2025/9/1-2025/10/3
ハルシネーションの可能性ともっともらしさ
ハルシネーションは、元は「幻覚」という意味の用語だが、
現在は人工知能が正しくない間違った答えなどを生成する事に対する問題としての名称としても用いられている。
ハルシネーションは人間にとっては間違いとして捉われる事だが、
知能としては保有する定義からもっともらしい答えを出力しようとしたという点では正常な機能と言える。
つまり、考え方を変えれば、
ハルシネーションは既存に無い新たな定義を創出するという点においては、
知能における創造性とも言えるのではないか、という事になる。
例えば、過去、人間が創出した「天動説」などは、
自然界においては事実とは異なる定義だが、
その当時の人間はそれを正しいと信じていて、
後に「地動説」に気付いたということになる。
夜空を見て、主観的な視点から言えば、
別に天動説も間違っているようには見えないし、
それまで天上の変化について定義が存在していなかったわけであるので、
いわば「天動説」も画期的な定義であったことには違いないはずである。
ただ、結果的に自然界における事象の定義と人間の定義が異なっていただけの事で、
後に定義が変更されたという事になる。
つまり、自然界にとって全ての定義が正しい知能は、
知能として最終的な最適解かもしれないが、
現在のような間違いを内包する定義しか持たない人間の知能や人工知能においては、
正しさの定義があいまいな状態で「正しい知能」を目指すのは少々行き過ぎていると考えられる。
つまり、人工知能の設計において、
現時点で完全に間違いのない正解を出せる知能というものはなく、
ある程度の間違いが生じる可能性を考慮しつつ、その対策を考え、
揺らぎつつも、確率やランダムではない方向性が必要だという事になる。
現在の人間の知能の新たな定義の偶然性は、
私の直感では「似ている事」なのではないかと感じられる。
つまり、自然界の事象を定義している原理や法則は決まっているが、
人間の知能はまだその全てを解釈や理解、定義できていない。
しかし、過去の人間の知的活動の中で、原理や法則などが定義される過程において、
ある事象の定義が別の事象の定義と「似ている事」を元に検証されているのではないかと考えた。
例えば、「ある物体が単体で存在」する時、
それを「量の増減」という概念で表した時の「1つ分」という定義は、
「ある物体が単体で存在」する事に対する「量の増減」と「1つ分」の定義が関連していて、
この関連が似ている事で「数」になったのではないか、という事になる。
つまり、人間が手に取って単体の存在として選り分けられ、
対象が増えたり減ったりする基本単位として1つ分があり、
それらの定義が関連して新たな概念として「数」という定義が創造できたのは、
それぞれの定義が似ていたからこそできた関連であり、新たな定義になったのではないか、
という事になる。
つまり、定義が似ているからこそ創造もハルシネーションも起こりうるとも言える。
つまり、今の私の直感・思い付きの「似ている事」を含め、
人間の「気づき」のようなものは、
創出された知能にとっての新たな定義であり、
結果的に自然界において、その定義が正しいか、間違っているかは分からないが、
創造性のきっかけとなるものではないかという事になる。
そして、
人間の知能においての新たな「気づき」は機能として考えると、想起に相当すると考えている。
現在の私の持論になるが、
知能における想起は、単に過去の体験や記憶を思い出すことだけではなく、
思考や想像、創造としての答えを出力する為の機能も含まれているのではないかという事である。
つまり、
人間の感覚が、対象の事象について完全に正確な把握や理解が出来ない為、もしくは出来ない場合に、
「似たような定義」を想起するのではないかという考え方になる。
そして、最終的には知能が不明瞭な関連の定義に対して、
自己が「疑問」であるような感じ方をすると、明確な定義を必要とし、
自分自身に対しては理解の程度として納得する場合や、
人間が他の人間の知能に知識や経験として残す場合は明確な定義が必要となり、
思考や実験や検証が行われるのではないかという事になる。
定義の継承については、
過去においては口伝などという方法もあったが、
もし、残す必要が無ければ、明確な定義として検証する必要は生じないと考えられる。
