2025/10/3-2025/10/7


もっともらしさと意識の関係


今回は、考察途中に気付いた事として、
「もっともらしさと意識の関係」について考えてみる。

もともと、刺激や概感がもっともらしく構築されることが、
刺激を認識する事と、概感を想起する事に関係していると考えてきたのだが、
それなら認識と想起の先にある意識についても何か関係があるのではないかと考えた。
つまり、刺激と概感と意識の間にある、
認識と想起について、何か「もっともらしさ」が影響しているのではないかと思ったわけである。

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2025/10/3

今日気づいた事。

簡単に言えば、
「もっともらしさ」には意識と何か関係があるのではないかという事。
そして、刺激の認識又は概感の想起の「もっともらしさ」は、
自己の意識の度合いと関係があるのではないか、という事。
つまり、刺激や概感が、もっともらしければもっともらしいほど、
その意識ももっともらしくなる、という事。
これは以前の例で言えば、刺激はもっともらしいと感じることのないくらい自然に認識されるように、
意識も感じる事の無いくらい自然に意識されるという事になる。


気づきの経緯は、
最初に昨日考えていた倫理と自己言及の事の続きについて考えていた。

昨日考えていた倫理と自己言及の事というのは、
後で考察を載せる予定として、
簡単に言えば、倫理も自己言及も明確な答えが出ないのは、
倫理と自己の存在において、
過去から継続する定義と積み重ねが常に可塑性を持ち固定化されないから確定しない。
という事で、常に「過去から今まで」の倫理や自己しか定義しようがないので、
今から先の倫理や自己は未確定になる。という事。

そして、この考え方を今日思い出していて、
倫理や自己言及の時間的な連続性の確かさについて考えて、
この確定するか、未確定であるかという事と、
もっともらしさの度合いについて考えていた時に、
倫理と自己言及とは少し離れて、

ふと、意識について思った時に、

刺激が問答無用のもっともらしさを持つなら、
概感はどうなるのかと考えた時に、
これは、意識にも関係しているのではないかと気づく。

つまり、過去から今に至る定義から刺激や概感に至るとすれば、
その今の境界である意識にも何か関係があるのではないか、という事。

つまり、もっともらしさが、
変化情報と自己情報の関連の密接度によって変化するなら、
そもそも変化情報と自己情報の二面性から、
刺激や概感が構成され、
その仮想的実体の構築によって認識や想起され、
それが意識となるなら、
そもそもの変化情報と自己情報の関連も、
意識に関係しているのではないかと考えた。

その場合、刺激はその構築に際して究極的にもっともらしいため、
考える必要も無く認識され、意識に至る。
それなら、その過程で意識に至るなら、
その刺激を構成する要素の何かが意識にも関係しているのではないか、
という事になる。

そこで、変化情報と自己情報の密接度が意識に関係するのではないか?
と気づいたわけである。

これまで「もっともらしさ」は、
変化情報と自己情報のそれぞれの定義の連続性において、
関連の末端である先天的定義まで明快に定義されていればいるほど、
「もっともらしい」と感じると考えてきた。

そして、その極限に近いのが刺激である、という事になる。
刺激は感覚から受容される変化情報に対して、
明確な先天的定義の定義の関連が整っている。

だから、刺激の認識に対して、「もっともらしい」と感じる必要も無く、
さらに「当たり前」以上の、感じる必要性も無いくらい「もっともらしく」、
刺激を認識して意識している。

つまり、刺激は本来「もっともらしさ」を含んでいるはずなのだが、
その「もっともらしさ」は感じる必要のないくらい「もっともらしい」のではないか、
という事になる。

その「もっともらしさを感じる必要の具合」これが、
変化情報と自己情報の定義の関連としての密接度なのではないか、
という事になる。

つまり、刺激は、受容する変化情報に対して、
疑う余地のない定義によって、定義され解釈されるので、
「もっともらしい」と感じる必要も無く、認識され、意識されるのではないか、
という事になる。

概感の場合は、少し事情が異なり、
もともと明確な定義は存在しない。
あくまで後天的な体験や経験に対して、
知能が保有している定義で定義の関連を構成し、
その実際の体験や経験に対する「もっともらしい」定義を構成し記憶する事になる。
その記憶した定義をさらにきっかけの刺激か概感によって、励起し、
仮想的な自己モデルを土台として構築し、それが想起の対象、意識の対象とする事になる。

