2025/7/5-2025//7/19


人工知能の後天的欲求モデルと評価の指標について


今回は人工知能が自律的に後天的な欲求を構成するためのモデルと、
その欲求を評価する際の指標について考えてみる。


考え方の方針としては、
人工知能が自分で欲求を作り出して自分で感じるための働きを作る事と、
その欲求を選択するための評価として、強い欲求、弱い欲求、などを決める基準を考えよう、
という事になる。

欲求モデルについては、
後天的というだけあって、先天的定義の刺激から感じるような欲求ではなく、
その対象について「自分が」経験し、後に欲しいと感じる欲求について構成する仕組み、
という事になる。

恐らく、ここ最近考えてきた「自我」や「主体性」が関わるものと思われる。

つまり、欲求対象について、自分との関わり合いの定義において、
その対象が「価値がある」「有意である」といった評価・選択の結果として、
その対象について「欲求」を感じるようになるモデルになるのではないか、
という事になる。

そして、その欲求に対する評価や選択に必要となる要素として、
今回のもう1つの目的の「評価の指標」が必要になる、という事になる。

知能における評価の指標や、評価の基準については、
先天的定義の刺激においては、感覚器官の受容体の一定時間における励起の回数・頻度が、
その刺激の強さに関係し、認識されやすさの指標になると考えられ、
これらの基準は先天的に、そういうものとして定義されている事になるが、
後天的定義の概感においても、神経細胞ネットワークの接続強度と関連数の多さが、
概感の情報としての構成のしやすさと情報としての強さに関係すると考えられるが、
実際に概感の情報としての強さが、想起のしやすさとして関係するかどうかや、
どのように用いられるかについて、考える必要がある事になる。
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人工知能の後天的欲求モデル:

これまで「欲求」については、
基本的には先天的定義の刺激に対する反応として、
身体に現れた状態が欲求の感覚として感じられると考えてきた。

つまり、欲求を感じる前に、もともとの身体内外の変化が存在し、
その変化の受容に対して刺激が構成され、
この刺激に関連した反応として身体性に現れる状態が、
「きっかけとなる刺激」に対する「反応の刺激」として新たに認識された場合に、
この「反応の刺激」における自己情報が身体性となった場合に、
その身体に現れる状態の感覚が欲求として感じられる、という事になる。

つまり、まず、先天的定義の刺激の構成とその認識や意識までについては、以下の順で、

身体内外の変化情報

受容

知能

定義(遺伝的に先天的に持つ「変化情報+自己情報」の先天的定義)

刺激の構成

事象プール

刺激の選択(認識対象として)

事象再生の場

変化情報から仮想の刺激+自己情報から仮想の身体性の構築

刺激の認識
↓←認識に連続性が有る場合
意識

「自分が刺激を感じた」という意識を感じる

これで、自分の実体の身体が刺激を感じたという感覚を得る事になる。

これが、刺激から概感に代わった場合にどうなるか、

概感は、構成される際のきっかけとして「刺激」または「概感」が用いられる。

つまり、刺激は変化情報の受容がきっかけで構成されるが、
概感の場合は、きっかけとして「刺激」または「概感」がまず必要になる。

上記の刺激の認識から意識のような書き方をすると、
概感の想起と意識は以下の様になる。

刺激または概感

関連する記憶の励起

知能

定義(経験として記憶された「変化情報+自己情報」の後天的定義)

概感の構成

事象プール

概感の選択(想起対象として)

事象再生の場

記憶された変化情報から仮想の刺激+記憶された自己情報から仮想の自分(元・身体性)の構築

概感の想起
↓←想起に連続性が有る場合
意識

「自分が概感を想起した」という意識を感じる

こういうことになる。

そして、この工程のどこで後天的な欲求が構成されることになるか考えると、

先天的定義の刺激の場合、欲求を感じるのは、
刺激を認識した後、つまり、刺激の意識以降、という事になる。
つまり、例えば身体的に空腹を感じて、飲食に対する欲求を感じる、
というのが一般的な感じ方である。
ただし、飲食に対する欲求を感じているので、空腹であると知る、
ということもあるかもしれない。

一般的な考え方であれば、
刺激に対する欲求は、
少なくとも刺激を事象再生の場で構築した後、
つまり、身体性が再現された後以降でないと感じられない事になる。
さらに言えば、先天的定義において言えば、
欲求が身体上に現れる状態であるとするなら、
欲求自体も身体性を必要とする先天的定義で定義されるものであると考えられるため、
つまり、欲求はきっかけの刺激に対して関連した先天的定義の事象として構成されるもの、
という事になる。

つまり、

上記で言えば、

身体内外の変化情報

受容

知能

定義(遺伝的に先天的に持つ「変化情報+自己情報」の先天的定義)

刺激の構成

事象プール

刺激の選択(認識対象として)

