2025/8/19-2025/8/26
人工知能理論・その4・後天的定義(2025年8月版)
現時点までの当ホームページの、
人工知能理論における様々な考え方を一通りおさらいして、
今後の課題や新たな問題点の抽出を試みる事にする。
最初に出来るだけ簡潔にまとめ、
以降に内容の詳細を記載する。
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後天的定義について:
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後天的定義は、
知能にとっての先天的定義が、
「生命が感覚器官の受容体で受容する身体内外の変化の情報に対して、
刺激を構成する変化情報と自己情報を構築する場合に用いられる定義」である場合、
この定義に存在しない身体内外の変化に対して、
後天的に変化情報と自己情報を定義したものである。
つまり、先天的定義が変化や自己の基本的な定義であるとすれば、
後天的定義は、後天的に生じる未定義の変化や自己に対して、
先天的定義を組み合わせ、新たなパターンとして構成した定義である、
という事になる。
先天的定義の項でも書いたが、
後天的定義は以下のような構成となる。
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生命の誕生時に先天的定義は既に完成した状態で脳内に展開されているが、
後天的な体験による経験は、全て後天的定義となる。
この時、後天的定義を構成する基礎となる定義が先天的定義であり、
後天的な体験の経験は、先天的定義の組み合わせを元に構成されることになる。
刺激←先天的定義
↓
体験
↓
経験←後天的定義
となるが、この後天的定義は、初期の定義は基本的に、
後天的定義=先天的定義+先天的定義+先天的定義+・・・
このような定義となる。
後に、後天的定義は、以下のような3つのパターン構成となる。
後天的定義=2つ以上の先天的定義
後天的定義=1つ以上の先天的定義+1つ以上の後天的定義
後天的定義=2つ以上の後天的定義
ただし、いずれも変化情報と自己情報のの1つ以上を含む。
そして、後天的定義は、細分化すればその基底の定義は先天的定義という事になる。
そして、後天的定義で重要なのは、その定義の関連のパターン自体に意味が生じるという事になる。
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後天的定義の関連のパターンには、順序などの意味も含まれる事になる。
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以下は「後天的定義」の内容の詳細や疑問の解説。
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疑問:後天的定義はどのようにして構成されるか?
現時点では、刺激などの先天的定義から構築される情報に対する、
認識としての連続性に対して、後天的定義は構成されると考えている。
つまり、刺激を事象再生の場で仮想的に構築し、認識されるようになるが、
この刺激の認識の連続性に対して後天的定義が構成されるというわけである。
認識の連続性は意識であるとも考えたが、
この認識における刺激の連続性というのは、
自己が理解・把握できる世界や変化の連続性という事でもある。
つまり、後天的定義は、先天的定義のような変化の瞬間を情報とするものではなく、
これらを関連した、ある連続性を持つ情報という事になる。
疑問の答えとすれば、
後天的定義は、自己が体験した刺激の連続性に対して、
その連続性を関連の連続性で構成した定義という事になる。
つまり、基本的な構成で言えば、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
概感=変化情報+自己情報(自構性)
であり、初めて受容した刺激が、
先天的定義1→刺激1(身体性)
先天的定義2→刺激2(身体性)
先天的定義3→刺激3(身体性)
先天的定義4→刺激4(身体性)
刺激=刺激1→刺激2→刺激3→刺激4
という連続性であり、その構成が、
刺激=刺激1(身体性)+刺激2(身体性)+刺激3(身体性)+刺激4(身体性)
このような場合、この定義の連続性において、
先天的定義1→関連A→先天的定義2→関連B→先天的定義3→関連C→先天的定義4
このような関連が構成されると考えられる。
そして、
この関連が生じる機構がこの疑問の答えの鍵になると考えられるが、
正直に言って、この考え方はまだ個人的な予想や想像の域を超えていないが、
恐らくまず、短期記憶の機能として、このような刺激の連続性に対して、
連続的に刺激を認識するような構成になっているのではないかと考えられ、
この関連が後天的定義として長期記憶に変換されるのではないかと考えられる。
つまり、短期記憶の機能として、励起の順番を、その順番通りに保持できる機能を、
先天的に持っていて、その順番を後天的に「関連」に変換できるのではないかと考えている。