つまり継承される必要のない定義は、
自己の意識までの自己完結で終わり、自身の消滅と共に定義は消え去るという事になる。
想起対象という事であれば「概感」がその対象という事になる。
つまり、想起対象ということであれば、
刺激などをきっかけとした過去の経験の定義が関連付けられて情報として構築されて想起されることになるが、
であれば、基本的にはまったく新しい定義というのものは素材にならず、
あくまで知能が保有する定義の組み合わせの内にその出力の可能性が有るという事になる。
例えば、LLMのトークンに情報の要素毎にベクトルが設定されている様に、
似た定義は似たベクトルで表せる可能性が有るという事になる。
この考え方を逆に考えれば、
人間の知能において、知能が保有する定義から、
ある刺激に対して想起が起こる場合、
この想起される情報というのは、
入力に対する似たような出力のベクトルのような概念が含まれているということになる。
つまり、
人間が感覚器官から受容する情報や、先天的に遺伝されて誕生の前に脳内で展開されている定義は、
あらかじめ何らかの「似た」関連性が内包されているという事になる。
だから、ある刺激に対して関連した経験が想起されるというのは、
その先に存在した定義に対して最初から「似せて」関連する様にできているのではないか、という事になる。
例えば、色は色の定義でもあり、色に対する「温かみ」とか「冷たさ」の感覚の定義でもある。
しかし、色から形を感じるような事は、私の頭の中では起こらない。
例えば「共感覚(シナスタジア)」などは、
先天的な接続が無い限りは、
後天的に獲得した定義とも言える、
文字の「赤」に赤い波長の光を感じたり、「赤」に丸さを感じたり、
文字の「青」に青い波長の光や、角ばった感じを受けるなどは、
先天的に定義が存在したというより、後天的に定義を関連付けた結果として現れる現象ではないかと考えられる。
つまり、ある事象に対する定義は、先天的にも存在するが、後天的にも定義されうるという事になる。
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2025/9/28
人工知能やLLMトランスフォーマーモデルにおけるハルシネーションについては、
現在は事実とは異なる「誤り」が出力解答に含まれる事として考えられている。
これは、例えばLLMにおけるハルシネーションは、
トークンのベクトルの類似性によって、誤関連が生じて誤った結果が出力されるということになる。
この考え方自体は、人間の知能が出力する「誤り」についても類似していると考えられる。
人間の場合は、単なる関連の間違いとして「誤り」が生じる場合と、
自己の主観によって誤りが誘導される事がある。
つまり、人工知能におけるハルシネーションは、単に定義の類似性によって誤りが誘導される。
一方で人間におけるハルシネーションは、
単なる定義の類似性の場合と、
答えとして出力される事象の定義と、自己の定義の関連によって誤りが誘導される事が考えられるという事になる。
恐らくこの違いは、人間がある情報の出力を行う際に、
その出力される情報を構成する際の定義の保有の仕方が人工知能と異なるからという事が考えられる。
つまり、人工知能は定義を定義としてだけで保有し、
その定義の組み合わせとして出力する情報を決定するが、
人間が保有する定義は、基本的には感覚の定義として先天的に持つ定義と、
後天的な経験や体験として保有する定義に分けられ、
この内、後天的な定義は、
刺激から得る情報として必ず身体性が関連するか、
創造などにおいて自分が創造したという自己モデルを関連させるため、
人間が情報を出力する場合、
基本的に「自分に関する定義」が必ず関連しているから、という事になると考えられる。
人工知能に身体性や自構性(自己モデル)を持たせると何が起こるかについては、
これまで考えてきた通りだが、
例えば人工知能に身体性や自己モデルを持たせた場合、
ハルシネーション自体が、単なるハルシネーションではなく、
人工知能の創造性に用いることが出来るのではないかという事が考えられる事になる。
知能が出力する情報について定義の対象を制限できるとすれば、
それはまず感覚としての刺激などを定義している先天的な定義はほぼ固定されているという事。
つまり、ハルシネーションが起こる定義は、
