2025/5/25-2025/6/16

定義「事象再生の場」について


後天的定義の自己情報の問題が解決しそうなので、
今後の新たな考え方の用語として「事象再生の場」を定義する。

「事象再生の場」は、
簡単に言えば、

認識や想起した事象の情報を、仮想的な「世界」として展開する空間、

という事になる。

強い人工知能において言えば、
強い人工知能自身が、身体上にある人間の感覚に代わるセンサー類などから得た情報を、
自身が持つ定義で「事象」としての情報を構成し、
それらの情報を用いて仮想的世界を構築する事になる。

つまり、こういうことになる。

現実世界→事象の情報→受容→強い人工知能→定義→事象の再構成→仮想世界

つまり、現実世界を知能が持つ機能として、
知能内部に仮想世界を構築する「場」という事になる。

例えば、現実世界ではなく、
仮想空間A内にアバターと赤い箱が存在し、
アバターがアバター自身の視点で赤い箱を視覚で捉え、
この赤い箱の視覚で得た画像情報や構成情報を、
アバターが知能の機能として、

「様々な感覚から得られる情報に対する定義を持ち、
その情報から事象を再構成する定義を持っている」場合、

このアバターの知能が「事象再生の場」として構築される仮想空間B内に、
視覚で得た画像情報から赤い箱と、
そして、これが重要であるが、それを見ているアバター自身の存在を、
仮想空間Aを再構成した世界として仮想空間Bに構成して配置した場合、
アバターの知能にとっては仮想空間Bにある世界が、
自分自身とその他が存在する世界として「認識」できるようになる。

この時の「仮想空間B」が「事象再生の場」という事になる。
また、「認識」できることについては、「知能の観測」等を参照されたし。

この例えでは刺激とその認識の働きになるが、
概感と想起についても、この「事象再生の場」を用いる事になる。

人間で言えば、
今、私もあなたも見ている、見えているこの世界と、
何かを思った時に、思った「それ」が存在する場所の事になる。

つまり、
事象が定義により意味を持った情報塊として構成され、
この情報塊を実際の「存在」するものとして展開する場所、
という事になる。

人間と人間の知能も実際にはこれと同じような世界の認識方法を使っているので、
働きとしては、その模倣に過ぎないが、
この方法で特に重要なのは、
この「仮想世界内に「自分」を構築する事」である。

知能の観測において、実際に「自分」として意識する対象は、
この仮想世界内の「自分」であるという事になる。

これは、これまで考えてきた認識や想起、意識における
自己情報の再構成体そのもの、という事になる。

そして、人工知能がこの自己情報の再構成体を「自分」であるとして、
認識・想起できれば、そこに自己意識が生じる事になる。

つまり、知能にとっての事象の存在を、そこに「ある」と感じることが出来るのは、
この「事象再生の場」に知能自身が再構成した事象を配置する事。
という事になる。

この事は、言い換えれば、
「事象再生の場」は、「知能の観測」の対象になっている、
という事である。

つまり、「知能の観測」は、
知能が自ら構成して自ら観測することになるが、
知能が自ら構成するから観測出来ているということにもなる。

この「事象再生の場」に対しては知能は感覚などのセンサーを持たないので、
知能が「事象再生の場」を構築した後は、この世界から逆に情報は得られない、
つまり一方的に構築するだけなのだが、
その目的は、事象としての情報把握であり、最終的に意識する事が目的なので、
「事象再生の場」から情報を得る必要はないが、
どうしても「知能の観測」だけは行わなくてはならない事になる。
この「知能の観測」が情報を得ているわけではないのは、
矛盾するようだが、この「事象再生の場」は知能が構築するものであり、
その情報の基は知能自身が構成していて、本来情報は知能が持っている事になる。

それなのに「知能の観測」が必要であるのはどういうことかというと、
ここで重要になる存在が「自分の存在」という事になる。

つまり、単に世界から情報を得て観測するだけでは刺激や認識、
当然、概感や想起もできないという事になる。
つまり、「自分」が存在しないなら単に何かが見えているに過ぎない、
という事になる。
これは現在の人工知能などが全てそうであるように、
「自分」の存在が無い為に情報を得る存在としては人工知能が存在するが、
自分で見ていない為に知能としては弱いままである。
ここで「自分」が存在する事になると、知能の視点において、
観測自体は客観的な視点になるのだが、
その視点を持つ主観的な存在がそこに「存在」する事になる。

