2025/5/30-2025/6/2
事象と定義の境界と個や意識の発生
昨日の夜、以前NHKで放送した笑わない数学の「超越数」を見直していたのだが、
そこで出てきた円周率のπについて、
直径1(単位は覚えていないが)の円があった場合の円周を
正方形で再現した場合、一辺がルートπになるが、
これをコンパスと定規だけで作図できるかどうか?
というような問いがあった。
まあ、超越数というだけあって、
超越数と異なる代数的数という数でないと作図はできません。
という事なのだが、
その前日に同番組の「微分積分」について見なおした後だったので、
ふと、この円周を無限少量の幅でコンパスで測り取れば、
作図できるのではないかと思った。
ただ、現実的な話で言えば、実際にコンパスと定規で作図できるかどうかが問題であり、
無限少量をコンパスで計り取るなどはできないので、
理論上はできても、実際にはやはり無理だろう、という事になる。
そして、ここからが今回の気づきになるのだが、
自然界の事象として、円は円として存在し、
円周率も自然界のどのような円においてもこの定義が用いられている。
他の超越数の例に挙がっていた自然対数の底の「e」も同様である。
これらの定義から構成された「事象」は、
例えば人間の知能において、「数学」の定義において、
円周率や自然対数の底として定義されて「事象」として扱われているものだが、
これらの定義された事象は、
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自然界の世界に存在する事象の定義と、
人間の知能が理解する為の定義した事象の定義で、
「異なる」のではないか?
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という事に気付いた。
つまり、
自然界の世界に存在する定義の、理論的な側から言えば、
そもそも円や線は幅などは無く、「事象」として在るべくして在るものである。
もちろん円周率も自然対数の底のeも、
それが定義として決められたから存在しているわけではなく、
自然界の世界を事象として存在させる定義として、そこに在っただけ、
という事になる。
つまり、「事象」としては見えないが、「定義」としては在る。
自然界の世界の「事象」を構成する「定義」として在る、というわけである。
つまり、確固たる自然界の世界の固有の定義が存在していて、
その定義から自然界の世界は「事象」として構成されている、はず、という事になる。
一方で、
人間の知能の定義の側から言えば、
人間が感覚を経由して刺激を構成して認識している「事象」は、
人間が理解や解釈ができるような「定義」から構成されている。
つまり、見える、聞こえる、触れられる、などの感覚で、
定義できる対象について、その対象が「事象」として存在する事が出来る。
これは、自然界の世界の定義を、知能が独自に定義しなおした定義で構成した「事象」という事になる。
そしてその定義は、
自然界の世界の定義そのものではないため、
知能の定義は、
自然界の世界の定義を明瞭に定義できない事になるが、
恐らく、常に、
解釈の側の定義が何か不足しているか、
余分な定義をしている、という事になる。
つまり、定義の分解能がまだ足りていない、
または、定義そのものがまだ何か足りていない、
または、理解する為に定義が過剰である、
という事になる。
つまり、円周率が割り切れないのは、
円周率がもともと割り切れない「事象」なのではなく、
円周率に数の概念が合っていない事になる、
つまり、円周率が数字でいくつになるかはあまり意味が無い事になる、
が、しかし、
「円周率π」という定義は、
恐らく自然界の世界の定義としての円周率の定義と合致している、という事になる。
まあ、もしかしたらまだ他にπに含まれる意味や定義があるのかもしれないが、
少なくとも円周率πは、
現時点では自然界の世界の定義と、人間の知能の定義が過不足なく合致している、
と考えられる定義、という事になる。
少し本題から外れたが、
そして、そこから先の話であるが、
この定義と事象の関係が、
「定義の階層」の関係において、その階層の間にそれぞれ「差」が生じるものだとすると、
それぞれの定義が構成する事象は、
それぞれの定義によって少なからず何らかの「差」が生じるのではないか、
という事になる。
そして、これまで考えてきた概感が、
刺激と同じ定義を用いないのは、
生体による定義の構成機構の構造によるという事でもあるのだが、
もし同じ定義で刺激と概感が構成されると、
想起の対象であるはずの概感が、
今身体性をもって認識されたような「刺激」の様に感じられてしまい、
経験として活用できない、という事になる。
これは、あえてか、結果的にか、「違い」を生じさせる事に意味が生じているのではないか、
という事になる。
つまり、「事象の定義が異なる」事に何か重要な意味があるのではないか、
という事である。
つまり、
もし、自然界由来の定義と、人間の知能由来の定義が一致すると、
もしかしたら人間の意識は生じないのではないではないか?