事象再生の場

変化情報から仮想の刺激+自己情報から仮想の身体性の構築

刺激の認識
↓←認識に連続性が有る場合
意識

「自分が刺激を感じた」という意識を感じる

欲求の認識や意識

ということになり、
欲求自体の構成はそれより前に行われている必要があるため、
刺激に対する欲求の構成が始まるタイミングは、
刺激の構成時ということになるため、

身体内外の変化情報

受容

知能

定義(遺伝的に先天的に持つ「変化情報+自己情報」の先天的定義)
↓→関連する定義→欲求の構成へ
刺激の構成

事象プール

・・・

こういうことになる。

つまり、少々ややこしいが、
例えば身体に何か不足が生じ、
それに対する刺激が、刺激Aであった場合、
この刺激Aに対して欲求を感じる為の刺激は別にあり、
この欲求を感じる刺激を刺激Bとした場合、
以下のような流れになる。

身体内外の変化(不足)

感覚器官での受容

知能→不足の刺激A→認識A(不足)

関連の励起

身体上に現れる変化(不足に対する反応として現れる身体の状態)

感覚器官での受容

知能

刺激B(不足に対する反応として現れる身体の状態)

認識B(身体の状態)

欲求(不足している事に対する身体の感覚)

つまり、刺激を構成する際に励起された定義には、
この刺激をきっかけとした欲求のための定義が存在し、
この刺激に関連した欲求を構成するルートが別に生じている、
という事になる。

ただし、実際には空腹と欲求の認識や意識の順序は決まっているか分からない。
上記の例の様に、空腹の感覚より先に飲食の欲求を感じる場合があると考えられるためである。

つまり、先に欲求の認識と意識が行われ、
その後で欲求のきっかけとなった刺激が認識されたり意識されたりする可能性もある、
という事になる。
これは、上記の工程で言えば、
刺激となる変化情報に関連した欲求の構成ルートが分岐するためであり、
その後の工程において、どちらが情報として強い、有意な変化であるか、
認識や意識に至るかという比較や選択が別に行われることになるから、
という事になる。


例えば、空腹を感じる際に、
ホルモンとしてグレリンやレプチン、インスリンやグルカゴンなどが関係しているとして、
これらの変化の刺激はあくまで「空腹」の状態を刺激として構成する為の変化情報となり、
身体性にその変化した状態として現れ「空腹」が感じられる事になるが、
欲求は、この「空腹」を身体上に現れた変化として認識や意識してから感じるものではなく、
先天的定義としてこれも半自動的に欲求が構成され、
刺激に対する反応として意識の介在なく準備されようとするもの、という事になる。

つまり、空腹の刺激が認識や意識されるのであれば、
先天的定義である欲求は、この空腹の刺激に合わせて準備され、
この欲求も認識や意識される用意が行われている、という事になる。

空腹の刺激を認識したり意識しても、飲食の欲求が必ず認識されたり意識されるわけではないし、
逆に飲食の欲求を認識したり意識しても、空腹の刺激が必ず認識されたり意識されるわけではない。
少なくとも必ず先に空腹の刺激を構成する変化情報は必要になるが、
空腹の刺激が構成されれば、空腹に対する欲求も構成される事になると考えられる。

そして、
先天的定義の刺激から関連する欲求が半自動的に生じるのならば、
後天的定義の概感からも同様に欲求が生じると考えると、
刺激に対して欲求を構成する機構が先天的に存在するなら、
概感に対して欲求を構成する機構は、後天的に存在する、
つまり、後天的に構成されるはず、という事になる。

つまり、概感が刺激を経験した自分の身体性の記憶であるなら、
その記憶の再現である想起においては、
刺激であった記憶、身体性であった記憶に合わせて、
欲求を構成した記憶も後天的定義として関連しているであろう、という事になる。

つまり、自分が欲求を感じるような刺激の経験をしたのであれば、
これを記憶して想起する場合、
その概感は、自分が欲求を感じたような刺激の記憶として構成されることになるだろう、
というわけである。

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2025/7/8

後天的定義の欲求モデル:

概感が刺激又は概感をきっかけとして、その関連する事象として励起される事を考えると、
後天的定義の欲求は、
きっかけの刺激又は概感に関連した、自分に対する状態変化を含む概感として構成されるもの、
という事になる。

つまり、
刺激の様に実体の状態に現れる変化ではないが、
概感であるということは、以前経験した事のある自分に関連した欲求に対して、
この欲求として感じた事を経験として記憶してあり、
この記憶から想起対象として概感が構成された場合に、
以前自分の身体に現れた欲求の感覚であるような経験が、
概感として構成され、これが想起される事で、
自分が以前経験した何かを欲する状態が再現されるのではないか、という事になる。

つまり、後天的定義の欲求は、
実際に経験した事のある対象に対して欲求の状態が構成される事、という事になる。
まあ、文字通りの意味で言えば、当たり前の事なのだが、
その構成という点から考えると、

