2025/9/9-2025/9/15

人工知能理論・その8・想起による思考と創造(2025年9月版)

現時点までの当ホームページの、
人工知能理論における様々な考え方を一通りおさらいして、
今後の課題や新たな問題点の抽出を試みる事にする。

最初に出来るだけ簡潔にまとめ、
以降に内容の詳細を記載する。

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想起による思考と創造について:

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知能が思考したり、創造したり、創造、妄想、空想、他、
このような先天的定義に定義のない事象に対して、
後天的定義を構成される機能は、
「想起」が用いられていると考えられる。

つまり、およそ知的な活動として考えられている知能の機能は、
「想起」を元にした機能なのではないか、という事にになる。

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想起における後天的定義の構成

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想起の元となるのは「概感」であり、
「概感」を構築するための構成が後天的定義になるのだが、
基本的に後天的定義は、先天的定義を構成の要素として用い、
その「関連」と「関連」の「連続性」をもったものが後天的定義となるが、
そのほとんどの定義は、実体が体験した事象の「経験」について定義したものとなる。

もちろん、この「経験の定義」を概感として想起した場合、
「以前の自分が経験した事象」として想起されることになるが、
これが思考や創造に、どのように関係していくのかというと、
後天的定義が、先天的定義から構築された刺激や体験を元にした関連としての経験だけでなく、
後天的定義自体を元にした概感そのものの関連を後天的定義とした定義も構成しうるから、という事になる。

つまり、後天的定義は、先天的定義の関連を元に構成されるだけでなく、
後天的定義の関連を元に構成される場合もある、という事になる。

これは、実際に身体が体験できる事象ではなく、
概感に対する後天的定義であるから、
概感の自構性(自己モデル)にとっての体験を経験とする後天的定義が構成できるという事になる。

つまり、実体の自分の体験ではなく、
後天的に構成した自己モデルの体験という事になる。

この場合の後天的定義は、自らが後天的に構成した自己モデルに対して、
自己が体験した経験を、あたかも存在した事象の体験の経験であるかのように、
後天的定義を構成するという事になる。

いわば、後天的定義に対する後天的定義という事である。

この定義は、現実的な事象は存在しない。
つまり、自然界に存在できる事象ではなく、
自己モデルが、仮想的に体験した事象に対する経験の定義、という事になる。

これは、あくまで基底の定義は、先天的定義であるのだが、
その先天的定義を組み合わせて、実体が体験した経験を後天的定義として構成するだけではなく、
実際には存在しない関連の組み合わせとして、

先天的定義と先天的定義
先天的定義と後天的定義
後天的定義と後天的定義

この組み合わせで、後天的定義を構成できるという事になる。

そして、ここから思考や創造が生じるのは、
つまり、実際に存在しない事象を、後天的定義と後天的定義を関連させて定義を構成し、
それを概感として想起する機能となるから、という事になる。

つまり、体験の経験を、新たな事象として構成し直して概感を構築し想起する事や、
実際に存在する事象の経験の定義らを関連させ、異なる定義を構成する事、
実際に存在しない事象の定義らを関連させ、別の存在しない定義を構成する事もできる事になる。

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想起の「思い出し」と「創発」の違いにおける自己(身体性・自構性)との関係

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きっかけと目的のもっともらしさを成型するために利用する制限の違い。

これに自己が関係しているという事になる。

一般的には、

「思い出し」は、
きっかけの刺激・概感に対して、関連して励起される情報塊に、
既に実際に体験し経験を記憶している定義から構築できる事象が、
直接もっともらしい対象の概感として想起される事。

「創発」は、
きっかけの刺激・概感に対して、関連して励起される情報塊に、
既存の経験の記憶には定義が存在せず、
この情報塊の定義そのものが体験の経験となる場合、
この定義から構築できる事象が、
創発のもっともらしい対象の概感として構築され、想起される事。

という事だが、

この違いは、
既に経験として定義が記憶されている事象か、
今回新たに定義の関連が生じた事象か、
この事象の定義、特に変化情報に対して、
これを自己情報の「身体性・自構性(自己モデル)」と関連することが出来るかどうかによって異なる。

つまり、既に自己の身体性や自構性と関連のある変化情報の定義であるか、
自己の身体性や自構性と関連の無かった変化情報の定義であるかによって異なるという事になる。

つまり、思い出し」は、
既に「変化情報+自己情報」という定義の構成が完成して記憶されており、
この「変化情報+自己情報」の定義から、そのまま概感とする事が「思い出し」という事になる。

