2025/3/25-2025/4/5
後天的定義の自分の定義
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2025/3/25
見直しとして、さらに追加となるが、
「自分の定義」において、
特に身体性に関わる自己情報を刺激の認識に用いるために再構成する場合、
この時の「自分の定義」は全て先天的定義に格納されている定義という事になる。
そして、この時、再構成された刺激が認識プールに置かれる時に、
認識対象の選択として、知能が優先的に再構成する自己情報を、
どのように評価・比較しているのかと考えた場合、
知能自身はこの評価・比較に対しては、対象が先天的定義であるために関与できず、
再構成された後に初めて、この情報に関与できる(観測する)ことになる。
であるとすると、特に先天的定義を用いる自己情報の再構成は、
先天的定義として存在する定義は、
刺激としての変化情報の受容に対して、ある固有の評価・比較の為の定義を持っている事になる。
これは、余談だが、後天的定義の定義においては、
過去に経験した、自身の刺激の認識において、身体性が関わる以外の情報の関連、
つまり、ある刺激の変化情報に対して、用いられた自己情報の「関連」のみが、
後天的定義の自己情報として記憶される事になる。
つまり、この自己情報の「関連」のみの情報は、仮想的な自己情報として機能する情報であるという事になる。
つまり、想起した概感は、変化情報は先天的定義を元にしているので明確だが、
自己情報は身体性が記憶されないので、「自身に関連した」という結果のみ、関連のみが用いられている事になる。
つまり、後天的定義は、先天的定義に対する「関連情報」のみから構成されているのではないか、
という事になる。
なぜ、これが、概感として構成できるのか、身体性が無くても「自分の何か」であると認識できるのか、
この辺りの事は改めて考える事にする。
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2025/3/28
上記の続きとなるが、
関連の再励起によって認識可能な事象が再構成できるのか考えた時、
例えば想起による「赤い光」が実際に「赤い光」として目に見えなくても、
概感としては「赤い光」として再構成が出来るし、
実際に自分でも「赤い光」が存在しているように想起して認識して感じられる。
実際の身体にある目で「赤い光」が見えているように感じなくてもである。
この時の「赤い光」には身体性は当然ないので、
目で見ている感じがしないというのは当然の事になる。
しかし、それでも想起した概感としては確かに「赤い光」があるように認識して感じられる。
どこに見えている感じがするかと言うと、
頭の中に空間があるように感じられて、その中央に「赤い光」が光っているように認識できる。
実際に体感しないとしても存在する事がわかっているように感じるというのは、
知能の観測は、刺激に対しても概感に対しても客観的である。という考え方ができる。
刺激が身体性をもって主観的に感じられ、
概感が身体性が無い為に客観的に感じられるというのは、
これまで考えてきた事だが、
この刺激と概感に対して知能が観測するという考え方においては、
知能自身はどちらに対しても客観的な存在になるのではないか、と考えられる事になる。
実体験としては、刺激に対しては、身体性自体は主観的に感じるものだが、
この感覚というものは、実際に身体が存在するように感じるものだが、
この感覚の際の知能の存在、そのものについては意識できるものではない。
概感についても、身体性こそない為に客観的な視点から自分を感じるような感覚だが、
寧ろこの時の方が、知能の仮想空間内に自分が存在するような感覚になる。
ただし、この場合についても、知能の存在を直接感じるというよりは、
自分の考えや思いが、そこに概形となって存在して、それを感じて認識したり意識したりするが、
知能はそれを包み込むような感覚としてその存在を感じる。
さらに、刺激や概感に認識や意識を向ければ向けるほど(集中すると)、
知能の存在は希薄になっていく。
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2025/3/30
概感の機能について:
418の新たな刺激の定義をふまえて、
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418:よりコピー
刺激=変化情報+自己情報
入力:体外の場合
変化情報=自然法則の変化情報
自己情報=感覚器官の身体部位の情報
入力:体内の場合
変化情報=身体の状態変化の情報
自己情報=感覚器官の身体部位の情報
出力:体外の場合
変化情報=事象の変化情報
自己情報=体表面の身体情報
出力:体内の場合
刺激の自己情報=先天的定義による身体性の情報
自己情報=身体内の身体情報
