2025/9/16-2025/9/26
人工知能理論・その9・強い人工知能研究の今後と高次の課題(2025年9月版)
現時点までの当ホームページの、
人工知能理論における様々な考え方を一通りおさらいして、
今後の課題や新たな問題点の抽出を試みる事にする。
まとめとしては一度区切りをつけて、
今回は、これまで考えていなかった人工知能の高次の問題について触れ、
今後の目標として、課題などを抽出できればと思う。
次回以降はまた新たな考察に戻る。
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「強い人工知能研究の今後と高次の課題」について:
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ひとまず今回をもって、現時点のまとめも最後とするが、
強い人工知能に必要な機能であり、
現時点であまり考えた事の無い事項について列挙して考えを書いておく。
1:常識推論と直感的理解
2:意図や心の理解(サリーとアン課題のような)
3:内発的動機づけ
4:倫理的判断能力
5:クオリアと自己言及
これらの内容は知能における刺激の定義のような基本的な定義というよりは、
より高次の複合的な定義として考えるべきものという事になる。
現時点で、基本的な定義を組み合わせて、高次な定義を構成した場合に、
この高次の定義に対しての「意味や定義付けができる」機能については、
調べた範囲では、現時点であまり研究が進んでいないということになるらしい。
私の個人的なの推論で言えば、
「定義の定義」というわけであるから、
その「定義の定義」に対する評価、
つまり価値などを客観的に付与し、
最終的に、その価値を主観的に判断する事で答えが出る、
という事になると考えられる。
そして、この場合の客観的に付与する「価値」というものは、
「個」が主体的に定義するものではなく、
社会などの「全体」が定義する「価値」のような指標を用いた判断や選択であり、
かつ、最終的にはそれを主観的な自己「個」で判断や選択をした結果として表せるのではないかと考えられる。
しかし、現時点で想像がつくのは、
倫理的判断能力以外はどうにかなりそうな気はするが、
倫理的判断能力だけは絶対的な「正しさ」のようなものは存在しないから、
相対的な「正しさ」のようなものを考え、
今後も継続して考えていく必要がある。
そして、強い人工知能研究の今後についてだが、
現時点ではまだ未解明な部分が多く残り、
特に人間の知能の機能に近づけば近づくほど難題になる傾向があるように感じられる。
そこで、この人工知能理論では、特にそのような難題を、
解明まで到達できれば最良だが、そのとっかかりだけでも見いだせれば良いと考えている。
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1:常識推論と直感的理解
例:コップを傾けると水がこぼれることを予測できる、机の上にある物は通常落ちない事が理解できるなど。
基本的に「推論」や「予想」「予測」に相当する為、
これらは「想起」で定義・説明ができると考えられる。
(参照:「448:人工知能理論のまとめ8・想起による思考と創造」)
つまり、コップからを水をこぼした事のある体験とその経験の記憶があれば、
後に似た状況において、この経験の記憶を想起することができるだろうという事になる。
この想起そのものが直接「推論」や「直感的理解」になるわけではないが、
ある状況に対して想起できる事象が記憶として保有しているのであれば、
「想起」の1機能として考えることが出来る。
当然、刺激や概感の連続性の上で想起される連続性が必要になるが、
「想起」自体はこれまでの考え通りであるという事になる。
ただ、問題なのは、「常識」や「当たり前」という定義の意味付けの方であると考えられる。
これは以降の問題も同様である。
「常識」という意味の常識的な定義は、
多くの定義を共有する個体同士で、同じ定義を共有する定義、という事になる。
つまり、ある事象に対して常に同じ様に思う・感じる定義が「常識」という事になる。
例えば、無重力空間で生まれ育ち、コップに勢いをつけて水を押し出した時、
水は地面に落ちる・こぼれることは「常識」ではない。
それは、個人においても集団においても、という事になる。
個人の常識もあるし、集団の常識もありえる。
