2025/10/28-2025/11/2


ハードプロブレムと情報の関係


今回は前回の続きで、
意味の意味たる所以(ゆえん)について考えてみる。

前回「456:物理現象と情報の変換における定義の階層と二重性」では、
物理現象と情報の変換について考えたが、
その交換された後の情報に、どのようにして、どのような「意味」が付与されるのか、
これについて考える。

恐らくこの「意味」は、ハードプロブレムにおける主観的体験の、
体験される事象の意味でもあると考えられるので、これも併せて考えてみる事にする。

前回までの内容をまとめると、
主観的体験の意味は、事象を構築する際の「情報」の「要素」であり、
刺激や概感を構成する要素としての「情報」の「意味」でもあるという事になる。

つまり、「体験」する刺激や概感は、「事象」ではなく「情報」から構成されているという事。
そして、その時の「情報」は、
先天的定義として各生命種毎に定義として保有する物であり、
それは遺伝子パターン内に内包されていると考えられる、という事になる。


情報を事象として認識したり想起したりして、
意識に至るようになるまでのハードプロブレムの問題は、
質的体験であるクオリアの解明とも言えるが、
ともかく、物理現象と情報の変換が解明できないことには先に進まない事になる。


例えばの話、自己言及に絡めて言えば、
ハードプロブレムにおける主観的感覚について、
私が「赤」を金色のように見ていて、「金」が赤色のように見えていたとしても、
それを語る時「赤色」や「金色」について語っても、
他人がこれを問題なく理解できる場合、他人がこの色について私と異なる色のように見えていたとしても、
各個のクオリアについては問題ないということになる。

つまり、主観的体験が異なっていても、
情報が共有できれば問題は無いという事になる。

そして、よりハードプロブレムに寄れば、
そもそもの「赤さ」のようなものは、知能が構築していると考えられるが、
その知能における構築過程の定義が、
各個で共通するかどうかは、現時点では論理的に証明のしようが無い。


例えば赤の元ととなる受容体の錐体細胞において障害があり、色覚異常である場合、
この対象者と他人は「赤」に関する共通の認識ができないことになる。
この場合、
色覚異常の対象者は「赤」の主観的体験が存在しない事により、
他人とのハードプロブレムに共通する体験を持たない事になる。

つまり、まず様々なクオリアは個体固有の体験であり、
対象を拡張すれば生命種の固有の体験になると言えるのではないか、という事になる。

そして、仮に波長600nm~700nm前後の光を受容する機能が生物種を問わず持っていたとしても、
少なくとも同じ生命種以外のクオリアは異なっているのではないか、という事になる。

つまり、
ある体験を構築しうる機能を持たない生命種では、
この体験自体を構築できる機能を持たない事で、
この主観的体験自体が「無い」という事になる。

そして、現時点では同じ生命種でもその主観的体験が同じようなものであるのかは証明できないが、
前回の考えでは、その定義が恐らく遺伝子パターン内にあるのではないかという事なので、
これが共通する同じ生命種同士では特定の体験については、
証明こそ出来ないが非常に似通った体験になっているのではないか、
という事が言える。

また、ハードプロブレムにおける体験というものは、
ある生命の種類毎に固有の性質として備わっていて、
仮に互いに言及した時の定義は共通しているのではないか?
という事が言える。

つまり、赤い赤さを感じられるという事は、
波長600nm~700nm前後の光を受容して刺激として処理できる感覚を持ちうる場合のみ、
体験できるという事になるが、
この体験が共通であるかは証明できないが、
この体験を言及した際の互いの情報が共有できるという事は、
この言及の情報を構築する為の定義が共通しているのではないか、という事になる。

つまり、体験自体の一致は証明できないが、
少なくとも言及する情報の定義は一致しているという事になる。

そして、
色覚異常の人であっても、通常の色覚の人であっても、
仮に色以外においてクオリアが共通する対象を示すものであるなら、
ハードプロブレムにおける主観的体験の違いというものは、
その同じ生命種においては、あまり意味をなさない。
つまり、「情報の定義」としては同じものとして扱っても問題はないのではないかと考えられる。

つまり、体験こそ違えども、同じ対象について同じ情報を持つ対象として各個が定義し言及しているのなら、
その対象が持つ情報は個体の違いに関わらず、同じ情報を持っていると言えるのではないか、
という事になる。

つまり、主観的体験をする主観的存在の上位の存在に対する共通の定義を、
主観的存在同士が互いに言及した時に共有できるのであれば、
同じ対象について言及した情報を構築した時の定義は、一致とまではいかないまでも、
共通するとまでは言えるのではないか、という事になる。

つまり、ある対象についての主観的体験が異なっていても、
この対象について異なる個体が互いに言及した時に、
この言及した情報が共有できるなら、少なくとも言及に用いた定義は共通しているのではないか、
というわけである。

つまり、主観的体験の違いというものは、
情報に対しては、あまり意味を持たないのではないか、という事になる。

つまり、物理現象と情報の変換自体の解明が重要ではないという事ではないが、
ある個体同士が情報をやり取りする事においては、
各個の主観的体験は、それほど重要ではなく、
むしろ、その個体内部で行っている主観的体験と言及する情報の変換の方が重要なのではないか、
という事になる。

つまり、例えるなら、情報は情報として構築された後は、
主観を離れて、独り歩きを始めてしまう、という事になる。

そして、生命において、生命種が同じであれば(仮に異なる種であっても)、
脳や神経、感覚器官などの構成が同じか似ているものであれば、
そこから構築される情報の構成はほぼ同じと言える。

この場合、クオリアの違いは情報的に言えば、あまり意味が無い事になる。
互いに言及した情報が共有できるから、という理由からである。

そして、こういう事であれば、
ハードプロブレムは、情報を共有できない関係の間でのみ成り立つのではないかと言える事になる。


つまり、ハードプロブレムは、論理的には同じ生命種間でも問題にすることはできるが、
情報構造においては、あまり問題にする必要が無いと言えるのではないか?
であれば、仮にAIと人間の情報構造において、
人間がAIに対して人間が共通化できる、ある対象に対する定義を与えるならば、
その定義から情報を構築するAIは人間と共通した体験ができていると言えるのではないか、
という事になる。

つまり、主観的体験は、個体が持つ情報構築の定義に置き換わる。

要するに、例えば赤さや痛いなどの感覚は、
情報に置き換わった後に、対象として操作や言及が出来るようになる。

そして、この情報化された後の体験は、
仮に異なる存在であっても、同様の情報化の定義を持っているなら、
その情報は共有できるのではないか、というわけである。

つまり、体験の共有という意味では、
クオリアが同じという事ではなく、
そのクオリアを構築しなおした情報が同じと言えるのではないか、という事である。

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今回のまとめ:

今回はハードプロブレムを直接的に解明するのではなく、
主観的体験の情報化の面からハードプロブレムに迫ろうとしたことになる。

主観的体験は、各個が持つ情報化の定義から構築されると考えられるため、
仮にある変化に対する主観的体験がまったく異なっていたとしても、
情報の共有ができれば、意味は共有できる事になる。

つまり、言及する為の後天的定義において、
各個が共通する定義を共有するなら、
その言及した内容が一致すれば、
少なくとも各個内でハードプロブレムに相当する変換の後の、
情報化への変換からの処理や機能は同じであると言えるのではないか、という事になる。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。