一方で「創発」は、
あるきっかけの刺激か概感に対する新たな関連が変化情報として構成された場合に、
この変化情報に関連する自己情報がまだ未定義で、
新たに身体性または自構性(自己モデル)と関連させて、
新たな「変化情報+自己情報」を構成し、概感を構築する事になる場合に「創発」となる、
という事になる。

つまり、「創発」した事象を次に想起する場合は「思い出し」になる。
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以下は「想起による思考と創造」の内容の詳細や疑問の解説。


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解説:想起が思考や創造として用いることが出来るという事とは?

これまでの考え方から言えば、
「想起」は、後天的定義から概感を構成し、
その構成から事象再生の場で「変化情報+自己情報(自己モデル)」として構築した場合に、
知能から観測対象となることで「想起」に至る。
という事だが、
この場合の概感は、過去に自分が体験した事象についての経験としての記憶であり、
概感の想起として感じられるのは、「以前に自分であった時の体験」のようなものであると以前説明した。

つまり、この場合の想起した概感自体は、
何らかのきっかけ(刺激か概感)を元に、経験として記憶された関連の後天的定義から構成された、
概感(「変化情報+自己情報(自構性)」)という事になる。

言い換えれば、きっかけとして認識や想起した対象に関連した、
別の想起対象となる概感になるのだが、
これは、過去に実際に体験した経験の記憶であるため、
思考や創造などにおける定義の新規性のようなものは無いと考えられるが、
きっかけ次第では、この概感を構成する後天的定義は、
定義の新規性を持つ事が考えられる。


理由として考えられるのは、

1:後天的定義が明確な関連の定義でなくても記憶できるという事。

→後天的定義自体は、その構成要素としては「先天的定義」とその「関連」を定義として構成されており、
先天的定義は明確だが、「関連」自体はそもそも明確でない場合もある。
例えば、「+」という記号が、数学において左右に配置された数字を足し合わせると知らなくとも、
「+」自体は、自分がその形だけを見た体験の経験として記憶できるという事。

2:後天的定義自体が後天的に可塑性を持つという事。

→「+」の例で言えば、「+」が単なる形を表す形状だけの記憶から、
数学を学んだり、工具を学べば、「和算」の記号であったり、「+ドライバー」の形状であったりと、
後から定義を更新できる。
この事は、後天的定義の可塑性は、
単に変化情報の可塑性ということだけでなく、
自己モデルの可塑性でもあるという事も言える。

3:思考や創造がハルシネーションの可能性でもあるという事。

→自然界における現象や事象として本来の定義と合致した正しい定義だけでなく、
もし、後天的定義が本来の事象の定義と異なる定義として用いられた場合でも、
知能は難なく、その後天的定義から構築した概感を想起できるという事。
つまり、思い間違いだろうが、幻想、幻覚だろうが、
知能はその概感を想起すれば、意識できるという事になる。

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刺激などをきっかけとして想起する場合は、
過去の同様の刺激に対して記憶している体験や経験が想起候補となり、
例えば、次の瞬間に起こる「予感や予想」のような形で、
実際に自己モデルに関連する最もらしい概感が、
自分が想起することになると考えられ、
このきっかけの刺激が概感に置き換わった場合に、
自己モデルが最もらしい対象として想起する概感が思考や創造となる事が考えられる。

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疑問:もともと人間の知能は未定義の事象を確定されないまま記憶することが出来るので、
後の関連の発現により、意味のある創発につながるのではないか?


答え:後天的定義がもともと定義としてではなく、関連の定義であるなら、
最初から意味ある定義でない場合もありうる。

ただし、この関連に対して、後に意味のある定義が関連するなら、
後の意味のある定義として構成される可能性はあると言える。

定義が単にノイズであるか、創発であるかの違いは、
ノイズと創発の違いは別の定義と関連出来るかどうかという事になる。
例えばその事象に対して命名できるとか、別の計算で用いることが出来るなど。

つまり、言葉で命名できるなら、それはノイズではなく、
既に事象としての定義はでき始めている事になる。

逆に言えば、定義ができても、
それに何ら関連できる他の定義が無ければ、
それは単なるノイズという事になる。
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疑問:先天的定義は単体で定義として成り立つが、
後天的定義は単体で成り立つ可能性はあるか?


