2025/7/25-2025/8/1


後天的定義の構成


前回、先天的定義の構成について考えたが、
今回はその続きとして、後天的定義の構成について考えてみる。

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2025/7/25

後天的定義の発現について:

先天的定義は、知能がある変化を理解する為の定義であり、
そこから刺激が構成されるというのは前回も考えた事だが、
では、その先天的定義を組み合わせて後天的定義を構成しようとした場合、
何が分かっていて、何が分からないのかというと、
分かっているのは、後天的定義は、先天的定義の定義を関連させて、組み合わせて作り出しているという事。
分からないのは、ある1つの事象として、先天的定義をどのような関連付けを行えば、情報として成り立つか、
という事になる。

最初に今日気づいた重要な点を先に言っておくと、
「後天的定義は、先天的定義の定義の連続性から構成されている」という事。

今日考え始めた当初、前回の先天的定義について思い出していたのだが、
例えば誰かの人の声、音声について考えた場合、
ある波長の音は、波形が1音だけ再生されれば音声が出来上がるわけではなく、
その連続性、つまり、音声の波長や抑揚などの連続性から成っていて、
その連続性が存在しなければ人の声、音声として認識できないであろうという事に気付いた。

つまり、ある波長の音が1音あったとしても、ぶつ切りに音を聞いても、
それらは個々に先天的定義で定義された音としての変化情報というだけであり、
1つ1つは単なる音の刺激で完結してしまう。
これが何か別の意味を持つためには、関連付けが必要になると考えられるが、
その関連の元になっている物を考えた時に、情報の連続性が思いついたことになる。

つまり、先天的定義の定義で構成される刺激は、それぞれは単独で刺激として認識できて、
意識もできるのだが、個々の刺激が持つ意味は、そこで完結してしまう。
しかし、この個々の刺激に対して関連を構成したらどうか、と考えた場合、
それは、先天的定義の定義にはない、後天的な定義として、
新たな意味付けができるのではないかと、考えたわけである。
そして、その意味がどこから発生するのかと考えた時に、
「関連の連続性」が思いついた、という事になる。

つまり、人の声を聴いた人間が、その声に対して何を変化情報として得るのかと考えた場合、
感覚器官の聴覚としては、その受容体で空気の振動を捉え、
音としては個々の波長を持つ、ぶつ切りの変化情報を受容するのだが、
そこから構成された刺激に対して「関連の連続性」を後天的に付与することで、
新しい後天的な定義による意味付けができるのではないか、と考えたわけである。

これは、別に音声だけではなく、視覚情報としての光についても言える。
例えば、「1」と「5」という数の文字を見た時に、
視覚情報としてはある解像度を持つ光の点の集合に過ぎないのだが、
この文章においては、そのコントラスト差に対して、ある形状が後天的に付与され、
数の文字としての別の意味が生じている事になる。

つまり、後天的定義は、
先天的定義に関連する、
後天的に構成される神経細胞ネットワークにおける励起の順番が、そのまま関連の順番になっていて、
会話の音声が、音のぶつ切りではなく、その連続性によって励起される音の順序に意味が生じる、
この定義の事ではないか、という事になる。

また、別の事も気づいたのだが、
文字についても、単にコントラスト差が像を浮き上がらせているだけではなく、
上下や左右の概念が、その文字の形状に意味を付与しているのではないかと考えられる。
そして、人間が必ず文字を上下左右正しく書けるのは、
視覚における像の対象が、例えば上から下、左から右という関連の順序があるからではないか、
という事になる。
つまり、上下や左右に関連の順序の意味があるという事になる。

つまり、習慣や文化として、文字を上から下に読む、書く、というのはおよそ世界共通だが、
右から読む・書く、左から読む・書くのは、地域差がある。
これは、上下はまあ良いとして、左右の開始については、
皆がそうしているから、自分も同じ様になったと考えられるが、
文章をまっすぐ書くために、縦書きの場合で右利きは左側が空白である方が、
横書きの場合で右利きは右側が空白である方が、まっすぐ書きやすい。

つまり、脳の定義において、右利き多数の習慣や文化として、
現在の文字や文章の書き方になったとも考えられる。
そして、
ということは左利き多数の場合、書き方も逆であり、
アルファベットなどの文字自体も、文字の書き始めの位置が右に寄って、
文字自体が異なっていたとも考えらる。

つまり、文字や文章の書き方は、人間の構造的な能力の選択性によって、
現在の書き方に落ち着いた、という事になる。
これは、先天的な能力に対して、効率的な後天的な定義として構成された習慣や文化という事になる。