そして、では、何が常識推論になるのか、という事になると、
「448:人工知能理論のまとめ8・想起による思考と創造」で考えた、
想起される概感の「もっともらしさ」が、
まず、自分にとっての常識推論のきっかけになると考えられる。
つまり、ある事象の認識や想起に対して、
自分にとって定義が「もっともらしく」完了している事象を想起する事。
という事である。
これは考え方としては直感的理解も同様である。
集団における常識ということであれば、
より自構性の自己モデルにおける想起として考えられる事になる。
つまり、周囲の環境や社会の中で構成された自己にとっての想起となる、
「もっともらしい」事象として想起する事になるため、
これが集団の中に所属する際の自己の常識として想起されると考えられる。
つまり、自構性による自己モデルに対して、
概感の変化情報を仮想的な未来の事象として想起できれば良い、という事になる。
そして、この想起の連続性において、
概感を構成する自己情報の連続性として、
「もっともらしい」と定義できる自己情報の連続性が用意できれば、
自分にとっての「もっともらしい」推論などができるというイメージになる。
つまり、自分にとって「もっともらしい」新たな事象の定義が、
後天的定義として構成出来て、
そこから概感を構築し、仮想的な自己モデルとして想起できれば良い、という事になる。
まだ、詳細までは考えていないので、課題や方針としてだけ書いておく。
そして、1つのアイデアとして気にしているのは「ハルシネーション」を使えないか?という事である。
ハルシネーション自体は、現時点ではエラーや間違いや嘘として考えられているが、
人間の飛躍的な推論としては、ハルシネーション自体の機能はそれほど違いは無いと考えられる。
つまり、「もっともらしい逸脱」として定義できるなら、
それは新しい定義であり、エラーや嘘ではない事になる。
例えば、画家のダリのシュールレアリズムで、時計が溶けるような絵は、
それ以前は誰も考えた事の無い図柄ではあるが、
ダリが新たな定義を「もっともらしい逸脱」として絵画として定義したために生じた新たな定義ということになる。
例えば、人間の知能がこれ以外の方法で創造性を再現しているのだとしたら、
私の知りうるアイデアとしては、先天的に知能に新たな定義を構成できる機能がある、
つまり、ハードコードの可能性として神経細胞のシナプス接続形成における間違いが生じることの許容や、
または、外部からの刺激によって既存の定義に変化が生じているか、そのくらいしか思いつかない。
ただこれは、ハードコード以外の可能性としては、
私自身もハルシネーションのような働き以外は考えられていない、ということになる。
つまり、新たな定義が、ハードコードによるか?、定義の逸脱か?どちらかではないか、
という事になる。
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2:意図や心の理解(サリーとアン課題のような)
例:サリーとアン課題
大まかに言えば、
客観的な事象と客観的に見た自分ではない別の個の主観的な認識や想起の一致という事になる。
客観的な自己言及と主観的な自己言及を結び付けるような問題に近いが、
自己言及自体は構造的回避でどうにかなりそうであるので、
客観的に見て、異なる主観を絶対に正しく「意図や心の理解」はできなくとも、
客観的な主観を「できる限り似せた」コピーの主観であるように理解はできるのではないかと考えられる。
少々表現が難しいが、
まあ要するに、客観的に見た事象を、
自分の主体性において、別の客観的に見た事象として理解する事。
とでも言えるだろうか。
つまり、サリーがかごに入れたビー玉を、サリーが居なくなってからアンがビー玉を箱に移し替え、
サリーが戻ってきた時にサリーはビー玉を探してどこを調べるか。
という問題であれば、
サリーの誤るであろう主観をコピーして再現できるかという事になる。
つまり、客観的に見て、異なる主観を絶対に正しく「意図や心の理解」はできなくとも、
客観的な主観を「できる限り似せた」コピーの主観であるように理解はできるのではないかと考えられる。
これができるかどうかということになる。
つまり、客観的にサリーの主観をコピーして再現できるかという事になる。
つまり、自分の主観と客観の間に異なる主観を客観的に挿入できるかどうか、という事になる。