欲求を感じる対象と、欲求そのものの感覚というのは、
元々関連があるわけではなく、
対象に欲求の状態が関連付けられたものではないか?
という事になる。

これは先天的定義の刺激に対する欲求についても同様で、
ある変化情報に対する刺激と、欲求についての反応の刺激は異なっている。

つまり、
知能を構成する初期段階での例として、
以前用いた腔腸動物の例で言えば、
腔腸動物が欲求を感じるわけではないが、
対象を食するという基本的な行動に対して、
神経的な働きの単純な例として考えると、
接した対象が食べ物であるのか、忌避するべき物であるのかを決めるのは、
接した対象から得られる変化情報として受容した情報に対して、
先天的に持つ定義として対象を特定する定義に含まれているのではなく、
特定した対象に対する比較や反応の定義を含む事で決まる事になる。
つまり、その受容した変化情報に対して、反応を起こす側の定義が合わさる事によって、
欲求の定義が含まれている事になる。

つまり、

接触

接した対象の情報(変化情報)

神経細胞(対象の特定のための定義を含む)

対象の特定

神経細胞(対象に対する反応の定義を含む)

反応の特定

運動細胞などへ

つまり、接した対象が何であるのか、という特定する定義を用いる一方で、
その接した対象が決定し、その決定した情報に対して、
自分が反応するべき対処の定義が持ち出され、
反応する動作や自身の活動が決定する。

この場合、対象を食する事を食の欲求による結果であると考えれば、
接した対象に対して食の欲求の要素が含まれるのは
反応する動作や自身の活動としての「対象に対する反応の定義」に対して含まれる、という事になる。

つまり、ある変化に接触するだけで欲求が生じるわけではなく、
その反応が構成される事によって、欲求が構成されている事になる。
また、逆に考えれば、
もし、反応側だけの動作が単独で起こったとしても、これは欲求とは言えないという事になる。


つまり、先天的定義として存在する欲求は、
その欲求の対象の定義は先天的に決まっている事になる。
もちろん、その反応も先天的に決まっている。

そして、後天的定義の欲求は、
対象は後天的に経験する対象であるので、
先天的にその反応が欲求を生じるようには定義されていない。
あくまで、後天的に経験する対象であり、
この対象について欲求を感じるのであれば、
この後天的な対象に対して欲求の感覚を関連付ける必要がある。

そして、この後天的な対象には、何でもかんでも欲求が関連付けられるわけではなく、
知能によって、何らかの意味や価値が定義づけられ、
後に、この対象を認識又は想起する場合に、欲求を感じる場合がある、という事になる。

つまり、先天的定義としての欲求と、後天的定義としての欲求は、
基本的には、どちらも、

欲求=対象+欲する状態

こういう事なのだが、それぞれを定義として考えると、

先天的定義としての欲求=先天的に定義を持つ変化+先天的に定義を持つ反応(欲する状態)

後天的定義としての欲求=後天的に経験する変化+先天的に定義を持つ反応(欲する状態)

という事になる。

つまり、先天的定義としての欲求は、
欲求が関連付けられた対象というのも先天的に定義されている事になる。

しかし、後天的定義としての欲求は、
欲する事自体は後天的に定義するものではなく、
というか、後天的に定義できるものではなく、
欲求する事、そのものは先天的に定義を持つ反応を用いる事になるのだが、
欲求の対象は、先天的に定義が存在しない為、
後天的に認識した対象を経験として記憶し、
その対象に欲求する事を関連付けて、
欲求の対象とする事になる。

つまり、後天的定義としての欲求は、
元は先天的定義の欲求を体験した事を、経験として記憶し、
この経験として持つ欲求の定義に対して、
後天的に体験する変化に対して関連付けたもの、という事になる。

つまり、欲求そのものの定義が後天的に定義されるわけではなく、
欲求を感じる対象は後天的であるのだが、
欲求を感じる定義そのものは、先天的定義の定義を用いている事になる。
ただし、直接的に用いているわけではなく、
後天的な新たな関連を構成する事で用いているという事になる。
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2025/7/7

評価の指標について:

欲求の比較選択に限らず、事象プールにおける認識や想起の対象の比較選択も、
同じ評価の指標を用いる事になると考えられるが、
刺激の例で言えば、
感覚器官の受容体の励起の頻度がその刺激の変化の情報としての強さとして、
比較選択の指標になっていると考えられる。

であれば、概感においても、その関係する神経細胞ネットワークにおいて、
この概感を構成する定義が、どれだけの頻度で励起されるのか、
これが評価の指標の元になると考えられる。

感覚器官の受容体でない後天的定義の定義の関連においては、
シナプス接続の強度も関係する事になるが、
その定義の関連の数自体も関係しているという事になる。

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2025/7/7

昨日の続きで「評価の指標について」だが、
後天的定義の特定の定義が概感として励起される場合、
神経細胞ネットワークとしては、特定の神経細胞の集団をまとめて励起する事になる。