つまり、概感の場合は、最初から明確に「もっともらしい」とは言えない事になる。

情報の解釈できる要素は、先天的定義で明確であるが、
定義の関連は後天的に構築する必要があり、
この関連は完全に一致するとは限らない。
つまり、不足する定義も恐らくある、事になる。
また、自己情報としての自構性(自己モデル)は、
基本的に死ぬまで後天的に可塑的に構築しつつある状態にある。

つまり、概感を定義する変化情報と自己情報は、
恐らく常に明快、明確に決まるものではなく、
自分でも訝しる(いぶかしる)ような「怪しい」定義から、
「もっともらしい」から「当たり前」から「疑うまでもない」の定義まで、
様々な定義の構成になっているという事になる。

そして、刺激の身体性と、概感の自構性が異なるのは、
身体性は刺激の認識に対して直感的に「もっともらしく」、
自構性は概感の想起に対して、一度、客観的に解釈しないと、
どれだけ「もっともらしい」か分からないという事である。

これは、恐らく実体の身体があるか、
仮想的な自己モデル化を必要とするかの違いではないかと考えているが、
恐らくこの違いが、「もっともらしい」と感じる必要も無いか、
「もっともらしい」と感じる必要があるか、の違いになるのではないかというわけである。

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以前の変化情報と自己情報のもっともらしさの式が思い浮かぶ。

P=f(Similarity(Ichange,Iself))

Ichange:感覚を通じて得られる変化情報
Iself:体験時の自己情報
Similarity():情報同士の一致度、あるいは確率的整合性
f():「もっともらしさ」をスケール化する関数(非線形でも可)

この値「P」が高いほど、知能はその体験や想起を「もっともらしい」と感じる。

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仮想的な主観を演じる場合の意識は、
自分にとっては「もっともらしくない」が、
非常に「もっともらしく」演じる事になる。

この場合、主体性の主観としては、
自分としては「もっともらしくない」事を理解した上で、
その仮想的主観を自分であると演じる事になる。

つまり、変化情報と自己情報は、それらの密接度(整合性)において、
「もっともらしい」と感じるか、そうでないかが決まるが、
意識としては、本来の自分であっても、仮想的な演じる自分であっても良く、
「もっともらしい」という感覚は、そのまま意識まで関係しているのではないか、
という事になる。

つまり、刺激が「もっともらしい」と感じるまでも無く認識され意識される。
これは良い。
そして、概感が「もっともらしい」と感じるのは、あくまで、
主体的な主観から一度仮想的な自己、つまり、自構性に対して「もっともらしい」かどうかの判定があり、
その結果として自分にとっての「もっともらしさ」が決まるのと同時に、
その「もっともらしさ」具合に応じて意識される自己の感じが変わるのではないか、
という事になる。

既存の定義が無いので説明が難しいのだが、

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2025/10/4

今日気づいた事。

意識ともっともらしさの関係は、
もっともらしさの度合いによって、意識の強さが異なるのではないか、という事。

そして、情報としての強さが、
知能における選択の基準になっているのではないか、という事。


つまり、もっともらしい刺激の認識や概感の想起において、
そのもっともらしさの度合いが情報としての強さとなり、
意識のされ具合としての優先度に関係しているのではないかという事になる。

刺激が問答無用でもっともらしく、
「もっともらしさ」としては感じることがないが、
恐らく認識して意識する対象としての情報としては、
非常に強い情報であると言える。

一方、概感は刺激ほどはもっともらしいわけではないが、
想起に至る場合はある程度の強さをもつ情報として構築されていると考えられる。

この時の情報の強さの基準がどこにあるのかと考えた場合、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性)

として考えた場合、変化情報には、基本的な情報としてのきっかけはあると考えられるが、
その情報に相対する自己情報の方が、大きなウエイトを占めていると考えられる。

それは、概感の想起の場合に、漠然とした概感であっても想起して意識する場合があると考えると、
変化情報ではないなら、自己情報にそういった情報の要素があるのではないかと考えられる事になる。



