2025/6/28-2025/7/4

主体性の定義


主体性や主観的である事の定義の妨げになっている自己言及や主観と客観の立場の問題は、
知能が自己言及する為の自己としての存在を、知能が構成している為、
知能が自ら構成した自己の視点に立つことができないことに起因する事が問題であるのだが、
考え方を変えれば、
人間の知能が主体性を持つことが出来るなら、
知能が自己の視点に立たなくとも、知能が自らを構成するならば、
それで主体性や主観的である事は構成できる可能性はある、という事になる。

前回の自我や、以前の意識の定義について加味して考えると、

主観的視点を持つべき立場の自分を構成するのは、
自分にとって客観的な知能であるが、知能は自分にとっては客観的存在であって、
主体性そのものとしての主観的存在では無い。
ただし、自分の主体性の感じ方は主観的であり、
この主観的に感じている自分は、自分にとっての客観的な知能が構成している。

何だかわかりづらい表現だが、
つまり、
知能が集合の全体であれば、
自分はその要素の1つになる。
そして、自分という集合の中に、
主体性や主観的視点という要素が含まれているのではないかという事になる。

つまり、自分が主体性を感じる感覚としては、

知能→自分→主体性や主観的視点

という構成になっていると感じるのだが、
実際には主体性や主観的視点というものは要素ではなく、

知能にとっての自分Bという要素とは別に知能の集合とは異なるもう1つの自分Aという集合があり、
実際には、

自分A→知能→自分B↓
↑←←←←←←←←←←

このような循環になっている。
集合の循環というのもおかしな話だが、

つまり、自分Bから見た自分Aが主体性や主観的視点として感じられるものという事になる。

ただし、自分Bは知能が自分Aを再現して構成したものであり、
自分Aそのものではない。

また、自分Bから見た自分Aは、
自分Bにとっては「自分」そのものであるのだが、

自分A=自分B

ではない。

つまり、本質的な事を言えば、
実体の自分Aと、知能が作り出した自分Bは違うという事になる。

知能が作り出した自分は主体性や主観的視点を持つ事ができるが、
実体の自分ではない。

つまり、これは、知能が作り出した自分に対して、
知能はその作り出した自分が主体性や主観的視点を持つ事の出来る対象を含めて作り出しているから、
という事になる。

つまり、

知能→自分↓
知能→対象←

この

自分→対象

の視点を含めて知能が構成しているから、という事になる。

つまり、知能は仮想的な自分に対して、
認識や想起を介して意識できるような刺激や概感を構成して、
この仮想的な自分に与えているために、
この仮想的な自分は、刺激や概感に対して認識したり想起したりすることで、
意識が出来る、という事になる。

しかし、ここで自己言及の問題が生じるのは、
知能が仮想的な自分に対して全てを与えているように見えるのだが、
実際は「実体」は何一つ情報として与えていない所が問題、という事になる。

つまり、知能は仮想的なあらゆる情報を自分を含めて構成しているが、
それらは実体そのものではない、という事になる。

つまり、実体と知能の境界である身体性は刺激の構成で用いられる自己情報になるが、
知能はこの身体性に対しては主体性や主観的視点は与えていない。
というか与えられないのである。

それは、刺激の構成が先天的定義であるが故に、
知能が刺激の構成に関与できないから、という事になる。
つまり、知能が扱うことが出来るのは刺激として構成された情報からで、
それ以前の対象については実際に関与できないから、という事になる。

つまり、知能は実体の身体に対しては下位の存在で、
知能は実体の身体が作り出した情報(変化情報)から下位の情報しか扱えない存在である。

つまり

上位・実体の身体→感覚器官→変化情報→下位・知能

という事になる。
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これまでの考え方に、「事象再生の場」の考え方を加えると、
考え方を少し先に進めることが出来る。

それは、事象再生の場における自己の存在の構築という点で、
自然界における実体としての自分の身体性は、
再構成という形を取るが、事象再生の場において自分の身体性のコピーがそのまま構築される。

