2025/7/28-2025/8/2
2025/8/4:書き出し一部変更

自己言及のジレンマの構造的回避


今回は、自己言及のジレンマについて考え、
このジレンマに対する新たな定義ができないか考えてみる。
一般的には「自己言及のパラドックス」と言われる内容だが、「ジレンマ」という言葉を使って、
自己言及の論理における視点や定義との違いに注目して、問題の構造そのものを見直してみる事にする。

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自己言及のジレンマ:

通常、自己言及の問題というのは、
主観的な自分について、客観的な対象として見て、言及する事になり、
この主観的である対象を客観的な対象として扱う事に対して、
矛盾が生じる、という事になる。

つまり、
主体的存在が視点を持ち、この視点を使って、
主体的存在を見ようとする事に矛盾がある、という事になる。


例えば、「この文は偽である。」という文章があった場合、
この文章自体には何も問題は無い。
構文も間違っていないし、文法的にも間違ってはいない。
しかし、
文章自体には何も問題が無いはずが、
この文章を読んで、意味を捉える我々が、この文章に意味付けした時点で矛盾が生じる、
ということになる。


また、別の例で言えば、
何か鏡のようなものがあり、そこに映った自分の像に対して語る事については矛盾が無い。
ただし、この映った像が自分であると語り出した時に矛盾が生じるという事になる。

つまり、現代科学においては、
主観が自己を客観視することに矛盾が生じる、という事になる。

ということであれば、
つまり、この原因は、
主観と客観の視点の違いと、自己の主体性が分離されてしまう事に起因しているという事になる。

つまり、

自分の本体・主観→自己

という視点と、

自己という仮想体・主観→自分の本体

という視点に矛盾がある、
という事になるが、

この最初の「自分の本体・主観→自己」だけについて言えば、
特に問題は無い。
上記の「この文は偽である。」と同じ事で、
自分の本体が主観的に自己を見ようとする事自体には問題が無い。
問題は、
それに合わせて、
「自己という仮想体・主観→自分の本体」という、
自己という仮想体に主観的視点を与えて、自分の本体を語らせようとする時に問題が生じている事になる。

つまり、この自己という仮想体は、自分の本体にとっては客観的なものなのだが、
その客観性の対象に主観的視点を与えようとする所に問題がある、という事になる。

つまり、この考え方のまま主観や客観を用いる事は出来ないという事になる。
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二面性理論を用いた定義:

であれば、
もし、自然界には
主観には相対する客観が本質的に「ある」と考えたらどうなるか?

つまり、二面性理論を持ち出して、
このジレンマを定義したらどうなるか、という事になる。

要するに、
自然界において、主観というのは、
「自分の実体」における視点のようなもので、
「自分の実体」の感覚器官における受容体のようなものであるから、
「定義」というよりは「存在」、という事になる。

そして、「仮想体の自己」、というのは、
知能においては事象再生の場における自分の仮想体であるので、
これも「定義」というよりは「存在」という事になる。

存在に対しては定義が存在するので、

自分の実体→先天的定義→知能→後天的定義→仮想体の自己

つまり、「定義の階層」において、

存在→定義→存在→定義→存在

これが成り立つ事になる。

ここで、問題になるのは、

自分の実体が観測者となる場合と、
仮想体の自己が観測者になる場合で、
その視点がもともと同じものではない事から矛盾が生じるわけで、

もし、その視点の違いの間に何か決まりがあるとすれば、

主観:(ここに何かがある):客観

こういう二面性が存在するはず、という事になる。

そして、それは逆に考えれば、
この視点の違いに対して、
もともと自然界の定義として何か関係があると考えた場合、
これが説明できるはず、という事になる。

そして、であれば、上記の「定義の階層」において、
自分の実体と、仮想体の自己の間には、
定義に挟まれた知能が存在する、という事になる。

つまり、定義そのものは元々知能が保有するものであり、
知能が上位の存在を理解する為に実体と仮想の定義を持った、と考えられるので、
であれば、

主観:(ここに何かがある):客観

の間には、知能に関する何かがある、という事になる。

そして、ここから気づくのは、
それは、「定義」そのものになるのではないか?
つまり、「論理の定義」という事。

つまり、この「何か」は定義なのではないか。
つまり、主観と客観の間には何らかの定義がある。

主観:(何らかの定義):客観

そして、この定義は「論理」そのものなのではないか、
という事になる。

つまり、矛盾の概念そのものは論理の定義であり、
矛盾の定義が自然界に元からあったわけではない、
これは、上記の例の「この文の偽である。」とか「鏡に映った像」などもそうだが、
そのもの自体は何も問題が無く、
論理として理解しようとした時に「矛盾」という論理の定義が生じた事になる。