また、考え事をするときに他の情報をできるだけ遮断しようとするのは、
想起しようとする概感をできるだけ情報の中で優位に置くため。


そして、ではなぜ想起するようになったのかを考えると、
普通に考えれば、先天的定義でまかなえない状況に対して、
後天的な定義ができるようになったことが生物として優位だったからという事になるが、
何に対して優位であったのかと考えると、ある状況に対する自分の立場が優位になる事、
つまり、よりよい反応や選択ができることとして、
体験や経験の記憶が有利に働いたことになる。

そしてそれは、概感の想起が自分にとっての


刺激の強さに対しても、
強い刺激を認識する場合は強く意識され、
弱い刺激を認識する場合は弱く意識する、という事が考えられる。

この場合、変化情報の強弱と、自己情報の強弱は可変であると考えられるが、
刺激の場合は、自己情報がおおむね強い情報であり、
刺激を認識する場合は、変化情報よりも自己情報の強さで、
もっともらしさが極限に達していると考えられる。

つまり、弱い刺激であっても認識されれば強い意識として感じられる事になる。

つまり、強い刺激を認識する場合は強く意識され、
弱い刺激を認識する場合は弱く意識する、という事になる。

例えば、感覚に対する変化情報の受容の強弱に関わらず、
刺激を認識する場合は、身体性の情報が加算されるため、
刺激にとっての身体性の情報が非常に強い為、
刺激は一様に強い意識に至ると考えられるのではないか、
という事になる。

説明を補足すると、
つまり、ある刺激がある瞬間の最も強い情報として認識される事が決定した時点で、
この刺激はある瞬間における知能が優先するべき情報として決定した事になるので、
他の情報に対して情報の強度の比較においては優位にあり、
この瞬間においての最も強い情報として、刺激の認識に至る、という事になる。

そして認識対象はそのまま意識の対象になる。
というわけである。

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2025/10/5

今日気づいた事。

「もっともらしさだけでは納得できない」という事。

つまり、ある事象の「もっともらしさ」と「納得」する事は少し意味が違うという事。
ある事象が「もっともらしい」からと言って、
それをすんなり自分が「納得」できるか?と言われれば、
その事象の内容により納得できるかどうかが変わる、という事になる。
逆に、「もっともらしくない」からと言って、
その事象が必ず「納得」できないか?と言われれば、
場合によっては「もっともらしくない」事自体を納得できる事もあるので、
そうとも言えない。

例えば、今は理屈としては理解しているし、一応納得してはいるが、
昔は光の三原色が、赤・青・緑というのが何となく納得できなかったり、
色の三原色が、シアン・マゼンダ・イエローというのが意味が分からなかった。
(光の黄が、赤と緑を合わせてできる事が不思議で仕方なかった。
今はそういうもの(定義)として納得はしているが、今でも少し不思議な感じはする。)

つまり、簡単に言えば、
「もっともらしさ」というのは、
ある事象の定義が明確に定義できているかどうかという事で、
「納得」できるかどうかというのは、
ある事象の定義が自分の定義と整合性をもって関連しているかどうかという事であり、
単に、明快な定義であるから「もっともらしく」て「納得」できるわけではなく、
定義の明快さと、自分にとっての納得感というのは異なるという事に気付いたわけである。

次にこの事を、二面性として考える事にする。

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2025/10/6


「もっともらしさ」と「もっともらしい事」の二面性:


もっともらしさは、もっともらしい事と比較して、
もっともらしいと感じる事は、もっともらしさから生じていると考えられるので、
定義の階層で考えると、

上位・もっともらしさ→下位・もっともらしい事

という事になる。
そして、もっともらしさと、もっともらしい事を比較すると、
もっともらしい事は、定義そのものというよりも、感じられる事象として存在するものであるし、
もっともらしさは、考えたりはできるが、ある事象の存在というよりは、
もっともらしい事を定義するものであると考えられるので、
二面性で表すと、

何らかの存在:(もっともらしさ・定義):もっともらしい事・存在

という事になる。

この時、もっともらしい事の反対側に何が存在するのかと考えると、
「何らかの存在」という事になるが、

もっともらしさの定義を使って、何かもっともらしい事として感じられる存在する対象である、
という事になるので、考えられるのは、

「450:ハルシネーションの可能性ともっともらしさ」で挙げた、
小原庄助さんの定義の関連の例にあるような
朝寝→朝酒→朝湯、が大好きで、身上潰したもっともらしさのような、
この「定義の関連」が思い浮かぶが