つまり、実体の身体性ではないのだが、
仮想的な自分の身体性は、事象再生の場において構築され存在する事になる。

上記の例で言えば、
自分Bが仮想的な自分の身体性
自分Aは実体の身体性である。

この時、実体の身体性を構成する境界、
つまり、実体の身体性の二面性は、

自然界:(身体性):知能

という事になり、これは、

存在:(定義):存在

という定義の階層に相当するのだが、
知能が知り得る「身体性」は、
事象再生の場における「自分」が持つと感じる為、
この時の「自分」は、

実体の自分:(境界):仮想の自分

この境界に相当するものなのだが、
実際に知能内の事象再生の場で構成する、実体の自分と仮想の自分は、
どちらも実際の存在では無く、仮想の存在であり、

仮想的な実体の自分:(境界):仮想的な自分

定義:(存在):定義

このような定義の階層を持つ「自分」という事になる。

つまり、知能は本来「定義」であるはずの身体性を、
「存在」として構成する事しか出来ないため、矛盾が生じているという事になる。

つまり、本来「身体性」は、実体の身体を知能が解釈する時の先天的定義に属する「定義」であり、
生命としては、知能が刺激を感じる境界として構成される事がその目的であるのだが、
これを後天的定義の概感で意識しようとしたり、想起しようとしたりすると、
矛盾が生じるという事になる。

つまり、身体性は、本来先天的定義による「刺激」として構成される自己情報の定義なのだが、
これを後天的定義の身体性として用いようとした場合、
事象再生の場においては仮想的な空間の中の実際の「存在」として構築されるのだが、
知能にとってはあくまで、仮想的な実体としての存在であり、
「身体性」は無いはずの構成体である。

以前も話した事があるが、身体性を後天的定義の自己情報として用いようとすると、
例えば想起した概感を、今この瞬間に実体の身体で感じている刺激のように感じてしまうという問題が起こる。

つまり、身体性における主体性は、身体性が先天的定義に含まれると考えられるため、
身体性に限っては、その主体性は、身体性についての先天的定義の存在で定義できると考えられる。

つまり、主体性の持ち主の存在に関わりなく、
ある変化について反応する身体性を持つ存在があるならば、
その個体は身体性、および、主体性を持っていると言える事になる。

これは知能の有無に関わりなくである。

つまり、例えばボルボックスの走光性は、ボルボックス自身が知能や身体性を持つわけではないが、
その走光性に対して主体性は持っている様に見える。
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では、その先はどのように理解したらよいのか?という事になるが、

事象再生の場における自己の存在は、
仮想の存在だが、
その存在は、知能が定義として保有しうる「自分」の定義からできるだけ忠実に構成された仮想体、
という事になる。

つまり、身体を持ち、感覚を持ち、知能を持ち、自我や意識も持つ「自分」として構成される。

実際の認識や想起は、知能内で行われているのだが、その知能内の処理も含めて、
この自分の仮想体の中に存在する様に感じる事になる。

つまり、「これが主体性であるという自分」は、
全てこの「仮想体の自分」が感じるように現れる事になる。

つまり、これを逆に考えれば、意識や自我のような主体性が必要な事象について、
例えば人工知能に意識や自我を持たせる事を考えれば、
人工知能自身が、仮想的な自己とその仮想的な自己の視点を持てれば、
明示的に意識や自我を定義して実装しなくとも、
人工知能が意識や自我を持つ事ができるということになる。

つまり、少々難解だが、
主体性の定義というのは、自己の視点の定義という事ではなく、
自己の視点を持つ存在が持つ事になる定義ということになるのではないか、という事になる。

例えば、人間に類する動物以外に意識があって自我がないのは、
意識の視点は動物の知能でも再構成されているが、
自己の視点を持つ存在が再構成されていないから、ということになる。

