2025/10/15-2025/10/18
情報の生物的置き換え
今日の気づきから。
神経細胞の励起から生じる物理現象が、なぜ意識に至るような情報となるのかについて。
前回、前々回では、それが先天的な定義と、情報の投影によるものではないかと考えたわけだが、
ここにその起源は何ゆえにそれを必要としたのかと考えた時に、
生命の生物的な情報の置き換えが必要であったのではないかという事に気づいた。
つまり、以前から生命が自然界における事象をどのように情報として取り入れるのかと考えた時に、
生命は、自然界における事象に伴う変化を、生体で「接触」して受け取り、
この「接触」による変化の「励起」を生命独自に「定義」し、それを刺激として受けようということになった。
つまり、生命は自然界の事象をそのまま情報として受け取っているわけではなく、
最初から情報は変換されて生命内に取り込まれている、という事になる。
(とりあえず、生体内の変化はここでは脇に置いておいて、身体外からの自然界の事象について先に考える)
まず、この時点で、自然界の事象と、生命が得ることになる情報は既に定義が分かれて分離されている。
一応情報としては同じ対象を定義したものであるが、
自然界の定義による事象と、生命が定義した事象は、この時点で既に対象としては分離している。
では、なぜ、生命は自然界の事象をそのままの意味を持つ情報として得られないのかと考えると、
生命が自然界における1つの事象であるから、という事がまず言える。
つまり、生命も自然界のある定義により生じた事象であり、
他の自然界の事象とは、その存在が同位の存在という事になる。
同位の存在同士が、互いの他の事象の定義をそのまま受け入れられないのか?
と言われれば、そもそも自然界にその定義が存在しないから、という事になる。
つまり、自然界においてある事象が発現する定義は自然界に存在するが、
その事象同士が互いに互いの定義をそのまま受け入れられる定義は無いから、という事になる。
要するに自然界においての事象は、事象の発現の時点で、その定義は存在を構成する事で完了し、
それ以上の何かの定義は存在していない。
つまり、光は光った時点で完了。音は鳴った時点で完了。
生命も出現した時点で完了している、という事になる。
つまり、事象が発現する定義は自然界にあるが、
その事象同士が情報をやりとりする定義が無いのである。
仮に、もし生命がこの定義を持っていたとすると、
生命はどのような種であっても同じ様に自然界のある事象に対して考えたりする必要も無く、
当然のようにこの事象を受け入れ、何かに用いるのであろうと考えられ、
であれば、それは生命そのものの定義の1つとして持っているべきという事になる。
それなら、そもそもハードプロブレムやクオリアを心配する必要も無く、
解明や証明の必要のない定義になっていたと考えられる。
要するに、自然界に生命が存在する事と同じような定義である、という事になる。
ただし、実際はそうではない。
このような定義は生命は持ち合わせていない。
さて、ではどうするか?
生命は事象として発現し、存在として出現したわけだが、
その定義において自己の改変は許容されていた。
つまり、自身を構成する要素が科学的な可塑性を持っていたわけである。
つまり、化学的な化合物の集合体として、
その組成に用いる化学物質の可塑性を許容する定義を持ち合わせていたという事になる。
つまり、アミノ酸やたんぱく質、他の無機物質などの組み合わせから、
自身を構成し、その構成自体が自他の要因において変化する可塑性を持っていたわけである。
単純に可塑性は可能性か?という疑問も生じるが、
およそ自然界において、ある物質が構成される定義は、
その要素、原子の組み合わせとして既に最初から許容する定義は存在していた。
つまり、組み合わせによって結果の事象が異なる事が自然界の定義として許容されていたことになる。
そこから先に生命の組み合わせも存在している事になるが、
これは可能性というよりも、結果的に言えば「偶然」としか言いようがない。
話を戻して、
生命が自分以外の事象を自然界のそのままの定義で取り込めないならどうするか?