それを考えると、例えば書字障害や読字困難については、
文字や音声に対する定義の連続性の構成、
特に文字や文章などでは左右の定義に問題が生じているからではないか、という事になる。
さらに、文字列や音声の連続性という点において、
右から左、左から右という連続性や、音声の波長の連続性に断絶などの障害があるのではないかという事になる。
さらに追加すると、これは、知能の体験としての経験の連続性を構成する際か、
記憶する際に問題があり、障害となっているのではないか、ということになる。

そして、この事を逆に考えれば、上下や左右の方向性よりも、
連続性そのものが重要なのではないか、という考え方になる。

つまり、上下や左右が意味を持つ事もあるのだが、
後天的定義としての連続性においては、それらは1つの要素であり、
全体ではない。

例えば、運動において、右腕を水平に正面から右に移動させる事を考えると、
水平を連続性で保つという事と、正面から右に移動するという2つの連続性を持つ、という事になる。

筋肉や関節で言えば、運動は肩の関節と筋肉を中心に行うのだが、
肘や手などは基本的に固定した位置を保持する事になる。
これらの要素は、恐らく全て関連していて、
「右腕を水平に正面から右に移動させる事」の定義として再現されている事になる。
そして、その連続性は、「右腕を水平に正面から右に移動させる事」の文字通り、
順に、右腕を水平に、正面に伸ばし、水平を維持したまま、右に移動させる、事になる。
つまり、私は運動を想像したとおりの文章を書き、
その文章通りの運動を想起、再現できる事になる。

恐らく私の頭の中では、想像する事として、
「右腕を水平に正面から右に移動させる事」という概感が構成されていて、想起されたという事になる。
そして、その連続性に対して、もちろん、意識もされている。

そして、もし、この連続性に断絶が生じた場合、どうなるかと考えると、
全体として同じ運動ができたとしても、
恐らく概感としては、断絶を挟んで別の定義となり、
運動に対して、2つの定義の運動を行ったと感じるはずである。

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現時点における「後天的定義の構成」:


先天的定義を用いる刺激の構成と、後天的定義を用いる概感の構成は異なっていて当然なのだが、
「後天的定義の構成」という今回の表題において、
現時点での構成を考えると、

後天的定義の構成は、

情報の起点となるきっかけに対して、

後天的定義のきっかけの定義と、

後天的定義から概感を構成するきっかけの定義:

刺激の場合:

(先天的定義)きっかけを構成する刺激1

(先天的定義)きっかけを構成する刺激2

(先天的定義)きっかけを構成する刺激3

・・・

きっかけの刺激

概感の場合:

(後天的定義)きっかけを構成する概感1

(後天的定義)きっかけを構成する概感2

(後天的定義)きっかけを構成する概感3

・・・

きっかけの概感

(先天的定義)きっかけを構成する刺激1(身体性が含まれない)

(先天的定義)きっかけを構成する刺激2(身体性が含まれない)

(先天的定義)きっかけを構成する刺激3(身体性が含まれない)

・・・

きっかけの概感(身体性の代わりの自構性が含まれる)

こういうことになる。
なぜ概感で構成が2段階になっているかというと、
後天的定義自体は、先天的定義の関連によって定義されていて、
つまり、後天的定義の励起は、励起の末端では先天的定義の励起になるのだが、
概感においては自己情報としての身体性が用いることが出来ない為、
身体性の代わりに自構性を用いるのだが、
事象再生の場における概感の構築では、
主体性には自構性を用いる形で、仮想的に刺激を受けている様に想起されるから、という事になる。

この自構性の考え方は、少し複雑で、
詳細は「437:定義「自構性」について」を参照して欲しいのだが、

つまり、

後天的定義は、先天的定義に対する「関連の接続」が後天的定義という事になる。
つまり、後天的定義の励起というのは、最終的に後天的定義として関連した全ての先天的定義が励起されること、
という事になる。

しかし、刺激の定義において、
刺激の構成、つまり、

刺激=変化情報+自己情報

この自己情報の部分は、刺激は身体性が用いられ、実際にこの変化情報を体感したように認識・意識するのだが、
概感を想起する場合、
概感の構成も、

概感=変化情報+自己情報

なのだが、この自己情報は、直接身体性が用いられるのではなく、
以前体験した刺激で用いられた身体性への「関連」として励起される定義部分という事になる。
つまり、概感の変化情報も同じ事になるのだが、
概感を構成する「変化情報+自己情報」は、
仮想的な「身体性」つまり、「自構性」であって、
実際の身体に起こる変化ではなく、以前は「実際の身体に起こった変化」ではあったが、
想起時には「仮想的な自己」に起こった「仮想的な変化」の概感として構成されているという事になる。