この集団の定義自体が後天的定義という事になるが、
この集団を定義たらしめる関連は、
神経細胞ネットワークとしての神経細胞同士のシナプス接続という事になる。

恐らくこの接続は、接続としての上位から下位に渡る方向性のようなものがあり、
基本的には再帰やループはしないものと考えられる。

ただし、接続の分岐などは存在するであろうと考えられるため、
例えば特定の何かを想起する為に概感を構成する場合において、
その特定の何か以外の何かも概感として構成される可能性はある、という事になる。

つまり、局所的な接続においては再帰やループは起こらないが、
全体の想起の連続性などにおいては、その限りではない、という事になる。

そして、実際に特定の目的を持った想起の場合、
概感は、その特定の目的に従った概感が想起される事が機能自体として期待され、
目的に従った概感以外の概感を想起する事はほとんど無いと考えられる。

つまり、この目的に従った概感を構成する事と、
目的以外の概感が構成される可能性がある、という事の間に、
概感に対する「評価」が関わり、
目的にとっての「もっともらしい」概感の選択が行われ、
この選択には何らかの「指標」が用いられているのではないか、という事になる。

そして、昨日の考えていた内容としては、
概感については、神経細胞ネットワークにおける、
特定の概感を構成する上位の神経細胞に対する励起の起こりやすさ、
つまり、さらに上位の神経細胞からのシナプス接続の強度の強さと、
その特定の概感を構成するきっかけの神経細胞に接続される上位の神経細胞の数が、
関係しているという事になる。

ただし、この場合、神経細胞ネットワークにおいては励起が分岐する可能性が有り、
目的以外の概感が構成される可能性が有る。
そして、概感の選択が行われる必要があるが、
この時、何をもってその比較が行われることになるかと考えた場合、
個々の概感の情報としての重要度ではなく、
何か励起の分岐が起こりにくい機構があるのではないかと、今気づいた。

つまり、概感の構成のきっかけが刺激の場合は、
刺激が明確であるため、刺激→概感の関連が強く、
この特定の分岐を優先する誘導する力が弱いと考えられるが、
概感の構成のきっかけが概感である場合は、この分岐を誘導する力が強いのではないかという事になる。

それは、概感が元は刺激の認識における経験としての定義の記憶であるため、
個体の知能特有の記憶の方向性のようなものが存在するのではないかという事である。

つまり、記憶の仕方、定義の仕方に既に方向性が有るのではないか、という事である。

つまり、生命が科学的な化学物質の組成から決まった機能を用いて構成されている様に、
人間の知能について言えば、人間の知能で共通する記憶の方向性や、
個体の知能の固有の記憶の方向性のようなものがあり、
この方向性に従って、ある程度決められた経験の記憶をするのではないか、
という事になる。

つまり、人間がある出来事に遭遇した場合、
この出来事を刺激として認識し、経験としてその定義を記憶した場合、
人間の個体毎に共通する定義と、個体毎に異なる定義がそれぞれ記憶され、
これを想起するとして概感を構成した場合は、
これらの定義が優先して概感として構成され、
他の概感は構成されづらい仕組みになっているのではないか、という事になる。

つまり、ある出来事に対する記憶は、
この出来事に対する生命の種として共通する定義と、
知能の個として異なる定義があり、この2つがセットになり概感の定義、
つまり、後天的定義となる。

そして、いざ、この出来事を想起しようとした場合、
出来事に対する関連した分岐の対象となる概感の励起の方向へは誘導されづらい仕組みがあり、
それは、上記の共通する定義か、固有の定義が励起の方向を誘導しているのではないかという事になり、
では、その理由はと言えば、
何かその上位に、誘導する方向性を決める要因が存在するのではないか、という事になる。

では、この概感の励起を誘導する方向性を決める要因は何であるか?という事になる。

まず考えられるのは、神経細胞ネットワークが一方通行の励起であるなら、
その元となるどこかに起点が存在し、その起点の中に励起を継続する、
つまりここではループする仕組みがあっても良い事になる。

そして、ループや連続性ということになると思い当たるのは、
事象再生の場における認識や想起の連続性とその連続性の上に成り立つ意識、
という事になる。

そして、事象再生の場における認識や想起の対象である、
刺激や概感の選択の優先度ということになると、
事象プールからピックアップされる基準により、この優先度が決まる事になる。

つまり、事象プールから認識又は想起するための刺激または概感の選択基準が、
結果的に概感の励起を誘導する方向性を決める要因になっている、という事になる。

つまり、ある概感を想起する、という事は、
その概感が構成されるきっかけである、刺激又は概感の選択時に、
以後の概感の励起の誘導する方向性が決まるという事になる。

つまり、例えば、ちょうどいま夏なので、私が昔見た花火を思い出したとすると、
この花火の場面の概感を励起する前に、その概感の励起を誘導する刺激又は概感が存在し、
その刺激又は概感によって、花火の場面以外の概感が想起されることなく、
花火の場面が概感として構成されたという事になる。

ただし、絶対に花火の場面以外の概感が励起されなかったというわけではなく、
きっかけの刺激や概感に対しても主目的でない概感は構成されていると考えられる。
ただし、これらは事象プールにおいて想起の対象とはならず、
恐らく時間経過で忘却される事象という事になる。

