2025/10/28-2025/11/10
物理現象と情報の変換・その2・物理現象と情報の変換の境界
全体として長めの文章になったので、
何回かに分けて掲載する。
今回はその2回目。
前回は、「赤い赤さ」の存在理由が、
自然界に「赤い赤さ」の定義が在ったのではないかという事に気付き。
そして、その定義から生じた事象を、自己(知能)が定義しなおしているのではないかという事と、
その定義の変換の境界において、
自然界の物理的自己と、主観的な自己が分離される事が必然的なのではないかという事と、
その分離された境界において、
物理的身体の自己と、情報としての自己が矛盾を抱えつつも二面性を持つ事で、
主観的体験が成り立つのではないか、
という事について考えた。
前回の「458:物理現象と情報の変換・その1・「赤い赤さ」の存在理由」
に続き、「赤い赤さ」の定義と情報の変換される境界について探ってみる事にする。
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例えば色の「赤い赤さ」が自然界の定義として「ある」と考えたらどうなるか?
これは以前、「440:自己言及のパラドックスの構造的回避」で二面性の構成から考えた方法だが、
この時は主観と客観が論理的矛盾の二面性においては問題なく成り立つが、
主観と客観が矛盾以外では一致しないので、主観についての定義を見直そうという運びになった。
今回も自然界に色としての「赤い赤さ」の「定義」が既にあって、
それを知能が色の「赤い赤さ」であると再定義していると考えると、
まず、自然界に「赤い赤さ」の定義が本質的に「ある」のだとすれば、
その定義から構築される「赤い赤さ」は対象として指し示すことが出来るので「存在」であるから、
定義の階層と二面性理論から、
定義:(存在):定義
の二面性として、
自然界の赤い赤さの定義:(自然界の赤い赤さ・存在):何らかの定義
こういう関係が成り立つ。
この時、問題にしているのは自然界の赤い色の定義と、知能による色の理解であるから、
「何らかの定義」は知能が持つ定義、という事になる。
つまり、
自然界の赤い赤さの定義:(自然界の赤い赤さ・存在):知能の定義
こういう二面性が成り立つと考えられる。
この二面性は要するに、自然界の定義によって「赤い赤さ」が事象として存在する事と、
知能が自然界の赤い赤さについて定義を持ち、この定義から構築された「赤い赤さ」も存在するという、
二面性が成り立つという事になる。
そして、この定義の階層を1階層下げると、
定義の階層から、
定義→存在→定義→存在
存在:(定義):存在
という二面性になり、
この場合、
存在:(定義):存在
という二面性が成り立つので、
自然界の赤い赤さ:(知能の定義):何らかの存在
このようになるが、この「何らかの存在」は、
知能による自然界の赤い赤さに対する「赤い赤さ」を成り立たせるもう1つの面(存在)である、
そしてこの存在は、知能が実際に意識して見ている色の「赤い赤さ」についての定義の一面であるので、
存在:(定義):存在
この二面性として、
自然界の赤い赤さ:(知能の定義):知能が観測する赤い赤さ
これが成り立つはず、という事になる。
この場合、「知能の観測する赤い赤さ」は存在であり、
「自然界の赤い赤さ」と境界を持つものと言えば主観的に体験される色の「赤い赤さ」という事になる。
この時、「知能の定義」が何であるかということになるが、
この場合、自然界と知能を持つ個体の境界にある定義ということになると、
これまで考えて来た内容からすると、
考えられるのは神経細胞ネットワークであり先天的定義という事になる。
そして、前回などで考えた物理現象と情報の変換において、
その境界にあるのは「神経細胞ネットワークであり先天的定義」という事になるが、
これは、
後天的に知能側で存在を定義したものではなく、
自然界側の生命を構成する事象としてあらかじめ定義されたものであるから、
(つまり、生誕時には先天的に脳内で神経細胞ネットワークが展開済みである)
自然界にはもともと色としての「赤い赤さ」が存在しているのではないか、という事の示唆となる。
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では実際に自然界には色としての「赤い赤さ」が存在していたのか?