つまり、順番を変化情報の受容の都度、記憶しているのではなく、
受容する情報の受け皿の方に、順番通りに受けられる用意ができているのではないかと考えている。
短期記憶=「変化情報1」→「変化情報2」→「変化情報3」→「変化情報4」→「変化情報5」→・・・
この上限などがマジカルナンバーなどの要素の数になるのではないかと考えている。
そして、上記のように変化情報の受け皿の順序は既に構築されていて、
次々と刺激として構成される変化情報の順序が決まり、
刺激の連続性に置き換えられていく。
認識=刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→・・・
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この場合、後天的定義は、上記の、刺激の連続性の定義が以下のような場合、
刺激=刺激1→刺激2→刺激3→刺激4
刺激=刺激1(身体性)+刺激2(身体性)+刺激3(身体性)+刺激4(身体性)
先天的定義1→関連A→先天的定義2→関連B→先天的定義3→関連C→先天的定義4
において、後天的定義は、
後天的定義=関連A→関連B→関連C
このような関連の連続性で構成されることになる。
この場合、先天的定義1が概感を構成するきっかけとなり、
関連Aから先天的定義2が、
関連Bから先天的定義3が、
関連Cから先天的定義4が励起され、
概感の定義=関連A→関連B→関連C
概感の情報の連続性=先天的定義1→先天的定義2→先天的定義3→先天的定義4
という励起の連続性として概感の定義が構成され、
概感の自己情報は、刺激のような身体性ではなく、概感の自構性であるため、
概感=概感1(自構性)+概感2(自構性)+概感3(自構性)+概感4(自構性)
このような構成で構築され、
想起=概感1→概感2→概感3→概感4
このような想起となるというわけである。
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疑問:後天的定義を作る意味とは?
例えば、通勤や通学の道順があり、
この道順に沿って歩いていたとすると、
道順に沿って受容する周囲の環境に対して、
後天的定義によって概感が想起された場合に、
この受容している刺激の連続性と比較し、
一致またはそれに近い情報の差しか生じなかった場合、
この道順に沿って歩く事に、「問題」が起こっていないという認識になるはずである。
つまり、道順に沿って歩く事に対して、
正確な対応が出来ている認識という事になる。
そして、この場合、新たに生じる疑問点は「目的」である。
つまり、同じ道を何度も行きたいのに、
後天的定義ができないとすると、
都度、道順を試す必要が出てくる。
つまり、後天的定義には何かしらの「目的」が含まれるべきである事が予想できる。
覚える必要がなければ、生命にとっては先天的定義であっても十分対応可能であるし、
後天的定義を作る意味が無い。
であれば、後天的定義を作る意味というのは、
何かしら自己が体験する状況や状態に対して、
保持する必要性のようなものが生じる。
これが「目的」ではないか、という事になる。
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疑問:目的の定義とは?
では、目的というのは何であるのか?
どのような定義であるのか?という事になるが、
目的は事象などの存在でない事を考えると、
目的は定義であるという事になる。
つまり、定義の階層と、二面性において、目的は、
存在A(存在)→目的(定義)→存在B(存在)
存在A:(目的):存在B
であると考えられる。
目的の定義を作り出す存在と言えば、
知能であると考えられるので、
まず存在Aは知能であると言える。
つまり、
知能(存在)→目的(定義)→存在B(存在)
知能:(目的):存在B
という事になる。
では、目的の定義から作られる存在は何であるかと言えば、
目的に対する事象や実体のような存在であるわけだから、
恐らくこれは目的を持つ仮想的な存在、
つまり、仮想的な自己、概感の「自己情報(自構性)」における自己モデルという事になる。
つまり、
知能(存在)→目的(定義)→自構性・概感の自己モデル(存在)
知能:(目的):自構性・概感の自己モデル
という事になる。
つまり、目的の定義というのは、
目的が後天的な定義として用意する必要があり、
それが概感の自己モデルに面しているなら、
それは、知能が目的を達成する自己モデルとして作り出す定義なのではないかと考えた。
つまり、やや漠然とした言い方になるが、
目的は到達する為の自己が向かう方向性なのではなく、
目的は自己が目的を達したゴールを定義したものではないか、
という事になる。
つまり、目的は、
道順を示す道標ではなく、
最終目的地に自分がいる姿の定義なのではないか、
という事になる。
まあ、この場合「目的」という言葉ではなく、
何か別の用語で定義した方が良い事になる。
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疑問:目的の基底にあるものとは?