では、なぜ私が思いついた夏の花火の場面が想起対象になったのか考えると、
今考えて書いているこの文章において例を挙げる必要性を感じたり、
つまり、考え方の習慣として例を挙げる経験を思い出したり、
7月7日で七夕を思い浮かべていたり、
周囲が蒸し暑かったので、暑さの刺激のきっかけの概感として夏を思い出した、

そして、それらが関連した結果として、
私が例として思いついたのが夏の花火を見た場面、という事になる。

そしてこの例から分かるのは、
事象プールからピックアップされる基準というのは、
知能が何らかの存在、立場として、
つまり意識を持つ存在のような立場として、
比較して選択する、というものではなく、
あくまで、刺激と概感の構成、それらの認識や想起の連続性の中で、
ある瞬間に最も強い情報として構成された刺激や概感が選択され、
その刺激や概感が認識や想起され、
結果的に意識される、という事になる。

つまり、主体的に選んでいるのではなく、選ばれた結果に注目しているだけ、という事になる。

では基準は存在しないのか?という事も思いつくが、
そうでもなくて、刺激や概感を構成する為の定義、
つまり、先天的定義や後天的定義は、
知能を持つ個体、知能を持つ生命が遺伝的に保有する定義であったり、
実際に実体で経験した定義であり、その定義が、
知能にとってどれだけ重要な情報であるか、
その基準はこの定義に含まれている事になる。

つまり、神経細胞ネットワークのシナプス接続の強度であったり、
神経細胞に関連する接続の数が、
この知能における、
この定義の情報としての重要度を決める基準になっているのではないか、
という事になる。

この強度や関連する数というのは、知能が何か意識的に操作しているわけではなく、
あくまで生命における知能としての機能として、
その体感した刺激や、思い出された概感に対して、
知能が「自発的に定義した構成」、そのものという事になる。

今日書いた文章は少々内容が重複したり、再帰的になっている文章もあるが、
私の今の考え方そのままを連続性を持って表したとすると、
この内容はそのまま私の知能における思考の方向性や、誘導の順番、
その想起の関連の定義そのもの、という事にもなる。

つまり、私の知能が持たない新たな定義に対して、
あれこれ思い出したり、今の刺激をきっかけにして想起したり、
考えを繰り返したり、分岐したりして、今に至るという事になる。

現時点で答えに到達したとは考えていないが、
評価の基準というのは、
先天的定義における評価は、遺伝的に継承された定義に含まれる、
情報としての重要度がそのまま用いられ、
刺激の認識の際の重要度や優先度の基準に用いられていると考えられる。

また、後天的定義における評価は、経験としてもその定義の基底は先天的定義であるが、
個体が経験する頻度や感覚器官の個体差によって、概感を構成する際の定義は異なり、
それらの定義を構成する際の関連の元の対象やその数も異なり、
個体毎、知能毎にその定義と基準は異なる事になる。

ただし、生命本来の先天的定義から構成される刺激はある程度共通する部分があり、
これは生命としての種においてはある程度似通った定義で後天的定義が構成される可能性は残る。

そして、後天的定義における評価は、その概感を構成するきっかけの刺激または概感との関連が、
励起されやすさが、そのまま情報としての重要度として用いられ、
概感の想起の際の重要度や優先度の基準に用いられていると考えられる。

これらを簡単に言えば、
要するに刺激や概感の励起されやすさが、
情報としての重要度や優先度として用いられているのではないか、という事になる。

そして、この励起されやすさというのは、
刺激の先天的定義においては遺伝的に継承され、身体の構成に合わせて身体上に定義が展開され、
概感の後天的定義においては、個体が経験する刺激の経験と、
刺激又は概感から概感が構成される事自体を経験として、その定義が構成され、
想起される際にその定義がそのまま利用される。
という事になる。

つまり、評価の指標の全てではないが、
神経細胞の接続における励起のされやすさが、
そのまま評価の1つの要因として用いられているのではないか、
という事になる。

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2025/7/11

まず、今日考えていたのは、
後天的な欲求モデルにおいて、
その後天的な欲求として感じられるものが、
どの時点で選択が決定するのか、という事で、
事象が事象再生の場に送られた時点では、
既に認識か想起されることが決定しているので、
それ以前ということになり、
その前段階としては事象プールということになり、
この事象プールから認識又は想起するための、
刺激または概感をピックアップする働きで事象の選択が起こっていると考えられるため、
つまり、事象の選択の為の比較は、
この時点で行われている、という事になる。

そして、この事象プールからのピックアップにおいて、
刺激又は概感の何を比較して選択が行われているのか、
という事について考えていたのだが、
刺激はその刺激の情報の強さの指標は、
感覚器官の受容体における励起の頻度、という事になるが、
概感の場合は、変化情報は刺激の経験としての記憶であるので、
概感自体における変化情報というのは励起の頻度が上昇しても、
変化情報自体が情報として強くなるわけではない。
ただし、変化情報において代わりに情報として強くなるのは、
その概感の構成の連続性ということになり、
刺激のように強くなるということではないのだが、
励起の頻度が上昇すれば、より明確な変化の記憶として概感が構成されるのではないか、
と考えられる。