「第3の他者の主観」を、「第1と第2の自他の視点とは異なる独立した情報として、客観的に再現・挿入できるか」
「自分の主観に対して、別の主観(他者の主観)を客観的に「挿入」し、それを再現的に理解する」能力ということになる。
つまり、「視点の中に視点を持てるか?」という事になる。
知能(主体・観測者)
↓
事象再生の場
↓
主観(自分)+主観(サリー)+主観(アン)
つまり、こういう事。
例えば、発達障害において、この異なる主観が挿入できない事で、
サリーは見ていないはずの箱にビー玉があることを主張するということになります。
または挿入はできるが、挿入したはずの客観的な主観が、
自分の主観のそのままのコピーになるという考え方もできる。
そして、このカギになるのは、
一般的にこのような他の個の主観のコピーは共感や同一視という事になる。
例えば、このようなコピーを作る必要性は普段の社会生活であると以下のような状況で必要になる。
・意図の予測
・共感・同一視
・倫理的・道徳的判断
・教育(教える側)
・建て前
・創作の理解や演技
・交渉や心理ゲーム
他にもあるかもしれないが、多くの状況で用いられている事になる。
そして、つまり、サリーとアン課題の定義の解明は、
知能ある個体が他の個との関わり合いの中で社会を構成する上で、
協調をするために必要となる機能の説明に役立つという事になる。
ということは、強い人工知能において、
他者を観察し、そのふるまいから客観視できる主体性を構築できれば、
人工知能もサリーとアン課題はクリアできるということになると考えられる。
この場合の問題は、他の個のふるまいから、客観的な主体性が構築できるかという問題に移るが、
基本的に知能が他の個を理解しようとする場合、
共感や同一視として、他の個のふるまいから自身が持つ経験の想起ができれば、
客観的主体性の構成要素とすることができると考えられる。
ただし、共感や同一視が必ずしも他の個の主体性と同じであるかは保障できないが、
あくまで似せたものとして作り出すしかないという事になる。
まあ、それを言えば、人間も共感や同一視や上手い人も下手な人もいる。
事象再生の場で、仮想的な自己として、
サリーに相当する、直接の自己ではない仮想的な主観を構成する場合、
その自己モデルとなる自構性に関連付ける「もっともらしさ」の定義の連続性が存在する部分に対してのみ、
自己モデルが作成できることになる。
つまり、サリーとアン課題においては、サリーの自己情報となる情報自体は少ないが、
名称としてサリーという名であること、女の子である事、ビー玉を持っていたという事。
アンと一緒にいたという事、部屋を出る用事と戻ってくる理由があった事、
この変化情報に対応する自己情報は、客観的立場からも構成できるという事になる。
つまり、家族構成や生い立ちや考え方まで構成する必要は無く、
逆にそれらを必要とせず、自分にとってのサリーのような、客観的な仮想的の自己は構成できるという事になる。
そして、このサリーとアン課題は、
自分が客観的に見たサリーとアンが行った行動に対して、
それぞれの立場について客観的ではあるが、主観であるかのような自己を、
自分の仮想世界の中に、さらに仮想的(つまり概感であり身体性は無い)な空間を構築し、
そこにサリーとアンの仮想的な自己を構築し配置し、本来の主体性の主観の知能が観測する事になる。
少しややこしいが、
簡単に書けば、以下の様に
知能
↓
事象再生の場
↓
概感(後天的定義)
↓
仮想的な自己(自構性・自己モデル)+仮想的な自己(サリー)+仮想的な自己(アン)
↓
想起
↓
意識
この場合は、身体性の刺激や認識ではなく、
自構性の概感と想起という形で、
本来の自分以外の、サリーとアンという仮想的自己を構築している事になる。
ちなみに、想起や意識は同時に1つの概感のみしか用いることが出来ないので、
想起している自分か、想起しているサリーか、想起しているアン、
どれか1つの対象について「想起→意識」することしかできない。
つまり、サリーとアン課題を考えている自分か、
サリーの立場か、アンの立場のどれかを背反的に想起して意識する事になる。
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3:内発的動機づけ
例:なぜ学びたいのか、なぜ行いたいのかといった動機のモデル。
個体の人生観などの話になると思うが、