これまで考えた内容からすれば、
ズバリ、「欲求」ではないかと考えられるが、
(欲求については「431:欲求の本質と二面性」で詳しく書いている。)
今回考えた上での「欲求」なる定義は、
かなり漠然としていて、もう少し詳細に考え直すと、
その基底にある定義は、先天的定義であり、
かなり以前に考えた事のある表現としての「生きざるを得ない制限」なのではないかと思った。
つまり、
「欲求」は分類の定義としては十分な意味を持つのだが、
もう少し詳細に考えると、1つ1つの欲求はそれぞれ少しづつ意味が異なり、
もう少し根底にある定義を考えると、
それは、
生命としての身体の状態に関わる変化に対する対応の必要性が、
欲求となり、目的になるのではいかと考えた。
つまり、
上記の目的の定義の階層を借りるなら、
知能(存在)→目的(定義)→自構性・自己モデル(存在)→
→欲求(定義)→存在A→自己の変化(定義)→存在B
この様になる。
つまり、自構性・自己モデル(存在)は、目的(定義)に対しての二面性
「定義:(存在):定義」として、
目的:(自構性・自己モデル):欲求
このような二面性を持つ。
目的と欲求が自己モデルに対して二面性を持つというわけである。
また、
自構性・自己モデル(存在)→欲求(定義)→存在A(存在)
という定義の階層においては、存在Aという何らかの存在、
つまり上記で説明した、目的のゴール地点の自己が、
この存在Aなのではないかと考えられる。
そして、欲求(定義)に対する「目的のゴール地点の自己(存在)」からは、
欲求:(目的のゴール地点の自己):自己の変化(定義)
という二面性、これは、
欲求という「指向性のような力(定義)」に対する
「自己の到達地点の姿(存在)」におけるまでの「自己の変化(定義)」
という二面性ではないかと考えられ、
最終的に、
「自己の変化(定義)」に対する二面性は、
自己の到達地点の姿:(自己の変化):存在B
となり、この存在Bは、
自己の起点となる自己の姿、自己モデル、という事になる。
ただし、この自己の起点となる自己の姿の自己モデルというのは、
仮想的に構成されるものではあるが、より根底の定義としての、
「生きざるを得ない制限」を持つ生命としての姿ではないかと考えられる。
つまり、自己の到達地点の姿は知能が想起によって構成するものであるが、
この自己の変化を挟んだ向こう側の面は、より生命の個体としての本質的な姿なのではないかと考えられる。
つまり、知能を挟んで、二面性を構成するなら、自然界の生命の存在に対する定義を一面とした場合の、
生命の知能が独自に解釈した生命の根底に関わる定義になるのではないか、という事である。
二面性で表せば、
自然界の生命の存在の定義:(知能):知能が解釈した自然界の生命の存在の定義
このような関係である。
言い換えれば、自然界の生命の存在意義を、知能が解釈し、
知能が構築する仮想的に自己において、その知能における仮想的な自己の存在意義における、
変化に対する反応、つまり、知能が選択する反応がこの目的や欲求として現れているのではないか、
という事になる。
私が考えられる範囲でやや無理やりに定義してみたが、
このような定義が実際に知能内に保有されているわけではないとは思っている。
恐らく、目的の自己の到達地点の姿のような存在までは定義されていて、
事象再生の場で自己モデルに含まれて再現されると考えられるが、
「知能が解釈した自然界の生命の存在の定義」は、
生命が存在する事自体の解釈の定義であり、生命自身、知能自身が明示的に持つ必要性はないと思われる。
つまり、生命として存在していること自体で、
生命の定義の階層においては、自己の変化が開始地点であり、
それより下位の定義や存在を考える必要は本来無いと思われる。
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疑問:それで、結局、後天的定義の作る意味は?