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2025/7/25-2025/7/26

後天的定義の二面性が実体を持たない理由:

その後にまた気づいたのだが、
上記の説明についての新たな考え方になるが、
概感の自己情報が、身体性ではなく自構性となるのは、
以下のような理由があるから、という事になる。

つまり、

刺激が変化情報+自己情報で身体性が感じられるのは、
この自己情報に身体性が含まれ、刺激の二面性において、
変化と相対する身体の面が生じるから、
その境界に身体性ができるということになるのだが、

後天的定義において、身体性が生じないのは、
「概感=変化情報+自己情報」において、

後天的定義を構築する際の、
先天的定義に対する新たな神経細胞ネットワークは、
そのまま後天的定義としての意味を持つのだが、
この後天的定義として構築された神経細胞ネットワークから、
その定義の素材として用いる先天的定義としての変化情報と自己情報に延びる接続は、

変化情報←後天的定義と言う面と、
自己情報←後天的定義と言う面が生じるため。

この時、変化情報も自己情報も先天的定義のものなのであるが、

それぞれの面において、

変化情報+後天的定義から生じるのは過去の変化(これはまだ固有の名称は未定義)であり、

自己情報+後天的定義から生じるのは自構性であり、

結果的に後天的定義が、この「過去の変化+自構性」から二面性を生じるものであるから、
身体性が現れない、という事に気付いた。

つまり、
実体験として認識できる刺激における身体性は、
感覚器官から受容される変化情報と、
その受容に関連した自己情報(身体性)が、
直接関連する事で、実体の身体を感じる事、
つまり、身体で刺激を感じるという認識に至るわけであり、
概感として想起する場合は、
この先天的定義の変化情報と、先天的定義の自己情報の間に、
後天的定義としての神経細胞ネットワークが挟まる事になる。

つまり、書き方を少し工夫して変えると、

刺激は、

(関連)→先天的定義の変化情報

感覚器官による変化情報の受容

(関連)→先天的定義の自己情報

この様にして構築され、
対して、概感は

「きっかけの刺激または概感→後天的定義」という段階を経た後に、

(関連)→先天的定義の変化情報

後天的定義

(関連)→先天的定義の自己情報

この様にして構築されるため、

刺激は、変化情報と自己情報の直接的な二面性を持つのに対して、

概感は、一度後天的定義を挟むため、
概感自体は、後天的定義としての変化情報の関連と、
後天的定義としての自己情報の関連という二面性は持つが、
この二面性は直接的な事象としての定義ではなく、
あくまで関連としての二面性だけであるので、
身体性のように実体として感じられない、という事になる。

そして、後天的定義も、関連の末端では先天的定義の変化情報や自己情報にたどり着くのだが、
ここで構築された変化や身体性としての情報は、
あくまで後天的定義を介した情報であるので、直接実体のように感じられない、という事になる。

要するに、
刺激が、身体上に実体験として感じられるのは、
受容した変化が、直接身体性としての自己情報と関連を持つためで、
つまり、実際に自然界に存在する事象と、
実体として存在する身体の間に生じる定義から構成される情報が刺激であり、

概感が、仮想的に感じられるのは、
あるきっかけに対して、想起される事になる情報であるからで、
定義から構成される情報をきっかけとして、
その関連した情報との間に生じる定義から構成されるの情報が概感であるから、
この概感においては、きっかけの変化情報も自己情報も実体の存在を持っていない為、
実体として感じられない、という事になる。

かなり分かりづらいとは思うが、
できるだけ簡単に言うと、

刺激を構成する先天的定義が励起されるきっかけは、
自然界の実際に存在する事象の変化と、
実体の存在する身体が存在するから、
実体の身体上に変化を受けたという刺激が構成される。

概感を構成する後天的定義が励起されるきっかけは、
すでに情報の状態になっている刺激または概感を変化として、
その関連する体験の経験を情報として励起するから、
情報から情報を関連して励起しただけなので、実体で概感を想起したとはならない。

という事になる。

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2025/7/26

上記の続きで、

刺激の先天的定義の神経細胞ネットワークの励起は、
ある感覚器官からの変化情報の受容に対して、
「変化情報」と「自己情報」の両方が励起された際に、
「刺激」としての情報が完成する事になる。
つまり、変化を身体で受けた、という情報ができあがり、
事象再生の場において、自己の身体とその特定部位に変化が存在すると構築されることになる。