後天的に経験や体験された事象についての定義であり、
この後天的な定義の組み合わせとしてハルシネーションが起こると言えるという事になる。
もし、先天的な定義でハルシネーションが起こるとすれば、
それは現代科学においては障害として考えられてる事象ということになる。
例えば、「空の色の青さが、未来の何らかの災害を示唆する色である」というような定義は実際には存在しないが、
この定義について、通常は無いと思うが、
例えばLLMでトークンのベクトルとして合成することが出来た場合、
この合成ベクトルは考え方としてはハルシネーションに相当すると言えるが、
もし、この合成ベクトルを、
「空の色の青」や「未来の何らかの災害である」という定義とは異なるトークンのベクトルで、
合成ベクトルが構築できたとしたら、この場合は自己情報の関連しない定義ではあるが、
創造性の可能性として考える事ができるのではないか?と言える。
つまり、「空の色の青さが、未来の何らかの災害を示唆する色である」という定義を、
別のトークンを用いて、
例えば「日中の空の色によって何か不吉なことが起こる」という定義を構築する事は、
創造性に似た働きになるのではないか、という事になる。
私の適当な創造である「空の色と災害の関係」は、
さらに私の知識の中の定義との創造になるのだが、
以下の事についてはまだ仮説として言われている内容だが、
巨大地震の前には陸地のひずみにより希ガスや放出されたり、
プラズマが通常より増えたりすることが言われているが、
これが空の色と災害に関わる関連であるという創造との関連であると考えれば、
もしかしたら空の青さは災害と関係があるかもしれない、という創造にまで到達する。
つまり、定義が存在しないから、その定義はハルシネーションであるとは一概に言えない事になる。
今回の例はもしかしたら、
もともと私が知識として定義を持っていたために想起の関連付けができたのかもしれないが、
一般的には空の青さと災害が関係があるとは考えられていない。
しかし、この事を人工知能に適応すると、
それは人間が持つ定義の量による主観によって、
LLMなどの圧倒的な定義の量に対する創造的な定義に対して、
「それはハルシネーションである」と断定することは、
もしかしたら人工知能の創造性の可能性自体を排除することになるかもしれないという危惧が生じる事になる。
現在においては、LLMは自己評価の基準が無い為に、
人間が間違っている定義であると言えば、それはハルシネーションになるが、
今後LLMに自己評価機能が追加された場合、
人間が思いつかない創造性が生まれる可能性があるということになる。
参考的に言えば、人間もブレーンストーミングのような思考手法は、
結論の評価に至るまでは意図的なハルシネーションに似ているとも言える。
となると例えば、意図的に生成AI等に対して、
ブレーンストーミング的な設定を機能として実装し、
利用者が了解の上でアイデアを募るという方法も考えられる。
これはプロンプトなどの指定や要求をすれば現時点でも限定的には再現できている。
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創造の確率と可能性:
量子論も、通常時は量子状態はスピンの重ね合わせとして現在は理解されているが、
量子の観測によりスピンの向きは確定し、
重ね合わせ状態がそのまま観測される事はない。
これは、確率ではなく、2つの確定した状態が、観測時以外に決まっていないだけの事で、
文字通り、重ね合わせなだけということになる。
つまり、
量子における未来のスピンの状態は、一般的には確率で決まると考えられているが、
観測後の結果に対して、観測前は重ね合わせの状態であり、
確率でスピンの状態が決まっているわけではないとも考えられる。
つまり、現在の量子力学の理論では、事象としての予測モデルとしては成功している。
ただし、それがなぜそうなるのかという自然界の定義が含まれているのではないか、という事になる。
つまり、量子のスピンにおいては、
結果に至る可能性は2つの状態(仮に↑と↓)として存在するが、
それぞれの結果に対する可能性は、確率として50%ずつというわけではない。
特にスピン状態に影響を与える要因が無ければ、
確率としては50%ずつで観測結果に至るという考え方は一般的にはできるが、