これが定義ではなく、存在であると考えると、
「定義の関連」を構成する仕組み、機構自体が、この「存在」ではないか、
という事になる。

つまり、もっともらしさの定義の二面性は、

存在:(定義):存在

として成り立ち、その存在と定義は以下のような事になる。

定義の関連の機構:(もっともらしさ):もっともらしい事

つまり、定義の関連の機構のある定義と、もっともらしい事のある定義は、
「もっともらしさ」の各一面であり、
それらが揃う事が「もっともらしさ」になる、というわけである。

定義の関連だけであると、
それらは小原庄助さんの例であれば、
自分が「朝寝→朝酒→朝湯、が大好きで、身上潰した、もっともだ」という事を体験、経験し、
それを記憶した後に、刺激または概感をきっかけとした想起において、概感を構築し、
その構築に際して「もっともらしさ」という定義から、
「もっともらしい事」という想起→意識に繋がったという事になる。

少々説明と理解が難しいと思うが、二面性の成り立ちの連続性としては上記のような事になる。

つまり、先天的定義を持つ神経細胞の関連として、後天的定義が構成されるが、
この機能や機構自体は先天的に人間の知能は保有している事になる。

そして、この機能に従って、体験や経験を関連の連続性として記憶するが、
この記憶を何らかのきっかけを通して再現する場合、これが概感の構築と想起になるが、
この記憶を概感として構築し想起する場合に、
その定義の関連が「もっともらしい事」になるかどうかが決まる要因が、
「もっともらしさ」の定義、という事になる。

この場合、定義の関連の機構は、ハードウエアとして先天的に保有しており、
その半自動的な結果として神経細胞の関連が決まる事になる。

一方で、「もっともらしい事」であるかどうかは、
「もっともらしさ」の定義の結果として生じる事象であり、
これは、定義の関連の機構から自動的に構成された定義の関連が、
神経細胞の励起に対して自動的に構築されることになる。

そして、機構はハードウエアであり、
定義も経験の記憶として半自動的に決まっていて(これについては後述)、
神経細胞の励起によって「もっともらしい事」と感じる前に、
先に概感だけは構築され想起されようとしてる状態が生じる事になる。

つまり、「もっともらしさ」を感じる前に、
神経細胞の励起と、概感の構築は先に済んでいて、
概感の想起の結果として(自構性による自己モデルと変化情報の構築の結果として)、
想起時に「もっともらしい事」と感じる事になる。
そして、その連続性の結果、「もっともらしい事」として意識する事になる。


「定義も経験の記憶として半自動的に決まっていて」という事については、
何か選択が働いて定義の関連として記憶される対象が決まるのではないか?とも考えられるが、
基本的に体験や経験を刺激として構成、構築するのは、知能としてのハードウエアの機能であるので、
半自動的に行われていると考えられる。

むしろ、あるきっかけを通して想起する対象を決める選択の方にハードウエア的な、
半自動的な活動を操作する要素があり、これが「自己情報」になると考えられる。

つまり、刺激の自己情報である身体性や、概感の自己情報である自構性(自己モデル)であるが、
刺激が先天的定義によるものなので、刺激の認識に際して操作することはほとんどできないが、
概感は後天的定義であり、定義には可塑性があるので、
ある程度は定義からの概感の構築に際して多少の影響が可能である。

そして、「概感=変化情報+自己情報(自構性)」であり、
変化情報自体は、体験や経験における感覚からの変化を情報としたものであるので、
ほとんど操作はできないが、自己情報は、自分にとっての感覚や感じ方であるので、
先天的な素養のようなものは変えられないが、定義自体にはある程度の可塑性が存在する。

未来の定義の可能性は、
「448:現時点の人工知能理論のまとめ8・想起による思考と創造」
「450:ハルシネーションの可能性ともっともらしさ」でも考えた通りだが、
過去から今現在までに保有する定義の組み合わせの中でだけは自由度が存在する。