つまり、自我における視点というのは、先天的な欲求などと違い、
自分に関わった事象において、その自分と対象の関係として、
自分がその対象に対して後天的な価値や満たされない欲求を定義して経験として記憶した時、
その経験を再現した時に構成される、
その経験としての価値や欲求に対して視点を持つ、
過去の自分であった経験を再現した自分の姿の視点ということになる。

つまり、例えば人間の幼児に自我が生じるのは、
先天的な知能には十分な能力があるが、
生後直後は後天的に自分である事の経験が無い為にまだ自我は構成できず、
この自分であった経験が常に想起の対象となるようになって初めて自我を常に意識できるようになる、
ということになる。

ということは、
ある動物に自我があるか見極める指標としては、
自我をその自我を持つ主体であっても証明することが出来ないので完全ではないが、
つまり、自己の自我について自身で提示できれば自我があると言える、という事になる。

簡単に言えば、自分で自分について表現出来れば自我がある、という事になる。

そして、話を主体性に戻すと、
自分自身について客観的に見る事の出来る自分を持つ場合、
それが自分にとっての主体性になるのではないか、という事になる。

ただし、これは自己言及であるため、
自己を提示している存在にしか、自分で証明できない事になるという制限は残る。
これは人間を含むあらゆる「知能」を持つ存在にとって、という制限になる。
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2025/7/1

主体性に関する今日の気づき。

まず、主体性が存在では無く定義であるとすれば、

主体性の二面性は、定義の階層において、

存在:(主体性):存在

という事になるが、
主体性として感じる感覚は、
どこに現れるのかと考えると、
1つは後天的定義の自己情報から構成した仮想的自分ということになり、
もう1つは自己、つまり、自分自身の実体の身体、という事になる。

であれば、
この場合、上位の存在は自分自身の実体の身体であり、
下位の存在は後天的定義の自己情報の仮想的自分という事になる。

つまり、

実体の自分:(主体性):仮想的な自分

という二面性と、定義の階層を持つ事になる。

つまり、主体性が発現する為には、
実体の自分と、仮想的な自分が存在する必要があり、
これはどちらが欠けても主体性が成り立たないという事になる。

つまり、実体の自分は身体性ということにもなるが、
実体の身体と主体性の定義が存在したとしても、
仮想的な自分が存在しないとすれば、
それは身体にとっての主観的な何かという定義の面しか存在しない事になり、
これは例えば岩石が存在するが、その岩石に主体性がある、と考えたとしても、
岩石は自身の主体性を構成しえないので岩石が自身の主体性を感じることは無い。
生命の身体を例にして言えば、
身体が存在して、刺激のような変化を単に受容する機能が存在したとして、
その事について、関連や発展した機能は何ら存在しないような状態である。
つまり、変化は受容して変化情報としては手に入れられるかもしれないが、
刺激の構成にも認識にも至らず、当然主体性も発現しようが無い。

つまり、変化を受容できたとしても、その変化を自分にとって何かの変化として用いる事が無い、
というような状態である。

逆に、仮想的な自分と自主性の定義が存在したとしても、
実体の自分が存在しなければ、
それは仮想的な個体にとっての主観的な何かという定義の面しか存在しない事になり、
これは、例えば仮想的にゲームの中にキャラクターが存在して、主体性が存在すると考えたとしても、
実際にそのキャラクターが存在するわけではないし、
そのキャラクターが変化を受容していると考えたとしても、
それは単に全てが仮想的なデータの構成ややり取りという事だけで、
実際のキャラクターの身体に対して反映されるような、何か変化として受け取られるものではない事になる。

つまり、この場合でも、仮に仮想体が変化を受容できたとしても、その変化を自分にとっての何かの変化としては、
用いる事が無い、という事になる。

つまり、ある存在に対する自主性が成り立つためには、
この存在の実体と仮想体の、それぞれ2つの「自分」が必要になるという事、
つまりこれが自主性の必要条件の1つという事になる。