ただし、より明確な変化の経験を再構成したとしても、
強い刺激のように、強い概感になる、というわけではないと考えられるため、
では、他に概感を情報として強くする可能性があるのは?と言えば、
概感を構成する、もう1つの要素「自己情報」という事になる。

概感における自己情報は、
つまり、以前刺激を受けた際に身体性として構成された刺激の自己情報の記憶であり、
つまり、以前刺激を感じた際の自分の身体性の記憶、という事になる。

つまり、もう少し分かりやすく言えば、
「以前変化を感じた時の自分であった事の記憶」という事になる。

つまり、概感を想起する際の自分というのは、
直接的な身体性ではない、変化に対して構成された自分の定義であり、
例えば、空腹の刺激を経験したとして、
刺激では自己情報が身体性そのものであるのだが、
その刺激の経験は一度、後天的定義として定義しなおされて記憶される。

この時、空腹の刺激は、概感においては、
空腹の刺激について関連する自分についての定義が後付けされることになる。

つまり、

刺激として、変化情報から刺激が構成されるのだとしたら、
つまり、

変化情報

感覚器官

受容

知能

定義(変化情報(刺激)+自己情報(身体性))

刺激

であるとすれば、刺激を認識するまでの工程の中で、
概感は、刺激の構成そのものから、
概感の定義が構成される事になる。
つまり、

刺激→経験への変換→後天的定義の構成

事象プール

ピックアップ

事象再生の場

認識

意識

において、

刺激から経験への変換

変化情報(刺激の変化情報)+自己情報(身体性)

概感の変化情報の定義+概感の自己情報の定義

後天的定義の構成

記憶

という事になり、
この場合の、概感の変化情報の定義+概感の自己情報の定義
は、
概感の変化情報の定義は、刺激で認識される変化情報ではなく、
想起対象であるので、ある刺激に関連した自身の反応すべき定義が、
この変化情報になると考えられる。
つまり、空腹が刺激であったなら、空腹に対する概感の変化情報の定義は、
空腹に対して自分がどのような変化を感じたか、という定義、という事になる。
つまり、一般的な空腹に対する反応を考えるとすれば、
「何かが食べたい」という定義、という事になる。

また、
概感の自己情報の定義は、刺激と同じ自己情報としての身体性ではなく、
(これは身体性であると想起した概感が実体験のように感じられてしまう事からも違うと言えて、)
上記の変化情報に対する反応を起こした存在としての「自分」についての定義という事になる。
つまり、上記の空腹の例において言えば、
概感の自己情報というのは、「何かが食べたかった自分」の定義、という事になる。

つまり、空腹の刺激に対して、後天的に定義された、
「何かが食べたい」感覚と、その感覚を覚えた存在として関連付ける「自分」の定義という事になる。

つまり、後天的定義は、刺激の変化情報と身体性に関連する、
後付けの定義、という事になる。

つまり、基本的に刺激なしに概感は定義できない事になる。

まあ、それだとこれまで言い続けてきた、
「概感は刺激又は概感をきっかけとして想起するもの」という考えにおける、
概感から概感を想起する事について、
概感から概感が構成出来る事に反する事になるが、
今回はとりあえず、刺激から概感の定義を構成する事だけに注目したとして考えて欲しい。

そして、話を戻して、
概感を情報として強くする要素としての「自己情報」についてだが、
概感の変化情報が連続性に対してあまり変化を生じない情報であるとすれば、
概感の自己情報が励起か、連続性に対して変化が大きくなる情報であれば良い事になる。

概感もその構成時には事象プールに発現する事になるが、
この事象プールから事象再生の場で構築される際のピックアップ対象になるには、
事象プール内の、他の刺激や概感の中である瞬間最も強い情報であれば良い事になる。

意識の連続性として、刺激の認識か、概感の想起は、どちらか一方のみが、
ある瞬間の事象再生の場での構築対象になる、という制限がある。
つまり、刺激を事象再生の場で構築している間は、刺激が認識され意識され、
概感は想起や意識できない事になり、逆も同じ、という事になる。
つまり、この意識対象が明確である間の時間は、
事象再生の場において、
刺激の認識か、概感の想起が、連続的に行われている状態、という事になる。

この時、次に認識か想起される刺激か概感が事象プールにあり、
意識の連続性を保つためにも、次に認識か想起される刺激か概感はピックアップされようとしている。

そして、この時、概感が選択される為に、概感の自己情報が重要である、
という事になるが、この自己情報を情報として強くするためには、
どうしたらよいか、という事になる。
神経細胞において、ある定義の再構成が強いということは、
単発の励起の強さや関連の数ではなく、頻度が関係しているという事になる。

