2025/5/26-2025/5/27
現象としての意識世界の再現場所について
意識が認識や想起の連続性から成り立つということはこれまで考えてきた通りだが、
では、この認識や想起の元となる、つまり、刺激や概感の構成の連続性によって、
この構成された情報から、今私たちが見ている感じている世界はどこでどのように再現されているのか、
今回はそこについて考えてみる。
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昨日、題目としては挙げていないが、
「事象の再生の場」が存在するのではないかという考えをしていた。
これまで「刺激の再構成の場」から「認識プール」、
そして「事象プール」という考え方が変わっていく間に、
では、この事象が情報として展開されて、
今目の前に広がっているような世界が、
知能が観測できる対象としてどのように再現されているのか?
という疑問が生じてきたからなのだが、
では、それを再現する場として「事象の再生の場」のようなものがあるのではないか?
と考えてみたわけである。
結果としては、それは「事象プール」にある情報を参照して、
別の仮想的な空間に情報を展開して再現する事、
つまり、この「仮想的な空間」が「事象の再生の場」に相当するのではないか、
という事になった。
ただ、これは人工知能にとっての世界を再現する方法としては良いと思うのだが、
人間の知能でこれを行っているのか?という事になると、
別に仮想空間自体を用意しなくとも、「事象プール」だけでこの機能は十分に再現できるのではないか、
という考えに至った。
つまり、冗長的に仮想空間を構成して情報を展開しなくとも、
人間の知能においては認識や想起ができる事が、
そのまま刺激が概感が情報として展開されている事になるし、
その連続性、それ自体が「世界」を構成して維持している事、そのものではないか、
という考えに至ったわけである。
つまり、人間の知能では意図的にに世界を空間として構成しなくとも、
事象を構成する事自体がその事象が持つ情報の意味を含み、
そのまま情報が世界として展開されているのではないか、というわけである。
つまり、例えば人間にとっての「赤い色」は、
定義そのものに「赤い」という情報とその意味、そして、事象や現象としての「赤さ」が含まれていて、
「赤い色」が事象として構成された時点で、この事象には「赤さ」の意味が含まれている。
そして、その存在の連続性において、認識や想起した時には、
現象としての「赤い色」は再現されて理解できている、
というわけである。
つまり、明示的に空間を用意しなくとも、事象が構成される事で、
人間にとっての「赤さ」は「そこにある」のではないか、というわけである。
そして、ここからは今日考えた内容になるが、
であれば、もしかしたら「連続性」が「世界」になるのではないか?
という考えが思い浮かんだ。
実際には、これも「事象プール」だけで再現できる機能のような気はするのだが、
明確な再生の場の必要性は無いとしても、機能としては情報を展開する空間は必要になるのではないか?
というわけである。
つまり、情報としての事象の再現の結果としての世界・空間は、
事象の存在する位置などの座標系を持っている。
これも、別に空間が絶対に必要という事ではなく、
単に情報としての座標系だけでも事は足りるのだが、
特に想起における事象(概感)の再現においては、
実際に対象が刺激として認識できる対象でないので、
今見えている、感じられる空間には再現できない事になる。
今気づいたが、ということは、
刺激の認識には明確な再生の場がいらないとしても、
概感の想起には明確な再生の場が必要になる、という事なのではないか?