これに対して概感の場合は、
あるきっかけの刺激または概感の励起に対して、
関連する後天的定義の神経細胞ネットワークがまず励起する事から始まるのだが、
この後天的定義の神経細胞ネットワークは、
どこに接続されているかというと、刺激を構成できる先天的定義に繋がっているのだが、
その後天的定義の構成は、どのようになっているかというと、
刺激のある連続性、そのものを構成の形に残している事になる。
つまり、
過去に経験した刺激の連続性の概形が、そのまま後天的定義の構成として用いられている、
という事になる。

つまり、上記で用いた例を使ってみると、
例えば「右腕を水平に正面から右に移動させる事」は、
概感としての後天的定義は、
右腕を水平に上げる、右腕を水平位置で止める、水平を維持する、右腕を右に移動させる、右腕の移動を止める、
などの連続性を持った、各運動の筋肉への刺激で構成されていると考えられる。

つまり、1つ1つの運動は、先天的定義で定義されたもので、
身体の右腕の運動としての先天的定義がそれぞれあるはずである。

それを、ある決まった順番を持った、連続性で、この後天的定義は構成されている事になる。

順番や、運動そのものが変わってしまったり、
連続性が断絶してしまうと、
もともとの「右腕を水平に正面から右に移動させる事」という運動は再現できない事になる。

つまり、運動能力として手足を動かすような定義は、先天的に存在する。
しかし、「右腕を水平に正面から右に移動させる事」は、
後天的定義として構成される必要がある、という事になる。

例えば、赤ちゃんが、手足を動かしたついでに、自分で自分を叩いてしまい驚く、
というような事が起こるのは、
先天的には能力として手足を動かすような機能は育ち、持っているのだが、
その動かす制御のような定義は、先天的に持っていないので、
思わず叩いてしまい驚いた、という事になる。

つまり、赤ちゃんにとっての手足の制御については、
後天的に定義される必要がある、という事になる。

恐らく手足の動きは、何度も繰り返すうちに、
可動範囲や可動限界、自分に当たらない範囲、という定義が出来ていき、
それぞれの可動、移動に対して定義が構成されていく、という事になる。

そして、もし「右腕を水平に正面から右に移動させる事」の必要性が生じた場合、
その各運動の先天的定義を合わせて後天的定義とし、
関連を連続性として、一連の動きとする事で、
「右腕を水平に正面から右に移動させる事」が実行される。
という事になる。

そして、この時の概感は、
「過去に経験した刺激の連続性としての後天的定義の構成」から出来上がっている、という事になる。

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ここまでの事から、
後天的定義の構成について考えると、

まず、きっかけの刺激または概感が必要であり、
そして、
きっかけに関連する先天的定義とその連続性における関連の順番、
これが必要になる。

つまり、

(受容:1)きっかけの刺激または概感(入力)

(可否:1)受け入れ・無反応

(スレッショルド:1)比較量

(重みづけ):ウエイト

・・・

(受容:X)きっかけの刺激または概感(入力)

(可否:X)受け入れ・無反応

(スレッショルド:X)比較量

(スレッショルド)後天的定義の励起の実行

(順序:1)関連の順番

(関連先:1)先天的定義または後天的定義

・・・

(順序:X)関連の順番

(関連先:X)先天的定義または後天的定義

(定義)後天的定義

まずはこういう定義ができる事になる。

つまり、この後天的定義を励起する要因である、

きっかけの刺激または概感の受容に対する反応、
つまり、受容の可否とそのスレッショルド、
これは1つ以上存在する可能性がある。

そして、このきっかけのウエイト合計として、
この後天的定義が励起されるのかどうかというスレッショルド、

そして、励起が決まった場合に次の関連への励起、
という事になる。

そして、その定義を全て合わせたものが、
後天的定義という事になる。


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2025/7/27

事象再生の場で構築された事象が、
連続性を持つ事で認識や想起に至る、という考え方において、
「429:現象としての意識世界の再現場所について」の考え方を用いると、
刺激と概感のレイヤー構造を持つ仮想世界は、
事象再生の場における事象の1つ1つに対して、
先天的定義や、後天的定義があり、
その連続性を持っている、という事になる。

例えば、道を歩いて進んでいて、
今見えている景色に存在する全ては、刺激として見えているもので、
それらは、過去から今に至るまで連続性をもって見えたり、見えなくなったりしている事になる。
この時、仮に5秒前に見ていた景色を思い出そうとした時、
その思い出した景色は概感として感じるもので、
この思い出している間の連続性の間だけ、見えている、という事になる。