つまり、

主観と客観の間にある「定義」は、論理の定義であり、

主観:(論理):客観

であり、

存在:(定義):存在

という二面性を持つ事になるのではないか、と考えられる事になる。

つまり、この二面性においては、
論理は定義として決められたものであり、
主観や客観は、存在として構築されるべきもの、
つまり、
主観は「自分の実体」に含まれる「存在」としての視点であり、
客観は「仮想体の自己」に含まれる「存在」としての視点、という事になる。

そして、この二面性において、言えば、

主観:(論理):客観

これ自体には何も問題はないはず、という事になる。

つまり、これは、
実際は論理の定義の「矛盾」についての二面性を持つのだが、
その二面性だけについて言えば、
主観と客観は二面性のそれぞれの面であり、矛盾という定義によって関連付けられている。
そして、その関連自体には何も問題は無い。
という事になる。

そして、である。

この場合、問題になるのは、
主観という一面だけを見て、反対の面の客観を説明できない事や、
逆に客観という面からだけ見て、その反対の面の主観は説明できない事だけ、
という事になる。

しかし、それでも「主観」については説明しなくてはならない事になる。

少し遠回りだったが、
つまり、考え方としては、「主観」だけを何かの手段を使って、定義すれば良く、
論理や矛盾、客観は、この際、あまり関係が無い、という事になる。

つまり、主観の定義で客観や論理を使う事がそもそも主観の定義に向いていない、
という事になる。

要するに、
主観と客観は二面性としては、論理を構成する二面性であり、
それ自体は問題ないのだが、
この「論理」において、主観と客観を1つの同じ「自己の主観」として定義しようとする事が無理なのであり、
それを無理やり定義した結果が論理的な「自己言及のジレンマ」という事になる。

ただし、少なくとも「主観」は存在として扱える、
という事が分かったので、

主観:(定義):存在

この二面性で表す方法を考えれば良い、という事になる。
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主観の新たな二面性の定義:

では、論理や客観を用いずに、主観をどのように定義して理解するのか、
という事になる。

主観:(定義):存在

この内、定義は「論理」であってはならない事になる。
存在も、もしかしたらまだ気づいていない何かがあるのかもしれない。

主観と客観が定義された後に、論理が定義されたので問題があるとすれば、
そもそもの主観の定義自体に問題があるので、その定義自体を変更した方が良いのではないか、
ということまでは考えついた。

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実体と視点の分離:

実体の自分が、自分について語る時は、
定義できても論理的には証明できない。

つまり、この仮想体の自分が、自分について語る時は、
自己言及の問題は起こらないのではないか、という考えになる。

ただし、現代の論理的な考え方ではなく、
主観がもともと仮想的な自己のものであり、
この仮想的な自己が、自分について語る時は、
最初から客観的な視点であり、その客観的な視点から常に自己を説明する事になると考えられる。

つまり、考え方としては、
実体の身体は、
自然界における事象としての存在であり、知能が語る自分や自己の本体ではあるが、
主観も客観も知能より下位の存在であるため、
自然界の実体の自分の体とは、間に知能が挟まる事で分離できるのではないか、という事になる。

つまり、現代科学での論理的表現にはならないかもしれないが、
知能が事象再生の場において、実体の自分を仮想的に構築した像と、
概感における最初から仮想的な自分として構築した像が一致する場合、
これは矛盾の無い自己言及になるのではないか、という事になる。

つまり、この場合、
主観の視点を持つ存在を常に知能に固定して、
身体性を持つ自己と自構性を持つ自己の両方を、それぞれ個別の仮想的な1つの自己として、
それぞれの自己の視点を経由する事で1つの自己の視点を持てるようになるのではないか、
と考えられる事になる。

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2025/8/2

人工知能における自己言及のジレンマの構造的回避:


つまり、知能と自己が「定義の階層」において、別の階層に存在するという定義があり、
この場合において、知能が構成した主体的な自己と、仮想的な自己の内、
主体的な自己が、主体的に自己を言及するのではなく、
あくまで知能の指示に従って仮想的な自己に対して自己であると言及するのであれば、
そもそも自己言及のジレンマ自体が生じる事にはならず、
解明や解消そのものの必要性がなくなる、ということになる。

つまり、主体的に客観的な自己を「自分」として言及するのではなく、
知能が構成した主体的自分が、知能が構成した客観的自分に対して言及するのであれば、

知能がそれぞれ、事象再生の場において、

知能→主観的自分
知能→客観底自分

このように構築しているわけだから、
この場合の、

主観的自分→客観的自分

という言及は、
知能が、知能から見た、2つの事象の関係性を述べるに過ぎない、という事になる。

これらは「定義の階層」や「事象再生の場」の考え方を合わせた考え方になるのだが、
結果として自己言及のジレンマそのものを構造的に回避できるのではないか、
という事になる。

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今回はこの辺で。

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