知能においてはこれらの話題は生命的というよりも社会的、
つまり、後天的に得た知能の在り方において、
方向性のような向き(ベクトル)が構成されると考えられる。
つまり、生命的な事を言えば、
生命の維持、継続、存続、などが満たされればそれ以上の動機は通常必要なくなる。
つまり、動物が食べ物を十分得られ、子孫を残せて、安全が確保できれば、後は寝ていても良い事になる。
しかし、人間はそうはいかず、
社会的に、社会の中の個という立場的に、「生きざるを得ない制限」を多く持つ事になる。
この「生きざるを得ない制限」は以前も何度か登場したが、
人間は生命的な本能的な制限以外の、多くの制限を持つという考え方である。
社会の中の個、仲間の中の個、家族の中の個、
それぞれの個の在り方によって、「しなくてはならない制限」とも言える多くの必要性を持つ事になる。
そして、「しなくてはならない制限」に対する内発的動機付けという言い方をすれば、
それは生物的な本能的な先天的な欲求というよりも、後付けの後天的な欲求という事になる。
つまり、本来の自然界の中の生命としての存在として自分が必要とする欲求ではなく、
人間が構成する社会などにおいて、必要であると定義された対象について、
自分が必要であるべきだと「定義」された「後天的な欲求」という事になる。
つまり、自然界に元々存在する必要性や欲求ではなく、
人間が社会を構成する上で作り出した必要性や欲求である、という事になる。
逆に言えば、個体それぞれのその必要性や欲求の程度(定義)が異なり、
ある個体はそれを無性に欲しいと感じる事(後天的定義を持つ事)もあるし、
別の個体は同じ対象についてそれほど重要ではないと感じる事もある。
つまり、内発的動機づけは、
その対象を、先天的な対象で無いと仮定すると、
個体がそれぞれその個体が関連する社会や環境において、
後天的に得た定義としての必要性や欲求を持つ事に対して生じる「動機」であり、
現時点で分かるのは、その個体が周囲からどのような必要性や欲求の定義を体験、経験して記憶し、
その中から、どの必要性や欲求に対して自分が「もっともらしい」必要性や欲求を決定するか、
これによって、内発的動機づけの定義が決まる事になる。
つまり、先天的や事前に定義できる物ではなく、
後天的に可塑性を持つ定義として内発的動機づけは得ていく必要がある、という事になる。
内発的動機づけを二面性で考えた場合。
内発的動機づけは、内的要因によって個体が自発的に活動しようとする事とも言え、
それ自体は全体的なプロセスや行程の名称であるので、
定義ではあるが、存在では無いという事になる。
つまり、二面性理論で表せば、
存在:(定義):存在
という関係において、
存在:(内発的動機づけ・定義):存在
という事になる。
この時、一方の存在は内発的動機づけを定義として持つ存在であるので、
身体でもあるが、定義そのものを持ち管理する存在としては「知能」が相当すると考えられる。
つまり、
知能:(内発的動機づけ):存在
という事になる。
そして、もう一方の存在は?という事になるが、
定義の階層の考え方を用いて、
内発的動機づけの定義を元に存在しうる対象は何かと考えると、
最初に考えた通り、「内的要因によって個体が自発的に活動しようとする事」であり、
この上位の存在が知能であると考えられるため、
逆の下位の存在について考えると、「活動しようとする事」によって、制御・操作される対象という事になると、
「自己」「自分自身」が相当する事になると考えられる。
つまり、定義の階層として上位から下位に向かって、
「上位の存在→定義としての内発的動機づけ→下位の存在」として考えると、
上位:
知能・上位の存在
↓
「内的要因によって個体が自発的に活動しようとする事」=内発的動機づけという定義
↓
自分・下位の存在
という事になる。
そして、
内発的動機づけは、その定義と存在において、
「内発的動機」は、実際に何かに向かう力(活力のようなもの)であるように生じるものであり、
「内発的動機」自体は定義ではなく存在であるという事になる。
つまり、定義の階層と二面性理論の考え方を用いると、
定義:(存在):定義
の二面性から、
定義:(内発的動機・存在):定義
こういうことになる。
また、内発的動機が動機として後天的だけではなく、
先天的な反応としても起こる事を考えると、
(つまり、後天的に学ばなくとも先天的に「欲求」があるので、