つまり、歩行で移動中、事象再生の場で特に視覚で見えているものは、

刺激は常に見えているので視覚で捉えられる変化の連続性として、
「景色」とその変化として見えている事になる。

つまり、ずっと刺激による景色は見えている事になる。

一方で、事象再生の場で思い出して見えた「5秒前の景色」というのは、
この時点では短期記憶の状態だが、ある後天的定義としての、
先天的定義の関連の連続性から構築されたもの、という事になる。

この想起時は、概感は想起している連続性の間だけ、
存在している様に感じられるため、この間のみ「5秒前の景色」として見えている事になる。

そして、ここで少し新たに気づいたのは、
この連続性における「連続と連続の間の区切り」は、どこにあるか、
という事で、
この連続性の区切りというのは、
事象再生の場における事象の構築毎に区切られているのではないか、という事に気付いた。

つまり、刺激や概感を元にして、事象再生の場に事象を構築するのだが、
刺激や概感は、情報としては先天的定義や後天的定義から構築されたものであるが、
この刺激や概感を元に、事象再生の場においては、その情報を元に事象が構築されるのではないか、
という事になる。

この事自体は、これまでの考え方の通りなのであるが、
この事象の存在の連続性として考えた場合、
事象の連続性というのは、事象再生の場に事象が一度構築されたら、
連続的に存在するというものではなく、
その連続性というのは、動画のようにフレームごとに都度構築が行われているのではないか、
という事になる。

そして、この事象が認識や想起に至るということは、
この事象が、事象として完成した時に認識や想起に至り、
この時、一度区切りが生じているのではないか、という事になる。

つまり、刺激や概感は、励起の毎に構築される。
そして、その刺激や概感の認識や想起も、刺激や概感の構築毎に、
事象再生の場に事象として構築される事で行われる。

そして、その連続性は、事象の緩やかな変化においても維持される何かがあるのではないか、
という事になる。

つまり、事象の対象としての連続性の維持する為の情報がある、という事である。

つまり、事象の構築毎に情報の断絶は起こるが、
同一の事象であるという保証のような情報が別にあるのではないか、というわけである。

つまり、時間軸のような共通する連続性を保証する情報がある、という事。

つまり、ある対象が後天的定義として構成される場合、
その対象には、まず、ある1フレームとして存在できるだけの情報が定義として用意される。
これは、基本的には先天的定義の刺激と同様の情報という事になる。
そして、この1フレームの情報に対して、後天的定義は、1フレームだけで定義できないので、
その関連の連続性としていくつかのフレームをまとめて連続性の定義を構成する必要がある事になる。

この時、後天的定義による概感というのは、ある同一フレームに同時に存在する事象と、
そのフレームの後のフレームに続いていく別のフレームの連続性が定義されることになる。

そして、1つの後天的定義として定義できる情報には、
恐らく神経細胞ネットワークの励起の物理的な上限があり、
つまり、同時に励起できる数の上限があり、
次の後天的定義への励起は、概感→概感、という想起の形を取り、
別の後天的定義の励起として行われることになる。

つまり、単純な連続性を書くと、
刺激をきっかけとして、概感が想起され、意識される場合、

刺激1:連続性1
↓←連続性1は終了
認識1→意識1

概感2:連続性2
↓←連続性2は終了
想起2

概感3:連続性3
↓←連続性3は終了
想起3

概感4:連続性4
↓←連続性4は終了
想起4

意識2

という連続性を持っていて、
意識1は、刺激1の連続性がそのまま認識1の連続性となり、
意識1の連続性は、認識1の連続性の結果として生じる。
概感2~概感4は、1つの全体的な後天的定義として連続性を持っているが、
この連続性の内の、個別の後天的定義は、その1つ1つに事象としての意味が完結しており、
その概感の想起毎に定義が分かれている。

しかし、概感2~概感4の連続的な想起においては、後天的定義としては1つの連続性を持っていて、
この概感2~概感4に対する想起2~想起4は1つの連続性を持つ想起として、
結果的に意識される、という事になる。

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先天的定義と後天的定義の構造:

つまり、先天的定義の神経細胞ネットワークを1つのレイヤとした場合、
後天的定義の神経細胞ネットワークは別の1つのレイヤ構造を取る事になる。

そして、先天的定義の神経細胞ネットワークは、1つの1つの定義に対して完結しているが、
後天的定義の神経細胞ネットワークは、末端は先天的定義に接続されていて、
後天的定義の1つ1つの定義もそれぞれ完結はしているのだが、
そのまま完結したままでいるわけではない、という事になる。
つまり、可塑性をもつため、完結している構造が変化する可能性は常に付きまとう事になる。

この考え方の場合、刺激に連続性を持たせた時点で、それは後天的定義という事になる。

つまり、基本構造として、

刺激→概感→概感→概感→概感→概感→・・・

という連続性により、

認識→想起→想起→想起→想起→想起→・・・

という連続性ができて、これは、

意識→意識→意識→意識→意識→意識→・・・

という意識の連続性になるが、

次に新たな刺激が発現した際に、上記の連続性は一度断絶し、
次の連続性が生じる事になる。

意識自体は、認識が起こっても、想起が起こっても、断絶することは無く、
連続性は継続する事になる。

つまり基本的にプログラムのイベントドリブンのような形で、
刺激ドリブンの構造を持っているという事になる。


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時間の感覚と、その時間の感覚の意識:

後天的定義の構造として、ある1つの後天的定義の定義は、
無数に延々と定義を関連付けたものではなく、
1つの定義には、接続の上限のようなものがあり、定義は分けられている。

つまり、
この定義の分割によって、フレームのような概念が生じ、
その定義毎に概感が構築されて想起されると、
想起の連続性、つまり時間のような感覚が生じる。

先天的定義から刺激が構築され、
後天的定義から概感が構築される。
そして、1つの後天的定義は、1つ以上の先天的定義から構成されている。
この場合、後天的定義毎の関連による連続性は、
ある体験に対して、この体験している時間の間について、
後天的定義が、細切れに定義される、という事になる。
そしてさらに後天的定義は、細切れの先天的定義で定義されることになる。

この考え方からすると、
例えば私が今見ている視覚の画像において、
注目していない対象は後天的定義の先天的定義の対象として関連せず、
ほとんど記憶として残らない事になる。
また、
今見ている視覚の画像は、長期記憶ではなく、短期記憶ということになるが、
短期記憶として一定時間保持できる先天的定義の数としても上限がある事になる。

つまり、今回の後天的定義の構造の考え方からすると、
今見ている視覚の画像を5秒後に思い出すとすると、
その5秒後には、この今見ている視覚の画像は、
後天的定義に関連した先天的定義の1つとして関連する事になる。
(実際には視覚の画像は多くの先天的定義から成る)

そして、定義の連続性から時間の概念が生じるとすると、
5秒後に思い出す視覚の画像は、ほんの一瞬ということはなく、
少なくとも数百ミリ秒か数秒程度の連続性はあるはずで、
であれば、後天的定義も1つだけという事は無く、
ある程度の連続性をもっているはずなのだが、
となると、定義として数十個程度の情報では、
この視覚の画像は賄えないのではないかと考えられる。

ただし、短期記憶のマジカルナンバー等の概念から考えると、
後天的定義の定義自体はそれほど多くないかもしれないが、
その同じ定義をある程度連続的に励起すれば連続性が生じるということになる。

つまり、マジカルナンバーの概念は短期記憶において、
ある数字の列が存在した場合、7±2程度の数しか覚えられないというものだが、
実際に定義としては、1つ1つの数字自体は視覚や数字としての定義、
そしてその数字の順の定義、数列としての定義など、
様々な定義が、恐らく順序立てて関連して記憶されているという事になる。


プログラム的に例えると、
今回の後天的定義の構造において、
先天的定義や後天的定義はテンプレートのようなもので、
事象再生の場に事象として構築するものがオブジェクトになり、
そのオブジェクトのリフレッシュにより、時間的な連続性が生じる、ということになる。

つまり、後天的定義は無数に記憶として定義されているが、
実際に概感の想起対象として構築されるのは、ごく一部、ということになる。

また、認識や想起の連続性として生じる意識の対象も、
情報として用いられる定義の数はあまり多くない。

そして、今視覚で見えている画像は、画像的には情報量はかなり多いと思うが、
この画像の定義は、かなり細切れに定義が分けられているということになる。

だから全体として情報が多くとも、
瞬間的には注目できる対象が1つしかないという事に関係する。

つまり、瞬間瞬間に意識している対象も1つだということになる。

ただし、定義や関連自体に断絶があっても、
その定義から構築する事の連続性、
構築した刺激や概感を事象再生の場で再現する事の連続性、
その事象が再現される認識や想起としての連続性から、
意識の連続性にまで到達する、という事になる。
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2025/7/29