この自己モデルを構成する自構性が概感に含まれている事で、
概感の「自己情報」の定義により、
ある程度の定義の構成と、実際に定義から構築される場合の「選択の誘導」が行われるのではないか、
という事になる。


定義の関連の機構:(もっともらしさ):もっともらしい事

この定義のさらに上位、下位について考えると、


何らかの定義:(定義の関連の機構・存在):もっともらしさ・定義
もっともらしさ・定義:(もっともらしい事・存在):何らかの定義

この2つの二面性が考えられる。

上位の、

何らかの定義:(定義の関連の機構・存在):もっともらしさ・定義

における「何らかの定義」は、
体験や経験における定義の関連の連続性が構成される定義、
つまり、知能が先天的に持つ体験や経験を定義に置き換える機能の定義であると考えられ、

また、下位の、

もっともらしさ・定義:(もっともらしい事・存在):何らかの定義

における「何らかの定義」は、
自己がもっともらしい事、と感じた結果として生じる、
「納得」を構成する定義なのではないかと考えられる。

つまり、下位の定義は少し難解だが、
概感の想起における意識した後の定義であるわけだから、
一度定義がここで区切られるという意味の定義であるとも考えられる。

つまり、「納得」の後の知能の活動の転換点としての定義なのではないかと今は感じる。

これは現時点では「未解明の課題」として残る。
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2025/10/7

もっともらしさが生じる由来:


昨日の続きで、

定義の関連の機構:(もっともらしさ):もっともらしい事

について考えていて、
小原庄助さんの例を合わせて考えていたが、
「朝寝→朝酒→朝湯から身上潰してもっともだ」の例は、
「朝~」という部分を何かと置き換えると、もっともになる場合と、そうでない場合がある事に気付いた。
そして、そういう事であれば、
このもっともらしさというのは、決まった定義があるわけではなく、
特定の定義に依らない自由度があるという事になる。

つまり、もっともらしく感じるのは、
先天的な特定の定義によって決まるものではなく、
定義の関連そのものにもっともらしさが生じる要因がある事になる。
これ自体は昨日考えた事と同じだが、
ということは、このもっともらしさは、先天的な機能として生じるものであり、
定義されるものではない、という事になる。

つまり、「朝寝→朝酒→朝湯から身上潰した」ここまででも意味は通じるし、
理解もできる。
そして、その先の「もっともだ」は、
別に後天的に定義されたから「もっともだ」なのではなく、
予めそう感じられるように出来ているのではないか、と気づいた事になる。

つまり、「先天的な機能」としてもっともらしさが生じているという事になる。

そして、そうであるなら、例えば刺激は、
先天的な機能と、先天的定義によって、
問答無用でもっともらしいと感じている事になるが、
これが概感において、もっともらしいと感じるのは、
この概感自体が、先天的定義の関連から構成され、
また、関連が作られているなら、
神経細胞自体の機能、つまり、先天的な関連や、
後天的な関連が構成され、そこから概感が構築される場合、
この神経細胞自体の機能として、もっともらしさを生じる機能を有しているのではないかと気づいた。

つまり、初期の知能において後天的定義を用いない場合を考えると、
刺激は神経細胞を用いてはいるが、先天的な機能と、先天的な定義によって、
もっともらしいとか納得や当たり前と感じるまでもない、
半自動的に刺激を認識し、意識する事になるが、
後天的な定義においては、この神経細胞を流用して後天的に定義を構成しており、
先天的定義ほどの明確さは無いが、神経細胞を用いているが故に、
その神経細胞の励起に対して、後天的に構成された定義は必ずしも明確ではないが、
そのもっともらしさを生じる機能は働き、
その後天的な定義の明確度に応じて、もっともらしさも比例して生じ、感じられているのではないか、
という事になる。

つまり、
後天的定義は、先天的定義と同じ様に神経細胞を用いるから、
その神経細胞が先天的に持つ機能として、
後天的定義の関連の励起に対しても、
神経細胞が持つ、先天的な機能が働き、
その後天的定義の構成において、
先天的定義に近いような明確な定義であれば、よりもっともらしく、納得、当たり前となり、
明確・明瞭な定義でなく、漠然とした定義、不明瞭な定義、疑問が生じるような定義に対しては、
もっともらしくないとか、疑問や、「?」という感じになるのではないか、
という事になる。