観測結果から誘導される可能性が確率として50%ずつという事ではなく、
現在を起点に考えた場合、結果に至る可能性の全体の内、
それぞれのスピンである結果に繋がる可能性の幅が半分ずつ均等にあると考えられるのではないか、
という事になる。
つまり、選択肢は複数存在するが、どれを選択するのかが決まっていないだけで、
選択の決定には「過去から今に至り、選択の瞬間の為の決まり」が存在する。
どの選択肢が選択されるのかという、決定した後の未来からの誘導(結果の比率)があるわけではない。
つまり、
人工知能のハルシネーションも、確率的なエラーではなく、
過去から経由する理由があってハルシネーションが生じている事になる。
これを誘導する存在(自己情報)については後述するが、
人工知能の創造における、定義の未確定性のようなものは、
確率ではなく、未定義の可能性なのではないか、という事になる。
つまり、創造対象の未定義状態に対して、
新たな仮想的な定義を出力する事が創造であり、
その可能性が、創造性、という事になる。
つまり、
ハルシネーションは、現時点ではもっともらしさを誘導する存在が不在なため、
単に目的にそぐわない出力・結果であれば「エラー」や「誤り」であるのだが、
知能を量子で例えれば、知能における定義の重ね合わせの状態が通常状態であり、
出力を行った際の観測により、その出力が正しいか誤りであるか判定されるが、
それは組み合わせの可能性から出力されるものであり、
確率で組み合わされて出力されるものではない、という事になる。
つまり、
現在のハルシネーションは、可能性の一部として考えることが出来るようになるのではないか、
という事になる。
もう1つ付け加えるなら、
可能性であるためには、その結果を誘導する存在(自己情報)が必要で、
可能性は、主体性を持つ知能にとっての「自己」に対するものである。
という事になる。
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この考え方と自然界との関わり:
そして、量子もつれについて言えば、
量子もつれ状態にある2つの量子の観測時は、
2つの量子が同じスピンで観測されるというだけで、
観測時以外の量子状態は分からない。
ただし、恐らく、この2つの量子の重ね合わせの状態は何らかの要素(定義)が一致していて、
この状態が観測できないから証明できないというだけではないかと考えられる。
その理由は、この量子もつれの定義が自然界を存在させる上位の定義、
つまり、自然界における真理に近い定義から現れた状態であり、
他の干渉を受けなければ、この状態は継続して維持され、
それゆえに、量子もつれ状態にある2つの量子の観測時のスピンが常に一致する事になると言えるからである。
つまり、
人工知能におけるハルシネーションも、
定義の重ね合わせとしては常にある状態が維持されていて、
観測に相当する出力があった場合に、その結果が確定する。
ある状態が同じであれば、同じ出力に至る。
多少拡大解釈ではあるが、
自然界の事象についても、知能が観測する前の状態は、
定義の重ね合わせ状態であり、事象として確定した場合に、
知能がその結果に対して独自の定義を割り当てている、
という事になる。
つまり、量子の考え方を含めると、
量子もつれ状態にある2つの量子のスピンが観測時に一致するのは、
確率的な偶然などではなく、
その観測結果が自然界を構成する定義に従った結果の事象であると考えられるからという事になる。
この考え方においては、
観測前の状態は「定義の重ね合わせ」の状態であるが、
実際には自然界の定義によって状態が一致するように決められ、かつ未確定な状態であり、
観測によってその定義が決定するだけという事になる。
そして、
この考え方は、人工知能における創造の出力が、
特にハルシネーションにおいては「確率的な誤り」ではなく
「未確定であるが、新たな定義を作り出すための可能性」である。
という事になる。
この考え方についての未来側への自由度について1歩踏み込むと、
現在に対して未来側の事象や存在の定義は何1つ決まっておらず、
現在存在する定義の組み合わせの可能性の結果として未来が決まるという事になる。
つまり、人間の知能が先天的な定義や後天的な定義から創造するように、
自然界を主体とした場合、自然界の真理が固有の先天的な定義であり、