今日考えていたのは、
後天的定義として構成される情報塊の構造。

先天的定義によって構築される刺激も、
感覚器官の受容体1つ1つで成り立つわけではなく、
ある1つの認識や意識できる対象の刺激として構築する為には、
ある程度のまとまった情報量が必要になるはずである。

であれば、刺激は複数の先天的定義によって、
その連続性の上に、ある情報塊として構築された情報が、
「刺激」になるはず、という事になる。

そして、この「刺激」を元に、
次の段階の後天的定義が構成されるとすれば、
後天的定義は、この刺激の情報塊が複数関連し、
その関連した全体の情報の連続性の上に構成されるはず、
という事になるため、

先天的定義:刺激=多:1
後天的定義:先天的定義=多:1

まず、こういう事になる。

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刺激の構築と後天的定義の構成:

そして、例えば、視覚情報において、
ある対象を視覚の刺激として捉える場合、
その連続性として、

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□■■
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□□□
□■■
□■■

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□■■
□■■

□□□
□□□
□□□

このような連続性を視覚で捉えた場合、
認識して意識した対象が、

■■
■■

これであった場合、
後天的定義として用いられる可能性が有るのは、

■■
■■

■■
■■

■■
■■

この連続性だけになると考えられる。
つまり、この情報塊の連続性を自身が体験した経験として記憶する、
という事になる。

そして、ある連続性をどのように記憶するか考えると、
ある連続的な定常波に対して音声の波長が足されるように、
ある認識がこの定常波の一定のレベルより大きい時間の間だけ認識が行われ、
その際に関連している情報塊が認識される刺激になるのではないか、
という考え方になる。

つまり、このような時間的な連続性があり、

123456789ABCDEFGH:時間→
→→→→→→→→→→→→→→→→→
→→→→→→→→→→→→→→→→→
→→→→→→→→→→→→→→→→→
→→→→→→→→→→→→→→→→→

上の2つ以上の列に情報塊がある時に認識されると考えると、

123456789ABCDEFGH:時間→
→→→→→→■■■■→→→→→→→
→→→→→■■■■■■→→→→→→
→→→→■■■■■■■■→→→→→
→■■■■■■■■■■■■■■■→


この情報塊は、6~Bの間に認識される可能性が有り、
後天的定義として記憶される可能性があるのも、
6~Bの間であるが、
実際に認識されたり、記憶される場合は、

6789AB:時間→
→■■■■→
■■■■■■
■■■■■■
■■■■■■

情報塊の連続性は、これだけになる。
つまり、この抜き出された連続性は、
7~Bになるのではなく、
個別に開始から終了の1~6という連続性が割り当てられる事になる。
そして、この情報塊の連続性が後天的定義として定義される事になる。

------------------------------------------------------

後天的定義から概感を構築する場合:

そして、
今後は逆に後天的定義から概感を構築して想起する場合、
この後天的定義を励起する場合、
きっかけの刺激または概感が必要になるが、
この励起の連続性を考えると、
ある情報塊ごとには連続した関連があるという事になる。