という事になるが、
この場合、
この色の「存在」を二面性で表すと、自然界の色の赤い赤さの「存在」は、
何らかの定義:(自然界の色の赤い赤さ・存在):自然界の定義
という事になるが、「自然界の定義」は、実際に自然界を構成している定義であるし、
その一部は自然界の事象を通して人間が見て(感覚で受容して)情報化できているので「在る」としても、
この上位の「何らかの定義」は、何であるかというと、
定義の階層で言うと、自然界を構成する上位の存在が持つ定義という事になる。
つまり、
上位の存在→上位の存在の定義→自然界(存在)→自然界の定義→自然界の事象(存在)→・・・
こういうことになり、
自然界を成り立たせる上位の存在が持つ定義、
これが「在る」事を、まず証明しなくてはならなくなるが、
この証明には自然界のさらに上位の存在を必要とするので、
現代科学においてはその存在はまだ不定や不明であるので証明のしようがない。
ただし、定義の階層と二面性理論の理屈だけで言えば、
自然界は様々な定義(法則やルール)によって既に存在しているので、
仮に自然界の上位の存在が在ったとしても、
同じ様に定義によって自然界を成り立たせているのではないかと考えられる。
つまり、例えば生命の存在も自然界の定義の組み合わせの結果として発現した事象であると考えると、
自然界に「赤い赤さ」が存在する事と、生命が存在する事は、
定義の階層と二面性理論で言えば、
同じ自然界の事象として存在するものであり、
どちらも自然界を構成するであろう定義の組み合わせから生じた事象(存在)であるという事になる。
つまり、生命も自然界を構成する定義の組み合わせから発現した事象であるなら、
赤い赤さも自然界を構成する定義の組み合わせとして発現した事象と言える事になる。
ただし、どちらもその発現に際しては、
その上位との関係が不明なので、定義や存在のきっかけなどの理由や理屈は説明できない。
説明しようとする存在の一面だけから、存在の二面性を持つ定義を構成できないように、
つまり、もう「存在」してしまっている「存在」を主観として、
その上位の「存在」の定義を説明しようとする場合、
その上位の「存在」の定義の構成を全て理解していなければならない。
生命の存在の自然界における定義はある程度解明されつつあるが、
これもまだ完全ではない。
では、自然界に「赤い赤さ」が存在していたとしたら、
どのような定義で構成されているか?
この構造はある程度考える事が出来る。
まずは、光子の波長と関連を持つ事、
そして、光として明度と色相を持つ事、
色の定義を持つ事、色の合成において、異なる色の定義に置き換わる事、
さらに光子の波長と関連(共振)しうるタンパク質が存在する事。
ここまで自然界に定義が存在していたとすれば、
これを生命が情報として再定義することもできるのではないか、という事になる。
つまり、自然界の「赤い赤さ」が本来の自然界の色の定義としての「赤い赤さ」かどうかを証明する術は無いが、
仮に自然界に色の定義があるのなら、生命がこれを「色」として定義しなおして用いているとは考えられる。
そして、光は物理的な媒介者であり、
光が色の情報を持っているわけではなく、
物体の反射光として自然界は光を特定の定義を持つ事象として構築し、
それを生命(知能)は、色として再定義して情報を見ている。
さらに、生命が自然界の定義の組み合わせの結果と言えて、
他にも意識や他の知能が認識しうる事象も自然界の定義の組み合わせの結果として生じていると考えられるなら、
色だけが自然界の定義の組み合わせの結果として「存在しない」とも言えない。
そして、
色や生命を構成する定義が仮に1つでも欠けていたら、
逆に知能にとっての自然界は存在が成り立たないことになるのではないか?
