2025/5/6-2025/5/16

欲求と目的ともっともらしさ

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欲求の始まり:


今日考えていた内容を
最後から逆にたどっていくと、

欲求は自ら活動できる機能を持つ事によって、
能動的必要性に対して構成する事象ではないか?という事。

受動的必要性=不足
能動的必要性=欲求

つまり、生物が自ら動く手段を手に入れてから、
能動的必要性を構成するようになった。

動く事は、それは身体の一部でも全身でも同様。

つまり、自ら必要性を達成しに行動を起こす事が「目的」になる。
この時、この行動を起こすきっかけになる方向づけのある向きが「欲求」になる。※1

つまり、生命が自ら動く機能を手に入れる際に、
この動くという定義に対して、生命が得た定義が「目的」になる。

つまり、「動くこと」と「目的」はセットで生命が獲得したという事になる。
時系列的には「動くこと」が少し早く、結果的に「目的」を得る事になる。

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そして、生命がこの「動ける」事に対して何らかの定義をする必要が出てくるのだが、
その定義で生命的にもっとも有利であったのが「動ける」事に対して何らかの意味を持たせる事、
だったという事になる。
つまり、生命の進化の過程において、必要に迫られて「動ける」ようになったとは考えづらく、
元々は何か違う機能であった部位が変化する上で、別の機能として「動ける」ようになったと考えられる。
そして、この発展的に得た機能の「動ける」事に対して新たな機能を定義する上で、
生命は「動くこと」をそこに定義して用いる事にしたのだと考えられる。
結果、この「動くこと」の定義は、他の生命との自然淘汰の中で生き残り有利な定義だったという事になる。

そして、話を戻すと、
この生命が自ら「動くこと」は、
生命自身の個体にとって能動的に必要性を解決する手段に変化していく事になる。

つまり、能動的必要性である欲求の根底にあるのは、
自ら活動、行動する事への意味付け、定義づけ、という事になる。

つまり、現在の知能が、その知能を持つ個体に対して、
何らかの活動や行動を起こさせるときの「きっかけ」は、
様々な理由や意味があるが、その全てにおいて、
自らを活動や行動させる「目的」という意味付けされた定義が関連している。

つまり、自らが、何かを行う、活動する、
これは自ら思考する事や想起する事でもあるが、
この「きっかけ」は、能動的必要性という、
自ら「活動できる」「動ける」事に対して意味付けされた定義であり、
この定義から構成される事象「欲求」に対して、
知能がその解決、解消手段として実際に「活動や行動」する、
「目的」を構成する事、
これが知能そのものの機能であると言っても良い事になる。


私の中では新しい考え方なのだろうが、
つまり、自由意志などにも関わる要素だが、
自ら何か考え出して、それを実際に行動に起こす、というのは、
思い付きや新規作成できるものではなく、

根底にあるのは、あくまで生命が自ら「動くこと」に対して、
その生命が自らの種としての定義で「動くこと」に意味付けしたものであり、
先天的定義で、自ら活動する事に対して、意味がある事、
その定義が存在していることで成り立つ定義という事になる。

つまり、自らの都合によって自らを活動させ、自らの都合を全うする事。
それを、自らが「動ける」ようになった時に、この定義を得る機会を得たが、
これらは「動く」要素のそれぞれに定義されることになる。

この事は、目的があくまで、自分の定義から発したものであり、
いかにそこから拡張や拡大されたものであっても、
その根底にあるのは自らの都合によるもの、という事になる。
これは、自分でどのようにでもできる、どのような発想も行動もできる、
ということではなく、自ら動く、活動できる、可能な範囲においてのみ、
自由ということであり、抽象的に言えば、
自分を中心として自分が手を伸ばせる範囲でのみ自由であり得る、
自分が持つ部品からのみ構成が可能である、という事になる。

逆に言えば、生命であり、知能を持っていたとしても、
動けない事に対しては、どのように知能を働かせても動けないのである。
それは、「動けない」=「目的が達せられることは無い」という事であり、

さらに逆に言えば、自ら持つ定義、活動や行動の可能性の上であれば、
それは、自ら望む能動的必要性に応じて、構成できるという事であり、
つまり、この定義を知能が保有している事、想起して事象として構成出来る事、
この2つの理由において、「きっかけ」の「必要性」が再構成されれば、
その上で、自ら保有する定義から、自らの活動や行動が出来るように、
これに先んじて「目的」を知能が構成するという事になる。