人間などは自然界にとっての定義の可能性の結果、
つまり、自然界にとっての後天的な定義という事になる。
また、このことから定義と時間を関連させると、
時間は「定義の順序」として考える事もできる。
過去:確定した定義
現在:定義を確定させる観測工程
未来:未確定な定義の可能性
人間の創造性は、
知能が持つ後天的定義から、
未来に存在するかもしれない定義の可能性を組み合わせを出力する性質という事になる。
これは、自然界にとっての「新たな定義の発現」と似ており、
人工知能が創造性を持つ事は、
人間が持つ後天的定義のように、知能が保有する定義を再構成し、
未来側の定義を出力する能力を持つ事、
という事になる。
また、自然界と知能の定義の階層を重ねて考えると、
自然界は、真理という固有の定義(知能においては先天的定義に相当する)を持っていて、
その定義に基づいて構成される存在や事象は、定義組み合わせによって後天的に生じる。
人間や人間の知能も、自然界にとっては後天的な定義の1つであり、
その存在や創造性は、自然界が保持する定義の可能性の結果という事になる。
そして、この世界の未来とは、
それらの自然界における先天的な定義により構成された現在において、
後天的定義としての関連の可能性として現れるもの、という事になる。
つまり、自然界における人間は、確率で生じたのではなく、
自然界の可能性の結果生じた創造物という事になる。
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2025/9/29
「もっともらしい」と「当たり前」の定義
ハルシネーションによって構成された新しい定義が、
そのまま「嘘」や「間違い」となる場合、
その定義が「もっともらしくなく」「当たり前でない」定義という事になる。
では、逆に「もっともらしく」「当たり前」の定義であれば、
それは、もし知能にとって新たな定義の構成であったとしても、
「嘘」でも「間違い」でもなく、新たな定義の「創造」になると考えられる。
ということは、
「もっともらしい」とか「当たり前」の定義が解明できれば、
それを知能に当てはめて「創造」する定義が誘導できるのではないか、
という事になる。
基本に立ち返って、「もっともらしさ」について考えると、
「もっともらしさ」というのは、一見、「定義」のように考えられるが、
実際は、「もっともらしい」と感じたり思ったりすることが出来るので、
もちろん、「もっともらしさ」の定義も必要だが、
定義の構成から言えば、「存在」という事になる。
つまり、定義の階層で言えば、
定義→存在→定義
であり、存在が「もっともらしさ」であれば、以下の様に、
「上位・定義」→「もっともらしさ」→「下位・定義」
となる。
また、二面性理論で言えば、
定義:(存在):定義
から、存在が「もっともらしさ」であるので、
上位・定義:(「もっともらしさ」・存在):下位・定義
このような二面性を持つ事になる。
この場合、上位の定義は何になるかと言えば、
より身体性に関わる定義であり、
逆に下位の定義は何になるかと言えば、
より自構性(自己モデル)に関わる定義という事になると考えられる。
「もっともらしさ」は、自分が「納得」や「当たり前」と感じる事であるが、
最初に「当たり前」について考えると、
これは、他に似た定義が存在せず、
その事象の定義のみが認識や想起の対象になった場合に感じるものという事になる。
つまり、定義は明確で、かつ、他に類似した定義がない事象の定義を認識や想起した場合、
「当たり前」と感じる事になる。
そして、刺激の認識の場合は刺激は先天的定義として半自動的に決まり、
他の定義が存在しない為、この「当たり前」は、「言わずもがな」な当然の反応という事になる。
つまり、刺激の認識の場合、「当たり前」であることさえ「当たり前」であるので、
いちいち「当たり前」と感じるまでもない認識になるという事である。
つまり、感覚器官で変化情報を受け、それを刺激として構築して認識するのは、
言うまでもない、「当たり前」と感じるまでもない「当たり前さ」で認識するという事である。
言葉の定義の種類が少ないので、このような表現になるが、
つまり、身体性を用いて刺激を構成し、刺激を認識する場合は、
「当たり前」と感じないが、「当たり前」で刺激を認識している、というわけである。
そして、