つまり、先天的定義も、後天的定義も、神経細胞自体は同じ機能の同じ種類の細胞を用いているので、
もっともらしさを感じるの程度は異なるが、
もっともらしさ自体の機能は同じになると考えられる事になる。

つまり、
最初に挙げた昨日の、

定義の関連の機構:(もっともらしさ):もっともらしい事

における
定義の関連の機構は、
「神経細胞が持つ先天的な機能を用いた神経細胞同士で構成された関連」の機構であり、
これは、神経細胞自体が持つ先天的機能であると言える。

この場合、

存在:(定義):存在

の二面性により、「もっともらしさ」はそのまま定義であるとして、
これは神経細胞の「関連」の定義そのもの、ということになる。
そして、「もっともらしい事」は、その神経細胞による「関連」から生じる存在であると考えると、
もっともらしさが後天的なものであれば、
それは後天的定義から構築される存在、つまり、概感という事になる。

つまり、

定義の関連の機構:(もっともらしさ):もっともらしい事

は、

神経細胞の関連の先天的機能:(後天的定義):概感

と置き換えることが出来る事になる。
要するに、
神経細胞の関連の先天的機能は、神経細胞が関連を持つ事は先天的機能であり、
この先天的機能により、後天的定義を構成する一面を有する事になる。
また、この神経細胞の関連の先天的機能は、もっともらしさを構成する機能でもある。

後天的定義や概感については、これまでの考え方通り、
説明するまでも無く、後天的に構成される定義、それを想起しようとした時に構築される情報塊、
という事になる。

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そして、意識との関係についてだが、
もっともらしさが神経細胞の関連から生じる先天的機能の1つであるなら、
先天的定義から構築される刺激と、
後天的定義から構築される概感には、何らかの差が生じる事になると考えられる。

今回の考え方からすれば、
この差は「もっともらしさ」として現れるという事になる。

ということは、当然、刺激の認識と、概感の想起にも差が生じ、
認識または想起を意識する事にも差が生じる可能性が有るという事になる。

単純に認識や想起について考える、という事であれば、
その元となる刺激や概感が情報として強いかどうかによって、
意識のされやすさも変わるという事になるが、
これに「もっともらしさ」が関係しているという事になると、
先天的定義は後天的に変化させづらいので考慮しないとして、
後天的定義については、この「もっともらしさ」は何かの要素として関係していると考えられる。

では、それは何か?という事になるが、
後天的定義は基本的に実際に自分が体験したり経験した事象を、
先天的定義や、後天的な定義の関連を用いて定義したものであるが、
後天的定義そのものについては「もっともらしさ」が定義されるわけではない。

上記の考え方からすれば、もっともらしさは、
神経細胞の励起において、
その神経細胞同士の関連から生じる何かという事になるが、
小原庄助さんの例などで考えると、
その全体の関連の連続性における、もう少し細かい要素同士の関連において、
何か「もっともらしい」関連が構成されている事に対して、
「もっともらしい」が生じている事になる。

つまり、その神経細胞自体の関連において「もっともらしさ」が含まれていると考えられる事になる。

そう考えると、これまで考えてきた、
定義の明瞭さや明確さが、この定義の関連においても意味を持っているのではないかと考えられる。

つまり、客観的に定義が正しい、間違っているなどは関係なく、
その知能にとっての定義の関連が「もっともらしいか」という事であるので、
この後天的定義に対して用いられた神経細胞の関連の連続性において、
各定義の明瞭さ、明確さが何か「もっともらしさ」として現れているのではないかという事になる。

この場合、何が定義の明瞭さであり、明確さなのか?という疑問が生じるが、
これまでは定義単体として、1つの情報塊となる定義が、
関連の末端においてほどんどその全ての定義が先天的定義で関連付けられる事であると考えてきたが、
定義の関連の連続性として考え、
1つ1つの定義のまとまり毎の関連として、拡張して考えると、
例えば、「朝寝→朝酒→朝湯」のような関連は、
それが正しいか間違っているかではなく、何か別の要素との関連として意味が繋がっていて、
その繋がり(関連)に対しても「もっともらしさ」が生じているのではないか、という事になる。