つまり、この辺りの働きの中にだけ、自発的な想起、自由意志の存在があるという事になる。

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この事の意味自体を考えると、ある事象に対して生命が直面したという「事態」に対して、
生命が起こす反応の多くの可能性の中から獲得した機能が「動くこと」という事になる。

身体の一部の可動もしくは全身の移動において、
およそ調べた内容であると初期の生命における運動や移動の機能は、
まだ予想や想像の域を出ないが、
元をたどると摂食の為の細胞の変形に端を発すると考えられるらしい。
その後、対象に向かって進むとか、危険から離れるなどの機能を定義として得たと考えられるらしい。

生命の元が脂質膜の構成から始まったとして、リン脂質を得て膜が強化され、
他のタンパク質を「偶然」囲い込み、
生命としての細胞が始まり、
そして、細胞骨格を得て後、しばらく進化の過程を経るが、
摂食の為の細胞の変形機能に対して、移動の定義が追加された。
そう考えられるという事になる。

まあ、これも必要になった事象としてエピジェネティクス的に得た機能というよりも、
自然界の状態としての必然性と突然変異による合わせ技のようなものだったという考えが有力らしいが、
これでどうにか「動くこと」が何かの目的の定義と合わせて、
生命が得られた、という事になる。

この時点では当然生命に知能は無いが、
生命としての定義として、摂食や回避、維持存続の定義は持っているはずなので、
この生命の本能というか、生命たる最低限の定義に対して、
生命は自らの定義として、自ら「動く」必要性のようなものは、
この時点で存在している事になる。

つまり、細胞が自ら動くことが「目的」であったかどうか、
というのは、あくまで客観的な決めつけとしての定義になるのだが、
生命自身にとっては、自ら保有する生命の定義において、
自ら動く事というのは、その定義に従い「当たり前」だった、という事になる。

つまり、初期生命における「目的」は自身にとっての「当たり前」の事、
という事になる。

まあ、「目的」という考え方自体が客観的決めつけであるというのは、
事象に対しての「観測」の必要性からして、これも「当たり前」になるわけで、
つまり、自分が「目的」だと思っている事は、
自分としての「知能」が、その活動を行う想起した未来の事象に対して、
「目的」であると「観測」しているから、そう理解できている、という事になる。

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概感における「自分」の定義:

そして、※1の所に話を戻すと、
「欲求」それ自体も、身体の感覚として現れる状態であるが、
「欲求」であると観測・認識して、
自分自身の状態として再構成しているのは、これも知能であり、
そこから「目的」が構成されたとして、それを観測する存在も知能、という事になる。

この状態において、存在しているはずだが未解決な存在は、
知能の機能ではあるが、「自分」が意図して決定や選択しているという事象としての「感覚」である。

つまり、これが分かれば、自由意志の範囲も存在の有無も決まり、
思考や想像、それ自体も構成の機構も解決する事になる。

例えば空腹になり、摂食欲求が生じ、何かを食べようと行動を起こす。
欲求は「摂食欲求」であり、目的は「何かを食べる事」なのであるが、
この時、このそれぞれの事象に対して「定義としての自分」がどのように関係しているのかと考えると、
空腹も摂食欲求も、身体性として先天的定義の定義に該当する為、
「定義としての自分」とは無関係である。

関係があるとすれば「何かを食べよう」とするという事に対して、
現在の自分の状態と環境から、自分の定義であると考えられる経験の中から、
「何かを食べよう」という目的に対して、解決する方法・行動としての、
経験を想起して、現時点における「自分」に対して「目的」の活動の方向づけを行うための、
事象を概感として想起して、意識し、実際に活動を行う事、
ここまでが、どうにか「定義としての自分」と関りがありそう、という事になる。

つまり、先天的定義で構成される事象に対しては「自分」は関係することは無く、
後天的定義で構成される事象に対しては「自分」が関係すると考えられる。

そして、この場合、後天的定義で構成される事象において、
「定義としての自分」が関わり合いがありそうな事象は、
概感の構成から想起まで、であり、ここから先はもう、
実際に活動が開始されているために、次の認識や意識のフェーズに移っていると考えられる。

つまり、「定義としての自分」が、
「自分」として意図して決定や選択しているという感覚を感じる事象としての対象は、
「概感」という事になる。

正確に言うと、「概感」を構成している「自己情報」の存在に対して、
二面性の、その相対する面に存在する「変化情報」の構成を行う事が、
自分が意図して「決定や選択」をしているという感覚が生じる元になっている、
という事である。