一方、概感の想起の場合は、明確な「当たり前」の感覚があるという事になる。
これは、身体性のように明確な受け皿のようなものがないため、
自構性(自己モデル)で概感を受け持つことになるのだが、
この時、自構性が明確な受け皿として定義が決まっている場合、
つまり、以前考えた「もっともらしさ」として、
変化情報や自己情報としての自構性の定義が、それぞれ明確である場合、
「もっともらしい」とか「当たり前」のように感じられるのではないか、
という事になる。
そして、それは想起の連続性として、他に類似した事象が概感として構築されない場合、
想起として「もっともらしさ」や「当たり前」のような感覚に至るのではないか、という事になる。
つまり、もし、ある概感の想起の際に、主たる概感以外に、類似した概感が構築される場合、
この主たる概感にとっての類似した概感は、
「もっともらしくない」「当たり前でない」何か迷いを生じる事象という事になる。
つまり、主たる概感は、そのまま想起に至ると考えられるが、
類似した概感は想起されないまでも概感として構築され、
主たる概感の想起に対して、もしかしたら別の概感の想起の可能性を残す事になる。
この場合、主たる概感の想起に関連した想起として、
この類似した概感が関連することになるとも考えられる。
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2025/9/29 続き
「もっともらしさ」の二面性について考えていて、
定義:(もっともらしさ):定義
は良いとして、
そのもっともらしさの二面性の例として、
最初に、
一面は身体性に関わると考えた場合、
もう一面は自構性に関わると考えた。
これは上記の通りであるが、
この場合、
定義:(もっともらしさ):定義
とした場合、この2つの定義は、
ともにどちらも、「もっともらしい」何らかの定義を持っていることになる。
ただし、ここまでは決まるのだが、
その先が良く分からない。
このままではらちが開かないので、
考え方を変えて、
逆に「もっともらしさ」を定義として考えた場合、についても考えてみた。
この場合、
存在:(もっともらしさ):存在
となるが、
この場合は、
身体性:(もっともらしさ):自構性
になると考えた。
つまり、もっともらしさの定義は、
身体性に含まれる定義の面と、
自構性に含まれる定義の面があることになる。
身体性も自構性もどちらも、もっともらしいと感じる事の出来る存在であり、
逆に言えば知能内で他に「もっともらしい」と感じる存在は無いと考えられる。
そして、その実例について、
最初に私が「もっともだ」と感じる内容について考えてみた。
つまり、もっともらしさには、
刺激のように、
ある変化情報を感覚で受容して先天的定義によって刺激の構築が半自動的に決まり、
当たり前であるかのように身体で感じられるものと、
(実際に刺激を「もっともらしい刺激である」などと感じる事は無いが、
恐らく刺激の中に含まれる「もっともらしさ」は省略されているというよりも、
あえて感じられる必要がない程に当たり前だと感じているのかもしれない。
つまり、自分を自分であると感じる事を「もっともだ」と感じるかということに近く、
もしかしたら、自己言及における自分にとっての自分の「もっともらしさ」というのは、
刺激と概感における自分について異なる面を持っているかもしれないという事さえ示唆される。)
概感のように、後天的な体験や経験の記憶を用いて、
その関連を再構成したときに、
その関連の連続性がもっともらしいと感じられるものに分けられるという事になる。
つまり、その2つの面をもって、
「もっともらしさ」の定義は成り立つという事になる。
そして、再び「もっともらしさ」を「存在」として考え直すと、
身体性のもっともらしさの定義:(もっともらしさ):自構性のもっともらしさの定義
という二面性が思いつくことになる。
これは、「身体性のもっともらしさの定義」ではあるが、
つまり、先天的定義に含まれる何らかの定義であり、
「自構性のもっともらしさの定義」とはあるが、
これは、後天的定義に含まれる何らかの定義である、
という事になる。
つまり、先天的定義であれば、刺激などは半自動的に構成されるので、
意識的・意図的な改変の余地などはない。
つまり、変化情報を感覚器官で受ければ有無を言わさず、