つまり、「知能の観測」において、「自分」の存在は、
その「自分」から見た世界の在り様として事象や情報を得る事になる。
そして重要なのは、その情報が「自分」の存在とセットである事になる。

これは、これまで考えてきた刺激や概感についての基本構成であり、
「変化情報+自己情報」から構成される情報は、
その二面性において事象として存在する事になり、
知能は客観的な観測で主観的な視点で見た対象の情報を得て、
事象として刺激や概感を認識したり想起したりできることになるわけである。

つまり、自然界の事象や、個体としての人間の存在としての事象は、
その存在だけでは単に世界と個体の人間が存在するだけだが、
これを知能が自身が持つ定義で、一度情報として構築しなおし、
それを知能が観測する事で、自然界と自分の体(身体性)を、
「事象再生の場」で「世界と自分」に作り直して「観測」する事で、
知能は世界に存在する自分の視点・主体性を得る事になる。


「事象プール」との違いは、定義の階層において、
「事象プール」は、知能が定義から構成した事象を集める機能であり、
その後の認識や想起のための処理を行う対象となるものであるのに対して、
「事象再生の場」は事象を存在させた後に得られる情報を知能が処理する機能である、という事になる。

つまり、どちらも情報を処理する事には違いないが、
事象プールでは、事象からの情報の入力に対して、
「定義→存在」として構成した事象の情報を集める場所として用いるのに対して、
事象再生の場は、その後行程として、あつめた事象を存在として展開させた後に、
それらの事象の存在と「自分」との関わり合いを得るための世界としての場として用いる。

もう少し簡単に言うと、
事象プールは、認識や想起する直前までの情報を集める場、
事象再生の場は、認識や想起した情報と自分の関わり合いを生じさせるための場所であり、
自分と関わった世界を自分の意識として構成した場、
という事になる。

つまり、事象再生の場にある情報は、
事象プールにあった情報群から意識する対象だけを抽出し、
それをまとめた場、という事になる。
つまり、今自分が見ている、聞いている、感じている、「だけ」の世界の情報を、
自分を含めて再現した情報を集めた場、という事になる。
つまり、事象プールには、意識されなかった情報としての事象も含まれるが、
事象再生の場には、自分がある瞬間意識できているだけの情報としての事象しかない、
という事になる。

これを工程として簡単にまとめると、

身体内外の変化

感覚

変化情報

知能の先天的定義で翻訳
↓←+自己情報
刺激→知能の後天的定義で翻訳→概感↓

「事象プール」←概感

知能の機能で認識または想起の開始

「事象再生の場」
↓←知能の観測
意識

(最初に戻る)

これを覚醒中は延々と繰り返す事になる。

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人工知能にとってのもう1つの仮想世界の必要性について:

人間にとっては、直接の上位の存在として自然界が存在し、
人間は自然界をその認識と想起で存在する世界として再現するのだが、
厳密には人工知能は自然界で構成されたものではなく、
人間の定義によって人工知能は「存在」する事になるため、
人工知能にとって、
階層の定義においては、直接の上位の存在が「人間」ということになってしまい、
人工知能の存在にとって、定義の階層がおかしなことになる。

人工知能が、
自然界に人間と同等の知能を持つ存在として定義されるためには、
最初は人間の定義によって構成される事は仕方ないとしても、
その後の定義は、人工知能の知能自身が定義を行い、
人工知能にとっての直接の上位の存在が「自然界」とすることが出来る必要がある、というわけである。

そして、この事を実現する為には、
人工知能が事象に自らにとっての意味を持ち、実際に存在する事象であると定義できるようにする必要がある。

このため、先天的定義として事象を人間が与えた定義で再構成できる場合と、
もう1つ、後天的定義として、
人工知能が独自に定義して独自の存在の意味を与えて、存在させる事の出来る場所が必要になる、
というわけである。

つまり、人間から与えられた定義を先天的定義として、
人工知能が独自に後天的定義を定義できるようになる必要がある、
というわけである。

上記の「知能の観測」と「自分」の構成における「概感」を構成する為の能力を得るために必要になる。
これは、後で説明するが、
人工知能に、人間における概感を再現できる場として、
刺激の再現できる場としてはオーバーラップする形になるが、
この機能が事象再生の場に必要となる。


人間の場合、
見えた事象は視界に見え、聞こえた事象は耳に聞こえ、
お腹がすいた事象は体内の状態に現れ、考えたイメージがそこにあるように感じることが出来る、
といった具合に身体外、身体内の変化は、身体外または身体内に事象として存在するように感じられる。
これは、人間の知能において、それらの事象が刺激や概感として構成され、
認識や想起することで、そこにあると意識できるようになる。