つまり、概感を構成する際に、過去の経験の関連が事象として構成されることになるが、
このきっかけはあくまで、現時点における自身の身体の受容する情報から、
現時点の自身の状態、状況として認識される刺激であるが、
この「自身の現時点の状態や状況」に対して、この先行うべき「動き」「活動」は、
先天的定義からの反応、または、後天的定義からの反応としての認識または想起という事になるが、
この場合、先天的定義からの反応は、半自動的であり、自分が意図して何かを選択したり決定したり、
という感覚は生じないが、
後天的定義からの反応は、過去に経験した自身の記憶から概感が構成され想起されるものであり、
この場合、知能は、この概感に対して物理的には自身が構成している情報塊として、
事象を構成しているのであるが、一方で知能自身の観測としては、自分が自ら構成した事象であると、
想起していると感じる事象という事になる。

つまり、知能は自ら構成している事象ではあるが、その過程は見たり知ったりする事は出来ないのだが、
結果的に生じた概感としての事象は想起できて意識できて、自分が作り出した結果として、
決定や選択をした事象であると意識できる、という事になる。

そして、この「概感」に含まれる自己情報は、記憶の自己情報であり、
元を正せば、過去に経験した刺激としての事象における自己の身体性なのであるが、
後天的定義は、先天的定義としての身体性を直接関連付けているわけではなく、
あくまでその「関連」のみを定義できる、という事になる。

この場合、概感において自己情報を再構成する場合、
神経細胞ネットワークの励起において刺激の「身体性」に代わる、
「概感の身体性」のようなものは、この場合、身体性に関連する関係性だけが定義として存在し、
関係性だけが、その構成の対象になっていると考えられる。

つまり、概感における自己情報の「自分」であると意識できる情報は、
仮想的な「身体性」のような定義の「自分」を用いているのではないか、
という事になる。

これは、これまで考えてきた表現で言えば「自分のもっともらしい」と表現して考えてきた事である。

つまり、刺激の自己情報である身体性のように、
概感の自己情報が存在し、それは、知能が想起の際の概感の自己情報として、
「自分」であるという存在を定義するもの、つまり、「仮想的な自分」を、
概感の自己情報として構成している、という事になる。

勢いで書いたので、少し内容をまとめると、
つまり、概感を構成する際は、知能は再構成の場、認識プール、事象プール(どれも同じ意味)
に、事象として概感を構成するのだが、
この時の概感の変化情報に相対する面として、何か情報を受け止める側の面・存在が必要になる。
この時、知能は先天的定義の自己情報を用いることが出来ないので、
代わりに、自分としてであるが、持ちうる情報の中で、自分を構成できる情報、
ということになると、過去に自分の身体性から生じた状態や状況に対して記憶した、
経験の中に在る存在としての「自分」を用いる事にしたのではないか、という事になる。

つまり、実際、想起時においては、現実に存在しない自分を構成には用いることが出来ないが、
「自分」である自己情報は事象の二面性において必要になるので、
どこからか調達しないわけにはいかない、では、知能が探しうる「自分」は他にどこにあるかというと、
後天的に得た「自分の定義」として、経験として記憶している「自分」は存在している。
それならばと、知能はこの「自分の定義」を概感の自己情報に充て、
これに変化情報を組み合わせて事象を構成しようとする。
この事は、現実に存在する事象ではなく、知能内で知能が自ら構成した事象になるのだが、
この時、構成される事象は、「概感」としての事象となり、
これを意識しようとする場合に必要となるのは事象の連続性の維持として「想起すること」という事になる。

そして、この時の「自分」はどのような存在になるかと言うと、
再構成の場において、実体や形は存在しないが、「自分」としての形は情報としては保っていて、
知能は、これが「自分」であると意識する事は出来るが、形の無い情報塊、のような状態という事になる。

これは、過去の自分であった経験の中から、概感の変化情報に合わせた自己情報として、
概感を想起する存在としての「自分」という事であり、

概感が存在する間だけ存在する「自分」という事になる。

つまり、身体性の様に固有の定義がないために固定化や特定ができないが、
自分であった事を再構成で用いている間、
概感の構成の連続性の間だけ存在する「自分」という事になる。
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想起の必要性:

では、想起は知能においてなぜ必要になったのか?という疑問が生じる。

本来、生命は先天的定義の本能だけでも維持・存続・継承は成り立つはずである。

自然淘汰においても、より環境に適応した種が生き残るというだけである。

そう考えると、先天的定義の限界が現れたか、
より優位な変異として後天的定義を得たと考えられる事になる。

つまり、先天的定義だけでは適応できない状況が現れたか、たまたま適応した、という事になる。

先天的定義では、その変化がゆるやかであるので長期の時間を必要とするが、
生命は受動的ではあり、失敗する事も多くあるが、
その環境の変化に対して新たな種が発生できる可能性を持っている。