生命は、もともと自然界の定義の組み合わせから発現したが、
特に何か目的があって発現したわけではない。
定義の組み合わせの可能性と、「偶然」の結果であるにしろ、
それは定義として完成し、事象として自然界に生命が誕生するに至る。
若干話が飛躍するが、
生命はもともと何かを取り込む能力が優れていたと考えられる。
つまり、自然界に対して膜を構成して自分と自然界に境界を構成したわけである。
化学物質の組み合わせの結果として膜の無いウイルスの存在も考えられるが、
ウイルスは生命誕生の初期段階から存在し、
生命との関わり合いを持つ単なる化学物質として、
生命と切っても切り離せない進化の並走者のような存在であるが、
直接ウイルスが進化してきたというよりも、生命の変化に合わせて寄り添ってきただけの存在であるため、
この場合はウイルスは非生命として考える。
今でも生命は個体を形成し、自然界と個を隔絶している。
そして、今でもその間に境界を構成している。
自然界に発現する事象は、生命にとっては外の事象であり、
外の変化、外の情報である。
生命がもし単体で完成した存在であれば、より強固な境界を構成して、
その境界を守れば良いだけという事になる。
実際はそうはいかなかった。
以外に生命の境界は柔く、脆いため、自然界の他の事象に容易に影響を受けた。
これも今となっては逆に柔く、脆いために影響を受け入れやすかったとも言える。
まあ、結果的に生命は自然界との関わりを継続する必要があった。
生命自身の定義として持ちえた、活動によって、
エネルギーの取得と代謝の必要性を持っていたからとも言える。
つまり、生命は自然界の事象として誕生し、
その自然界の中で活動する存在であった(存在になった?)、という事である。
そしてまあ、生命は境界を持ちつつ、自然界とのやりとりを行う必要があったわけであるが、
最初から生命の目的として、個体の維持・存続・継承があったわけではなく、
初期は単に個体の維持だけに存在していたのではないかと考えられる。
つまり、何かが存在していた、膜や化学物質が存在してた、
疎水性や親水性の違いにより膜内に何か取り込まれた。
結果として生命となった。としか詳しい事は分からないのでこのようにしか言いようがないが、
その結果の後、いずれにしても生命は活動するエネルギー源の確保は最低限必要になったと考えられる。
つまり、単なる化学物質であれば、その組成が変化しない限り変化はしない。
基本的に安定しているので、当然それ以外の何かも生じない事になるが、
そのまま存在し続けられる事にはなる。
ただ、生命は何故か代謝を行いエネルギー源を必要とした。
恐らく自らの目的として「変化したかった」わけではなく、
結果的に「変化したら勾配が崩れた」のではないかと考えられる。
つまり、膜で境界を持ち、外部と内部が生じ、
その内外を完全に分断できず、関係があったため、
内外の何らかのやり取りの中で「勾配が崩れる」と、
それを平衡に保つため(これは自然界の定義であると考えられるが)、
内外で何らかのやり取りが生じた。
生命が目的を持って行ったやり取りではなく、
自然界の定義に従った、異なる系のある状態の勾配が崩れた場合の自然な反応として、
「平衡させる事」が必要になった。
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結果的に生命は「平衡」が暗に目的になったのではないか、というわけである。
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自然界に存在する何であってもエネルギー源とすることが出来るのであれば、
生命はそれを受容さえできれば良いという事になる。
今は初期エネルギー源は化学物質の取り込みであったと考えられ、
今でも最も簡便で効果的なエネルギーの取得方法であるが、
後に植物などが光などをエネルギー源としている事を考えると、
もしかしたら音や物理的変化をエネルギー源とすることもできたかもしれない。
そして、次に起こるべき定義の変化として考えられるのが、
選択である。
今でも欲求対象の選択とも言える、選り好みはあるが、