後天的定義には何かしらの「目的」が含まれるべきであるなら、
この目的は、自己モデルに対して、「まだ未達成であるべきこと」という事になる。
つまり、自己の反応(適応)が決まっていない事象に対して、
定義を決定する事、
これが後天的定義の作る意味という事になる。
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2025/8/24
気付き:後天的定義は自己情報に収束するという事
今日気づいたのだが、
後天的定義というのは、刺激などの先天的定義を情報の要素として、
身体性に対して関連付いた情報を、さらに集めて関連させた情報となるのだが、
この場合、先天的定義を要素の末端と考えた場合、
後天的定義は、自構性としての自己モデルとして、
その関連が構成されるという事になる。
つまり、自己モデルを構成する要素として後天的定義が構成されるのだが、
この場合の自己モデルは、変化情報として刺激を元にする、
「変化情報+自己情報」を末端の要素とした場合、
その情報を集約させ、これに自構性の自己モデルを関連させて、
「変化情報+自己情報」としているという事になる。
つまり、先天的定義による刺激は、
刺激=変化情報+自己情報(身体性)
であり、後天的定義による概感は、
概感=変化情報+自己情報(自構性)
であるが、概感における変化情報は、
概感の変化情報=関連する刺激の変化情報+関連する刺激の変化情報+関連する刺激の変化情報+・・・
であり、概感における自己情報は、
概感の変化情報=関連する刺激の自己情報+関連する刺激の自己情報+関連する刺激の自己情報+・・・
なのではないか、という事になる。
つまり、後天的定義の変化情報も自己情報も、
完全に関連して1つの情報になったり、
完全に連続性を持って1つの連続性となっているというわけではなく、
あくまで定義の要素として関連を持つに留まっているのではないか、という事になる。
要するに、後天的定義の概感として構築した場合、
この概感の想起においては、
同じ瞬間に同時に存在するとは意識できるが、
ある場面として同時に存在し連続して存在している様に感じられるが、
1つの情報としてまとまっているほどにはなっていない、という事である。
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これに気付いた経緯は、以下の通りで、
少し明記が難しいので、経緯を思い出したまま書き出すことにする。
Eテレの将棋フォーカスを見ていて、
福沢諭吉と渋沢栄一が将棋で対戦した記録があり、
この勝負は渋沢栄一が勝ったという事なのだが、
この勝負の結果を私が覚えて、思い出そうとした時、
どのような後天的定義を定義しているのかと考えた時、
短期記憶でこのTV番組中の映像の連続性において、
この人物名や将棋、勝負、結果、などを関連させているという事、
これを思い出そうとした時、
TVの放送内容の画像がそのまま再生されるような形で再生されているので、
この映像の画像の連続性のような形で定義して覚えているという事、
そして、この事を覚えるということは、
自分自身に関連した形で記憶しているという事、
つまり、自己情報を形成する形で定義して、
この定義を後天的定義として記憶しているのではないか、という事。
それはつまり、自分に興味がある(何らかの意味や価値がある)対象の情報として、
受容し認識したために、自己の形成の形で定義して記憶しようとする働きが起こったのではないか、
という事。
つまり、この変化情報としての刺激の受容に対して、
認識後に刺激の情報としての内容は、
そのまま後天的定義の変化情報として、
また、後天的定義の自己情報の構成要素として、
先天的定義の「変化情報+自己情報」が用いられているのではないか、
という事が言いたかった。
つまり、後天的定義というのは、
刺激の認識の連続性に対して、
この刺激を認識している事が連続している事に対して、
つまり、自分に意味や価値があるから認識しているわけであるから、
認識した刺激というのは、
そのまま後天的な自己情報の形成元の要素になっているのではないか、
という事に気付いた。
つまり、認識した刺激の連続性は、
そのまま自己形成の為の要素として用いられるのではないか、
という事になる。
つまり、この刺激の連続性を、連続性として認識するという事は、
この認識における刺激の連続性を、自己の経験として、