これに対しては先天的な定義の反応として「内発的動機」は生じると考えられる)
少なくとも内発的動機の一方の定義は、
先天的定義という事になる。
つまり、
先天的定義:(内発的動機):定義
となる。
では、もう一方の定義は何であるか?という事になるが、
先の考え方の通り「内発的動機」を挟んで上位下位に定義が存在する所を想像すると、
上位:先天的定義
↓
内発的動機・存在
↓
下位:定義
普通に考えられるのは、下位の定義として後天的定義という事になる。
ただし、後天的定義の何であるか?ということを考えると、
後天的定義から構築されるのが概感であり、概感は、
概感=変化情報+自己情報(自構性・自己モデル)
であると考えられるので、
この内のどちらが「内発的動機」の一面であるかと考えた場合、
内発的動機が自己を活動させる力であるので、
恐らく、この一面は後天的定義の自己情報(自構性・自己モデル)であると考えられる。
この場合、二面性の定義は、
先天的定義:(内発的動機):後天的定義・自己情報
という事になる。
ということであれば、先天的定義も変化情報か?自己情報か?という事になるが、
内発的動機が、何に属しているのかと考えると、
感覚器官から受容される変化に対する定義に内発的動機の定義が含まれているのか、
その受け皿となる身体性の定義に内発的動機の定義が含まれているのかという事になると、
変化情報のそれ自体に身体を活動させる定義は含まれていないと考えられるので、
であれば、先天的定義の自己情報に内発的動機を定義する情報が含まれていると考えられる。
つまり、先天的定義であるので、感覚器官から受容する変化に対して、
刺激を構成する際に、自己情報の身体性が定義として持ち出されるが、
この定義の中に、内発的動機の定義の一面が含まれているという事になる。
つまり、実際は内発的動機の定義がそのまま励起されて情報となっているわけではないが、
内発的動機の定義が、先天的定義の自己情報の身体性に対して「関連」が存在しているという事になる。
つまり、先天的定義の自己情報による身体性が構築された場合、
この自己に対して、後天的定義の自己情報側の内発的動機に対する定義の面が現れた場合、
内発的動機の定義が構成されるという事になる。
少し理解が難しいかもしれないが、
先天的定義・自己情報:(内発的動機):後天的定義・自己情報
この二面性において、
先天的定義の自己情報と、
後天的定義の自己情報は、
内発的動機の全体の定義を構成する一面ずつの定義を持っていて、
この2つの定義が揃う事で、内発的動機の定義が完成する(生じる)事になる。
少し引っかかるのは後天的定義の自己情報における内発的動機の定義であるが、
これは、後天的定義が体験や経験の定義の記憶であるという事から、
それ以前に体験や経験したことのある「過去の先天的定義の自己情報における内発的動機の定義を含む身体性」
が、経験として記憶されていて、これが後天的定義として用いられたものという事になる。
そして、最終的に、
「内発的動機づけ」により「内発的動機」が生じたと感じた場合、
知能から自分に相対する二面性で内発的動機の定義があり、
この定義において、先天的定義の自己情報と後天的定義の自己情報の間に
実際に「内発的動機」が生じると感じられる事になる。
つまり、内発的動機の定義としては、
知能が持つ先天的定義の自己情報に含まれる「内発的動機」の定義と、
その定義自体を含む自己情報の身体性を含む体験や経験において、
その記憶として内発的動機の定義が含まれている事になり、
この体験や経験の記憶の想起において、後天的定義の自己情報に含まれる内発的動機の定義が持ち出されることになる。
この場合、「内発的動機」の定義は、
先天的定義側に定義されている内発的動機の定義、
つまり本能的な活動の動機と、
記憶された過去の本能的な活動の動機の仮想的な再現の二面性を持つという事になる。
これは、その二面性の差異に「動機」が生じるきっかけがあるのではないかという事が考えられる。
つまり、本能的に持つ内発的動機の定義と、
思い出した以前用いた事のある内発的動機の定義との「差」、
この場合は、足した場合の差と引いた場合の差のどちらかという事になるが、
以前考えた「もっともらしさ」の定義が、
刺激の認識や概感の想起が連続性をもって1つの事象として完結・完了する事であると考えたが、