という事になる。
つまり、例えば知能が定義を独自に構成して補完しないと自然界の事象が成り立たないなら、
知能が作り出す定義が無いと自然界は不完全になる。
そして、現時点で知能にとっての自然界が不可分なく成り立っているように見えるということは、
知能にとっての自然界の定義は十分である事になる。
つまり、
自然界は自然界の定義で十分に成り立ち、
知能は自然界の定義の組み合わせの結果として十分に成り立ち、
知能の下位の刺激や概感や意識は、知能の定義の組み合わせとして十分に成り立つ。
であるなら、
知能そのものとも言える知能が保有する定義で、上位の自然界は知能の定義で解釈しうるし、
自然界自体を構成する定義で、自然界にとっての上位の何らかの存在も自然界の定義で解釈しうると考えられる。
さらに言えば、この考え方を拡張すると、
何十億年前か何十億年後に、生命や知能の存在しない自然界が在ったか、在るとしても、
自然界は自然界だけの定義で成り立つ事が出来るという事になる。
そして、
ちょっと壮大だが、ミクロな素粒子も、マクロな宇宙も、
どのスケールにおいても定義と存在による「定義の階層と二面性」で成り立っているのではないか、
と考えられる事になる。
少し話がそれたが、
つまり、「定義の階層と二面性」の考え方においては、
自然界には色としての「赤い赤さ」が定義や存在として在ると考えられるが、
人間が用いている色の「赤い赤さ」と同一であるかは分からない。
そして、自然界には様々な色の定義と存在が在るのであれば、、
知能はこの定義を用い、独自に色を再定義していると考えるのが自然な運びという事になる。
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物理現象と情報を境界で分けた関係:
物理現象と情報について調べてみたら、
情報の消去については「ランダウアーの原理」というものがあり、
情報の消去に必要な最低限のエネルギーの定義があるという事を見つけた。
また、「シャノン情報」とエントロピーの関係というのもあり、
情報量の定義と熱力学的エントロピーには形式的にほぼ同じ式を持つということも見つけた。
つまり、物理量の変化が、情報量の変化に関係しているらしい、という事である。
ということは、
仮に情報が人間が定義したものでなく、自然界に元々存在するものだとしたら、
それは単純に自然界を構成する定義として、
情報の概念が元々含まれているのではないか、と考えられる。
つまり、物質もエネルギーも時空も宇宙さえも、
自然界の「事象」は、ある情報構造が具現化して「存在」として現れている姿になるのではないか、
というわけである。
そして、ここで視点を引き戻すと、
ということは、人間が定義する情報は自然界の本来ある情報と比べると、
少し異なる構造を持っていると言えるのではないか?
とも言える事になる。
つまり、ここでの異なる定義は、自然界による先天的定義ではなく、
人間の知能による後天的定義による「情報」という事である。
要するに、自然界の事象を観測して、知能が定義(置き換え・翻訳)しなおした「情報」という事。
後天的定義は、先天的定義を元にしていると考えてきたが、
その「定義の定義」として構成する後天的定義は、
証明も出来ないが自然界の定義とは一致しないと考えられる。
であれば、その定義から構築される情報も、要素の定義こそ共通するが、
その組み合わせは一致しないという事になる。
つまり、
自然界は元々定義を持ち、情報をその定義に内包させていると考えられる、
人間の定義は、情報を内包させてはいるが、自然界の定義そのものではない。
これは、前回の自然界と知能の定義が一致しない事で主観が成り立つという考え方からも言える。
であれば、自然界の情報も、知能が扱う情報も、どちらも「情報」ではあるが、
元になる定義が異なるわけだから、その定義から生じる「情報」は何か少し違うのではないか、という事になる。
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ランダウアーの原理から気づいた物理現象と情報の変換の境界:
ランダウアーの原理は、
自然界に存在するある2つの状態を持つ1つの事象に対して、
この状態変化を行うために必要なエネルギーということになる。
という理解ができる。
(実際には情報の消去のために用いられ放散するエネルギーだが。)
つまり、情報の変化は相変化ではなく、