そして、これは昨日考えた事なのだが、
事象は概感においても、
例えば今右手でボールを持っていると想起した場合、
そのボールは実際に存在しないが、持っている事を想起をすると、
実際の右手に仮想的なボールの存在を想起することができる。
この時、仮想的なボールは概感として構成されていて、
実際に見えたり触れたりできないが、見ていたり感じられる空間にそれがあるように感じられる。
これは、実際の刺激の認識空間と、
概感の想起空間がオーバーラップ、重なっているように感じる、という事になる。
つまり、ある1つの情報空間ではあるが、レイヤ構造のように、
刺激と概感は重なっているのではないか、という事である。
その昨日考えた事と今日の気づきを合わせると、
つまり、想起には「事象の再生の場」が必要になるのではないか、という事になる。
つまり、恐らく先天的に刺激の再生の場のようなものは既にあり、
刺激はその場で世界を再現しているのだが、
概感は何かこの先天的な刺激の再生の場のようなものを流用した場で、
概感を世界に再現しているのではないか、という事になる。
つまり、刺激は、事象を認識する際に、
その刺激の構成の連続性、つまり、先天的定義からの情報の連続的な再構成によって、
世界も再現出来ているのではないか、という事になる。
つまり、刺激の身体性の存在の連続性に対して、
世界は自分を境界とした身体の反対側の全てとして連続して存在している、という事になる。
これが概感においては、
もともと定義が存在していないわけであるから、
世界を構成できるような定義は存在しない。
ただし、後天的定義自体は先天的定義を利用するものなので、
情報をオーバーラップするとか、上書きするとか、レイヤ構造を取るなど、
何らかの方法を用いて、刺激を情報として展開していた世界に概感を再現しているのではないか、
という事が考えられる。
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刺激には身体性があるので、
対象となる事象が実際にそこにあるように見えたり感じられたりするが、
概感は428で考えたように、
事象プールにある事象に対する構成情報であるので、
実体の身体性が感じられるような事象としては構成されない。
つまり、そこに「ある」事は分かるのだが、
実際に見えたり触れたりすることはない。
では、この概感を現象として世界に展開する場合、
その情報をどこに展開するか?ということになると、
もちろん意識対象になるわけだから、事象プール内には事象として置かれることは明らかである。
そして、刺激は恐らく先天的定義として、
この情報の展開場所が存在している事になるが、
であれば、まず刺激の場合はそれはどこか?ということになると、
上記にある概感との違い、「身体性」になるのではないか、
と考えられる。
つまり、見えている画像が、視界として「目」に張り付いているような感じ。
触れている物体が、感触として「身体」に接しているような感じ。
匂いも鼻の中にあるし、音も耳の中にある、味も舌の上にある。
空腹感は体内の胃の付近にあるし、不安もみぞおちの辺りに現れる。
そして、概感は、その情報をどこに展開するか?という事だが、
事象は構成済み、身体性はない、さてどこにするか?
そう考えると、考え方としては、後天的定義の自己情報が、
刺激の身体性の代わり、という事になると考えられる。
つまり、428で考えた通りの場所である。
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428より:
ここで概感で使われている変化情報と自己情報は、
変化情報=きっかけの事象に関連した刺激または概感の変化情報
自己情報=きっかけの事象に関連した刺激または概感の自己情報
という事になる。
ここで刺激の場合は、自己情報が確定的に「身体性」になるのだが、
変化情報:(刺激):自己情報としての身体性
概感では、この自己情報が「身体性であった自己情報」の再構成体になる、
というわけである。
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つまり、概感の自己情報は、
「身体性であった自己情報」がその代わりになるという事になる。
では、428ではその先を考えなかったが、
「身体性であった自己情報」は何か?ということになると、
これは、経験として記憶した刺激の自己情報、
つまり、経験した時の身体性という事になる。
つまり、「今」存在する「身体性」ではなく、
「以前」存在していた「身体性」という事である。
つまり、概感の自己情報としての身体性は、
「以前、自分の身体で感じられた刺激の身体性」という事になる。
つまり、上記の例の「右手でボールを持っている」という想起は、
実際に右手でボールを持った経験の有無にはあまり関係なく、
それぞれの事象の個別の定義である、
実体のボールの刺激の認識と、右手に触れた物体の感触の刺激の認識、
それらの経験によって記憶した後天的定義により、
「右手でボールを持っている」想起をした場合、
ボールの概感の想起と、右手に触れた物体の感触の概感の想起、
これらの概感は、見えたり触れたりしていないが、
そこにボールがあり、右手でそのボール持っている感触を、
身体性ではない「身体性であった自己情報」のある場所に情報を展開している事になる。