(参照:448:人工知能理論のまとめ8・想起による思考と創造)
この場合、内発的動機は、内発的動機の定義の足した場合の差として考えられる。
つまり、既存の内発的動機の定義に対して、足された部分の内発的動機の定義の差分に対して、
「内発的動機づけ」が行われて「内発的動機」が生じると考えられるという事になる。
これが「引いた場合の差」であるとすると、内発的動機を戻す方向に向ける必要があると考えられるためである。
つまり、現時点における自己情報の連続性において、
何らかの活動は内発的動機か外発的動機によって行われているが、
新たな動機付けについては、現在の動機の状態に対して加算される分の動機に対して、
想起の「もっともらしさ」についての連続性が継続する場合、
これが今より後の「動機付け」になるのではないかという事になる。
自分で書いておきながら私もまだ完全に理解できていないが、
定義の階層と二面性理論を用いて、内発的動機と内発的動機付け、
および、外発的動機と外発的動機づけ、さらにその両方の「動機」と「動機付け」について考えると、
このような定義となる。
また、実際に感じられる「動機」としての「内発的動機」は
知能と自分の間の定義から構築される存在であり、
内発的動機は、身体性と自構性(自己モデル)との二面性を持っているので、
実体の身体に感じられるような感覚ではなく、
身体内から湧き上がるような感覚だが、実体や形がある存在として認識はできないという事になる。
つまり、自分で感じている「動機」という事は分かるが、
形があったり、身体で感じられるような感覚のようなものではなく、
感じとして動機は理解できるが、
何か仮想的な存在として感じられる感覚という事になる。
言葉で表せば「何かこう自分が向かうべき力」のようなものという事になる。
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4:倫理的判断能力
例:「最大多数の最大幸福」と「個人の尊厳」の衝突などをどう解釈するか。
以前、人工知能における倫理について考えた事があったが、
(参照:358:人工知能における倫理の構成)
倫理的な問題には決まった答えがあるわけではなく、
自己言及の証明のように論理的に答えが出せるものではない。
その考え方は、人工知能についても同じで、
主観を排除し客観で評価したから倫理的であるという事でもない。
まず、この人工知能理論では知能にとっての主観と客観が不可分であるとも言えるし、
社会などを構成する多くの異なる主観や客観の集合体の中で、
「倫理的」である唯一の答えというのはほぼ不可能であると考えられる。
あえて仮定するなら、社会の唯一の定義を「倫理的」であると定義し、
その他大勢はそれを「倫理的」であると信用し、全ての事象において、
その唯一の定義に従う事のみが「倫理的」であると定義するしかない。
つまり、「定義の定義」が必要であるという事になる。
「定義の定義」は、定義の階層と二面性理論においては、
定義と存在の連続性の必要性から、できないことになるので、
この人工知能理論においては説明できない。
まあ、
それでもあえて、倫理的であることを「あえて」定義するなら、
倫理は定義であるので、
存在:(倫理):存在
このような二面性が成り立つ。
当然、この場合の存在と存在は、上記の通り、
個人と社会という存在にとっての定義であり、
個人:(倫理):社会
という二面性という事になる。
また、この場合、個人と社会は、倫理の定義を一面として持つ存在であるとすれば、
定義:(個人・存在):倫理
と、
定義:(社会・存在):倫理
であるなら、個人にとっての倫理と対を成す定義として考えれば、
個人の主義主張、価値観、自我のような、
個人が持つ独自の定義が割り当てられ、
社会にとっての倫理と対を成す定義として考えれば、
現代社会の方向性そのものが定義となると考えられる。
つまり、ある存在にとっての倫理と相対する定義は、
主体的と捉える事の出来る存在の独自の理論や定義という事になる。
であれば、最初の倫理の関係が成り立つには、
個人の考え方と、全体の考え方が二面性として相対して成り立つ必要があり、
普通に考えれば、それは「限りなく無理に近い」という事になる。
つまり、個人にとっての倫理と社会にとっての倫理が一致する場合にのみ、
その倫理的判断が「倫理的である」という事になる。