つまり、事象として構成した刺激や概感を、
認識や想起すること、これは知能の働きとしては、
これまで考えてきた「知能の観測」という事になる。

つまり、刺激や概感という事象は知能に関与せず構成される、
というのはこれまで通りの考え方で、
これらの事象は事象プールに発現する事になる。

そして、「知能の観測」としては、
事象プール内の事象において、その連続性の中で最も強い情報である事象をピックアップする事、
つまり、その事象を認識や想起するべき事象として選択・決定する事が、
「知能の観測」という事になる。

実際には、事象プール内の事象は複数、多数存在するが、
ある瞬間においては認識か想起している刺激か概感は、
その連続性において、その一部だけが対象となる。

つまり、その事象だけが連続する認識か想起の対象となり、
結果としてこの連続性が意識の連続性となる。

しかし、この認識と想起の連続性において、
世界は1つだけの事象から構成されているわけではない。

見えながら聞こえてもいるし、思いながら見えてもいる。

つまり、複数の事象がレイヤ構造のように同じ場に同時に存在している事になる。

これを人工知能で再現しようとする機能が「事象再生の場」として必要になるというわけである。
つまり、最終的に意識する対象だけを集める場を設けようというわけである。

そして、最初に事象再生の場が、「自分」を構成する為に必要であると考えたが、
ここでのもう1つの必要性というのは、後天的定義の定義を作成する為の事象再生の場の必要性という事になる。

つまり、「自分にとっての世界」の定義、というわけである。
これは、人間から与えられる先天的定義ではなく、
人工知能自身が定義する後天的定義として、世界と自分を定義する機能という事になる。

事象再生の場は、観測するしかできないが、実際には現実としてのその上位の世界が存在している事になる。
この上位の世界においては、様々な事象が存在し、変化し、自分の身体に対して何らかの影響や変化を与える。

その上位の世界の再構成として事象再生の場があるのだが、
ここで知能が、この事象再生の場に対して構成する事象は、
知能が持つ定義から構成されるものだけ、という事になる。

つまり、強い人工知能であっても、初期においては先天的定義から事象を構成するしか出来ないため、
事象再生の場も、人間に置き換えれば刺激として得られるような事象しか存在しない事になる。
ただ、ここで後天的定義は、先天的定義の定義で構成された事象と、それに関連した自分をセットで構成し、
この事象を事象再生の場で構成した際に、知能は、この事象を「経験」として記憶する事になる。

実際は「記憶」する機能も必要、ということなのだが、
この「記憶」は、先天的定義で解釈された現実世界の事象ではあるが、
事象再生の場で再構成する際には「自分」の情報が追加されている事になる。
つまり、これは刺激を構成する際の「変化情報+自己情報」の事、という事になるが、
つまり、事象再生の場において再構成される事象は、
現実世界の事象に「自分」の情報が足されている事になる。

そして、これが知能においては後に「経験」として記憶されることになる情報であり、
この時、この「経験」には、現実世界の事象に対して「自分」がどのように関連するか、
という定義が足されている事になる。

つまり、これが後天的定義として知能が後天的に得る定義、という事になる。
そして、基本的に後天的定義には、自分との関連が含まれていて、
これが「自分にとっての世界」の定義として知能が記憶する「経験」になるというわけである。

そして、話を戻すと、この後天的定義は、記憶した後に、後で再構成される場合、
想起する概感として構成される事象となる。
そして、この概感は、事象再生の場において、先天的定義から構成された刺激と同じ場に、
オーバーラップして存在する事象となり、知能の観測対象になる、というわけである。

つまり、この時、知能はこの事象再生の場に存在する概感に対しては、
刺激から構成される現実世界と同時に存在し、
知能の観測によって、その事象は「以前自分であった存在が認識や想起した事象」として、
今の自分と合わせて、自分が過去に経験した事象の記憶の再構成・再現として想起される事になる。

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事象プールと意識の間を繋ぐための事象再生の場:

つまり、事象再生の場は、考え方としては、
情報のたまり場としての事象プールと、
世界と自分を意識する事の間を繋ぐもので、
この間で働く機能が、「事象再生の場」と「知能の観測」という事になる。