つまり、地球上の様々な場所に長い時間をかけて一様に広がった生命が、
対自然や対他の種だけでなく、急激な変化という適応の必要性に迫られたからということになるのではないか、
もしくは、何か新たな変異が上手く自然に適した生命が誕生した、
と考えられる。

最終的には人間の様に、対、他の個体にまで適応能力は発展する事になるが、
つまり、一様の状態でない対象に対する適応能力、
つまり、最終的には種として機能の完成形で誕生しない事で活動しながら完成形を目指す方式、
元は、自然環境の季節に対する身体の昆虫の羽化や脱皮、カエルの変態などの機能、
そういった機能は先天的定義として本能として取り入れられたが、
捕食や回避、忌避などについては、先天的定義としては限界が見えてきたのではないか、
そして、この先天的な機能に補佐として後天的な経験を定義する機能を得たのではないか、
というわけである。

原始的な神経細胞が、腔腸動物などで獲得されたというのは、以前調べたが、
その後の次の進化において線虫などの段階において、経験の記憶能力を得たという事が分かった。

まだ想起の機能までは遠いのだが、
すでに線虫くらいの生命の種の時点で、
この経験を後天的に定義化する能力は持っていたという事になる。

この定義は、事象の二面性においては、
「自分」に対する定義として想起に至るとは考えられないが、
ある変化の事象に対して、後天的に間違う可能性も含めて、
自身の個体が選択や決定についての定義を、後天的に得られる事になり、
この場合、自己情報に相当する情報は、
自身のある事象に対する「状態」であると考えられる。

つまり、ある変化に対して、自分がどうするべきかという「自分の活動」の定義が、
この情報として用いられるのではないか、という事になる。

つまり、

変化情報:(経験):自分の活動の定義

つまり、まだ確固たる「自分」ではないのだが、
先天的定義として持つ、ある「動き」「活動」そのものに対して、
後天的な関連付けを行っているのではないか、という事になる。

つまり、例えば先天的定義としてある対象について摂食する行動を起こすことに加え、
後天的に接触した対象に対して後天的に摂食対象として定義するに至る事になったのではないか、というわけである。

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2025/5/12

昨日の続きになるが、
つまり、先天的定義で対応の事象を再構成する様に、
後天的定義で対応の事象を再構成する機構が、「想起」そのものなのではないか、
という事になる。

まあ、当たり前の事でもあるのだが、

つまり、先天的定義で定義を持っているのは、
ある事象に対して、生命が定義して持つ固定された適応の為の反応である。
これで対応できない事象に対して、

ということは、神経細胞ネットワークの構成は、
ある変化情報に対して、先天的定義においては固有の接続が生じる構成が、
遺伝的に定義されていて、先天的定義においては、それが誕生前に構成されるが、
誕生後の後天的定義においては、その構成手法は、後天的に受容した変化情報に対して、
決まった関連が接続されるように用意されている可能性が有るという事になる。

つまり、先天的定義は、遺伝情報を元に決まった変化情報と決まった適応の対応方法が関連されて、
誕生後にそのまま用いられるが、
後天的定義は、その先天的定義の成長過程をなぞるように、
ある感覚器官で受容できる変化情報に対して、何か決まった関連先が用意されているのではないか、
という事になる。

この時点で思い浮かぶのは、「身体上の状態」である。
つまり、対応の方法や手段は、まだ決まっていないが、
身体上の状態としては、後天的な変化情報だけに対しても決まった反応を提示、関連づけられるのではないか、
と考えられる。

つまり、後天的定義としての反応は、すぐには決定して関連付ける事は出来ないが、
その前段階として、身体上に現れる感覚や感情などの状態として、
定義できるのではないか、という事になる。

つまり、後天的定義を完成させるためには、
最終的には、ある事象に対して適応の反応を関連付ける必要があるのだが、
その前段階として、ある事象に対する身体上に現れる状態としての関連付けた状態の定義があるのではないか、
という事である。

つまり、それぞれの事象に対する後天的定義の完成形があると明言はできないが、
ある個体が後天的に受容する変化情報に対して、固有の反応を起こすというのは、
後天的定義そのものの反応という事になるが、
それぞれの事象に対して、まだ明確な反応が決まっていない状態であっても、
この事象に対して、身体上に感じられる状態を関連付けておき、
これを後天的定義の前段階の状態として記憶できる事になるのではないかとは考えられる。

つまり、後天的定義の完成形が、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→反応

であるとして、この前段階のまだ「反応」が決まらない状態、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→?