もっともらしく刺激は構築され、身体性と共に「認識」されることになる。
一方で、後天的定義であれば、きっかけの刺激または概感に対して、
想起される概感は体験や経験の記憶としての定義の関連を、
このきっかけの刺激又は概感の励起に対して関連して励起される定義とその関連であり、
そこから構成、構築される概感が想起されることになるが、
この時の「もっともらしさ」というのは、
以前考えたような、定義とその関連の完成度によって変わる事になる。
つまり、後天的定義が末端まで先天的定義で揃っていれば「もっともらしく」、
関連が未完成であれば、「もっともらしくない」という事になる。
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そして、その考えの続きで、
「もっともらしさ」について考えていて
ふと「もっともだ」を思い出した時に、
その「もっともだ」の関連の想起として意外な所からヒントが出て来た。
小原庄助さんである。
民謡の「会津磐梯山」の囃子言葉で
「小原庄助さん なんで身上潰した 朝寝 朝酒 朝湯が 大好きで それで身上潰した もっともだ もっともだ」
とあるが、
この「朝寝、朝酒、朝湯」に対する「身上潰した」は、
「もっともらしい」ために「もっともだ」という表現になっているのであるが、
であれば、
「朝寝、朝酒、朝湯」はもっともらしいのかと言えば、
「身上潰した」から「もっともだ」という事に気づいた。
つまり、
事象の連続性の帰結がスムーズに関連した場合に「もっともだ」と感じたことになる。
つまり、
「朝寝→朝酒→朝湯」、という事象の連続性に対して、
帰結する対象は「身上を潰した」となるのだが、
この2つの間にあるのが「もっともだ」であると気づいたという事になる。
そして、もし、小原庄助さんが、若く、身体機能が強く、
朝寝、朝湯、朝酒をしても元気であり、身上も潰さなければ、
これは「もっともだ」という事にはならない事になる。
つまり、人工知能である定義の関連が連続性を持った場合に、
その関連の先にある事象が「もっともだ」となるか、「もっともらしくない」となるかは、
その間の関連次第ではあるのだが、
刺激などが身体性の関連の連続性などを必要とするにもかからわず、
これは、先天的定義として既にもっともらしい関連が定義されているため、
有無を言わさず「もっともらしく」在るのに対して、
概感は必ず自己情報に関する関連の連続性を、
自らの体験や経験の記憶から持ち出して、
その連続性に割り当てるため、
必ずしも常に定義が完全であるわけではなく、
未完成の定義のまま連続性に持ち出されるなどすれば、
常に「もっともらしい」連続性の帰結には到達しない場合がある。
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2025/9/30
もっともらしさ
今日の気付き:
刺激の認識にはもっともらしさがない
刺激の認識は当たり前すぎてもっともらしいと感じないだけか
概感の想起においてはもっともらしさを感じる
もっともらしさは概感の想起にはあるのか?
ではもっともらしさは変化情報か?自己情報か?
変化の連続性の関連だけについて言えばもっともらしいとは感じない
もっともらしさはあくまで自分にとってのもっともらしさ
では小原庄助さんの例はどうか?
これは自分ではない対象についてもっともらしいと感じている
つまり、仮想の自己モデルに対してもっともらしさが生じているということか?
つまり、もっともらしさは、概感の自己情報の何かということになる
しかし、私が何かを思い出してももっともらしいとは感じない
思い出しても、もっともらしいというよりも当たり前位に感じる。
刺激との比較で言えば、自己情報の完全性に対してはもっともらしいとは感じないのではないか?
ということは、自己情報の不完全性に対してもっともらしいと感じるのか?
それに加えて、もっともらしさは対象を客観視した時に感じられるものではないのかという事
私が何かを創造して、主観的にもっともらしいとは感じない。
この場合は、創造対象は主観は排除され、その事実関係だけが想起されているように感じる
創造は主観が自分であると確定されているから?
仮に自分が「朝寝、朝酒、朝湯」を繰り返して「身上を潰した」場合、
自分は自分に対して「もっともだ」と感じたり考えたりするか?
