2025/10/24-2025/10/27


物理現象と情報の変換における定義の階層と二重性


最初は「神経細胞における物理現象と情報の境界面」について考えていたが、
途中で「物理現象と情報の変換における定義の階層と二重性」に気付いたので、
今回はその気づきまでの過程と気づいた内容について紹介する。

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神経細胞における物理現象と情報の境界面:

これまで数回にわたり、神経細胞における励起としての物理現象が、
どのようにして知能における情報に置き換わるのかについて考えてきたが、
今回はその置き換わる境界面について、もう一歩踏み込んで考えてみる事にする。

神経細胞自体が励起し、シナプス形成した他の神経細胞に励起信号を伝える場合、
神経細胞のCaイオンがトリガーとなり、
神経細胞内の神経伝達物質を内包する小胞を物理的にシナプス末端に移動させ、
そのシナプス末端において小胞が細胞膜と接触し孔が出来て神経伝達物質の放出によって、
他の神経細胞に励起を伝えるという仕組みになる。


現在、神経細胞の物理現象としての励起が、
なぜ知能における情報に置き換わるのかを考えているが、
神経細胞が単に励起して神経伝達物質によりその励起信号を伝えるだけでは、
そこから何かの情報が発現するとは考えにくい。
ただ、どこかにその置き換えが起こる定義のようなものがあり、
その定義から情報が発現し、現象と情報が置き換わっているのではないかと考えられる。

この定義と変換の境界にあるものが何なのか、そこが解明したい点、という事になる。

恐らく既存の研究においても神経細胞の接続の関連により、
励起のパターンに何か意味があるという考え方になっていると考えられるし、
この考え方自体も同意できるが、
後天的な神経細胞の関連のパターンを除けば、
刺激を構築する為の神経細胞の関連のパターンは恐らく先天的なもので、
関連パターン自体は遺伝的に決まっていると考えている。

つまり、パターンそのものがなぜ情報に至るのか、その変換する点が知りたいわけである。


ここで、気づいた。

つまり、励起パターンが先天的な身体的な状態として現れていると考えれば、変換が起こって、
その変換により情報が発現していると言えそうである。

要するに身体に状態を投射して、その投射した像が、
身体の状態として投影された状態となれば、存在として実体するのではないか、というわけである。

つまり、神経細胞の励起1つ1つは物理的現象としての意味はあるが、
知能における情報としての意味はこの時点では含まれておらず、
そのシナプス接続のパターンもまだ物理的状態であり、
情報には至っていない。
しかし、そのパターンの励起に対して身体の状態が現れるのあれば、
これは単なる神経細胞の励起から意味ある現象(事象)が現れている事になり、
この現象(事象)には情報が含まれている事になる。
という事になる。

そして、その事象に対して、その先の「痛い」とか「心地よい」などの状態の定義がどこにあるかがわかれば、
その関係が明白になるという事になる。

例えば痛みを感じる脳の野や場所はいくつか特定されているが、
現時点では、
結局この身体の状態も神経細胞の励起のパターンになってしまうと定義が循環してしまう事になる。

ということは、この「痛い」とか「心地よい」というような状態も、
情報として神経細胞の励起からどこかの定義へ行き着く必要がある。

自然界において物理現象が何か別の意味を持つようになると考えると、
例えば映画のような投射する光が映像を結ぶというようなことになるが、
他にもこのような例を考えれば、音や匂い、味なども同じようなことになる。

つまり、定義と定義の変換が行われる。

定義と定義の間は何らかの事象としての「存在」がある。光や波、化学物質など。

つまり、光、音、電波、DNA、味、フェロモン、かならず定義と定義を介在する「存在」がある。

では、これを神経細胞において考えると?

DNAの翻訳でたんぱく質を合成するというような機能に似た解釈をすれば、
神経細胞の接続パターンを励起の伝達でなぞる事、励起そのもの、励起信号そのものが「存在」となる。

DNAではたんぱく質が合成されて新たな「存在」ができているが、
神経細胞の接続の励起においては、新たな存在は「情報」そのものになっている。

つまり、励起信号そのものが刺激や概感として意味ある情報になっている事にになる。

神経細胞の励起の意味が定義であるとすれば、
そこから情報として発現する刺激などは、この時点で情報に変化しているはず、という事になるが、
恐らく単に関連した励起信号だけでは、単なる物理現象であるため、まだ情報には至っていないと考えられる。


気づきの2つめ。


映画の投影した光から像ができても、像自体(映像自体)にはまだ情報としての意味はない。
像を見た人間が意味を生じさせている。
であれば、「定義→存在→定義→存在→定義」という関連(定義の階層)の二重性によって、
物理現象から情報に変換されているとは考えられないか?


