2025/10/14-2025/10/21
情報の投影と二面性
「453:情報の投射と対象の投影」の続きになるが、
神経細胞が励起した事による物理現象が、その主体の意識に至る情報となりえるのかについて、
物理的変化が定義を伴って投射され、情報として投影される事で、
これが行われているのではないか、と考えたわけだが、
今回はこの、物理現象と情報との関係について定義の階層と二面性理論を使って考えてみる。
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神経細胞の励起と意識する情報の違い:
神経細胞が励起することは物理や化学の現象であり、
実際に事象として起こり対象とできるために「存在」という事になる。
主体の意識に至る情報も、実際に対象となりえるので「存在」という事になる。
まず、この時点で、2つとも「存在」という事になるが、
定義の階層からいえば、少なくともこれらが同じ「存在」では無く、
間に定義または、異なる存在を含む階層が挟まれているという事は言える。
これは「454:情報の生物的置き換え」でも考えた通り、
実体が生来的に持つ定義から起こった事象と、生体内の定義により発現している事象であるため、
少なくとも1つの階層で分離された「存在」であるという事になる。
今回問題にしているのは、これら2つの「存在」の関係であるが、
まず、現時点では最低でも1つ以上の「定義」を挟んでいると考えられる。
もし、これらが同じ「存在」であれば、
定義を挟む必要が無く、神経細胞が励起さえすれば、
少なくとも何らかの情報が意識に至る事になる。
そして、もし同じ「存在」であれば、
情報の置き換えが起こらず、同じ事象ということになり、
例えば身体外で光った光がそのまま身体内でも光っている事象として現れている事になる。
 
また、人間以外の知的生命も、
どれだけ単調であっても神経細胞が励起すれば、
意識を持っているのではないか、という事が言える事になる。
現時点では、このような事は無いと考えられるので、
少なくともこの2つの「存在」は同じではないという事になる。
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2025/10/20
情報の投影と二面性について:
「453」で情報の投射と投影によって、
神経細胞の励起が情報として発現すると考えたが、
「454」で情報の置き換えが起こっている事を加味すると、
情報の投射と投影が、情報の置き換え処理なのではないか、という事になる。
つまり、先天的定義として、ある特定の神経細胞の励起が、
これも特定の情報として刺激として構築され、認識や意識に至ると考えると、
この機能自体の定義は、生得的に決まった定義であり、
後天的にどうこうできる物ではないという事になる。
つまり、「情報の置き換え」の定義があるとすれば、
その定義の階層と二面性理論で言えば、
存在:(定義):存在
であれば、
存在:(情報の置き換え・定義):存在
ということであり、
この場合、それぞれの存在は、
神経細胞の励起:(情報の置き換え・定義):情報としての刺激
という事になる。
つまり、「神経細胞の励起」そのものが一面であり、
何らかの置き換えの定義があり、
「情報としての刺激」が反応側の結果として発現している事になる。
(つまり、神経細胞の励起に対して決まっている、
自動的なカウンター反応のように刺激が構築されているという事)
そして、「情報の置き換え・定義」は、生得的に持っている定義であれば、
先天的定義ということであり、
この機能自体の定義として生命は進化のどこかの段階でこの定義を持ったことになる。
定義の二面性は、先に2つの存在が在って定義が構成されるわけではなく、
1つの存在に対して、この存在から何らかの存在に変化をするための定義や、
結果的な相対する存在であるため、最初から上記において刺激があったわけではないという事になる。
つまり、最初に存在したのは「神経細胞の励起」だけであり、
「情報としての刺激」が存在する為に、その二面性を構成する定義、
この場合は「情報の置き換え・定義」が生じた事になる。
これまでも度々例に挙げてきた腔腸動物の初期の神経細胞のような働きにおいて、
最初に存在したのは「神経細胞らしい励起」と、腔腸動物においては運動神経に対するような接続だけであった、
という事になるが、初期段階においても情報の置き換えとしての定義のようなものは、