という事になる。
つまり、自然界で起こる事象は、
定義の階層の考え方では自然界の世界より上位の定義で構成され事象として構成され、
自然界の世界においてはそれは当たり前の様に生じる「事象」になるのだが、、
それを人間がそのまま同じ定義で理解できたとすると、
それは人間の「個」が生じない事になるのではないではないか?
という事になる。
この可能性は、例えば自然界の世界に存在しうる「円」の定義が、
そのまま生命の知能が同じ「円」の定義を使って理解できたとすると、
生命の知能は、自然界の世界に事象の存在として存在しながら、
自然界の世界と同じ定義を持つ存在という事になる。
つまり、定義の階層から考えると、
自然界の世界と生命の知能が同じ「存在の階層」に位置する別の「存在」「事象」
という事になる。
つまり、あえてこのような「知能」が存在すると考えると、
「円」の自然界の世界の定義=「円」の生命の知能の先天的定義
こういう「知能」が存在することになる。
この場合、生命の知能にとっての「円」は、
そう在って当然の事象、つまり、知能の選択や決定などの働き無しに、
「円」という事象が認識できる事になる。
これが他の事象に対しても同じであると考えると、
そもそも生命の知能は自然界の世界のあらゆる事象に対して、
知能の働き無しに全てを認識できる、という事になる。
つまり、あらゆる事象は在るように在る、としか認識できない事になる。
つまり、例えるなら一瞬たりとも考えることなく、ただ事象をあるがまま見続けているようなものである。
では、ここからが肝心な内容になるが、
ということは、
自然界の世界の定義と人間の知能の定義に違いがあるからこそ、
何か意味があるのではないか?
と考えられる事になる。
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2025/6/1
客観的な主体性:
今日は、昨日まで考えていた定義の違いによって構成された事象の差によって、
何か意味が生じるのではないか、ということについて考えていて、
定義に差があるからこそ、そこから構成される事象が存在する事になるのではないか?
と考え、これは認識や想起される刺激や概感にも関係し、
さらに最終的に、意識の発生まで関係しているのではないかと考えていた。
そして、意識について言えば、
「意識がある」という事は、意識自体は主体性そのものであるのだが、
「意識の存在」の確認という事で言えば、
客観的な視点の「観測」を必要とするのではないかと考えた。
つまり、「客観的な主体性」として「意識」は存在しうるのではないか、
という事になる。
つまり、「意識」そのものは意識を持つべき「自分」が「意識があります」と分かっていても、
「意識の存在」そのものは事象としては成り立たない事になる。
これは、定義が自分で保有し、自分でこの定義から構成し、自分で見ている対象なので、
言わば、自然界にある事象について、自然界が「この事象が存在している」と言っているようなもので、
つまり、定義の階層において、同じ「存在」が同じ階層の「存在」に対して観測して、
そこに「在る」と言っているようなものである。
つまり、まあ確かに「存在」はしているのだろうが、それを証明する手立てがない。
だから、人間においては、この「意識」の存在の「観測者」として「知能」があり、
「知能」が「自分」が「意識」を持っているように見えると観測する事で、
「自分」に「意識」がある、と客観的に見えている、という事になる。
少々ややこしいのだが、
「自分」自身も実体としては「知能」が構成した事象であり、
「自分」が「自分」を主体的に認識したり観測したりしているわけではない。
実際、「自分」というものは、刺激においてはその身体性であり、
概感においては以前身体性であった刺激の自己情報である。
これらは定義によって構成された事象であり、
最初から存在するものではない。
つまり、機能全体としての「知能」においては、
定義も保有している、刺激や概感を構成する機能も保有している、
事象を観測する機能も保有している、のだが、
それらの機能は「知能」が意図的に制御できない機能である。
つまり、定義は先天的定義を先天的に持っていて、
後天的定義は後天的な経験から半自動的に記憶される、
刺激や概感の構成も定義から半自動的に行われる、
事象の観測も半自動的に行われる。
結果としては「知能」は何一つ主体的に決められる存在では無いが、
全体としては全てを管理する存在ではある、という事になる。
そして、「知能」の活動の結果として「見える」ものは、
事象を観測した結果としての「意識」された対象という事になる。
そして、その「意識」は、
「知能」にとっての、「客観的な主体性」という事になる。
つまり、「知能」が「自分」を観測する事によって「自分」を「意識」することはできるが、
「知能」は「意識する事」そのものを「観測」することはできない。
「意識」は対象として存在するものではなく、
「知能」が対象を観測する際の、