答え:定義が単体で成り立つのは先天的定義としてはあり得るが、
後天的定義としてはあり得ない。
つまり、
後天的定義は最終的に先天的定義の定義を必要とするからで、
定義の関連性だけが何が意味を持つという事にはならない。

ただし、定義の完成前に一部だけが定義として意味を持つ可能性はある。
後天的定義の関連だけが単体の定義であるなら、
それは事象としては、まだ未定義ということになるが、
一部が先天的定義に関連していれば、疑問や問題点として、
概感は構築できると考えられる。
これについては後述する。

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2025/9/14

疑問:想起対象の概感の「もっともらしさ」とは?

知能が自分の知能の思考などにおいて、
想起対象の概感がどのように構成、構築、選択されているのか、
それらが自分にとって、
どのように「もっともらしくある」のか考えてみた。

私の脳内で思考実験を行った結果としては、
「想起の連続性と自己情報との関連が重要」
という事が分かった。

想起の連続性が継続する場合、
この想起の際の概感は関連を持ち、連続性を持っている。
この場合は、この概感は自分にとって「もっともらしい」想起となる。


「注意:現時点で、まだこの概念については、私の中でも定義が決まっておらず、
以下の文章において表現がかなり抽象的な表現になっているのはご理解ください。
定義が無いので表現や明記が難しいのです。」


つまり、概感の関連が、想起毎に継続され、
自己情報の連続性と相まって、すらすらと想起が継続する事になる。
この場合、想起による意識も連続性を持ち、
この場合、この連続した想起は、連続した意識であり、
すんなり想起された概感の関連の連続性を持っている事になる。

この時、意識では、この概感、想起、意識の連続性において、
「もっともらしい」つまり、自然な連続性で想起できた事になる。
この時、意識では自己の連続性も同期しているわけであり、
自分にとって「もっともらしい」想起であると感じ、
疑問などの余地が無い事になる。

逆に、ある想起において、疑問が生じるのは、
この概感、想起、意識の連続性において、
関連が断絶する事により、連続性が失われ、
想起の連続性が停止する事により、
同期している自己の連続性も停止し、
想起による意識の連続性も停止する事になる。
この時、知能においては自然な連続性に至らず、
「何だろう?」という事になる。

つまり、すらすらと想起が進む場合に比べて、
関連する事象の定義が明確でない為に、
想起に至る概感が事象再生の場で明確に構築できないため、
想起が止まってしまう事になり、
この想起の停止が、明確でない概感の連続性であり、
つまり、この連続性が停止する時点での自構性との関連した概感が、
「何だろう?」という「疑問」として意識されるのではないか、という事になる。

つまり、「もっともらしくない」概感の想起は、
概感、想起、意識、自己情報の連続性が止まる事であり、
「もっともらしい」概感の想起は、
この連続性がある完結する定義としてまとまっている場合なのではないか?という事になる。

つまり、自分にとって「もっともらしい」という感じが完成する為には、
概感(「概感=変化情報+自己情報(自構性)」)の連続性における自己情報との連続性が必要になる。
つまり、そもそも意識する自己情報が明確でなければ、
自分が「もっともらしい」と感じる事はできない。

であれば、「もっともらしい」事象を概感として想起するなら、
当然自己情報の連続性はあってしかり、という事になる。

もちろん、概感が構築されるなら、変化情報もあり、
それぞれ連続性が生じるためには変化情報の関連としての連続性も必要になる。

で、ここで変化情報か自己情報に連続性が生じ無くなった場合について考えた時に、
「あれ?この場合は想起が続かないのではないか。」と気づいた。
この事自体に気付いた時の連続性は、ここで完結しているが、
疑問であった「連続性」については、ここから先の思考や想起が停止した事になる。

表現が難しいが、
先行していた疑問1「変化情報と自己情報の連続性が生じ無くなった場合について」は、
ここから先の想起ができず止まった事になる。
後発の疑問2「変化情報と自己情報の連続性が生じ無くなった場合の結果」は、
ここで気づきとして「この場合は想起が続かない」という結論に達して定義が完成した事になる。