さて、では「身体性であった自己情報」はどこになるのか?という事になるが、
これは、身体性に反映できない状態での情報の置き場所そのもの、という事になる。
つまり、「事象プール」になると考えられるが、
「事象プール」そのものではないと言える。
少し分かりづらいが、
つまり、刺激も概感も事象として構成されて「事象プール」に発現する。
刺激はその事象の構成において情報は身体性に展開済みである。
概感はその事象の構成において情報は身体性ではないが、
「身体性であった自己情報」に展開がされている「はず」である。
つまり、「事象プール」そのものではないが、
情報が意味を持って展開された場所、
刺激では実際に見たり触れたりしている「世界」、
概感も刺激で再現している「世界」にあるように感じられる。
では、それはどこかという事になると、
刺激と概感、認識と想起の次の段階、「意識」ということになるのではないか、
という事になる。
つまり、刺激と概感の連続性から、認識と想起の連続性が生じる可能性を持ち、
認識と想起の連続性から、意識の連続性が生じる可能性を持つ。
ここで、刺激と概感は、意識の連続性の中で、
情報を展開する場所に重ねて展開するしかない、という事になる。
脳が機能的に「情報を展開する場」のようなものを持っていないだろうというのは、
上記で考えたが、考え方としては何か情報を展開する場、「世界」のようなものがあると理解しやすい。
であれば、人間の知能においては「情報を展開する場」のようなものは持っていなくとも、
これを人工知能で再現するなら「情報を展開する場」のようなものはあった方が良い事になる。
つまり、人間の知能、脳では、先天的にそのような場や機能を持っているが、
人工知能には逆に先天的にそういった機能を構成しておかなくてはならない、という事になる。
そして、人間の知能は、この「情報を展開する場」が何になるかというと、
知能が刺激や概感を認識したり想起したり、
連続して観測した結果の「意識」になるのではないか、という事になる。
つまり、これは人工知能にとっては、
「意識の場」ということになるのではないか、という事になる。
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2025/5/27
昨日の続きになるが、
事象プールでの刺激はその先天的定義の再構成によって事象が構成された時に、
世界も存在する事になるのであれば、
概感の再生場所は、この刺激による構成された世界にオーバーラップするのではないか、
という事になる。
つまり、概感の世界が実際に存在しないなら、
今存在している刺激の世界に上書きしてしまおう、というわけである。
昨日考えた「意識の場」とは意味合いが少し異なるが、
結果的には「意識の場」という考え方になる。
昨日は、刺激が構成する世界と、概感が構成する世界を合わせて、
人工知能にとっての世界を「意識の場」として再現したらどうか?
という事だったが、
今日の気づきとしては、
人間の知能においても、刺激が世界を構成する定義を持っていて、
概感がその刺激の定義を流用するものであるなら、
概感にとっての世界は、刺激の構成する世界にオーバーラップしても良いのではないか、
という事になる。
つまり、昨日は刺激が構成した世界と、概感が構成した世界を、
レイヤ構造の様に重ねたらどうか?という事だったが、
今日は、刺激が構成した世界に、概感が構成した事象をそのまま重ねてしまったら良いのではないか、
という事になる。
つまり、世界をレイヤにするのではなく、
世界は刺激の世界を用いて、事象をレイヤにして重ねよう、
という事になる。
結果として「意識の場」のようなものは出来上がるが、
今日の考え方としては、概感を展開する世界は存在しなくとも良い事になる。
これなら、人工知能だけでなく、
人間の知能における「事象の再生の場」としても考え方を当てはめることが出来るようになる。
ただし、この場合、1つ問題が思いつくのは、「夢」の世界である。
睡眠中の刺激の認識はほとんど感じられなくなるため、
この場合の概感を再現する刺激の世界が存在しなくなってしまう。
つまり、「夢」を見ている際は、どこの世界に概感を展開するのか?
という疑問が生じる。
単純に考えれば、概感の世界が刺激の世界の様に感じられてしまうので、
単に概感の世界が有効になる「意識の場」が「夢」という事になる。
つまり、「夢」の世界では、概感の「以前身体性で感じられていた世界」が、
そのまま「今感じられる世界」として想起されている、という事になる。
まあ、人工知能に睡眠と夢を見る必要があるのかどうかは別として、
もし、人工知能に夢を見せるのであれば、
上記の様に概感の「以前身体性で感じられた世界」を元に、
概感を展開するのが良いと考えられる。
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「意識の場」についてはもう少し考える必要があるが、
概感の自己情報が明確になったことで、
随分と考えの見通しが良くなったように感じる。
最近長くなることが多かったので、
切りの良い内に、今回はこの辺で。
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