最初からあったという事になる。
では、さらに遡って、神経細胞の励起のような機能の初期段階について考えると、
生命の膜によって自然界と個体が境界を持った後、
その境界の外に発現する変化にたいしてこの個体が接触した際に、
何らかの情報を得る事、これを目的とする初期の状態があった、という事になる。
つまり、変化を変化として受けるだけなら、
何も目的が無いわけであるから、そこから個体が何かをするような事は起こらない。
変化に対しても、なすがまま、されるがまま、という事になる。
情報の置き換えを必要とするのであれば、
「454」でも考えた「平衡」の概念が何か関係しているのではないかと今思った。
つまり、恐らく初期段階においては、確かに初期生命は、なすがまま、されるがまま、であったと考えられる。
そもそも変化を受けて何か目的があったわけではないからである。
当然、その定義も持ち合わせていなかった。
ただ、その後、外部の変化に対して生命の内部で相対する存在が生じたか、取り込んだか、入り込んだ事により、
自然界の変化:(まだ未定の定義):生命内の何らかの存在
このような二面性が生じたのではないかと考えられる。
つまり、先に二面性を持つ「定義ありき」ではなく、
先に二面性のそれぞれの面の「存在」が構成されたのではないか、という事である。
つまり、例えば、ボルボックスの走光性が、眼点で受けた光に対して鞭毛運動を行うという機能であるとすると、
先に存在したのは、自然界の光と、
ボルボックスの前駆体のような生命であれば、鞭毛運動が先に機能として獲得されたのではないか、
という事である。
つまり、光に対して走光性を示すような「定義」は後付けで、
初期においては、光と鞭毛運動は無関係で、鞭毛運動だけが先に生命に獲得されたのではないか、という事である。
これを腔腸動物に当てはめれば、感覚に代わる細胞に何かが接触して、
それが食物であれば運動細胞が働いて対象を食す行動を起こす事は、
その初期段階では、食物となる対象は存在し、運動するという機能も生命が持ったとしても、
それを食す運動とする定義は後付けなのではないか、という事である。
つまり、どこかの段階で外部の変化と内部の機能の関係の間を構成する「定義」が生じることになった、
という事になる。
では、その「定義」が生じた段階はいつなのか?という事になる。
つまり、
自然界の変化:(まだ未定の定義):生命内の何らかの存在
この「まだ未定の定義」がどこかで生じたはず、という事になるが、
「454」の「平衡」の概念をもう一度持ち出して考慮すると、
初期はそもそもそれらの存在に関係が無かったので「平衡」しれ関連する必要すらなかったことになる。
どちらも、ただそこに在った、と言うだけの事である。
平衡の考え方からいえば、自然界の事象はもうこれ以上定義が変更されようがなく、
定義も事象も固定されている。時間経過によって変化しない。
であれば、「変化圧」のようなものがあるとすると、
この二面性を構成する存在として変化するのは「生命の側」という事になる。
もともと自然界の定義の現象として「存在」する生命ではあるが、
自然界において生命の定義は固定ではなく、定義の組み合わせの結果として発現したもので、
生命の定義自体は定義の組み合わせとしての可塑性を有している。
つまり、自然界の定義を組み合わせを変え直せば生命の定義は可変することが出来る。
もし、
自然界の変化:(まだ未定の定義):生命内の何らかの存在
において、「自然界の変化」が固定であるなら、
その二面性を構成するなら、
「生命内の何らかの存在」(機能や働きのようなもの)を変えるか、
後に定義を変えれば良い事になる。
そして、定義が後付けであると考えたので、
先に変わるのは「生命内の何らかの存在」という事になる。
生命の内外で外の変化と内の何かが「平衡」すると考えると、
外の変化が固定であり、内の何かがそれと相対するまでの間に何らかの関係が出来た、
という事になる。
まだ「定義」が出来る前である。
在るのは、外部の変化、変化の接触、内外を分ける膜、内部の機能、である。
定義はない。
何か外部の変化の接触に対して、内部で起こる変化があった。
この内部の変化が有意であった。
この「有意」に対して反応が生じた。
つまり、外的要因によって内部の変化が生じ、その内部の変化が、
継続された場合に生命内部で外的要因と内部の変化の間に「関係」が構成された、ということか?