後に後天的定義に変換する事になるのではないか、という事である。
「つまり」が多くて申し訳ないが、
まだ上手く説明ができないので気付きを列挙するが、
要するに、認識した刺激は刺激として既に連続性を持っている。
この刺激の連続性は、変化情報の連続性であり、
自己情報の連続性でもある。
この場合、認識される変化情報の連続性は、
変化の連続性であり、事象の変化を構成する始点と終点という事になる。
また、認識される自己情報の連続性は、
自己の存在の連続性であり、自己が存在している始点と終点という事でもある。
つまり、この時の自己情報の連続性は、
後天的定義における、自己モデルの要素となるもので、
刺激として認識する身体性ではあるのだが、
後天的定義として記憶する場合、その上位の関連性として構成される連続性に変換されるのではないか、
という事になる。
つまり、先天的定義から刺激を構築する場合は、
単なる定義の参照として励起されるだけだが、
後天的定義として定義を構成する場合、
まず、この先天的定義に関連して自構性の自己モデルを構成する為の連続性が必要になるが、
この時の連続性が、ある瞬間に複数存在する刺激の連続性に対する、
高位の関連性として後天的定義の関連が構成されるのではないか、
という事になる。
もう少し分かりやすく言うと、
後天的定義は、先天的定義または後天的定義の関連から構成されるが、
例えばその要素が先天的定義であった場合。
ある瞬間の認識において、
事象プールに存在する刺激は同時に複数存在する。
ただし、認識される刺激はその内の最も情報が強いとされる事象が対象となるが、
この事象の連続性と事象プール内に存在する他の事象も存在するという点においては、
どれも連続性を持ち、連続的に存在している事になる。
そして、この情報的に最も強い事象を認識する場合、
身体性としては、この最も強い事象の身体性が対象となり、
この事象が刺激として認識されることになるが、
この認識においての意識は、事象プール内に存在する他の事象との関連を持ち、
意識されることになる。
少し無理やりな定義だが、
この時の自己情報は、認識された刺激の身体性としての自己情報を中心として、
主たる変化情報があり、そこに他の「変化情報+自己情報」を加えた事象として、
意識されるのではないか、という事になる。
つまり、
自構性の自己モデルとして構成される自己情報は、
刺激の自己情報(身体性)の「連続性」を用いているのではないか、
という事になる。
つまり、「自分(身体性)である連続性」の記憶として、
後天的定義の自己情報を構成するのではないか、というわけである。
だから、後天的定義から概感を構築した場合、
直接的な身体性を感じず、「自分であった記憶」として自己モデルを構築するのではないか、
という事になる。
つまり、後天的定義の連続性は、
完全な連続性ではなく、刺激の自己情報の連続性を概感として再構築した時の、
刺激の自己情報の連続性であった部分のみの連続性の連続になるのではないか、
という事になる。
つまり、
概感の連続性=関連する刺激1の自己情報の連続性+関連する刺激2の自己情報の連続性+・・・
こういうことなのではないか、と考えた。
これは変化情報に対しても同様、という事になる。
つまり、
概感の変化情報の連続性=関連する刺激1の変化情報の連続性+関連する刺激2の変化情報の連続性+・・・
概感の自己情報の連続性=関連する刺激1の自己情報の連続性+関連する刺激2の自己情報の連続性+・・・
こういうことになる。連続性だけについて言えば、
概感の連続性=関連する刺激1の連続性+関連する刺激2の連続性+・・・
こういう事になる。
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つまり、直前に刺激として認識し、意識した内容を短期記憶とし、
この短期記憶の内容を、その直後に想起しようとした場合、
私自身の感覚としては、変化としての刺激を主にして思い出した、というよりも、
これを自分の価値や姿として短期記憶した自己の方の情報を主として思い出したように感じた。
だから、
後天的定義というのは、単に刺激の連続性を定義として記憶したものではなく、
その刺激を変化として感じた「自分」を中心に定義した記憶なのではないかと考えた。
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疑問:まったく自己が関係しない後天的定義はありえるか?