事象そのもののエネルギーの変化ということになる。
これは、自然界の事象が持つ情報構造の変化に対するコスト的なエネルギーとも考えられる。
つまり、
情報自体が事象として発現する事はエネルギーが収束しエントロピーが低くなるということになる。
であればまず、当たり前かもしれないが、
「定義」と「情報・事象」は異なるものである、という事になる。
つまり、自然界の定義と、自然界の事象も異なるということ。
つまり、自然界において事象や情報が生じるのは自然界の定義によるもので、
定義とエネルギーが干渉した結果として事象や存在が発現するということになる。
そして、ここまでの考え方では、
自然界の定義から自然界の事象が発現し、
その自然界の事象の1つとして生命が発現し、
この生命が知能と言う機能を持ち、
知能が新たな定義を作り、
知能にとっての独自の情報が発現できるのだとすれば、
遡れば自然界も上位の存在の定義から発現した1つの事象と言えるかもしれない。
そして、人間が自然界の中にある閉じた系であるとすれば、
自然界も閉じた系であるかもしれないがが、
現時点ではこれ以上は理解できない。
また、
定義を定義するものは、1つの存在であり、
定義と定義の間に境界があり、
一方の定義ともう一方の定義があることで、
境界に存在ができるというイメージになる。
(「定義:(存在):定義」という二面性)
人間で例えれば、自然界の定義と、人間自身が持つ定義により、
存在としての人間が存在するということ。
(「自然界の定義:(人間・存在):知能の人間に対する定義」という二面性)
そして、この場合、集合で言えば要素に相当する存在が主観を持つということが言える。
人間を事象の結果の存在とする定義は自然界にあり、
その自然界の定義の組み合わせとエネルギーの干渉によってまず物理的に存在する人間が発現する事になる。
この場合、神経細胞の励起までは自然界の定義であり事象であることになり、
これを一面とすると、
反対側の一面は、人間が個体として後天的に定義する体験や経験の定義、
つまり、後天的に構築、構成された「神経細胞ネットワーク」そのものが、
この人間の後天的な定義に相当することになる。
つまり、この後天的な定義に対して、
その境界で自然界のエネルギーである神経細胞の励起との干渉によって、
情報である自己が存在すると言える。
つまり、
物理現象である神経細胞の励起と、情報である自己の意識の境界の働きが、
定義とエネルギーの干渉の結果である情報として生じているかもしれないという、
気づきが出来る事になるが、
これまでこの物理現象と情報がどのように変換されているかという疑問の答えは、
二面性における境界を構成する2つの定義とエネルギーから情報が生じ、
この境界で物理現象と情報の変換が行われているかもしれないという事になる。
つまり、先天的定義の励起と、後天的定義の励起の境界で、
自然界の定義による情報と、知能の定義による情報が1:1で置き換わる事が「変換」に相当するのではないか、
という事になる。
つまり、先天的定義の励起までは自然界の定義の励起であると考えたが、
であれば、その先天的定義の励起である刺激に対して、
後天的定義の励起である概感が1:1で「変換」する事が、
主観的体験になるのではないか、という事になる。
つまり、基本的な神経細胞の励起の経路で言えば、
主観的体験そのものは「想起」に相当する事になる。
これは、2つの場合が考えられ、
先天的定義の励起による刺激→先天的定義の励起
先天的定義の励起による刺激→後天的定義の励起
「先天的定義の励起による刺激→先天的定義の励起」は本能的な想起、
「先天的定義の励起による刺激→後天的定義の励起」は経験的な想起、
という事になる。
つまり、本能的な想起は身体性に関わる想起、
経験的な想起は自構性(自己モデル)に関わる想起、という事になる。
つまり、
物理現象と情報は、切り離して考えるものではなく、
互いの干渉の結果、その境界面(干渉面)に二面性を持つ連続体のようにして考えるべきものではないか、
という事になる。
ということは、
ハードプロブレムやクオリアの主観的体験というものは、
生命が知能を持ち、体験や経験を記憶して後天的に定義できるようになった結果として、
自然界の定義の組みあわせの可能性の1つとして、
その組み合わせた定義とエネルギーから、
発現するべくして発現したものであるということになる。
ただし、自然界の定義の組み合わせの理由が説明できないので、