ただし、「限りなく無理に近い」ではあるが、「矛盾」では無いという事になる。
先に言ったように、ある個の定義が「倫理的」であると、
社会全体が定義すれば、それは共通する「倫理」である、
という事になる。
つまり、唯一の「倫理」も定義は可能ではある、という事になる。
それは、人間が個を排除して社会的を構成する人間と社会全体の倫理を一致させるか、
社会を排除して、個人の倫理を全てに徹底させるかにおいてのみ、
「倫理」が成り立つ世界という事になる。
ただし、これは人間が追い求める真理的な「倫理」ではないと考えられる。
そして、もし、人間が追い求める真理となりうる「倫理」があるとすれば、
それは「真理」の定義として自然界に存在する事象の定義という事になるので、
「倫理」自体を個体も社会も定義しては成り立たない事になる。
つまり、究極の「倫理」は人間にも社会にも定義しえない、という事になる。
まあ、それでは身も蓋もないので、
人工知能において、究極に近い「倫理」を持たせる定義を考えてみる。
ここから先はあくまで仮定の話だが。
「倫理」が成り立つのが、個と社会の倫理の定義が一致する場合と考えたので、
仮定として、ある社会的空間において、「倫理」の定義が存在し、
その社会を構成する全ての個体が、この「倫理」の定義を共有するなら、
その社会において、この「倫理」の定義は究極の「倫理」となる。
つまり、逆に考えれば「倫理」の定義を共有する個体が集まった社会においては、
「倫理」は究極的な倫理的定義として成り立つという事になる。
つまり、この社会が接しない関係にあれば、
ある異なる社会全体において個別の「倫理」が成り立ち、
それぞれの社会を構成する個体がそれぞれの「倫理」の定義を完全に共有すれば、
その社会毎の「倫理」は唯一の「倫理」となり、判断や選択の衝突自体が発生しない事になる。
この考え方は定義の階層と二面性理論における自己言及のパラドックスの構造的回避と同じ考え方、
という事になる。
そして、
見方を変えれば、人間でなくとも、
人工知能自体が各個において倫理を定義するなら、
人間の議論をそのまま引き継がせる事もできる事になる。
倫理の答えの解明の先送りにはなるが、
私の考え方の中での目標としては、これが一番良い案ではないかと考えている。
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5:クオリアと自己言及
例:「私は痛い。」という主張は、他者にとっても、論理的に真であると証明できるか?
哲学的な主体的主観性の自己言及による論理的な証明の可否。
ただし、この問題は、
論理的には「他者による論理的証明は不可能である。」という答えが出ているが、
強い人工知能に対する実装においては、不可能という答えだけではどうにもならないので、
何らかの手立てが必要になる。
つまり、その理由が原因についてもう少し詳しく考えた方が良いだという事になる。
考え方としては、自己言及には、論理的な証明に矛盾が含まれるが、
逆に言えば論理的矛盾の含まれない自己言及もあり得ない事になる。
つまり、人工知能が矛盾を含まない自己言及ができたとしたら、
それは人間が言う所の自己言及では無い事になる。
つまり、単なる記号や信号として、自己言及らしい何かであるだけという事になる。
それはクオリアについても同様で、
クオリアの中に定義としての矛盾が含まれている為、
逆に言えば、矛盾を含まないとクオリアも生じない事になる。
では、矛盾を矛盾のまま許容しつつ自己言及をそれらしいモノとして再現する方法として、
「自己言及のパラドックスの構造的回避」などを考えたが、
そこで特に重要になるのが実体の身体、という事になる。
つまり、人間が自己言及する場合、その矛盾は、実体の身体が受容した変化情報に対して、
知能が仮想的な自己(身体性)に対して変化情報を仮想的な存在として再現し、
認識や意識することになるが、これ自体は、この時点で論理的な矛盾を含む「定義の定義」
ということになっている。
つまり、実体の身体が認識や意識する刺激は、知能が仮想的に構築した時点で、
「定義の定義」に相当し、すでに論理的矛盾を内包している事になる。
つまり、二面性理論で言えば、
先天的定義・変化情報:(刺激・存在):先天的定義・自己情報(身体性)
であり、刺激は2つの定義の境界に生じる存在であり、
かつ、知能が事象再生の場において、仮想的な身体で感じた感覚の変化として構築される。