恐らく「無い」、と考えられる。
ある事象を刺激として認識した場合、
刺激の自己情報は、身体性として必ず存在するし、
何かしら自己に関わる定義として経験することになるはず。
これを後天的定義として記憶するなら、当然自己情報も関係する事になる。
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つまり、ある試合結果について見て経験し、これを想起する場合、
試合結果として想起しているわけではなく、
その経験した時間的な連続性の間に刺激として受容して認識した情報内で、
この試合結果として経験した特定の刺激について関連したものを概感として想起しているのではないかと考えた。
つまり、
この場合、試合結果として定義しているのは自分であり、
自分が見聞きした刺激に対する関連として、これを体験とし、記憶し、これを想起したという事になる。
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つまり、後天的定義において、
入力が身体内外の変化であるとすれば、
その出力は刺激「ら」の連続性という事になる。
これは、先天的定義における刺激との違いは、
刺激においては、
入力が身体内外の変化であるとすれば、
その出力は刺激の連続性という事になる。
つまり、
刺激は「変化情報+自己情報(身体性)」であり、
身体性自体が定義として明瞭であり、
この連続性は単体でも、ごく短時間でも認識や意識に耐えうる連続性を持つが、
概感は「変化情報+自己情報(自構性)」であり、
想起や意識に耐えうる連続性は、
自構性自体が自己モデルとしての定義として成り立つためには、
この連続性を構築するために複数の自己情報が必要になるのではないか、という事になる。
つまり、自構性を構成する理由のような定義が必要になる。
上記の例で言えば、自分にとっての「ある試合結果」のような事。
つまり、自分にとっての意味付けのインデックスのようなもの、とでも言おうか。
この定義は、あくまで自分にとっての自己の体験した変化に対する、
意味付けであり、この意味付けの元になっているのは、
刺激の身体性が元になっていると考えられる。
つまり、自己の身体的にどのように感じたか、
という自己情報が含まれていると考えられる。
これが、自我のような定義になるのではないか、という事になる。
つまり、後天的な、ある変化に対する自己の反応の出力の定義として、
という事である。
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2025/8/25
現時点で後天的定義についての気づきについてまとめると。
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・短期記憶の後天的定義と、長期記憶の後天的定義があるという事。
自身で想起を試みた場合、
どちらも概感として構築された情報は似ていて、
想起も同じ様に想起できる。
ただし、情報の精緻さや、正確さには違いがあり、
短期記憶の方が正確で細かい映像のように想起できるのに対し、
長期記憶の場合は、想起しようとした対象として間違いないだろうと自分で言えるくらいの正確さはあるが、
おおまかで、もしかしたら異なった情報も含まれているかもしれない想起となった。
変化の積み重ねという観点から、
記憶は自己情報を中心とした、
記憶の容量の限界まで変化情報を関連させた記憶であると考えられる。
つまり、
短期記憶であれば、一定時間内に励起された変化情報に対して、
自己の自己情報を中心とした連続性を関連として定義し、
これを短期記憶とする、という事になる。
つまり、容量の限界というものは物理的には存在しないが、
ある一定期間の時間経過の間に、自己情報に関連した変化情報の励起の変遷が、
記憶の連続性となって記憶される、という事になる。
変化情報も自己情報も基本的には刺激の認識においては励起対象となるが、
自己情報が基本的には身体性として集約されているので、
変化情報ほどのバラエティー性豊かな情報ではないと考えられる。
精緻という点では、自己情報の励起によって自己をより身近に感じる事になると考えられるが、
基本的には自己の連続性を中心とした、変化情報の連続性を持つ情報として、
記憶は構成されると考えられる。
つまり、短期記憶は以下の様に、
→変化情報→変化情報→変化情報→変化情報→変化情報→・・・
++++++++++++++++++++++++++・・・
→自己情報→自己情報→自己情報→自己情報→自己情報→・・・
変化情報と自己情報の連続性の組み合わせが連続している状態で、
これがそのまま後天的定義になっていると考えられる。
そして、長期記憶については、
恐らく短期記憶内の連続性の内、
特に情報量が多い(情報として強い)事象について、
時間経過により、連続性における情報の弱い部分が脱落し、
要素要素の事象として短期記憶内に定義が残り、
これが長期記憶に置き換えられるのではないかと考えられる。
つまり、短期記憶の連続性がそのまま全て長期記憶として記憶されるのではなく、
印象が強い、刺激が強い等の連続性の一部が、