であれば、それは、概感を構成するもう1つの要素、自構性(自己モデル)なのではないか、
という事になる。

つまり、自構性そのものを定義する神経細胞の関連があり、
「朝寝→朝酒→朝湯」のような関連と合わせて、
「自己モデルにとっての朝寝→自己モデルにとっての朝酒→自己モデルにとっての朝湯」という関連があり、
「朝寝→朝酒→朝湯」と「自己モデル→自己モデル→自己モデル」という関連が合わさって、
概感の定義の明瞭さ、明確さになっているのではないか、と考えられる事になる。

つまり、ある事象としての変化情報の連続性と、
その事象に対する自己情報としての自構性の連続性が、
「もっともらしさ」の元になっているのではないか、という事になる。

であれば、単に変化情報の定義の明瞭さ、明確さとして、
変化情報だけがその定義の末端で先天的定義に関連している必要性だけではなく、
自己情報に対してもその定義の末端で先天的定義にどれだけ関連しているのかも重要になる。

概感における自己情報である自構性(自己モデル)は、
その定義において体験や経験時の身体性が元になっていて、
つまり、自分が主体的に、主観的に体験や経験した自分に対して、
後天的に定義した自分の姿であり、
要するに、ある事象の体験や経験に対して、

少々表現が難しいが、
興味を持ち、前のめりに体験や経験した事象に対しては、その事象を後天的に定義する自己情報としても、
恐らく強い、明瞭な、明確な定義となり、後に概感の定義として用いる場合も、
情報として強い、明瞭で、明確な定義として用いられると考えられる。

逆に言えば、漠然とある事象を体験や経験したとしても、
その体験や経験の定義も、漠然としたもので許容されるのではないか、という事になり、
その事象を概感として想起する場合も同様になり、
ある事象としての連続性において、もっともらしさは程度として低く、
そもそも関連として神経細胞が励起される事もなく、
もっともらしくないと感じられるのではないか、という事になる。

つまり、意識のレベル(意識する強さ)のような事も考えた事があるのだが、
結局、刺激や概感が意識されるために、
間に認識や想起が挟まるという考え方をしてきたが、
単純にある事象が変化として明瞭な、明確な定義ができたとしても、
自分にとって(身体性や自構性にとって)、どのような変化であるか、あったか、
という定義も意味を持ち、
変化情報の定義の関連の連続性と、
自己情報の定義の関連の連続性、
そのどちらにおいても、明瞭で明確な定義が構成されている時、
その定義の確かさに対して「もっともらしさ」が生じているのではないか、という事になる。

つまり、
「朝寝→朝酒→朝湯」が、自分にとっても明瞭で、明確な定義の関連の連続性が出来ている時、
その想起時の概感はもっともらしく、
もし、「朝寝→朝酒→朝湯」が「身代を築く」であったとしても、
自分にとっても明瞭で、明確な定義の関連の連続性が出来ている場合は、
その想起時の概感はもっともらしいもの、という事になる。

正しいか正しくないかは主観的な評価であるし、
「朝寝→朝酒→朝湯」がやる気の元になって「身代を築く」事になったとしても、という事になるが、
そのような考え方もできる、という事になる。

そして、もっともらしくない方向についても、
強く意識される場合がある事を考えると、
変化情報の定義が明瞭・明確でなかったとしても、
自己情報について強い関連が定義される場合は、
自分にとっての定義として非常に強い定義、つまり疑問や関心が定義されれば、
事象自体が不明瞭、不明確であったとしても強く意識される事を考えると、
定義は変化情報だけでなく、自己情報の定義との「総和」として、
定義の明瞭さ、明確さが決まるのではないか、という事になる。


つまり、もっともらしさと意識の間には、
何か相関関係があり、そのレベルのような評価ができるとすれば、
その大きさの絶対値は互いに比例する関係にあるのではないか、という事になる。
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現時点では、まだ明確な関係性があるのかどうかは分からないが、
今回の最も大きな収穫としては、特に10/7に気付いた、
もっともらしさが、神経細胞の先天的な機能に起因しているのではないか、
という着眼点になる。

まだ、「もっともらしさ」についてはさらなる研究が必要になるが、
取っ掛かりだけでも見つかった事は良かった。

今回はこの辺で。


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