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2025/7/4

主体性というのは、

ある存在が定義を用いて構成した存在、
つまり、ある存在にとっての下位の存在で、
それがある存在にとっての自身を映した像であり、
その像が得る全ての事象を、
この上位の存在が全て与えた時、
この下位の存在で、上位の存在の像が、
主体性を持つのではないか、という考えに至る。

つまり、

上位・存在A→下位・存在B

であり、

存在Aの保有する定義→下位の存在Bを構築

であり、

存在B=存在Aの像

であり、

存在Aが構成した事象→存在Bが利用する事象

である場合、

存在Bは存在Aとしての主体性を持つのではないか、という事になる。

つまり、
存在Bにとって、存在Aは、自分自身であると感じているのだが、
実際に存在Bは実体ではなく、存在Aが、自身が保有する定義で構成した仮想的な存在に過ぎない。
つまり、存在Aこそが実体であるのだが、実体そのものが自分自身を認識したり把握出来たりするわけではない。

つまり、実体という存在は、定義で構成されたものだが、
定義を持たない為、理解する主体にはなることが出来るが、
定義による解釈・理解が出来ない、という事になる。

つまり、定義の階層において、

・・・→存在→定義→存在→定義→存在→定義→・・・

ある存在が別の存在を解釈・理解するには定義を挟む必要があり、
例えそれが自分自身であっても、存在自ら自身の存在を解釈・理解はできない、という事になる。

つまり、存在を解釈・理解するためには、別の存在から定義を用いて解釈・理解する必要がある、
という事になる。
それが自分自身の存在であっても、というわけである。

つまり、人間の知能と人間の主体性においては、

上位の存在が人間の知能を含む実体であり、
知能が持つ定義を用いて、下位の存在である「自分」を存在させている事になる。

つまり、まず、

人間の実体(存在)→定義(自分の定義)→自分(存在)

こういうことになる。

そして、この関係は、実体が得る全ての事象の情報についても同様であり、
これらは実体が受容する変化に対する刺激や概感として構成されるものであり、
この刺激や概感の全ても自分の存在に対して起こった事象として構築される。

この辺りの話は「事象再生の場」における自分にとっての刺激や概感の構築そのものの話と重なる。

つまり、実体としての人間や知能にとって、
主体性は「実体である自分」が感じるものではなく、
自分を解釈して構築した下位の自分に対して感じさせるもの、という事になる。

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今回のまとめ:

今回の話をまとめると、
主体性を感じている自分は、実体の自分ではなく、
事象再生の場において構築される自分である、という事になる。

つまり、実体の自分が主体的になるのではなく、
仮想的な自分が主体的に、実体の自分について客観的に見ている、という事になる。

だから、実体の自分と、主体的な自分の間に自己言及の問題が生じる事になる。

ただし、どちらが先か?という問題はなく、
間違いなく実体の自分が先に存在する必要はある。

これは定義の階層の考え方からも、

存在→定義→存在

の順である必要はあり、
また主体的な自分は、実体を持たないが、存在であるため、
この存在が成り立つには、
何らかの上位の存在と、その上位の存在が持つ定義が必要になる。

つまり、人間で言えば、実体の身体と知能が上位の存在であり、
先天的定義と後天的定義が、この存在が持つ定義という事になる。

つまり、主体性の定義としては、
ある上位の存在が、その存在が持つ定義によって、自身の像を下位の存在として構築する時、
その下位の存在は、上位の存在に対して主体性を持つ事が出来る、という事になる。

ただし、単に自身の像を構築するだけではなく、
上位の存在は、下位の存在に対して、継続的に自身を構築するための情報を供給し続ける必要がある。
という事になる。
これはつまり、刺激や概感を連続的に構成し、
連続性を持つ認識や想起を行い、結果として連続性を持つ意識を維持するために必要、という事になる。

つまり、刺激や概感に含まれる自己情報の連続性が、
主体性を持つ自分の連続性を構成している事になる。
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今回はこの辺で。

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