つまり、後天的定義を情報塊の複数からなる構成と考えると、

きっかけ→(関連)→情報塊1→(関連)→情報塊2→(関連)→情報塊3→(関連)→・・・

このような関連が存在し、
きっかけが励起された場合に、以降の情報塊は連続的に励起されることになる。

つまり、上記における

6789AB:時間→
→■■■■→
■■■■■■
■■■■■■
■■■■■■

この部分が概感として構築されるという事になる。

そして、概感の情報塊を「□」で表すとして、

123456:時間→
→□□□□→
□□□□□□
□□□□□□
□□□□□□

この様に書くとすると、
波形だけを取り出すと以下の様に、

123456789ABCDEFGHIJKL:時間→
→→→→→→■■■■→→□□□□→→→→→
→→→→→■→→→→■□→→→→□→→→→
→→→→■→→→→→□■→→→→→□→→→
→■■■→→→□□□→→■■■■→→□□□

それぞれの情報塊を別にすると、

123456789ABCDEFGHIJKL:時間→
→→→→→→■■■■→→→→→→→→→→→
→→→→→■■■■■■→→→→→→→→→→
→→→→■■■■■■■■→→→→→→→→→
→■■■■■■■■■■■■■■■→→→→→

123456789ABCDEFGHIJKL:時間→
→→→→→→→→→→→→□□□□→→→→→
→→→→→→→→→→→□□□□□□→→→→
→→→→→→→→→→□□□□□□□□→→→
→→→→→→→□□□□□□□□□□□□□□

このようなイメージになる。

意識の連続性が維持されるためには、
刺激か概感の認識か想起の連続性があるわけであり、
励起される情報塊は、このような並びになる。

実際には、その前にも後にも、刺激や概感が連続して存在しているはずだが、
ここでは2つの並びだけに注目する。

そして、ここで分かるのは、
8~Aまたは8~Cまでの間に後の概感を構築するきっかけの刺激または概感から、
関連する励起が行われ始めていると考えられる事になる。

つまり、

89ABC:時間→
■■■→→
→→→■□
→→→□■
□□□→→

この部分である。
もしかしたら、関連や連続性の観点からすると、
それ以前の2~7の間にも励起され始めている可能性もあるが、
一応概感が構築されはじめた時点に注目すると、
前の情報塊が連続的に励起されて、その後の抑制が始まる頃には、
次の認識か想起対象の情報塊が用意されているという事になる。

つまり、通常の覚醒時は、刺激または概感の連続的な構築により、
認識や概感が連続的に起こり、常に意識の連続性が維持されることになる。

そして、この事は知能の能動的な機能ではなく、
知能の機能による受動的な結果という事になる。

そして、ここからさらに分かる事は、
この時間的な連続性は、
奥行き方向に同様の励起の波の存在が在るという事になる。

つまり、その他の定義ももう1つの次元に存在する事になり、
結果的に、

主たる定義の有無:1次元
ある定義から励起された情報の存在:1次元
定義の種類:1次元
時間:1次元

合わせて4次元構造になっているという事になる。
そして、この場合、ある定義から別の定義に渡る関連も存在することになる。

つまり、上記の場合、
2つの波形を並べて上から見ると、
刺激や概感は以下の様に連続性を持っていて、

123456789ABCDEFGHIJKL:時間→
→→→→→→→→→→→□□□□□□→→→→
→→→→→■■■■■■→→→→→→→→→→

このように並んでいて、
認識や想起の連続性は維持されている事になる。
そしてそれはつまり、意識の連続性になる。
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2025/8/1

少し長くなってきたので、
そろそろまとめる事にする。

考えている内に、多くの新しい事に気付いたので、
あまり踏み込んだ定義まで到達できなかったが、

今回考えた後天的定義の構成としては、
以下の通り
------------------------------------------------------
(受容:1)きっかけの刺激または概感を構成する先天的定義からの接続(入力)

(可否:1)受け入れ・無反応

(スレッショルド:1)比較量

(重みづけ):ウエイト

・・・

(受容:X)きっかけの刺激または概感を構成する先天的定義からの接続(入力)

(可否:X)受け入れ・無反応

(スレッショルド:X)比較量

(スレッショルド)後天的定義の励起の実行

(順序:1)関連の順番

(関連先:1)先天的定義または後天的定義

・・・

(順序:X)関連の順番

(関連先:X)先天的定義または後天的定義

(定義)後天的定義
------------------------------------------------------
おそらく、このきっかけの刺激または概感というのは、
刺激または概感を構成している複数の先天的定義からのシナプス接続の入力、
という事になると考えられる。

そして、複数のきっかけの受容に対して、
励起されるのが、下部の関連の順番として関連付けられたシナプス接続の先の定義、
という事になる。

つまり、後天的定義の構成としては、
簡単に言えば、ある先天的定義からの励起に対して、
ある連続的な構成を持った、別の定義への橋渡しの定義なのではないか、
という事になる。

つまり、その「連続的な構成を持った、別の定義への橋渡し」の定義というのは、
つまり、後天的定義、そのもの、
要するに過去に自分が体験した連続性、を、定義としてシナプス接続で記憶したもの、
という事になる。


そして、後天的定義の構成以外に気付いたのは、
時間の概念と、その時間の概念の意識について。
これは、根本的には定義の連続性がそのまま時間の概念まで続いている、
という事になる。
実際、励起速度には物理的な限界があり、
逆にこの速度の限界があるから、時間の概念が生じているとも言える。

つまり、もし、人間の神経細胞の励起が恐ろしく早い場合、
人間はスローモーションの世界の中に常に居るような感覚になる。
逆に神経細胞の励起が恐ろしく遅い場合、
人間は自然界の変化が速すぎて、とてもではないが何かに反応する事さえ難しい事になる。

まあ、生命としては結果的に反応のしやすい丁度良い連続性と、
励起の速度を得るに至った、とも考えられる。

今回はこの辺で。

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