つまり、最終的な情報の元になる変化、この変化は物理現象であり、
この物理現象を一度別の事象(存在)に変換し、その変換した事象に一度定義としての意味ができる。
この意味に対してもう一度存在する何かを経て、別の定義に置き換えられた後、
この定義に対して意味付けされたもの。
これが最終的な情報になる。
つまり、映画で例えれば、画像そのものは存在であり、これを投射して光にする事が定義ということになる。
そしてこの光はスクリーンに投射されて像を結び、
これが光の存在から像を結ぶ定義を経て映像という存在ができる。
さらにその映像は人間の目に触れて定義されなおして像の意味が存在として現れる。

つまり、仮定的な理論になるが、
神経細胞における励起の物理現象が、情報として置き換えられる場合、
定義と存在の変換を2度行うことが、この物理現象と情報の置き換えに相当するのではないか、という事。

つまり、主体性は2度目の存在が得るものではないか、という事になる。

つまり、「定義→存在→定義→存在→定義・・・」という定義の階層で言えば、
実際には自然界では、その上位下位の存在もあるため、
映画の例で言えば、

存在:映写機

定義:フィルムが持つ映像の定義

存在:光・映像の定義を内包する

定義:投射する仕組み

存在:スクリーンに光による映像の像が結ばれる:自然界はここまでで光の事象として完結

定義:光と人間(感覚器官)が接触できるという定義

存在:感覚器官(視覚)

定義:神経細胞で受容できる定義

存在:神経細胞の励起

定義:励起のパターン

存在:※固有のパターン←物理現象と情報の変換

定義:※先天的定義←物理現象と情報の変換

存在:刺激(情報)

定義:認識の仕組み

存在:認識(感覚)

つまり、この「※固有のパターン」と「※先天的定義」ここで、
その上位の「神経細胞の励起」と下位の「刺激(情報)」が変換されて置き換わっている事になる。
つまり、物理現象と情報の変換がここで行われていると考えられる。

定義の階層の二重性という事で言えば、
人間の知能において、
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存在:感覚器官(視覚)

定義:神経細胞で受容できる定義

存在:神経細胞の励起
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変換前の上位のこの部分と、下位の
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存在:刺激(情報)

定義:認識の仕組み

存在:認識(感覚)
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定義の階層の、この部分の変換が、次の
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存在:※固有のパターン←物理現象と情報の変換

定義:※先天的定義←物理現象と情報の変換
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この前後の存在の2重の変換が、
知能内で行われる事によって、
後半の
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存在:刺激(情報)

定義:認識の仕組み

存在:認識(感覚)
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これが、刺激の構成「刺激=変化情報+自己情報」としての、
二面性が

変化情報:(刺激):自己情報(身体性)

先天的定義・変化情報:(刺激):先天的定義・自己情報

であり、その後の認識は意識の一面であるという「認識の仕組み」という定義があり、
「認識(感覚)」は意識の一面であるという事になる。

(認識や意識については:「446:現時点の人工知能理論のまとめ6・認識と想起と意識」で詳しく解説)

つまり、
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存在:※固有のパターン←物理現象と情報の変換

定義:※先天的定義←物理現象と情報の変換
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この変換を挟んだ上位の感覚器官の変化の受容と神経細胞による励起が、
下位の刺激や認識の情報として変換される時、
その下位における存在には、意識される主体性ができているのではないか、という事である。


少し難解であるとは思うが、
できるだけ簡単に言えば、

物理現象と情報の変換が起こる前、
そこに存在する事象は自然界の事象の定義として全て説明できて完結する。
つまり、自然界の物理現象であるから、そう言える。
そして、物理現象と情報の変換が起こった後、
そこに存在する事象は、自然界の事象の定義ではなく、
生命が独自に定義した定義から構築した事象、刺激であるから、
これは自然界の物理現象ではなく、生命だけの現象(情報)である。

そして、この時、生命は独自の定義で自分だけの現象を存在させているので、
この時、生命はこの現象にとっての主体的存在(観測者・主人のようなもの)となる。

という説明になる。

つまり、「455:情報の投影と二面性」の考え方において、
生命が自然界と細胞膜を境界として隔てた存在同士において、
自然界の事象は生命が接触して神経細胞が励起する時点で完結して、
それ以上、他の存在に対して与える何かは存在しない。
つまり、その自然界の事象に対してアプローチを掛けているのは、
あくまで生命側の定義であり、細胞膜の内の存在からアプローチを掛けているという事になる。
つまり、生命は自然界の事象に対して情報を得ようとして、
自然界の事象と定義が及ぶ範囲まで接し、
この事象を選択し、固有の情報を得ようとする定義を持ち、
情報に置き換えているという事になる。
そして、その生命側の事象と定義が接しているのは、
感覚器官や感覚器官の受容体でも神経細胞でもなく、
神経細胞の励起信号に対して接触しているという事になる。