短期記憶に残り、長期記憶への変換の際に、
その短い連続性の関連として長期記憶として記憶されるのではないか、という事になる。
これは、恐らく短期記憶の容量の限界についても同じ考え方ができる。
つまり、短期記憶内に保持できる情報の容量は、
明確な制限があるわけではないが、神経細胞の励起に対して、
その励起された状態が保持されるかどうかに関わってくる。
つまり、ある神経細胞の関連のパターンが繰り返し励起された場合、
このパターンは繰り返し励起が行われた回数に応じてその後の保持時間が延長され、
逆に1度だけ励起されたようなパターンは、
時間経過によって保持されなくなるという事である。
事象プールの機能もこの短期記憶の機能とほぼ同じ考え方ができる。
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これは多様な刺激の入力の連続性から、
一定時間ごとのまとまりの中で最も強い情報が認識対象となり、
この認識の連続性の中でも特に自己に関わる強い刺激が短期記憶内に保持され、
これが長期記憶に変換される可能性となると考えられる。
上記の2日前に見た将棋の勝負の結果については今日も覚えており、
これは長期記憶となった後天的定義という事になるが、
この結果を見た際の印象的な映像として思い出せるのは、
数秒くらいの映像で、これが後天的定義としての1つの情報のまとまりという事になると考えられる。
さらに思い出そうとすると、
完全な連続性は無いが、
断片的に数秒の映像や、TVの画面の画像(1枚絵)などが思い出せる。
まだ詳細な定義は出来ないが、
後天的定義が「変化情報+自己情報」であり、
この一定期間の連続性として定義されるものだと考えられる。
そして、
後天的定義とは、知覚や認知の中で生じる変化を自己との関係性の中で捉え、
その変化と自己の接点が一定の時間文脈(短期記憶的連続性)において構造化された記憶単位である、
という事になる。
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・後天的定義は、先天的定義の変化情報を事象を構成の要素とし、
自己情報を関連させて構成しているという事。
変化情報は身体内外の変化であり、自己に対しては外向きの情報であり、
自己情報は身体性や自構性の定義であり、自己に対しては向かい合うか内向きの情報である。
考え方のイメージとしては、
細胞膜の疎水基が細胞の外側と内側に向いているようなもので、
外側の連続性と内側の連続性が合わさって1つの定義が出来ているようなものである。
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2025/8/26
まとめ:
これまで後天的定義は、
想起対象の概感を構築する為の定義であると考えてきた。
そして、後天的定義は単に経験の記憶の再現に用いられるだけではなく、
自構性における自己モデルの定義であったり、
後天的な欲求の定義であったり(参照:431:欲求の本質と二面性)、
およそ、自己を形成する様々な定義として用いられている事が分かってきた。
先天的定義との対比として考えると、
人間においては先天的定義が、生命としての自然界との関わりと、
人間の身体そのものの変化の定義であり、
基本的に先天的定義のみでも生命として成り立つだけの定義がある事になる。
つまり、後天的定義を抜きにしても、他の動物並みの活動はほぼできると言える。
そして、
後天的定義は何が違うかというと、生命の身体に直接関係するわけではない、
先天的定義では未定義の後天的な体験や経験に対して、
自己という存在を中心とした関係を定義するもの、という事になる。
つまり、生命の身体としての「身体性」については、
先天的定義で間に合っているので、敢えて後天的に定義する必要は無いが、
人間の先天的定義では間に合わない環境と自己の関りについては、
後天的に「自構性」を定義して自己モデルとの関係を定義して用いる事が得策であるという、
進化の仕方をしたと言う事になる。
つまり、適応の一環として後天的定義が出来るようになったとも言える。
それは、以前も話したが、生命としての可塑性を持つ事は、
生命として完成しないまま生まれ出でて、
人間の知能においては特に、死ぬまで定義を終えることも完成する事も無く、
命の方が先に尽きる事になっている。
つまり、後天的定義は生命として未熟のまま誕生し、
生涯にわたり適応の可塑性を維持するための機構である、
と言える事になる。
つまり、後天的定義は明確な定義として完成させるものではなく、
というか、完成するものではなく、それを知能として持つ個体が、
継続的に適応の可塑性を維持する為のもの、という事になる。
これは人工知能にも言えて、
強い人工知能も、継続的に変化に適応するために、
後天的定義が必要という事になる。
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今回はこの辺で。
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