生命は何でもかんでもエネルギー源としたわけではなく、
何か特定の対象についてを、エネルギー源としている、事が多いように見受けられる。
つまり、何か別の対象について、選り好みをしてエネルギー源としてきた、と言うわけである。
単に膜が化学物質において疎水性の基質と馴染みやすい自然界の定義があったために、これを取り込みやすい事や、
他の膜との合体(後の捕食とも言える?)、一気に先に進むと光の光合成や、他の種の捕食など。
単に膜内に取り込むだけであれば定義などは自然界由来の定義をそのまま用いるだけなので、
生命自身の定義は必要ないが、生命自身がもし、そのエネルギー源を特定の対象として選択する必要があれば、
自然界由来の定義だけでは選択が行えないことになるので、独自の定義を必要とすることになる。
ここでようやく生命独自の「定義」の必要性が生じる事になる。
ここから話を進めてしまえば、
この膜の外にある事象の定義を、どうにかして膜の内側の存在で選択する事ができれば良い事になるが、
自然界の定義が用いる事が出来ないのであればどうするのが良いか、ということになれば、
当然、自分で定義してしまえばよい、という事になる。
つまり、膜の外の事象の定義を、膜の内で相対する何かを用意する、これは情報の平衡とも言える。
もともと膜の外の事象を定義として情報に置き換えた場合、
膜の内でも何らかの情報を用意する必要がある。
これは定義や存在の二面性としてでもある。
(平衡の為の二面性とも考えられる)
少なくとも生命は生命としての定義そのものを変化させる化学的・科学的な可塑性を持ち合わせていたわけであるし、
必要だからすぐに定義できるというものでもないが、
長い時間をかけて、それらの定義は生命のなかで着実に蓄積されてったのではないかと考えられる。
まあ、あくまで想像であるが、
生命が自身で独自の定義を持つに至れば、その膜の外の自然界の事象の定義でさえ、
生命独自の定義で、これらの事象の定義を定義する事が出来るようになるとも考えられる。
つまり、生命は「定義の定義」をその生命独自の可塑性によって得たのではないかというわけである。
(「定義の定義」こそが二面性における「定義:(存在):定義」という二面性であり、
定義の平衡とも考えられる。)
つまり、生命自身が得たいエネルギー源を対象とした、そのエネルギー源自体である事の対象の定義。
つまり、自分ではない、膜の外の事象(存在)に対する生命独自の膜の内側の定義である。
つまり、この時点で、自然界の事象の定義と、生命の内側で持つ同じ事象ではあるが異なる定義が「分離される」ことになる。
あくまで「分離される」のであり、「分離した」わけではない。
これははっきりさせておく。あくまで結果的に「分離された」と考えられる。
恐らく後に意識的な働きについて考える際に関係する私自身の考え方についての自分自身に対する注意でもあるが、
未だに意識が意図的に構築された何かでないと感じられるのは、
その発端としての定義の構成が「分離した」のはなく、「分離された」結果であるからという事になる。
つまり、定義はいまだに生命にとっては内から創造的に構成されるものではなく、
既に先天的に存在しているか、後天的に「他から」得て構成するかという、
「構築した」ものではなく、「構成された」ものであるからという事になるからではないか、という事になる。
そして、話を戻して、
生命の膜の外と内の定義の違いについて、ということになるが、
あくまでその対象は同じ事象を指すものである。
定義が異なるだけで、同じ対象を指すものである。
ただし、自然界の事象の定義は、その事象が発現する定義として完成していて、
実際にその定義によって事象は発現する。
しかし、生命にとっての膜の内の事象の定義は、対象こそ同じであれ、
その定義は、実際の事象を発現させるものではない。
核心に近づいて来たと思うかもしれないが、
そう、確かに事象としての対象は同じものを指し、
自然界の定義は実際にその定義から事象は発現するが、
生命の内側の定義は、その定義から事象が発現するわけではない。
自然界の光は自然界では光るが、
生命の定義である光は体内で光るわけではない。
ではどうするか?