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少し話は変わって、今気づいたのだが、

事象再生の場において構築された仮想的な事象が、
概感の場合においてのみ励起の再帰を可能にしているのではないだろうか。

つまり、刺激の場合は事象再生の場で仮想的な身体性として構築されたとしても、
それは自身の実体験として経験となる時点で、その連続性が閉じる。
つまり、現実で変化を受容し続けて、事象再生の場で身体性が構成し続けられる間は、
確かに連続性があるのだが、刺激から刺激に関連付けられることは無い。

あくまで刺激から関連付けられるものは概感のみである。
そして、概感を構成するきっかけとして概感が用いられる事がある、
という考えからすると、概感から概感への関連付けは存在する事になる。

つまり、刺激は現実世界から変化を常に受容し続けない限り、
連続性の断絶は起こるのだが、
概感は、概感から概感への関連付けが存在すれば、
事象再生の場で概感が想起された場合、この想起された概感について関連する概感が、
その想起の連続性からの意識されることに対して、想起が起こるのではないか、
という事である。

つまり、
これは事象プールでの働きになるが、
通常、事象プールに発現する刺激は、感覚器官の受容体から受けた変化情報を、
知能の先天的定義から再構成される。
そして、概感は、この刺激の構成過程で関連した経験の記憶から概感となる、
後天的定義が励起されることになる。

つまり、

刺激→概感

という関連は、普通に起こることになる。
そして、概感から概感

つまり、

概感→概感

の想起というのは、最初の概感が事象プールに発現した際には、
既に関連した概感は定義から励起されて再構成されようとしている。

つまり、この概感から概感の関連において、
自己情報はその励起の連続性の上で、強い情報になっているのではないか、
という事になる。
つまり、概感の関連の連続性の上で、自己情報の励起の頻度が積算しているのではないか、
というわけである。

刺激の身体性は、身体の特定の部位で完結するが、
概感の自己情報は、自主性や自我としては明示できないが、
仮想的な自己の存在としては概感の構成の上では共通した存在である。
であれば、概感→概感という関連する想起が起こった場合、
自己情報は励起対象として頻度が上がっていると考えられるのではないかという事になる。

されに言えば、概感から概感の関連が多くなればなるほど、概感の連続性として、
自己情報が強くなる可能性が大きくなる。

つまり、連続して想起できる能力が向上するようになる、と言えるという事になる。

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2025/7/12

昨日の続きで、
新たな考え方を追加する事になるが、
神経細胞ネットワークにおいて、ある神経細胞は、励起後に、
数ミリ秒の励起の起こらない状態が存在する。
これはNa+K+交換や、エネルギー的に、という物理的な問題があるのだが、
この事を、

概感→概感

の励起における再帰の可能性について考えると、
後天的定義のシナプス接続が、かなり複雑な関連を持っていたり、
再帰の接続が存在する事をふまえ、
ある想起における、関連を持つ一連の事象群を、
概感として連続性を持って次々に構成する事を考えると、
ある一連の事象群は、全て共通する「自己の定義」と関わり合いを持つ、と考えられる。

つまり、概感の変化情報は、刺激の変化情報を元にした関連から構成されるが、
概感の自己情報は、自身の経験としての「自己」については、
どのような経験であっても、必ず共通する核心である「自己」に関連している事になる。

つまり、

刺激の変化情報→概感の変化情報

刺激の自己情報→概感の自己情報

であるのだが、
刺激の変化情報は、刺激毎に異なり、
概感の変化情報も、定義を利用される刺激毎に、
その構成は異なるが、

刺激の自己情報は、身体性であり、
身体毎の部位は異なるが、刺激の種類に関わらず、
「自分の身体」としては共通する定義となる。
そして、概感の自己情報も、この刺激の身体性としての定義を利用するが、
その根底にある「自分の身体」という定義については、
その経験として記憶される際には、その後天的定義の構成は、
共通する自己情報の定義、ということになるのではないか、というわけである。

そして、この概感の再帰の可能性についてだが、
ある概感を想起して、事象再生の場で構築した仮想的な変化と仮想的な自分は、
仮想的な自分においては、その概感の前に想起した自分も、
恐らく次に想起する自分も、
その根底では共通する「自分」に対して関連を持つのではないか、という事になる。

つまり、
刺激においても身体性においては、共通する連続性を持ち、
身体で感じる刺激は、連続的に存在する身体が、連続的に存在し、
次々に刺激を感じているように感じるが、
概感においても、自己情報においては、共通する連続性を持ち、
想起するための概感は、連続的に存在する「自分」が、連続的に存在し、
次々に概感を想起しているように感じているのではないか、
という事になる。

この話は、最終的に意識の連続性として、
刺激や概感の連続性が維持される理由についての話になる。

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そして、話をさらに戻して、
後天的な欲求がどの時点で想起の対象として確定するのか?の話に戻る。

まず、定義においては、

ある事象が、刺激や概感として構成されようとしている際、
つまり、事象プールに刺激や概感を発生させようとする際、
この刺激や概感の「変化情報+自己情報」については、
刺激はある最初の変化情報に対する身体性において、
先天的に存在する固有の反応としての関連する刺激というのは存在する。