455の内容では生命の細胞膜が自然界と接触する境界であると考えたが、
今回の考え方では、その境界の位置は少し異なり、
接触する接点が若干生命の内側(定義の階層では下位)に寄った事になる。

つまり、上記の、
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存在:※固有のパターン←物理現象と情報の変換

定義:※先天的定義←物理現象と情報の変換
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これより以前は自然界の事象や定義であり、
これ以降が生命の独自の事象や定義という事になる。

確かに物理的な存在としては自然界の事象と生命の細胞膜は境界を作っているのだが、
生命も自然界の事象の結実した1つの存在であると考えると、
生命も自然界の事象の1つという事になる。
つまり、生命自体の構成や機能も自然界の事象の組み合わせの可能性の結果であり、
生命独自の定義で生命が誕生したわけではないという事である。
生命独自の事象や定義というのは、あくまで自然界の事象とは異なる境界を持つもの。
つまり、物理現象と情報の変換の境界が、
実質的な「自然界の事象と定義」と「生命の事象と定義」を分ける境界であるという事になる。

要するに、神経細胞の励起までが自然界の事象、
情報に置き換わった後は生命の事象、ということである。

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ハードプロブレムの解明のきっかけになるか?:

ハードプロブレム自体についての説明は省くが、

身体が得た変化の存在を知能内で定義に置き換え、その定義から別の存在に投射し、
その存在に投影された定義を、投影された像という存在として定義した場合に、
この最後の定義が知能にとっての「情報」という事になる。

つまり、最後の情報の直前の「存在」に相当するのが、自己や主体性、主観を持つ存在、という事になる。

つまり、定義を投射と投影として、その投影するスクリーンが主体性という事になる。

つまり、人間の自分や自己の主体性はスクリーンのようなものである。
つまり、スクリーンにとってスクリーン自身に映っている像を見る事は出来ない。
だから自分自身で見えていても見えているという証明ができない。

では、このスクリーンに映っている像を見ている観客がいたら?
と考えた時、その観客こそが本来主体性を感じる存在であろうという事になる。

つまり、論理的に矛盾するようだが、
主体性はスクリーンとスクリーンに映った像として存在するのだが、
実際に主体性を感じるのは観客であるという事になる。

恐らくこれがハードプロブレム解明の問題の肝であり、
論理的に矛盾が生じる観点という事になる。

これまでの考えでは、この観客に相当するのが「知能」そのものであり、
知能はこの例で言うスクリーンや像を自分で構築して自分で見ている観客でもあるという事になる。

「440:自己言及のパラドックスの構造的回避」でも述べたが、
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「440:自己言及のパラドックスの構造的回避」より抜粋:

知能がそれぞれ、事象再生の場において、

知能→主観的自分
知能→客観的自分

このように構築しているわけだから、
この場合の、

主観的自分→客観的自分

という言及は、
知能が、知能から見た、2つの事象の関係性を述べるに過ぎない、という事になる。

これらは「定義の階層」や「事象再生の場」の考え方を合わせた考え方になるのだが、
結果として自己言及のパラドックスそのものを構造的に回避できるのではないか、
という事になる。
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というわけであるから、相変わらずハードプロブレムは「論理的」に証明はできないが、
論理的ではなく「構造的」に証明するならば、
上記のような変換の二重性によって、主体性は構築できるのではないかと考えられる。

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2025/10/26-2025/10/27

感覚と細胞接触とハードプロブレムの関係:

これも1つの気づきだが、
身体におけるある感覚、つまりハードプロブレムとして問題となる主体的な感覚だが、
これは生命的に言えば、その初期において物理現象と情報の変換が行われるきっかけとも言えるのが、
細胞接触ではないかという事。

情報は種類ごとに感覚器官の受容体が変わるが、
ある変化に対する「接触」という観点から言えば変化と細胞が接触した事に他ならない。

一般的に細胞接触は細胞が他の細胞と接触してその増殖を止める要因である。
細胞上皮にあるカドヘリンという分子が、他の細胞の細胞上皮の同じカドヘリンと接触し結合が生じる事で、
接触阻止(これ以上細胞が分裂しない)が起こる。