その対象の連続性、対象の変化、対象の差、それ自体を「観測」した結果「現れた」ものだから、
という事になる。
つまり、昨日の話に合流すると、
それが定義による事象の差であり、この事象の差に、
事象が存在する「境界面」が現れるのではないか、という事になる。
つまり、同じ定義で構成した事象には二面性が現れない。
事象が二面性を持つには、その一面毎に異なる定義が必要になる。というわけである。
逆に言えば、2つの異なる定義が1つの事象に対して存在するために、
この事象は「境界面」を持って、事象として存在する事になるのではないか、という事になり、
この「境界面」を持つ事象は、誰の為かというと、
この「境界面」を持つ事象を「観測する存在」に対して事象として存在する事になるのではないか、
という事になる。
つまり、「知能」が事象を観測する場合、
この事象が二面性を持つ必要性があるが、
この場合の「知能」にとっての二面性を構成する定義というのが、
刺激としては、
一面が自然界の世界の事象の定義である先天的定義と、
もう一面が身体性の定義である先天的定義、
そして、概感としては、
一面が経験を事象として定義した後天的定義と、
もう一面が以前身体性であった刺激の自己情報つまり、以前の身体性の後天的定義、
という事になるのではないか、というわけである。
そして、知能の観測において、
その対象としての刺激の認識と概感の想起において、
その「二面性」の「差」として「意識」が現れるのではないか、というわけである。
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つまり、
ある「存在」は定義の有無に関わらず、存在している。
ただ、この「存在」を存在足らしめているのが「定義」である。
という事になる。
そして、ある主体性にとっての「存在」が存在するのは、
ある主体性が持つ「定義」が、この「存在」に対して2つの異なる「定義」を持つ必要があり、
この主体性が、この「存在」に対して、この2つの定義を使って二面の事象面を構成する事で、
この事象面の差の間に、この主体性が観測できる「存在を再現した存在」が現れる事になる。
結果、この「存在」は、この主体性にとって自らの定義で構成した「存在を再現した存在」として観測される。
という事になる。
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もう少し頑張って解釈すると、
この事を定義の階層を使って解釈すると、
まず、自然界の世界の事象や存在は、
自然界の世界の上位の定義によって構成され、
その自然界の世界の上位の定義と、自然界の世界が持つ下位の定義の間に構成される存在となる。
つまり、
自然界の世界の上位の定義:定義
↓
自然界の世界の事象や存在:存在
↓
自然界の世界の下位の定義:定義
今回は人間が自然界の世界を観測するので、
自然界の世界の上位の定義:定義
↓
自然界の世界の事象や存在:存在
↓
人間の定義:定義
ということになり、人間は自然界の世界を感覚を使い刺激として認識するので、
自然界の世界の上位の定義:定義
↓
自然界の世界の事象や存在:存在
↓
人間の自然界の世界の事象に対する定義:定義
という事になり、
人間が認識する刺激は、事象としては自然界の世界に存在するのではなく、
自然界の世界の事象や存在:存在
↓
人間の自然界の世界の事象に対する定義:定義
↓
人間の認識する刺激:存在
という事になるので、人間が認識したい事象や存在は、
人間の自然界の世界の事象に対する定義:定義
↓
人間の認識する刺激:存在
↓
人間の自然界の世界の事象に対する下位の定義:定義
こういう事になる。
「人間の自然界の世界の事象に対する下位の定義」は、
定義の階層から言えば、次は「後天的定義」になるのだが、
「人間の認識する刺激」の「存在」に対して言えば、
「事象」としては「刺激」の存在であるため、
「刺激」の定義の二面性であるもう一面の「身体性」が登場する。
人間の自然界の世界の事象に対する定義:定義
↓
人間の認識する刺激:存在
↓
人間の自然界の世界の事象に対する二面性の反対側の定義(=身体性の定義):定義
という事になる。
これは、「刺激」の「事象」としての存在の「定義」そのもので、
「後天的定義」の登場はもう少し下位になる。
これは、人間の知能の観測者としての存在としての人間の存在を分ける存在つまり「意識」として、
刺激:定義
↑
意識:存在
↓
概感:定義
こういう二面性を持つからという事になる。
これは、定義の階層としては本来、
人間の先天的定義:定義
↓
人間の刺激:存在
↓
人間の後天的定義:定義
↓
人間の概感:存在
という事になるのだが、
刺激や概感は、事象として存在するのは、
人間の知能が観測しているために、認識や想起されているから、
という事で、「刺激」と「概感」の間にも何か二面性の境界面が存在するはず、という事になる。
つまり、
人間の先天的定義:定義
↓
人間の刺激:存在←人間の知能の観測・認識
↓