つまり、例えば、「空腹」の刺激に対して、
「食物を欲する」反応が欲求として現れるようなものである。

一方で概感は、きっかけの刺激または概感の変化情報に対する、
「自己」において、後天的に存在する固有の反応は、
きっかけの刺激または概感に対して新規に構成されるものではなく、
後天的に、恐らくこの概感が構成される以前に自身が体験し、
経験として定義が構成され、記憶された定義である、という事になる。

つまり、
後天的な欲求の定義は、過去のある体験した事象に対して、
自身が欲求を関連付けるよう定義された場合に、
後天的定義の欲求として成り立つ定義となる、という事になる。

つまり、
刺激については身体的な感覚として現れる評価基準や指標は先天的定義に存在する。
しかし、
概感については、身体的な感覚としての評価基準や指標は存在しないが、
後天的に体験し、経験として定義され、記憶されたものが、
後天的な評価基準や指標の定義として用いられる。
という事になる。

そして、欲求の定義の再生においては、

刺激においては先天的定義にある変化に対する固有の欲求の定義が存在するので、
刺激の再生に合わせて、関連する反応として欲求が生じる事になる。
概感においても、後天的定義としてある変化に対する後天的な欲求の定義が存在すれば、
概感の再生に合わせて、関連する反応として後天的欲求が生じる事になる。

この違いは、後天的な欲求の定義が、欲求としての情報の形を持ってはいるのだが、
その評価の基準や指標が、体験や経験によって異なる事、
つまり、個々の知能の体験や経験において、その定義が異なる事になる。

例えば、ある環境Aにおいて、ある食物Aは皆が欲しがり、価値がある物であれば、
その環境における知能Aは、その体験や経験によって、食物Aを欲する定義が構成される。
また、別の環境Bにおいて、ある食物Aは忌避されるべきものであり、価値が無い物であれば、
その環境における知能Bは、その体験や経験によって、食物Aを欲しない定義が構成される。

この場合、知能Aと知能Bにおける、食物Aに対する定義は、
環境の違いにおける体験と経験の違いによって定義されるという事になる。

しかし、後に知能Bを持つ個体が、食物Aをこっそり食べて「美味しい」と感じたとする。
つまり、後天的定義の、さらに後天的な体験や経験によって、
元々持っていた定義とは異なる定義を得て、知能Bは食物Aに有益な価値を定義すると、
知能Bは食物Aに対して、元々は価値が無いが、後付けで価値がある定義を持つ事になる。

そして、この評価や指標の元になっているのは、
今回の例では、環境から体験や経験して得た定義と、
実際の「美味しい」と感じた体験や経験による定義、の2種類がある、という事になる。

環境から得た定義というのも、身体上で感覚として得た定義というのも、
どちらも体験や経験として得た定義、ということは共通する。

しかし、与えられた定義と、実体験した定義という違いがあり、
恐らく、
この場合、欲求を比較した場合、身体上で実体験した定義の方が優先されると考えられる。
つまり、刺激として強い情報であると考えられる。

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2025/7/19

少し長くなってきたので今回の内容をまとめると、

全体の課題としては、
先天的定義としての欲求の定義が必要になる。
つまり、先天的定義自体を先に定義する必要がある。


人工知能としての後天的欲求モデルとしては、
基本的に欲求は、

先天的定義としての欲求=先天的に定義を持つ変化+先天的に定義を持つ反応(欲する状態)

後天的定義としての欲求=後天的に経験する変化+先天的に定義を持つ反応(欲する状態)

このような構造を持ち、
この後天的定義としての欲求に対しては、
「後天的に経験する変化」に対して、どのような「先天的に定義を持つ反応」を関連付けるか、
という事になる。

そして、この関連の構成については、
個々の知能の体験や経験において、その定義の方向性のようなものは異なるが、
変化情報としては、
先天的定義の刺激として得る事になる体験の後天的定義、
または、
先天的定義に無い体験の後天的定義が、その対象となる。
そして、
この変化情報に対して、
「先天的に定義を持つ反応」を関連付けた構成という事になる。

この関連付けにおける「評価や指標」については、
知能を持つ個体において、これも先天的定義に含まれるのだが、
体験を経験として構成する際の定義の「方向性」のようなものを、
あらかじめ決めておく必要がある。
つまり、後天的定義の定義の仕方、とでも言える方向性である。

後天的な価値や評価、指標というのは、
先天的な「方向性」により定義の在り様が誘導されると考えられるが、
環境や実体験によって、ある程度個体差は生じると考えられる。

そして、生得的に保有する方向性以外にも、
後天的な環境などから得る方向性、
例えば社会構造や思想、集団における役割などの定義も、
後天的で可塑的な方向性として必要なのではないかと考えられる。
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全体を通して課題は人工知能に与える「先天的定義」という事になるが、
これについては改めて考える事にする。

今回はこの辺で。

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