まあ、もう少し簡単に言えば、
自分の知能内である事象に対して説明が出来なくなった時、
この連続性は経験として未完成な連続性の体験という経験になり、
その経験の記憶は「未定義の事象」という事になる。
この「未定義の事象」は後天的定義の関連の連続性が、
変化情報または自己情報に対して、どちらか、または両方の関連先が無く、
まだ事象として完結していない事になる。
つまり、後天的定義として完成していない。

この場合の「定義の完成」の定義は、
その事象の定義が、事象として客観的に正しくても間違っていても構わないが、
主観的な自己情報として、知能が持つ先天的定義で全ての定義の末端の関連付けが出来た時に、
この後天的定義が完成した事になる。
つまり、少なくとも知能における先天的定義で、
事象の定義の関連付けが、これ以上できない状態になったとき、
この「事象の定義」は、「この知能の現状において」「完成した定義」という事になる。

つまり、先天的定義は、先天的に持ち既にこれ以上分ける事の出来ない定義として完成している。
後天的定義は、後天的に定義するものであるが、
この定義は、先天的定義をその定義の末端で利用する事になる。
そして、後天的定義の関連が、その時点において、関連の末端が先天的定義で関連付いた時、
この割合において自分にとっての事象の定義の「もっともらしさ」の程度が決まるのではないか、
という事になる。

つまり、後天的定義の関連先が全て先天的定義で関連付いていれば、完全に「納得」できる事象であり、
一部、もしくはその全体の関連がまだ未定義、関連付いていなければ、「疑問」な事象になるのではないか、
という事である。



現代科学において、「もっともらしさ」の定義などはあまり無いと思うが、
今回自分の脳内で何を「もっともらしい」と感じたり意識できるかと思考した時に、
何かが分からない時には必ず想起が止まるような感覚を意識した。
そこから発想してこの考えに至ったわけだが、
これについては現時点ではまだ明確な答えは無い。

つまり、例えば会話において言葉がすらすら出てくるときは、
自分らしく「もっともらしい」わけであり、
言葉に詰まるということは、この時点で想起が断絶している事になる。

そして、話している事が、真実であるか、嘘であるか、正義か悪か、
そういったことは別に「もっともらしさ」とは関係ないということになる。

極端な言い方をすれば、ある瞬間に悪い事が自然に思いつくなら、
それは自分にとっての「もっともらしい」発想であるとも言える事になる。
実際にそれを「実行」するかどうかはまた別の問題になるが、
であれば、「実行する」という自分にとっての「もっともらしさ」も、
知能内のどこかに定義として存在するということになる。

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実例:実行の選択ともっともらしさ

例えば、私自身を実験台として考え、
今尿意を感じているのだが、トイレに行くか、このまま思考を継続するかという選択において、
今は思考を優先しているのは「思考の実行」を自分にとっての「もっともらしさ」として自分らしい連続性として、
決定しているからという事になる。

この場合、「実行する」「もっともらしさ」というのは、
物理的な実体の身体を活動させる事と、仮想的な自己の思考を継続する事になります。
恐らく、実体の身体を活動させる事は、運動におけるかなり綿密な準備と定義が必要になり、
想起のようなものより実行の難易度は非常に高い事になります。

ただ、もし、尿意が切羽詰まっていたら、その身体刺激の認識に対する想起は、
恐らく思考の優先より強度が強く、自分にとっての「もっともらしさ」はトイレ行きに傾くと考えられる。

ということは、「実行」の「もっともらしさ」は、
きっかけの刺激または概感から想起される情報としての強さによって決まると言える。
つまり、反射などを除いて、意識的に選択する・選択していると感じている「実行」は、
想起の情報の強さが指標になっていると考えられる。

子供が何かに集中していてトイレに間に合わなかった、というような事が起こるのは、
この情報の想起が上手くいかなかったことになる。

大人は同じ場合、想起される状態の悪化を知っている、想起できるので、
ある程度の段階でトイレに行く想起が出来る、という事になる。

話を戻して、この事を
「後天的定義の関連先が全て先天的定義で関連付いていれば、完全に「納得」できる事象であり、
一部、もしくはその全体の関連がまだ未定義、関連付いていなければ、「疑問」な事象になる」
事に当てはめてみると、

もし、知能が「尿意」という刺激に対して関連する後天的定義が存在しなければ、
身体的に「尿意」は刺激として感じるが、それに対して「なんでだろう?」くらいにしか想起できない事になる。
それがこの場合の自分にとっての「もっともらしさ」という事になる。
つまり、赤ん坊などは、この状態に対して単に「排尿」という「実行」が結果付くことになる。