この状態に対して、後天的定義として構成は出来ている事になる。

つまり、機能の続きの「想起の必要性」の答えというよりも、
当初の「欲求のはじまり」の答えに近いのだが、

「欲求」から「目的」そして目的の「反応」としての活動や行動が続いていくのに対して、
この

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→?

という関連は、「欲求」そのものの定義として構成される神経細胞ネットワークの定義に相当するのではないか、
と考えられる事になる。

情報の入力側からの神経細胞ネットワークときっかけだけあれば、
事象が再構成できる、という考え方や、
逆に出力側からの反応と神経細胞ネットワークが存在すれば、
それはある「定義」としての形を構成するのに十分であるという考え方が出来て、
であれば、この結果が未定義の、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→?

についても、後天的定義としてはまだ未完成であるかもしれないが、
「身体上の状態」を身体内に現れた変化情報としての刺激として考えれば、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→受容

として、
事象の認識としては、十分な情報を持っている事になる。

そして、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態

が、変化情報に対する反応としての「身体上の状態」であると考えると、
これ自体はある定義として完成した状態という事になる。

つまり、この定義が「欲求」としての反応の全体になるのではないか、
という事になる。

つまり、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態=欲求

であると考えると、

変化情報→受容→刺激→身体上の状態→受容
は、

欲求→受容、これはつまり欲求も事象として身体上の状態として構成されるのであれば、

欲求→認識

こういう流れが存在する、ということになる。

つまり、ある変化情報に対して身体上にある状態が現れる事、
これ自体が全体として「反応」そのものであり、
この「反応」を自分が「認識」する事、この事が「欲求」の感覚であると考えると、
認識の為の刺激は、変化情報に対する自己情報としての身体性の二面性を持つので、
つまり、

変化情報:(刺激):自己情報

は、

変化情報:(刺激):身体性

であるので、欲求も同様に考えると、

身体上の状態変化:(欲求):身体性

こういうことになる。

実際、身体で感じる「欲求」の体感としての感覚は、
身体内で生じた「不足」に対する「渇望」のような感覚であり、
何か明確な「対応方法」のような行動の目的のようなものは、まだ決まっていない。

あくまで、身体で感じる状態の感覚だけである。

ただ、この感覚の認識は、すでに事象としては構成されていて、
実際に認識できる事象である。

つまり、刺激が身体表面の身体性であるなら、
この欲求の感覚は、身体内部の身体性に対して構成された事象、という事になる。

そして、ここから、「想起」の為に概感を構成する事になるが、
「欲求」が先天的定義の定義による事象であれば、
刺激と同様に、この事象は認識と想起のきっかけになり得る。

つまり、

刺激→認識
刺激→想起

が起こるわけだから、

欲求→認識
欲求→想起

これも同様に起こり得るという事になる。

想起がもともと何らかの事前の必要性によって起こるのであれば、
これは恐らく既に先天的定義として定義されていてもおかしくないが、
実際は先天的定義の限界について考えたところなので、全てを先天的に定義する事は難しいわけであるから、
後天的に定義する手法を必要とする事になる。

この場合、欲求の事象は、定義によってある「渇望」の感覚それ自体も再構成している。
というか、身体で何かを「欲する」ような感覚を事象として認識させる。
つまり、「欲求」の認識に対して、決まった反応として「渇望」のような欲するという感覚が、
事象として存在している事になる。

ただ、「欲求」自体が、その元となる事象に対する最終的な「もっともらしい」反応ということではなく、
その前段階の状態を把握する、という事だけに特化した情報であるので、
この「欲求」自体には、もとの事象を解決するきっかけとしての情報は含んでいない。

では、どうするか?という事になると、
どうするかを決めるのは「知能」という事になるが、
「知能」は、ある事象に対して、自ら新たな事象を構成することはできない。
あくまで知能は、知能が保有する定義の中から、その定義同士の関連を使って、
定義を構成するしかできないので、もし、後天的定義を持たず、
先天的定義だけしか持たないのであれば、知能にできることはほとんどない。
決まった事象として受容した変化情報に対して決まった定義を用いて、
そこから構成出来た事象を「反応」として行うだけである。