人間の後天的定義:定義
↓
人間の概感:存在←人間の知能の観測・想起
こういう事であり、
人間の知能の観測・認識
と、
人間の知能の観測・想起
は、
その間に「二面性」「境界面」が存在し、
これは、「意識」が生じるためのものと考えられ、
つまり、これまで「意識」の二面性について考えてきた内容から、
刺激の観測:(意識):概感の観測
という二面性で表せて、
上記の
------------------------------------------------------
そして、知能の観測において、
その対象としての刺激の認識と概感の想起において、
その「二面性」の「差」として「意識」が現れる、というわけである。
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という事から、
この考え方を加味すると、
「意識」だけの定義の階層で言えば、
刺激:定義
↓
意識:存在
↓
概感:定義
こういうことになり、
刺激はその二面性として、
自然界の世界の事象の変化情報:(刺激):人間の身体性
概感はその二面性として、
428で考えた概感の二面性、
事象に関連する変化情報:(概感):事象に関連する自己情報
こういうことになり、
刺激:定義
↓
意識:存在
↓
概感:定義
は、
自然界の世界の事象の変化情報:(刺激):人間の身体性
↓
意識:存在
↓
事象に関連する変化情報:(概感):事象に関連する自己情報
と置き換えられる。
で、
刺激と概感は知能による観測の対象であり、
刺激←知能の観測:認識
↓
意識:存在
↓
概感←知能の観測:想起
こういうことになり、
認識も想起も、刺激と概感を「存在」させるための観測になるので、
知能の観測の結果としては、
刺激の認識:存在
↓
意識:定義
↓
概感の想起:存在
こういうことになる。
まあ、ややこじつけになるが、
意識の定義は刺激の認識と概感の想起の間に存在する定義として表せる、
という事になる。
つまり結論として「意識」を二面性理論で表せば、
認識:(意識):想起
こういうことになる。
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2025/6/2
昨日の続きでまとめると、
つまり、定義の差によって、
ある事象の構成が二面性を持ち、
その事によって、この事象が境界面を持つ事で、
この事象がある固有の存在となる。
という事になる。
これは、自然界の世界の事象の1つ1つの全ても、
人間も、知能も、個も、意識も、全て同じ様に言える。
つまり、二面性の内の一方の面の定義が失われれば、
当然境界面が存在しなくなり、事象は固有の存在として成り立たなくなる。
そして、それは逆に、
ある1つの事象に対して異なる定義が2つあれば、この事象を存在させることが出来る、
という事でもある。
例えばある人間が意識を失う、
この場合、このある人間の知能は刺激の認識、または、概感の想起を両方または一方失う事で、
意識が成り立たない事になる。
まあ、この考え方からすると、想起を行わない知能の生命は意識が無い、
という事になるが、上記の「客観的な主体性」という観点から言えば、
他の存在からは「意識」はあるよう観測できるが、
主体的な自分で観測できる「意識」は無い、と言える。
つまり、昆虫や魚、ロボット、現在の人工知能もそうだが、
客観的には、ある変化を刺激のように認識はしている様に見える、
これは客観的な観測なので、客観的にその個に「意識」があるように見えるが、
これは上記で定義を試みた本来の「意識」とは少し異なる。
つまり、本来の「意識」のある一面だけを見て、
その境界面の反対側の一面を客観的な観測者が勝手に構成して、
まあ想起して対象に「意識」があるように観測者が「意識」しているだけ、という事になる。
つまり、まあ、
現在の一般的な「意識」という言葉に対する認識が、
定義として完成していない、
つまり、定義内容は不足しているし、勝手な解釈で定義を過剰に行う事があるから、
という事になる。
そして、また、
例えば何らかの良く分からない不明な問題があったとしても、
その対象に対して2つの定義を行うことが出来れば、
その対象は何か事象としての形を得て「存在」できる事になる。
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今回の内容は、
少し「事象」や「存在」の本質に迫れたのではないだろうか。
宇宙の問題や数学の未解決問題なども、
この考え方は役に立つのではないかと思うのだが、
考えている最中、言語による定義の限界を感じたのも事実。
つまり、各個が二面性を使って理解している事象は、
よほど注意して扱わないと事象が持つ本質の意味から逸脱してしまう可能性が有るという事。
「言葉」1つとっても見直しや再定義の必要性があるのではないかと感じた。
今回はこの辺で。
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