外的要因は複雑な変化というわけではないが、
光に照射されつづけるとか、水中であれば水流や波に揉まれるとか、
自然界における生命の「選択圧」と並行して、
自然界の変化に対する生命自身の二面性の一面を構成する「変化圧」のようなものがあった、
という事であろうか?
その過程については想像するしかないが、
つまり、自然界における環境から受ける生命の存在自体が選択される「選択圧」と、
生命自身が自身の外部の自然界の変化に対する個体内部で起こる「変化圧」という、
2つの変化を促す要素に生命はさらされ、その変化の過程で個体の内外の「関係」が生じた。
自然界の変化と生命内部の働きの「関係」が一度構成されれば、
それは生命にとっての「定義」と成りうるのではないか?という事になる。
そして後に、
定義自体はその継承において、初期は細胞のコピーとして、後に遺伝的情報としてコピーされることになる。
まだ、現時点で「定義」がこの様に出来たかどうかは分からないが、
「定義」ができる「きっかけ」は、このような事ではないかと今の所は考えている。
これは後の課題としておく。
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2025/10/21
少し長いが今日の気づき。
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・ある存在や定義が仮に何かに認識されずにも「在る」としても、
何らかの主体的存在からは、その対象が一面性だけでは成り立たず、
何らかの主体的存在が対象を「在る」とすることができるために、
この「在る」事が成り立つために二面性が必要であるのなら、
逆に考えれば、何らかの主体的存在が一面性だけで対象を「在る」とする事は出来ず、
必ず対象の「在る」事に対して「「在る」事の平衡」としてもう一面性を構成するのであれば、
主体的存在は、「二面性の境界」にしか発現しえない事になる。
つまり、主体的存在が自身の視点からも、自身を存在足らしめる上位の定義や存在の視点からも、
各々の一面性だけでは成り立たないわけであるから、
最低限、主体的存在が成り立つためにはまず「境界」が必要になる。
つまり、存在と定義を分ける「境界」である。
また、「境界」があれば、それだけでも定義の階層において存在は分けられ、
その「分かつ定義」が在る事になる。
さらに、、この場合、下位の存在は主体的存在には至っていないが、
昨日考えた生命の「変化圧」として、境界の一面に定義が在る場合、
二面性理論における「定義:(存在):定義」は、
「自然界の定義:(境界):未定義の定義」となり、存在としての「境界」が二面性をもって、成り立つためには、
この内の「未定義の定義」は自ずと必要になり、
この場合においては、いずれにしてもこの定義が構成されることにならざるを得ない事になる。
つまり、ある存在(自然界)の中に異なる存在(生命)が二面性を持つ「境界」が構築されたことで、
自ずと定義もその境界の両面に二面性として発現する事が必要であった。
実際は必要であったというよりも、その事自体が自然界に「定義」として在った事さえ考えられる事になる。
つまり、定義の階層と二面性理論のさらに上位の補強となるが、
仮に自然界に生命以外のある存在が、自然界と境界を持ち、その自然界の定義に相対する一面の定義を、
自発的に持つようになるなら、
それが主体的存在の発現の再現になるのではないかという事になる。
つまり、その後、論理的にはやはり自己言及自体の証明はできないが、
自己言及する存在自体の証明はできるのではないか、という事になる。
つまり、ある主体的存在、例えば自然界と境界を持つ人工知能に対して、
基礎的な先天的定義に相当する定義をあらかじめ与える、
これは昨日考えた生命における機能や物質の取り込みに相当すると考えられるので、
これは与えた状態の後、この人工知能が後天的に自ら定義を構成する事になれば、
これは「存在」の二面性を構成する定義の自発的な構成なのではないか、という事である。
ただし、この場合は「自己」や「自我」の発現までには至らず、
あくまで先天的定義に基づいた主体的存在というだけであり、
生命の初期の種に限りなく近いが、何らかの定義を自ら構成し、
主体的存在となりうるという限定的な状態であることは付け加えておく。
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今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。