定義した後天的定義は、何の存在に対応するのか?」

という事である。

つまり、物理現象として体験する存在には実体の身体があるのだが、
後天的定義から励起される存在として自己情報に相当するのは、
これまでの考えであれば、想起対象が概感であるので、
「概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)」であり、
この場合、体験する存在は自己情報としての自構性・自己モデルという事になる。

ここで、自構性・自己モデルというのは、実体があるわけではなく、
知能が定義から構築した情報としての存在である。

つまり、物理現象を体験する場合は実体の身体があるが、
情報を体験する場合は、自構性(自己モデル)であるので、実体の身体が無い。
在るのは情報としての自己や身体である。

そう考えると、事象と定義の関係で言うと、

知能が体験を定義した後天的定義は、何の存在に対応するのか?

の答えは、
知能が体験を定義した後天的定義が自構性(自己モデル)の定義なのだから、
これに対応する存在は、
「体験」そのものではないか、という事になる。

つまり、「体験」には事象が確かにあり、
知能はこの「体験」を後天的定義として定義し記憶するが、
「体験」そのものの事象は、体験後失われる。

つまり、自然界から消えてしまうという事になる。

つまり、主観的体験は、後天的定義として定義されるが、
本来の「体験」そのものの事象は失われ、
この定義を完全に再現したとしても、自然界には同じ事象は二度と起こらない。

主観的体験時の主観の存在と、体験の定義は、
その「体験」時にしか存在しない。
つまり、後天的定義の事象は再現できない、という事になる。

これは、主観的体験が理論的に証明できない理由の1つでもあるという事になるが、
つまり、どのようにしても理屈的に事象が再現が出来ないのである。

もともと、その「体験」の定義が自然界にあるわけではなく、
あくまで、その瞬間、自然界に起こった事象と、定義する存在の知能が「体験」し、
知能が独自に定義した「後天的定義」であるが故に、
その「後天的定義」から、自然界にその「体験」を再現する手段も方法もない。

あえて言えば、その「体験」について主観であり観測者として言及が出来るだけ、という事になる。

ちょっとまとめると、

「自己モデル」に対応する事象は「体験」であるが、
体験の事象は失われていて、再現ができない。

つまり、クオリアの主観的体験は、その体験の瞬間だけ、
体験した実体の自分や物理現象としての事象が定義として100%存在するが、
後に経験として記憶される情報の定義に置き換えた時点で、
定義が縮約しているので元の事象を現せる定義は100%ではないし、
さらに自然界に「体験」の事象の定義が、もともとあるわけではないので、
後から完全な形で説明や表現ができない、ともいえる。

ただし、「赤い赤さ」などは、
物理現象においても、情報に置き換えた後の定義においても、
再現時に事象と定義が1対1で対応していれば「存在」するとして考えられる。

つまり、主観的体験をした主観の持ち主、観測者は、
その体験における定義で再現できる事象の状態においてのみ、
言及し再現が可能ということになる。

さらに言えば、
実際に、物理現象と情報の変換についても、
構造的に定義の置き換えが行われている、という事までは言えるが、
体験自体は完全な再現ができないので、
この事象の再現が、もとの体験した事象と一致するわけではなく、
論理的に証明は出来ない関係にあるとしか言えず、
この様にしか考えるしかないとも言える。

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今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。