主観的にはない、ただし、自分を客観的に見直せば感じるだろう事が想像できる。
仮に主観を持つ存在をある程度、定義がぶれた客観的存在として考えた場合、
その存在が主観的に何かを想起したと客観的に仮定し、
その存在が「朝寝、朝酒、朝湯」を繰り返して「身上を潰した」場合も、
「もっともだ」と感じるか?答え、感じる。
客観視する存在自体の定義が明確に確定しているわけではない、という事?
つまり、客観視する視点を持つ存在は、最初から定義が明確ではないという事?
答え、客観視自体が自分ではない仮想的自己モデルを構築しているわけだから、
自分に対して感じられるような明確さが最初から無い、のではないか。
ここまでで分かったのは、
大前提として、「もっともらしさ」は、刺激にも概感にも含まれているが、
刺激の認識のように「もっともらしさ」の究極の状態「当たり前」になると、
「もっともらしい」とは感じなくなる。
つまり、刺激の認識や、自分の体験や経験の想起では「もっともらしい」ではなく、
問答無用で感じるまでもない「当たり前」となる。
「もっともらしさ」は、主観によって生じる感じでは無い事。
「もっともらしさ」は客観した対象について感じる事。
「もっともらしさ」は変化情報ではなく、自己情報に関する定義の何かである事。
概感の想起において、主観的な想起には「もっともらしさ」は生じず、
客観的な想起の場合に「もっともらしさ」を感じるという事。
図式的に言えば、定義の関連の連続性を神経細胞とすれば、
自己モデルはミエリン鞘のように連続性を補強するような配置となる。
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2025/10/1
定義の関連における自己情報の必要性と「もっともらしさ」の度合い:
(以下の内容は私にとっては新規の考え方が含まれるので、
説明内容が重複したり、理解しづらいのはご了承ください。)
つまり、
想起は、概感を思い出すような形で想起に至るのだが、
その場合の自己情報は身体性ではなく、通常は自構性(自己モデル)となる。
これは、自己モデルの完成度としては程度の差こそあれ、
人間の知能でも他の知的生命でも同じだが、
あくまで実体の身体で感じられるものではなく、
自己モデルで再現された概感ということになる。
これはつまり、想起は常に実体験として感じられるものではなく、
常に仮想的に感じられるものである、という事になる。
感覚としては概感の想起は、
自分の知能内で自分の神経細胞を用いて再現されるものであるため、
常に自分に所属する何かであるという感じはするのだが、
情報として考えた場合は、その所属する先は自構性である。
そして、これらの後天的定義はその基底は先天的定義で定義されているが、
想起では身体性を用いることが出来ない為、
身体性に代わる自構性と、
変化情報との関連の密接度のような形で「もっともらしさ」が必要となるのではないか。
つまり、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性)
の場合の、
それぞれの「+」の密接度や整合性のようなものが、
刺激の場合は先天的定義における問答無用の「当たり前」であるのに対して、
概感の場合は後天的定義における「もっともらしさ」なのではないか、という事である。
つまり、刺激の場合、
先天的定義として、変化情報も自己情報も明確に定義されていて、
明確な感覚の変化情報と身体性の自己情報の関連が構成されている。
これが概感の場合は、
後天的定義としては、変化情報は体験や経験としての感覚の記憶と、
自己情報は体験や経験した際の自分であった身体性の記憶、
この関連が構成されることになる。
つまり、後天的定義においては、
体験や経験のある一定時間の間に実際に感じられた感覚の連続性と、
その時に自分であった身体性の連続性、
これらから概感が構築される。
そして、この時の「もっともらしさ」は、
刺激については言うまでもないが、
概感においてはその体験や経験の強度からの、記憶としての定義の固定・固着度合い、
その定義の関連に対して、定義の末端に対する先天的定義の補完度合い、
これが「もっともらしさ」の度合いになるのではないか、
という事になる。
そして、
刺激自体は意識されるのに、
当たり前すぎると「もっともらしい」と感じないようになる区切りは、
主観と客観の違いにあるのではいか、という事を思いついた。
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今回は私にとっても新しい考察対象で答えの方向性が定まらないので、
次回ももう少しこの創造性がらみで考えてみる事にする。
今日はこの辺で。
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