境界としての二面性としては論理的に証明できない事になるが。
では、なぜ意識は情報として成立するのか?と考えると、
上記の通りで、
自然界の事象や、生命体としての神経細胞の励起やシナプスの活動などは、
この時点では、まだ自然界の事象に過ぎない。
そして、その事象の結果として後天的定義を構成する神経細胞の関連、シナプス接続が生じる。
そして、後にこの後天的定義の励起として、
体験する事に対して、自然界の事象と後天的定義が、
恐らく接触する境界となると考えられる。
ここで、物理現象であるエネルギーと後天的定義の情報構造が相互作用して、
「物理現象が情報としての意味を持つ」状態が生じる。
その結果として、この相互作用面・干渉面が境界として、
身体性や自構性の自己や主観の存在を構築(想起)する。
そして、この存在が知能によって意識される。
つまり、
意識が情報として成立するのは、
「物理現象が情報としての意味を持つ」状態が定義の境界で自発的に生まれるからではないか、
という事になる。
つまり、意識は「物理現象だけでも情報だけでも成立しない」、
境界の干渉の現象としての情報として生じるという事になる。
そして、その境界にあるのは、
一面が刺激であり、もう一面が概感である、という事になる。
そして、その刺激と概感の境界で物理現象と情報の変換が行われる。
さらに、以前から考えていた、意識の連続性が、
刺激の認識または概感の想起が、背反的に連続性を持ち、
この認識か想起の連続性が、意識の連続性になるという考え方に収束する事になる。
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今回のまとめ:
物理現象と情報の変換においては、
その「変換」それ自体がある事によって、
「存在」を分けることが出来る事になる。
つまり、自然界の存在と、生命が身体を持つ存在であることにより、
自然界と身体内の知能それぞれの定義を分けた事で、
知能は「個」の存在が定義できる事になった。
つまり、自然界の定義と知能の定義が矛盾しない関係であると、
個としての主観が生じ得ないという事になる。
逆に言えば、互いの定義が一致しない事・矛盾する事で、個が分離したとも言える。
そして、これは、
物理現象と情報の変換において、
自然界の定義から発現する物理現象(存在)と、
知能が持つ定義が再定義する情報(存在)として、
異なる存在同士の境界に「変換」するという「定義」において、
二面性では、「存在:(定義):存在」として、
自然界の定義から発現する物理現象:(変換・定義):知能が持つ定義が再定義する情報
となり、自然界と知能が持つ個が「変換する定義」で分けられ、
知能側が「個」となり、
この「個」が知能が定義する存在としての「主観」を持つに至った。
つまり、
異なる定義から発現する存在同士が、境界を持つ変換をする事によって、
主観を持ちうる存在を分けることが出来る。
後は、知能側の定義で自身を定義し、その存在を主観を持ちうる存在として発現させるなら、
この存在は、主観的体験ができる存在であるという事になる。
つまり、自然界の物理現象と、個を持つべき存在を、
その境界を何らかの事象で仲介させ、定義で分離し、
個を持つべき存在は独自の定義で「自己」を定義すれば、
まず、この「個」には主観を持ちうる存在となる、という事になる。
そして、この物理現象と情報の変換においては、
単に存在と定義を境界を使って分離するだけでは不十分で、
情報を持つ側の存在は、独自に定義を持っている必要があるという事になる。
さらに言えば、この情報を持つ側の存在が「主観」を持つには、
自構性(自己モデル)としての自己を発現させる定義が必要であるという事になる。
つまり、「変換」が在る事によって、
存在の分離と同時に、存在する為の定義も分離されたことになる。
要するに物理現象と情報の変換における「境界」は、
その境界を持つ事で互いに関連付けられない事が、
ある存在(知能)が「個」を生じる事、「主観」を持つ事において、
問題(プロブレム)になるのではなく、必要であったという事になる。
そして、結局「境界」は二面性があれば成り立つが一面では成り立たず、
また、当然、それぞれの面は「境界」を持つため接することは無く、
構造的に関連付ける事は出来るが、存在そのものの関連の証明は出来ないという事になる。
今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。