これを「知能」と呼んでも良いかはまあ別として、
「知能」が何か新たな事象を自ら構成して実行することのできる器官であると考えると、
この新たな事象は、知能が保有する定義の組み合わせから構成するしかない。
つまり、これまで自由意志などで考えてきた、
知能が自由であり得る決定や選択の範囲が、この定義の組み合わせの可能性の範囲という事になる。

そして、想起の事前の「必要性」に考えを戻すと、
先天的定義では存在していない事象の情報、定義として、
後天的定義には「必要性」の情報が含まれている事になる。
つまり、先天的定義では知能が関与できすに、きっかけと結果の関連が固定化されているが、
先天的定義では定義が存在しない事象については、
知能がある事象に対して、関与する自由度がある程度存在する、
つまり、定義と定義を関連させて、新たな定義を構成する事、
つまり、知能が新たな定義を構成する「必要性」の存在があるということ。
この「必要性」の定義が「欲求」の定義なのではないか、という事である。

つまり、「欲求」はそのきっかけに過ぎないが、
そのきっかけによって知能が行うのが「想起」になる、という事。
そして、この「欲求」はあくまで身体上の状態なのであるが、
きっかけとして、知能を活動させるその「必要性」の定義が、
先天的定義としてある時点で獲得できて、これが後天的定義の始まりなのではないか、
という事になる。

つまり、未完成を未完成のまま事象として構成できるようになったこと、
これは、神経細胞ネットワークの構成の未熟なままの状態を許容した、
生命の知能における、ある進化の段階であり、
この未熟な状態を許容する代わりに、
後天的な定義を構成するきっかけや機構が、
「欲求」や「概感」を構成する為の「想起」だったのではないか、という事になる。

つまり、
それは定義が未完成であるが故の定義を完成する為の「必要性」なのではないか、
という事になる。

つまり、その未完成を完成させるための知能の働きが定義の組み合わせであり、
その組み合わせの結果として「もっともらしい」結果になった事象を知能は「想起」するのではないか、
という事になる。

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「もっともらしい」評価:

では、自分の決定や選択における「もっともらしい」という評価はどのようなものか考えてみる。

これまでの考え方では、
概感を想起する場合の、情報量、つまり、励起された時の事象の情報の強さによって、
事象の情報としての強さが決まり、強い情報が優先的に想起対象になり、
これが比較の評価であると考えてきた。

つまり、概感を構成する定義として、記憶する際の元となる刺激の認識において、
強い刺激として認識された事象が、経験としての記憶される定義としても強いものであり、
これは想起における概感を構成する情報としてもこの強さが優先され、
概感を構成する情報の要素として用いられやすい、というものだった。

つまり、簡単に言えば、強い刺激の記憶が、強い概感の構成要素となり、
これが優先的に「自分」が想起した概感であると感じられる、というものである。

先天的定義のように半自動的に想起されるような概感は、
恐らくこの考え方に近い機構で構成されると考えられるのだが、
そう単純でないのが、自分が何かを自発的に行おうとするような行動である。

もちろん、この行動は先天的定義による刺激・事象でないので、
後天的定義から構成される概感として想起されるのは間違いないと考えられる。

上記の事から、この想起対象の概感は、
「欲求」や「目的」に関連しているというのも間違いないと考えられる。

そして、その概感を構成しようとする事自体のきっかけは、
上記の通り、事象の定義が未定義ゆえの定義完成のための「必要性」であり、
この「必要性」は逆に概感を想起した時の、自分の「自発性」として感じられる、
必要性の定義から構成される事象になるのではないかと考えられる。

ここまでで、とりあえず、自発的な概感を構成するきっかけと、
その構成の要素まではなんとか漠然とだが抽出できるが、

ただ、それでもなお、まだ「もっともらしさ」には到達していない。

恐らく刺激と同様に、後天的定義による概感の想起においても、
多くの概感は構成されていると考えられる。

つまり、事象プール(再構成の場、認識プール)のような場に、
同時的、連続的に概感は構成され続けているが、
概感同士の比較、刺激との比較において、何らかの基準や評価があり、
その結果として刺激を認識するか、概感を想起するかが決まり、
結果としてその刺激か概感が意識される事になる。

つまり、この事象プールにおける刺激と概感の比較基準、評価基準が、
そのまま「もっともらしさ」の基準になっているというわけである。

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2025/5/13

昨日の続きで「もっともらしさ」について考えていたのだが、
知能が認識か想起をする対象として刺激か概感を選択する時、
何を基準にして、その対象を決めているのか、これが分かれば良いという事になる。