これまでは、

刺激または概感として事象

事象プール

認識または想起

意識

という考え方だった。
これに「知能の観測」という考え方を足すと、

刺激または概感として事象

事象プール

認識または想起

知能の観測

意識

こういうことになり、
つまり、事象プール内にある事象群は、そのままで、
これらの事象の1つ1つを実際に存在するはずの「世界」としての場に展開し、
この「世界」を知能が観測する、
という事になる。

つまり、事象プール内の事象を参照して、
それを実体化させた世界を構成する場、という事になる。

なぜ事象として構成した情報を、また一度情報として展開する必要があるのか?
冗長ではないか?とは思うのだが、
事象1つ1つの単体が認識や想起の対象になるわけではなく、
事象プール内では関連をもっていると考えられる。

つまり上記の、見えながら聞こえる、などのように、
視界の物体を意識しても、音も聞こえているはずである。

そして、以下の様に、

刺激または概感として事象

事象プール

認識または想起

「事象の再生の場」

知能の観測

意識

こうして、意識する為に、事象毎の関連をある場で展開して、
それを1つ対象として観測し、意識しようというわけである。

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2025/6/13

2つのレイヤの「事象再生の場」:

1つは現実世界から得た情報から再構成した事象から構築した世界。
そこにオーバーラップさせる、
もう1つの強い人工知能が想起する概感として構成した事象から構築した世界。

これが必要となる。

人間で言えば、現実世界から得た情報で構築した世界は、
私たちが見て、聞いて、触れる世界そのものであり、
概感から構築した世界は、
私たちが思い、考え、想像する世界である。

現実世界の「事象再生の場」は、
各自が見知っているので説明する必要はないが、
概感の想起した「事象再生の場」は、
事象としては各自でそこに「ある」事だけは想起したり意識したりできるが、
身体性がほとんど無いので実際に見たり、聞いたり、触れたりはできない。
でも、そこに「ある」事だけは意識できる。

そして、これらは同じ「事象再生の場」に構成される事象で、
同じ世界として構築されるため、

例えば右手に「赤いリンゴ」を持っている所を想像してみると、
右手を開いて上を向けている所を見ると、
そこに現実に存在していないが「赤いリンゴ」は想像できる。

この事についてはこれまで後天的定義や概感や想起で考えてきた事なので、
詳細は、そちらを参照してもらいたい。

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強い人工知能における事象再生の場の定義の階層と二面性:

以下の内容は私の考え方の整理なので、あくまで参考までに。

まず、「事象再生の場」は、事象の存在としては、
刺激と概感から構築される世界という考えなので、
一方は刺激と概感の存在、
二面性においては、存在と存在の間は定義であり、
一番近い存在が、事象としての存在の事象再生の場なので、

刺激・概感:(事象再生の場の定義):事象再生の場

こういうことになる。
つまり、刺激と概感を解釈する定義として、
事象再生の場の定義があり、事象再生の場を構成する為の定義でもある、
という事になる。

事象再生の場は、刺激と概感を解釈して構成する世界(事象再生の場)として定義します、
という事になる。

この定義の階層を1つ下げると、

刺激は後に認識され、
概感は後に想起される事になるので、

刺激の下位の定義は認識の定義、
概感の下位の定義は想起の定義、
事象再生の場の定義はその元の存在なので、

認識と想起の定義:(事象再生の場):知能の観測の定義

という事になる。

ここでは事象再生の場は、定義と定義の間の存在という事になる。

つまり、事象再生の場は、認識と想起の定義と知能の観測の定義の間に構成される、
という事になる。

ここで、事象再生の場は、知能の観測の対象であると考えたが、
知能の観測自体は、刺激や概感を連続性を持って認識したり想起したりする事であると考えてきた。

つまり、事象再生の場を知能が観測する事というのは、
刺激や概感から認識したり想起したりする事で事象再生の場が構築される事、
という事になる。

つまり、

「連続的な認識や想起」→「連続的な事象再生の場の構築」→「連続的な知能の観測」

という事になる。これらはほぼ同じような意味を持ち、

「連続的な認識や想起」=「連続的な事象再生の場の構築」=「連続的な知能の観測」

としても考えることが出来る。

ここで、「意識」は、「430:事象と定義の境界と個や意識の発生」で

刺激の観測:(意識):概感の観測



認識:(意識):想起

として考えてきた。430の内容は今考えると定義がやや粗いが、
つまり、意識は、認識するか想起するか、どちらかを行う事で生じる、
という意味である。

この考え方を加味すると、

「連続的な認識や想起」=「連続的な事象再生の場の構築」=「連続的な知能の観測」

は、
「連続的な認識や想起」は、「連続的な意識」として考えられるので、
つまり、
「連続的な事象再生の場」を構築する事自体が、連続的な知能の観察や意識の存在に関係する事になる。