それに対して「実行」の結果は別にして、
私が行動と思考のどちらを「納得」できる事象として想起するかについては、
身体刺激に対して実際に実体を行動させる事と、
現在の連続性を持つ状態の維持としての思考する事の、
どちらを「納得」できる事象として想起したかについては上記の通りだが、
どちらも想起対象としては「納得」できているはずである。
ただ、異なるのは、想起対象とした時の情報の強さで、
この「強さ」の要素について考えると、
刺激の場合は感覚器官の受容体の励起なので分かりやすいが、
概感の想起の場合の情報の「強さ」という事になると、
尿意の場合、継続した身体刺激があり、
都度、それに対する「実行(トイレ行き)の反応」の想起と、
それにまた対してより優位な「思考の継続」の想起が続くことになる。

この場合、現在の私において「実行の反応」と「思考の継続」は、
どちらも「疑問」ではなく、「納得」できる事象という事になる。
つまり、どちらも定義としては完成しており、
「実行」の結果は、単に想起した情報の強さの比較に過ぎない事になる。

ただし、この比較は自己情報の定義に基づく比較であるという事は言える。
つまり、
身体の状態変化としての尿意の情報の強さと、
思考する目的に対する欲求や好奇心としての情報の強さは、
私の自己情報の定義によってその比較の基準が決まっている事になる。
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気付き:思考や創造の本質について

つまり、問題なのは、
「納得」できていない事象に対する実行や選択や反応という事になり、
この「納得」できていない事象に対する「実行や選択や反応」が重要という事になる。

つまり、自分にとって「もっともらしく」「納得できない事象」に対して反応する事を「実行」する事。
という事である。

思考や創造という事であれば、もともと目的のようなものは存在して関連しているはずである。

要するに関連を延長させるために思考や創造しているとも言える。

これを「気づき」とすれば、
定義の関連の延長こそが「思考や創造」と言える。

つまり、想起の断絶が「疑問」の発生であるなら、
想起の連続性を延長しようとする事は「疑問」の解決でもある、という事になる。

つまり、「思考や創造」は、
ある連続性を持つ定義の関連を延長する事なのではないか?
という事になる。

そして、これらの関連の連続性が最終的に先天的定義への関連として定義できた時、
それはこの「思考や創造」の自分にとっての明確な「解答」になるのではないか、
という事になる。

さらに逆に言えば、明確な「解答」が定義された場合、
後天的定義が可塑性を持つために、さらに後に変更も可能だが、
この事象についての明確な連続性として完成しているため、
この想起が優先されて、後の変更は非常に困難であるという事になる。

つまり、一度決めた決心や決断、信仰や信条などは、
後から変更が難しいという事になる。
それは「もっともらしい」自分の定義「自己情報(自構性・自己モデル)」の変更でもあるからというわけである。
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例えば、鳥と機械を合わせて飛行機を創造するのにおいても、
自分が納得する形で飛行機を作り出す事が創造だということになる。

つまり、鳥を見て飛ぶことのできる生命であると納得した時点で、
まず鳥については納得できている。
機械で何かを再現することについてもギアやモーターなどがあることは納得できている。
では、鳥の運動が機械で再現できるなら、飛ぶ機械も想像できるが、
最初は定義(飛行機など)が決まっていないので疑問だけが生じる。
ではこの疑問を解決するためには、ということになると、
思考において、自分が納得できるもっともらしい形(飛行機など)を創造していくことになる。

ということは、突飛な創造も、基本的には何らかの前提の定義は存在していて、
あくまでその定義の組み合わせとして誰も想起した事の無いような組み合わせに対して、
自分なりのもっともらしさの定義が出来た時に、突飛な創造が出来た、という事になる。

今回の「気づき」も含めてということになるが、
私の中で何らかの前提定義は存在し、
その定義の連続性の延長として、自分にとっての「もっともらしさ」が、
この気づきの定義として繋がった、という事になる。
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2025/9/15

解説:刺激の認識と概感の想起の詳しい連続性とは?