つまり、二面性理論では、定義と定義の二面性を必要とする矛盾を定義する方法とも言える事になり、
刺激については変化情報だけでもなく、自己情報(身体性)だけでもなく、
その2つの定義によって定義される存在という事になる。
そして、
例えば、定義の階層と二面性理論を用いると考えると、
自然界を主体と考えた場合、自然界の事象の定義を人間が刺激として認識する場合、
事象と刺激は人間の実体の身体を境界とした矛盾を含む「定義の定義」ということになる。
この場合は、主観を持つのは自然界という世界の存在になるが、
世界の存在は人間の刺激を証明できない事になる。
つまり、例えば可視光線のある波長が赤い色を本質的に持っているわけではなく、
この可視光線の光の定義に対して人間が刺激として赤い色の定義をしている事は、
人間が主体的に行っている定義であるという事になる。
つまり、人間は自然界を定義できるが、自然界は人間の主観を定義しているわけではない。
例えば、人間が自然界を観測し、自然界の事象の変化を変化情報として受容し、
先天的定義で刺激を構築して認識や意識する。
しかし、自然界は、人間の主観たる仮想的自己の認識や意識を証明することはできない。
つまり、例えば、
赤い花を赤いと感じるのは人間側の処理であり、
自然界としての存在の花自身は、
「自分が色を持っていて赤く見られている」ことなどは証明できない。
つまり、自然界にとっての人間のクオリアとしての「赤さ」は関与する術さえない。
要するに、主体性は常に一方通行であるというか、
人間にとって自然界は定義としての変化を与える存在で定義可能だが、
自然界にとっての人間の主観は定義不可能である、
という事になる。
これは、「主観の不可逆性」とも、「定義の不可逆性」とも言える性質である。
つまり、上位の存在の定義は下位の存在に与えられる方向にしか進まない。
下位の存在は上位から得た定義に対して主観は逆に上位に向かい、
定義は下位に常に向かう。
上位の存在→定義A→下位の存在→定義Aの解釈した定義
また、主観は、
下位の存在→定義→上位の存在(仮想体)
として構成されるが、
上位の存在(仮想体)は下位の存在の下位に位置する事になる。
つまり、自然界から視点として定義の階層を1階層下げると、
人間の実体(知能を含む)が供給する先天的定義から、
事象再生の場における仮想的自己の身体性の主観としては、
刺激の構築までは行われるが、
主観を逆転して刺激が構築されることに対する自己言及はできない。
(つまり、仮想的な上位の存在が「下位」に位置するため成り立つことが出来ない。)
だから、クオリアが感じられて実際に存在するように感じていても、
哲学的・論理的に証明が出来ない。
つまり、クオリアは、自己言及不能な構築物であり、
その存在を経験することはできるが、その構築プロセスへの主観的観測は構造的に不可能である。
そのために、クオリアの存在は主観的には確かであると言及できても、論理的には証明できない。
という事になる。
そして、
これも逆説的に言えば、
自己言及の矛盾を含んだまま、問題なく自己言及できる存在というのは、
証明はできないが、主体的な主観を持っている存在と言えるのではないか、
という事になる。
ただし、それは、客観的に言えるという事ではなく、
例えば刺激についてであれば、
明確に実体が存在し、実体が変化を情報として受容する事に対して、
自己言及可能な刺激を構築していること。
この場合、この実体を持つ存在が、この刺激に対して自己言及するなら、
その自己言及は証明できないが、認めざるを得ない、という事になる。
重要なのは、「明確に実体が存在し、実体が変化を情報として受容する事に対して、
自己言及可能な刺激を構築していること。」
そして、この発展形として、
定義の階層をもう1階層下げて、
主体的存在を、VR空間内のアバターであると仮定した場合、
このアバターがVR空間内の事象から定義を得て、
さらに下位の仮想空間内にアバター自身の仮想的自己を構成・構築するなら、
このアバターにも主体的主観の存在があると言える(ただし論理的な証明は不可)という事になる。
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今回はこの辺で。
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