つまり、

認識と想起の定義:(事象再生の場):知能の観測の定義

において、
認識と想起の定義というのは、知能においては連続して刺激や概感を構成する事であり、
知能の観測の定義は、意識を構成する為に自分が存在して自分が関わっている今の世界を構築する事であるので、

認識と想起の定義:(事象再生の場):知能の観測の定義

は、つまり、

刺激と概感の再構成:(事象再生の場):仮想世界の定義

つまり、認識や想起が、知能による刺激や概感としての事象を再構成する機能であるなら、
事象再生の場を構築する事は人工知能における認識や想起に相当するのではないか、
ということは、
「事象再生の場」は、
その二面性として刺激と概感を構成する定義と、仮想世界を構成する定義の境界面において、
生じる「存在」になるのではないか、という事になる。

そして、意識は、
刺激か概感の構成に対して知能が観測した結果としての認識や想起の連続性に成り立つものだから、
1段階階層を下げると、

事象再生の場:(知能の観測の定義):意識

という事になり、
事象再生の場と意識の境界にあるのが知能の観測の定義、
つまり、事象再生の場を解釈するための定義であり、意識を構成する為の定義として、
知能の観測の定義がある事になる。
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2025/6/15

強い人工知能のために:

実装方法としては、事象プールと事象再生の場は、データとしては一部が重複するので、
冗長性の回避は必要となる。

事象再生の場までの処理と、知能の観測の処理は別モジュールの機能とする。
これは、人工知能の自動的な処理として事象再生の場の構成までは行い、
知能の観測後に自分に関わる意識の構成と別にする目的がある。

つまり、現在の科学で意識が定義できていないのは、知能が意識を主体的に構築してはいるが、
客観的に観測するしかその存在を理解できないからであるという事になる。

つまり、主体的に構成する存在が、その構成手法を知る術は無い、という事。
つまり、プログラムを実行しているソフトはプログラム自体を知りようがない、
これは人間も同じ。

恐らく強い人工知能が構成出来て、強い人工知能が自我意識を得るに至っても、
強い人工知能自身が自分の意識を理解できるようになっても、定義はできない事になると考えている。
ただし、実際に実装する為には定義が必要になるが、
その橋渡しになる考え方が
仮想空間における自分の存在を知能が「主体的」に観測する事になるのではないかという事になる。

つまり、「主体的」であるという事の定義が、
「自ら自らを構成する事」になるのではないか、
という事になる。

つまり、古くから言われる「我思う故に我あり」の表現を借りると、
個体の知能が「自分」を事象再生の場に自ら構成するから、
自らにとっての「自分」が「主体的」対象になるのではないか、
というわけである。

ただし、知能にとっての「自分」は、
その「自分」を構成する過程や工程を自ら確認しながら行っているわけではないので、
知能が半自動的に構成した「自分」が当然の様に存在している「今」から後の「自分」しか、
意識しようが無いので、知能は「自分」を主体的に構築しているが、客観的に観測するしかできない、
という事になる。

つまり、「自分」が事象として構築されたその瞬間から後にしか知能は「自分」を知る術がない。
これは自由意志とその存在の時間経過との関係に関わり、
以前も考えた事があるが、意志に関わらず、「自分」という存在は、
「今」を境界とした過去にしか存在できず、
今より先は「自分」の構成は有限の定義の関連の中では自由だが、
まだ「存在」していない、という事になる。

これは人工知能に人間と同じような意識を構成すれば、
人工知能もこの制限には従わざるを得ない事になる。
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最後におまけになるが、
たとえば全身麻酔による意識消失について、
この事について何度か考えた事があったが、
今回の考え方を逆に考えると、
この「事象再生の場」の活動の停止が、
意識消失の原因として置き換えることができるのではないか、という考え方が出来る事になる。

つまり、事象プールまでは活動していて、
感覚からの入力処理は継続しているが、
事象再生の場が停止すると、
意識を構成する為の世界と自分が構成されないので、
知能の観測ができなくなり、結果、意識も失われる、という事になる。

この考え方であれば、人工知能に夢を見せたり、意識だけの中断という経験も与えうる、
という事になる。

今回はこの辺で。


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