生命としての選択の誘導と、知能としての選択の誘導は異なるとして、
普通に生命における必要性として選択を誘導する場合は、
恐らく単に刺激や概感の情報量としての多さ、励起の強さが、
その選択基準になっていると考えられる。
つまり、いきなり強い刺激を受ければその事象を認識せざるを得ないように、
連続性における強烈な割り込みが掛かるようなものである。

一方で、知能としての選択の誘導においては、
基本的に知能の構成の場合は後天的定義による事象の概感であるわけだから、
これを用いている知能も、意識する存在の事象としては後天的な存在、という事になる。

であれば、もし後天的な存在である知能が、
後天的な事象として概感を構成するに当たり、
何をもって事象の選択を優先するのかと考えてみると、
恐らく、そこにあるのは、知能それ自体を定義する構成要素、
つまり、知能を構成する経験、その経験における優先度という事になる。

つまり、知能は機能として選択機能を持っているわけではなく、
知能それ自体は経験の定義の集合体のようなものであるわけだから、
この定義の集合体の中から、今の状況や状態における「もっともらしい」事象を選択しようとした場合、
知能は半自動的に、集合の中の定義から、今の状況や状態に最も近しい経験を選択するのではないか、
という事になる。

つまり、知能は想起対象を選択するという考え方ではなくて、
知能は現在の状況や状態に最も近い事象を半自動的に選択できる機能なのではないか、
という事である。

つまり、知能は、知能自身という存在が活動して、
自発的に選択や決定を行っているのではなく、
現在の状況や状態に対して、もっとも適した事象を構成しているだけではないか、
というわけである。

そして、では、この決定や選択が、なぜ自発的に行っている様に感じられるのか?
という疑問も生じるが、
これは、考え方が逆で、上記の知能が「最も適した事象を構成しているだけ」なのは、
知能の全体の機能というわけではなく、知能に含まれるが、
先天的定義から刺激を構成するように、後天的定義から概感を構成するのは、
知能が関与しない活動であり、後天的定義からの概感は結果として知能が観測しているだけだから、
刺激の身体性が刺激の主体性の一面であるように、
概感の主体性は、概感を構成する一面として、
刺激とは異なるが、概感独自の身体性のようなものがあてがわれているからではないか、
という事になる。
つまり、
突然生じたように感じる概感を、知能は概感の身体性を一面として持つ事象として、
自ら構成したように感じているだけなのではないか、
という事になる。

では、概感の身体性とは何か?という事になるが、
これは実体のある生命の個体としての身体ではない、というのは間違いない。
もともとの考え方の身体性は刺激におけものであり、
概感が刺激の様に感じられない必要性であるかのように、
実体の身体上に概感は感じられない。

それでも、自分が自ら思う様に感じられるのは、
知能それ自体が直接観測を行える対象だからではないか?
と考えられる事になる。

つまり、知能は生命としての個体内において存在するハードとしての機能であるが、
刺激の構成も、概感の構成も、事象を構成するという事に関しては、
知能は直接関与することが出来ないと考えた。
つまり、事象の構成も知能の1つの機能ではあるが、
これは知能のハードとしての機能が担(にな)うもので、
事象は結果としてソフトな情報として出力され、
これを観測するのは知能のソフトとしての機能が担っているからなのではないか、
という事になる。

つまり、
事象の観測は、知能のソフトとしての機能として行っているからではないか、
という事になる。

つまり、

「ハードとしての知能」と「ソフトとしての知能」の機能は別々に存在し、
それぞれ役割と担う対象が異なるのではないか、という事になる。

つまり、感覚器官や受容体、神経細胞ネットワーク、脳、こういったハードウェアも知能を構成する要素であるが、
この要素自体が情報を構成する事はあるが、情報それ自体を操作することは無い、という事になる。
一方で、刺激や概感、事象、認識や意識、こういったソフトウェアも知能を構成する要素であるが、
これらも、情報を操作したりはしないが、知能はこれらの情報を観測だけはできるのではないか、
という事になる。
そして、実質的に情報を操作する権限のある機能は何かというと、
思い当たるのは、自分にとって何か比較することが出来る機能を持つ「過去と現在の差」という事になる。

つまり、過去と現在における
先天的定義の事象と、先天的定義の事象の差、または
先天的定義の事象と、後天的定義の事象の差、または、
後天的定義の事象と、後天的定義の事象の差、
これだけが唯一の比較の情報を持つ事になる。