さあ、これがハードプロブレムでありクオリアの課題である。
生命が持っている武器は、自然界と隔てられた膜と、
科学的に可塑性をもった自己の内に持つ定義能力である。
もっともシンプルで簡単な答えは、自然界で光るなら、
身体内でも同じ様に光らせてしまえば良い、という事である。
つまり、異なる定義で、同じ対象を独自に定義してしまえばよいという事である。
一応その定義の中継役として「感覚」という機能は必要になるが、
自然界の事象が膜との「接触」があるなら、
その膜に事象と特異的に「接触」して、その「接触」を膜内に伝える機能を持てばよい、という事になる。
結果的に言えば、この機能も生命は持ちたくて「持った」というよりも「持つに至った」だけなのだが。
そして、ある事象を異なる定義で、同じ対象を指す独自の定義を持った後は、
その定義に従って生命の膜内でそれを事象として発現させれば良い事になる。
しかし、ただ、例えば単純に自然界に光が事象として存在し、
それに自身が接して光の存在を自分の内側で発現したとしても、
それだけでは何か意味が生じる事にはならない。
単に自然界の事象を同じように再生するのと同じことになる。
ここで生命が用いたのが、事象の定義に自分との関わりの定義を関連させることである。
つまり、「自然界で光が発現した」から「自然界で光が発現した、自分は光に接した」という定義を加える事である。
情報の平衡的なことを言えば、自然界に存在する事象と、生命の存在としての事象が接する事で、
今回の目的の個体が光を受けたという自然界における定義が関係づけられる。
つまり、自然界の「存在:(定義):存在」という二面性において、
自然界の事象:(定義):自然界の生命
この時の定義は、自然界の事象が自然界の生命に「接触」した事である。
これを個体内の「存在:(定義):存在」という二面性で補完すると、
体外に存在した事象を体内で現した事象・励起を含む:(定義):体内で表した生命としての個体
つまり、個体の膜を隔てて、個体の外に在る自然界の事象と、個体の実体の身体そのものの接触を、
そのまま体内で再現したもの、そういう事であれば、
当然、体内においても、その個体である事自体も再現する必要がある、という事になる。
つまり、体内で「自然界で光が発現した、自分は光に接した」という定義において、
その「自分は光に接した」というこの「自分」は体内の定義においてもその必要性がある、という事である。
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当然、生命の内の定義であるので、自然界の事象の定義そのままではない。
例えは、自然界の光は、人間で言う所の可視光線などにおいて「色」が付いているわけではない。
この「色」は生命独自の定義であり、「自然界で光が発現した、自分は光に接した」ことに対する付属的な定義である。
そして、これらの定義は初期生命においては基本的に全て先天的定義として定義されることになる。
つまり、自然界の光であれば、生命は光を受けた、光を見た、とだけ当たり前のように感じる。
「自然界で光が発現した、自分は光に接した」の定義の内、「自然界で光が発現した」とだけ感じる定義としてである。
(「もっともらしさ」が極大であり「当たり前」とさえも感じない)
そして、この「自然界で光が発現した」事に対して生命が必要な活動や選択が関連付けられるが、
これらも初期生命においては先天的定義として定義されるものであり基本的に可塑性は無い。
(エピジェネティクス的変化以外では)
つまり、恐らくハードプロブレムやクオリアの説明やできないのは、
この先天的定義そのものを定義として取り出す事が現時点で出来ていないからだという事になる。
つまり、本来、先天的定義には「自然界で光が発現した、自分は光に接した」という定義が含まれているはずなのだが、
感じられるのは「自然界で光が発現した」だけである。
これは、生命の内側の定義から生命の内側で事象として発現させる際に、
事象に接した存在そのものを、事象として再現する必要があったから、という事になる。
つまり、「自然界で光が発現した、自分は光に接した」これを再現する存在が、
「自然界で光が発現した、自分は光に接した」この定義から抽出する必要があった、という事になる。
つまり、「自然界で光が発現した、自分は光に接した」この定義を再現するための存在の定義を、
「自然界で光が発現した、自分は光に接した」この定義から取り出して使う必要があった。
結果的に「自分は光に接した」という存在が、「自然界で光が発現した」を見るという事象として存在させる必要があった、
という事になる。
その結果、自分は光を見てはいるが、
「自然界で光が発現した、自分は光に接した」これを定義から事象として実現している存在自体を感じられないという事になる。
その存在は「生命の内側の定義から生命の内側で事象として発現させている存在」
つまり、生命の個体そのものという事になる。
つまり、生命の個体は自分そのものではあるのだが、実際に光を見たりする存在は、自身の定義から発現した結果の自分である。