後天的定義は、最も単純な構成で言えば、
刺激を受けた体験の経験を定義づけて記憶したものと言える。

まず、前提として

刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性)

であり、変化情報と自己情報の意味付けは

先天的定義→刺激の意味付け
後天的定義→概感の意味付け

このようになる。

また、後天的定義は関連のみは後天的に独自に定義されるが、
その関連の末端には先天的定義が関連付いている事になる。

簡単に書けば、

後天的定義

関連→先天的定義(変化情報や自己情報)

関連→先天的定義(変化情報や自己情報)

関連→先天的定義(変化情報や自己情報)

先天的定義(変化情報や自己情報)

この様になり、これに含まれる「関連」と「関連」のつながりが、
後天的定義の関連とその連続性という事になる。

さらにあえて説明を付け加えると、
刺激の連続性から認識の連続性、
概感の連続性から想起の連続性、
この認識または想起の連続性が、意識の連続性となる。


例えば、まず「赤いリンゴ」をまだ見た事が無いとして、
初めて「赤いリンゴ」を見た「刺激の認識」における体験として、
仮に1秒の連続性とした場合の経験からは、

きっかけの定義(=視覚による画像)
↓←関連と連続性
果実本体→形状→色→赤
↓←関連と連続性
葉→形状→色→緑
↓←関連と連続性
軸→形状→色→茶
↓←関連と連続性
終端

刺激の認識の区切り:ここまで1秒

仮に、このようなものだとすると、
視覚によって受容した画像に対して、
コントラストから切り出したリンゴの形状に対して、
もっとも強い情報として果実部の形状が丸い形が抜き出され、
錯体細胞から色が赤いと関連付き、果実本体が定義で構成され、
付属する葉や軸に対して同じ様に形状や色などが関連付くが、
これが定義の連続性として構成されることになる。

また、刺激の認識においては、

刺激=変化情報+自己情報(身体性)

であり、
この場合の変化情報が「赤いリンゴ」の定義に相当し、
自己情報(身体性)は、身体の視覚における「目」の部位に、
画像を張り付けられることになる。

結果、刺激は、その「変化情報+自己情報」を、
事象再生の場で、仮想的な身体として構築した場合、
知能はこの仮想的な身体を観測する事によって、
自己の身体の目に画像が見えて、
その画像の中ににおいて赤いリンゴがあり、
その画像の中の赤いリンゴを認識できる(と感じる→意識)、という事になる。

そして、この刺激を認識した時の定義の関連と連続性が、記憶されると後天的定義となる。
そして、次にこの後天的定義を概感として想起(思い出し)する場合、

きっかけの定義(=視覚による画像)
↓←関連と連続性
果実本体→形状→色→赤
↓←関連と連続性
葉→形状→色→緑
↓←関連と連続性
軸→形状→色→茶
↓←関連と連続性
終端

概感の構成

事象再生の場

「概感の構築=想起」:恐らく1秒より非常に短い時間

この概感の想起においては、
以前の「赤いリンゴを見た事」のある自分を、
仮想的な実体の身体性ではなく、
仮想的で実体は無い自構性(自己モデル)として想起する(と感じる→意識)事になる。

実際は恐らくもっと複雑で多くの刺激や定義が関連しているはずだが、
できるだけ簡単に書けばこのようになる。

実際の「思い出し」は、「赤いリンゴ」を見て「過去の赤いリンゴを見た自分」を思い出す事もあるが、
単独の「赤い色」だけから「赤いリンゴ」を思い出すような場合もあり、
この場合、後天的定義における存在や事象が関連として末端に先天的定義の「赤い色」を接続として持つ場合、
「赤い色」の定義の励起に対して、後天的定義の関連によって、
「きっかけの定義」から接続される関連の連続性が異なる事が考えられる。

つまり、体験の経験として「過去の赤いリンゴを見た自分」を思い出す場合、
「過去の赤いリンゴを見た自分」を概感とする事の出来る構成の、
関連の連続性の「きっかけの定義」に繋がっているのではなく、
それとは異なる、
「単独の赤いリンゴ」だけを概感とする事の出来る「きっかけの定義」の開始地点があると考えられる。

つまり、「過去の赤いリンゴを見た自分」を概感として想起する場合、
この場合は「きっかけの定義」の条件は複数存在し、それらが同時~ほぼ同時に励起される必要がある、
という事になる。
そして、もし「きっかけの定義」の組み合わせが異なる場合、
別の関連の連続性へ進むことになる、という事になる。
当然、この場合は異なる概感が構成され、想起される情報も異なる。
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今回はこの辺で。

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