つまり、今の経験と過去の経験だけが唯一比較できる共通する要素を持っているという事である。

つまり、ある2つの事象において、本来事象毎の比較というのは出来ない、というか、
元々比較する意味が無い。
先天的定義だけであれば、都度、刺激を認識してそれに対して反応を起こすだけだからである。

ここに選択が生じるためには、ある共通する要素を持つ2つの何かが必要になる。

「今」は常に1つであるので比較のしようが無い。

「過去」は多数存在するが、これも比較のしようが無い。
というのも、「過去」を事象として持ち出すためには、
「今」に事象として再構成する必要があるからである。
つまり、概感としてである。
「過去」同士を比較する機能が知能には無い。

唯一、事象を比較できるのが、
「今」の事象と、
「今まで」存在していた事象、
この関係だけには、比較が行える事になる。

つまり、事象プールにある事象と、
今まさに構成しつつある事象の間、この関係の間にだけ比較が生じうる、という事になる。

例えば「想起」は、
事象プールに元々ある事象に加え、
あるきっかけとなる刺激か概感に対して新たな概感が再構成される時、
この新たな概感が、現在の事象プールにある事象と比べ、
情報量として大きい、強い情報であった場合に「想起」対象となり、意識される。

「認識」は、
事象プールに元々ある事象に加え、
あるきっかけとなる変化情報が先天的定義を用いて新たな刺激を構成する時、
この新たな刺激が、現在の事象プールにある事象と比べ、
情報量として大きい、強い情報であった場合に「認識」対象となり、意識される。

そして、自由意志の肝となるのは、
「想起」において何を「きっかけ」とするのかの自由度という事になる。

つまり、基本的に自我、自由意志で何かを思ったり考えたりしていると想起している概感は、
その「きっかけ」次第で「想起」対象に選択・決定されるかどうかが決まる。

事象の構成が半自動的だからであり、知能が自発的に関与できないからである。

では、「想起」のきっかけになりうるのは何かと考えると、
これまでの考えでは「刺激」または「概感」であり、
その連続性に対して「420:刺激と概感とその連続性」で考えた、
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刺激は変化の連続性に対する身体の連続性から構成される。

刺激の再構成は認識そのものである。
概感の再構成は想起そのものである。

概感は刺激をきっかけとして想起される。
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という事に対して、
「想起」のきっかけは「刺激」という事になる。

つまり、覚醒時の刺激の連続性は確かにある。
刺激の連続性があれば、概感の連続性もある。

この連続性は半自動であり、知能は関与できない。

事象プールにおいて、刺激又は概感の認識と想起対象の決定も半自動で行われる。
知能は関与できない。

そして、ここから先、認識か想起された対象の事象は、
この今の時点で「今」まさに想起されている連続性を持つ事象、という事になる。

つまり、完全な刺激としての身体外から受ける変化に対して構成された事象は、
当然、想起のきっかけになるのだが、
これは「今」ではなく、「今」の少し前から構成され始めた事象になる、
これは知能が認識する前に事象が構成される必要があるからである。
そして、「今」まさに連続して観測しているのは、事象プール内の事象であり、
これが認識か想起している事象であり、
これは「今」ある「事象」として「観測」されつつあるものである。
これは、「今」から先の「未来」に対して存在する可能性を持つ事象であり、
これは「今」の時点において、明確に存在して、意識されている。

そして、この連続性は、次の別の事象が構成されて、
「今」の事象と事象プール内で比較され、
最も情報量の多い、強い事象であった場合に、
この連続性の事象が切り替わるという事になる。

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2025/5/16

まだ内容が完全にはまとまっていないが、
長くなってきたので区切りをつける事にするが、

大まかにまとめると、
生命における欲求や目的、もっともらしさに対する定義や情報は、
生命の「動く」という機能に対して、
この機能を用いる生命の都合の良いように新たに定義された仕組み、という事になる。

この「動く」機能は、必要に迫られて獲得した機能ではなく、
この機能を先に得た事で、生命がその使い道、使い方を編み出した、
という事になる。

そして、この使い道や使い方を編み出すためには、
先天的定義だけでは不十分で、定義の後天的な可塑性が必要であり、
これも結果的にだが、定義する機能の未熟な状態が維持される個体が発生した事により、
得られた機能という事になる。

ここまでくれば基本的な機能は十分で、
後は機能の拡張、拡大化だけで複雑な定義も可能になったと考えられる。

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最後の方で「今」と「過去」の連続性のようなものに気付いたので、
次回はその辺りの事を考えてみる。

今回はこの辺で。

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