ハードプロブレムやクオリアの説明の答えとしては、
「実体の自分が自分を定義して、その自分の定義から発現した自分が事象を体験するという事象が存在するため、
実体の自分にとって実体の自分そのものは定義も発現もしない為、自分は実体の自分を感じる事が出来ない。」
という、難解な答えという事になる。
そして、やっかいなのは自己言及できるのが、実体の自分ではなく、自分の定義から発現した自分であるため、
現時点で論理的に証明のしようがない、という事である。
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2025/10/16
情報の生物的置き換えの二面性について:
昨日の続きで、この情報の置き換えの二面性について考えていた。
今日の気づきは、
・実体の生体による定義の分離によって、その定義から発現する事象(存在)は、
同じ対象であっても、その存在が異なるという事。
・生体内の定義から発現した事象は、自然界の事象と対象としては同じだが、
異なる存在であり、生体内からそれを外側に出すことができないので、
自然界の事象と一致するかどうかが比較さえもできないという事。
(→ハードプロブレムやクオリアへの回答)
・この時の二面性が、
定義:(存在):定義として、
自然界の定義:(生物):生体内の定義
である事。
存在:(定義):存在として、
自然界の事象:(生物的置き換え):生体内の事象
である事。
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今日の気づきの解説:
「・実体の生体による定義の分離によって、その定義から発現する事象(存在)は、
同じ対象であっても、その存在が異なるという事。」と
「・生体内の定義から発現した事象は、自然界の事象と対象としては同じだが、
異なる存在であり、生体内からそれを外側に出すことができないので、
自然界の事象と一致するかどうかが比較さえもできないという事。
(→ハードプロブレムやクオリアへの回答)」についての解説:
つまり、これは昨日の続きだが、
自然界の光を自然界の事象として発現させているのは自然界の定義である。
ただし、これは自然界の定義や自然界の事象であって、
生体内で認識や意識できる定義や事象ではない。
生体は、これを生体内で独自に定義し、その定義から生体内で独自の事象として発現させている。
この定義や事象は、自然界も生体内も、同じ対象を定義し存在を発現させているが、
実体は異なり、以降の説明で使うが、ある対象の二面性のそれぞれの一面を担っているに過ぎない。
これは、自然界にある定義や事象を、同じ自然界の事象として発現した生命が、
同じ定義の階層における他の事象を把握する為に、定義の階層を1階層下げざるを得ず、
この時点で定義と存在が分離されることになる。
つまり、同じ対象について、異なる定義、異なる事象でようやく成り立たせることが出来たという事になる。
結果的に成り立たせる事は出来たが、
定義の階層が異なるために、定義も事象も同じ対象でありながら一致しない事になる。
(同じ対象を指し示すが、一致しないから同じであるとは証明できないという事になる)
「二面性について」の解説:
つまり、「自然界の定義:(実際の事象・存在):生体内の定義」は、
「自然界の定義」と「生体内の定義」は同じ対象を指し示すのだが、
「実際の事象」の異なる存在の面をそれぞれ有する事になる。
つまり、自然界の定義から実際の事象は発現しているはずであるが、
生体内から見た場合、生体内の定義から発現する事象としてしか見えない事になる。
二面性理論においては、ある二面性を持つ対象が成り立つには、
必ず成り立たせる存在にとって、この二面性を両方把握している必要があり、
生体からは自然界の定義そのものは把握できない為、
明確に確定させることが出来ない事になる。
つまり、生命の生体を「実際の事象」として考えれば、
「自然界の定義:(実際の事象・存在):生体内の定義」は、
「自然界の定義:(実体の生体・存在):生体内の定義」ということになり、
自然界の事象は「自然界の定義」から発現し、
生体内の事象は「生体内の定義」から発現し、
その境界にあるのは「実体の生体」で、これが定義を分断しているという事になる。
つまり、生体内の定義から、「実際の事象」も「実体の生体」を発現させたとしても、
対象の一面性しか再現できないので、その対象は明確に証明できない事になる。
もちろん、「自然界の定義」を「生体内の定義」で「定義の定義」として定義する事は出来るが、
この場合、
「生体内の定義による自然界の定義:(生体内の事象・存在):生体内の定義」
ということになり、生体内から外側へ「生体内の事象」は持ち出せないので、
実際の「自然界の事象」と直接比較する事が出来ないという事になる。
また、「自然界の事象:(生物的置き換えの定義):生体内の事象」は、
「自然界の事象」と「生体内の事象」は同じ対象を指し示すのだが、
「生物的置き換えの定義」によって、異なる定義の面をそれぞれ有する事になる。
