2025/11/14


主観における境界の構造


前回のおさらい。
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「460:物理現象と情報の変換・その3・主体的体験における体験する事象」で、
主観的体験における「体験する存在」が、

定義の階層と二面性理論において、

神経細胞ネットワーク(存在)→先天的定義(定義)→
→体験する存在(存在)→身体性や自構性の定義(定義)→神経細胞ネットワーク(存在)

この様な位置にあると考えた。

つまり、
物理現象と情報の変換において、
意識を構成するために必要な認識と想起において、
その認識や想起を構成する為に必要な刺激と概感において、

意識の連続性=背反的な認識または想起の連続性

認識の連続性=刺激の構築の連続性
想起の連続性=概感の構築の連続性

刺激と概感は以下の構成、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)

変化情報と自己情報は以下の構成、

変化情報=先天的定義の神経細胞ネットワークの励起
自己情報(身体性)=先天的定義の神経細胞ネットワークの励起
自己情報(自構性・自己モデル)=後天的定義の神経細胞ネットワークの励起

先天的定義は、生命が遺伝的に継承し、
生命として誕生時に先天的に展開されて構築され済みの神経細胞ネットワークであり、
後天的定義は、以下の3パターンから構成、

後天的定義=先天的定義+先天的定義
後天的定義=先天的定義+後天的定義
後天的定義=後天的定義+後天的定義

であると考えると、
「体験する存在」は、刺激か概感を構築する際の
「変化情報+自己情報」の境界に発現する、という事になる。

そして、「体験する存在」は、上記の様に構造的には定義してはいるが、
ハードプロブレム同様、というかそのものでもあるが、
「体験する存在=主観」を客観的に見ようとすると、
論理的に証明できない、という事になる。
(つまり、定義の置き換えをしたものを同じものとは証明できない)

つまり、主観的体験における「体験する存在」としての主観が発現するであろう位置を、
これまで考えてきた場所より狭める事は出来たが、
なぜ、主観が発現するかの理由や原因の解明までには至っていない、
という事になる。
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今回は少し見方を変えて、主観の境界の構造について考えてみる。

現在の主観における「境界」の課題としては、

・定義の間の存在としての「境界」とは何か?
・境界は神経細胞ネットワークにおけるどこなのか?
・境界を定量的に計測するには?

など、境界がどのようなものであるのかが現時点で抽象的過ぎるという事になる。

まあ、2つの異なる定義から構築された2つの面を持つ存在を1つの対象として見る、
この事自体も概念としては難しいと思うが(ハードプロブレムの考え方そのものでもある)、
前回同様、構造的には定義できそうであるので、
もう少し境界の構造に踏み込んで、がんばって考えてみる。

現時点ではこの境界は、
意識としては連続した固有の存在ではなく、
刺激や概感が構築される際の、
「変化情報+自己情報」の境界に都度発現し、
その連続性をもって意識の連続性とする、という事になる。

つまり、刺激または概感が連続的に構築されなければ、
主観的体験が連続的に起こらない、意識が時々途切れることになる。

つまり、順番はまちまちだが、

・・・→刺激→概感→刺激→刺激→概感→概感→刺激→・・・

このように、刺激と概感のどちらかが背反的に連続して構築され、

刺激は認識対象、概感は想起対象であるため、

・・・→認識→想起→認識→認識→想起→想起→認識→・・・

された時に「意識が連続してある」と言えるようになる。

つまり、ここで少し気づいたのは、

刺激や概感の構築時に「体験する存在」が在るのか?
認識や想起の際に「体験する存在」が在るのか?
という事になると、
刺激や概感の構築時というよりも、
認識や想起の際に「体験する存在」が発現すると考えられる。

これは、刺激の身体性や概感の自構性(自己モデル)において、
刺激や概感の構築が神経細胞ネットワークの励起において、
ある一定の連続性を持っていると考えられるが、
刺激や概感の構築は、ある瞬間において1つだけではなく、
複数が同時並行的に構築されうるから、という事になる。

つまり、感覚器官の受容はある瞬間に1つだけではなく、複数が同時に神経細胞ネットワークの励起に関わり、
想起としての概感も複数が同時に励起の対象となる可能性がある、
しかし、認識や想起の連続性において、その対象が常に1つだけであると考えられるので、
この場合の「体験する存在」としての境界の連続性は、1つの連続性だけが対象となるという事になる。

つまり、刺激が認識、概感が想起される連続性の中に、
「体験する存在」が1つの連続性として発現するという事になる。

つまり、もう少し境界の範囲が狭まる事になった。

「体験する存在」としての境界は、認識または想起対象の刺激または概感における境界、という事になる。

上記の説明を補足すると、

・・・→認識→想起→認識→認識→想起→想起→認識→・・・

知能が、これを行うために選択された、1つの連続性としての、

・・・→刺激→概感→刺激→刺激→概感→概感→刺激→・・・

この内、刺激や概感の「変化情報+自己情報」の境界に、1つの連続する「体験する存在」がある、
という事になる。

つまり、簡単に言えば、意識される1つの自分の感覚は、
認識や想起対象として優先された刺激や概感に在る、
という事になる。

認識や想起の概念からすれば、主観や意識の存在を、
単に説明しなおしているだけとも言えるが、
その本質的な「体験する存在」を固定した事で、
意識の構成にまで説明がつくことになる。

ただし、やはりこれは論理的証明ではなく、
構造的な定義の説明であることは繰り返し付け加えおく。

ただ、これが分かると、
少しだけ物理現象に近づくことが出来て、

ある瞬間に感覚の受容体から同時に入力された励起信号に対して、
直後に認識または想起され、意識された刺激または概感に対して、
どの入力された励起信号が対応するのか、
そして、この励起信号に対してどの脳の野が対応したのかが分かれば、
その励起信号における神経細胞ネットワークが特定できるはず、
という事になる。

そして、実際に可能かどうかは別として、
仮説的な事を言えば、
この対応した神経細胞ネットワークから、変化情報と自己情報に関わる部分を取り除けば、
主観的体験における「体験する存在」としての定義の部分が特定できるはず、
という事になる。

まあ、先天的定義や定義の対応もまだ未解明であるので、
普通に考えても難しいとは思うが、
構造的な特定が「未特定」が「特定が非常に難しい」に変化したと思えば悪くないと思う。

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今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。