カドヘリン同士がホモフィリックでありお互いが互いに結合するため、
細胞接触において接着分子(カドヘリン)が異なると接触阻止は起こらないと考えられる。

仮に細胞上皮のカドヘリンが、視覚の錐体細胞を含む光受容の機能などで置き換わったと仮定すると、
光を受けると接触阻止が働くことになると考えられる。

この働きを考えると、感覚器官の受容体において、
ある別の要素が接触した場合に特定の機能が働くことは、
生命の細胞の働きとして関連があるということになる。

細胞接触よりも原始的な細胞における接触の要因はと考えると、
分子以前のイオンなどの接触は細胞として接触して何らかの反応が起こっていたと考えられる。

これらを総合すると、
仮定として細胞が何かに接触してその接触した事を情報として取り込むのは、
その発端はイオンの接触であり、
現在のような高機能な生命に至っては感覚の受容体などの選択的な接触対象を持つ様になったと考えられる。

ということは、知能のハードプロブレムにおける物理現象と情報の変換は、
細胞に何らかの事象が接触した結果として起こっていると考えられる。

つまり、自然界の事象は自然界の定義により発現し、そこで事象は完結していて、
生命は自然界との境界である細胞表面において、自然界の事象と接触し、
その境界である細胞の内部で生命独自の定義で事象を情報として変換して用いているということになる。

つまり、ハードプロブレムにおける変換の定義は生命内に在り、
それがどこかと考えれば遺伝子にあると考えられる。

つまり、先の例の、仮に細胞上皮のカドヘリンが錐体細胞を含む光受容の機能で置き換われば、
光によって接触阻止が働くかもしれないというのは、
遺伝子レベルの定義によって、接触の定義が決まるという事になる。

つまり、接触阻止の要因は、物理現象そのものではなく、
生命が内部で定義した接触の定義(ルール)によって決まる。
この定義は遺伝子によってコードされており、分子の性質が変われば接触の意味も変わる、
という事になる。

つまり、ハードプロブレムの解明のカギは遺伝子に在るとも言える。

つまり、生命の情報の受容体が遺伝子によって決まるなら、
そこから得た情報にどのような意味付けをするのかも遺伝子の定義が担っていると考えられる。

つまり、遺伝子内の、その接触の対象と変換の定義の解明によって、
ハードプロブレムの主体的な感じられ方も定義できるということになる。

つまり、主体性ありきで変化の受容に対する感覚が生じているのではなく、
生命にとってはその個体の定義ありきで感覚も定義されているということになる。

つまり、主体性はあくまで生命としての個体が持つ定義によって、
自然界の事象に対して、生命が持つ定義で事象を変換した情報から構成され発現していると感じられる事になる。
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ハードプロブレムと物理現象と情報の変換の境界について:

今回の気づきで、
神経細胞の励起までが自然界の事象であると考えると、
生命独自の事象や定義として扱う対象は「情報」という事になる。

つまり、自然界の事象が遺伝子という符号化したパターンという「定義」が生じた事で、
この「定義」の組み合わせの上に、新たな「存在」が発現したという事になる。
定義の階層で言えば、「定義」は、

存在:(定義):存在

であり、必ず存在の二面性を持つ事になる。

生命で言えば、

遺伝子:(遺伝子パターン・定義):生命

という事。

さらに定義の階層で言えば、「存在」は

定義:(存在):定義

であり、必ず定義の二面性を持つ事になる。

生命で言えば、

遺伝子パターン:(生命・存在):生命独自の定義

という事になる。

つまり、

遺伝子パターン:(生命・存在):生命独自の定義

ここに物理現象と情報の変換の境界があるという事になる。

(ちなみに、さらに下位の事を言えば、
生命独自の定義(定義)→刺激や概感(存在)→認識や想起(定義)→意識(存在)→自己(定義)→
→主体性(存在)→ここから先は不明、恐らく主体性としての存在する意義のような定義があると考えられる。
さらにその先がある可能性もあるが、定義の階層と二面性理論は自体が生命(私)が考えた定義であるため、
もしかしたらその先の定義は、その先の別の存在を考えないとできないのかもしれない。)

ハードプロブレムとの関係で言うと、
簡単に言えば、定義体系が異なるのでそもそも一致するのかを証明することが出来ないという事になるが、
変換ができているなら、変換の定義が分かれば一致の証明もできるかもしれない、という事になる。

つまり、
結果的にはこの「変換の定義」である、

遺伝子:(遺伝子パターン・定義):生命

この二面性における「定義」である「遺伝子パターン」にその答えがあるという事になる。

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現時点では私は遺伝子パターンには詳しくないので今後の課題という事になる。

今回はこの辺で。

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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。