この場合も、「自然界の事象」と「生体内の事象」は分断されているため、
直接同時に生体は把握できないため、明確に確定や証明することが出来ない。
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ハードプロブレムやクオリアの問題の答え・その2:
簡単に言えば、自然界の定義によって自然界に発現する事象と、
生体内の定義によって生体内で発現する事象は、
同じ対象を指し示してはいるが、異なる事象なので、そもそも一致するはずがない。
という事である。
自然界の事象は実体であるが、生体内で発現させる事象は事象の実体ではない。
つまり、二面性で言えば、
実体の事象:(定義):実体でない事象
であり、実体の事象を定義によって置き換え、実体でない事象として存在させたという事である。
生命にとっては、自然界の実体ある事象を、情報として得ることが目的であり、
別に実体ある事象を再現する事が目的ではない、という事である。
つまり、生命も自然界の事象の1つであり、
生命は事象として存在し、自然界において他の事象をそのまま理解できるような定義を持ち得ていなかった。
そのため、生命は独自に自然界の事象に対して定義をして、
生体内で事象を再現して、その事象を把握する事になった。
結果として、生命にとっては1つの事象に対して2つの定義、2つの事象が在る事になり、
生命自身はそれでこの事象を把握できるようになったのだが、
その把握している事自体は証明できない事になった。
元々証明する必要が無かったのだが、もし、証明する必要があったなら、
生体は生体内で自然界と同じ定義を用いて同じ事象を発現する必要がある事になる。
つまり、自然界に光があったなら、体内で光を再現すれば、
ハードプロブレムやクオリアの心配もなく証明が出来るという事になる。
実際は、情報の置き換え(定義の階層を1階層下げる事)によって、
生命は事象の情報を得るに至った(恐らくそれで充分だと思うのだが)という事になる。
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2025/10/17-2025/10/18
「自己」の定義について:
上記の、
「そして、やっかいなのは自己言及できるのが、実体の自分ではなく、自分の定義から発現した自分であるため、
現時点で論理的に証明のしようがない、という事である。」
これについて考えた続きだが、
これは、身体外にある事象の定義を、身体内の定義として取り込み、
この定義を身体外に提示する場合、身体内の定義を用いて身体外に提示する必要があるため、
そもそも最初の事象と、身体外に提示した事象が異なる事が問題である、
という事になる。
つまり、例えば「自己」というものは、定義は人間共通の定義であり、
その定義自体は身体外にあるが、「自己」の定義を理解した際には、この「自己」の定義は、
自分固有の体内の定義という事になる。
そして、その体内の定義から身体外に「自己」を説明しようとして、
例えば言葉として「自己」を身体外に出した場合、
この「自己」は身体内の定義を使って構築した存在になる。
実際の「自己」はもともと自然界に事象として存在する個体であり、この定義は自然界にある。
つまり、自然界の定義で事象として存在する「自己」と、
人間が共有する「自己」に対する定義を自分が体内に取り込んだ後、
自分が身体内の定義を使って「自己」を体外、つまり自然界に存在として「自己」を存在させようと、
言葉を発すると、「自己」は言及できるが、定義は異なる、存在も異なる、
しかし、同じ「自己」を対象としている。
だから矛盾が生じる。という事になる。
まあ、正確に言えば、人間が共通する「自己」の定義を自分が取り込んでいる時点で、
「自己」の定義は2重に異なっているという事になる。
つまり、人間が共通させた「自己」の定義と、個体が理解して取り込んだ「自己」の定義は、
既にここで1度、異なる定義になっている。
そして、個体が言葉に発した「自己」の定義は個体内だが、その「自己」を体外の自然界に発した時点で、
もう1度、異なる定義になっている。
つまり、「自己」が指し示す対象は自然界(身体外)、身体内で2つだが、
定義は、自然界と身体内、人間が共通させた定義の「自己」で厳密には3つある事になる。
ただし、人間が共通させた定義の「自己」は自分を直接指し示すわけではない。
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シンプルな考え方として、
生命の身体内外の「境界がある」と考えると、
生命が、その身体内外において、化学的や情報的に「平衡」させることを目的として活動していると考えると、
定義や存在や二面性が意外に分かりやすいと思った。
今回はこの辺で。
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著者:[Hiroaki Kano]
本稿の内容は筆者個人の見解に基づくものであり、特定の機関や団体の公式な立場を示すものではありません。