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概感が既存の刺激に無い変化に対する後天的な刺激の定義のように構成されるなら、
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概感=変化情報+自己情報
入力:体外の場合
変化情報=自然法則の変化情報
自己情報=感覚器官の身体部位の情報
入力:体内の場合
変化情報=身体の状態変化の情報
自己情報=感覚器官の身体部位の情報
出力:体外・体内の入力の由来に関わらず
新規の場合:
変化情報=現時点における認識プール内の事象が関連対象
自己情報=現時点における認識プール内の事象が関連対象
経験を記憶済みの場合:
変化情報=関連から想起される事象
自己情報=関連から想起される事象
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後天的定義の出力が先天的定義と異なるのは、
入力が体外・体内、どちらの変化の由来であっても、
出力は、どのような刺激でも関連が可能であるという事になる。
これは、先天的定義は、自己情報としての選択や比較が行われず、
自動的に定義に従って構成されるのだが、
後天的定義は、個体ごとの自己情報の補完される情報の対象はまちまちであるという事になる。
きっかけの入力の刺激に対する出力は、
未経験の新規の場合は、この入力と、現時点における認識プール内の事象を関連させたもの。
後天的定義として経験の記憶がある場合は、この入力に対する関連して記憶した事象が出力対象となる。
(おそらく、この解明により、
想起、思考、創造力、目的、意志、など様々な知能の機能が説明できるようになるはず。)
後天的定義の定義形成の過程としては、
例えば身体外的に、現時点では定義が無く、理解の出来ない事象があり、
これに身体が接して、この事象の変化情報を感覚器官で受容した場合、
知能としては、この事象の存在自体に対して、まず、
入力した変化情報の事象の各要素を入力として、
認識できた変化情報のそれぞれの事象に対して、
関連付けを行う事で、まず、この理解できないが、存在する事象に対して、
まず「事象としての存在」だけの定義は確保する。
この時点で、入力の刺激は先天的定義の定義より判明、
入力の刺激は確定する。
出力はもともと定義が存在していない為、直接出力は出来ないが、
入力が確定しているだけに、そこに含まれる変化情報としての事象の各要素に対しては認識が行われているため、
認識プール内にはそれらの事象の再構成体は存在している。
知能としては、入力に対して適応や対応をする必要があるが、この時点では適応や反応の定義が存在していないので、
まずは、その入力する事象の存在だけは情報として確保しておく必要がある。
つまり、とりあえず意味は分からなくとも認識だけはしておこうという事になる。
定義が存在しないが認識する為には、「変化情報+自己情報」の二面性の考え方から、
変化は入力した刺激として存在して確定しているので、
自己情報の補完が必要になる。
しかし、この時点では定義が存在しないので、無理やりにでも認識する為には、
存在する何らかの自己情報を関連付ける必要がある。
知能がこの時点で保有している、確保している自己情報として存在する事象は、
認識プール内にだけ存在する。
つまり、対象の事象に実際に関わる関連した自己情報ではないが、
他の事象の認識は都度行われているので、知能自体としては、他の事象の認識の為の再構成体としての自己情報は、
この認識プール内には存在する。
ということになれば、知能は最初の意味の分からないが存在する事象に対して、
実際には定義として存在しない自己情報を、この認識プール内の他の事象・刺激の自己情報を関連させる事にする。
この知能の操作は現時点では、私の予想・想像になるが。
この時の認識プール内にある事象というのは、
この瞬間において、自分が認識しているであろう「現在」の「自分の状態」そのものになる。
「認識プール」----------
|事象A(変化情報A+自己情報A)|
|事象B(変化情報B+自己情報B)|
|事象C(変化情報C+自己情報C)|
|・・・・・・・・・・・・・・・・|
|----------------
入力した刺激→(関連)→自己情報A+自己情報B+自己情報C+・・・
つまり、この自己情報A+自己情報B+自己情報C+・・・が
現在の「自分の状態」になる。
つまり、最初の意味の分からないが存在する事象に対して、
今の瞬間に自分が自分として認識している現在の状態を出力として関連させる、
という事になる。
少なくとも、これで、意味が分からないが存在する事象は、現在の自分と関連する事で、
知能は、この意味が分からないが存在する事象の存在の確定と、認識が出来る、という事になる。
ただ、関連付けたのは、確定した自己情報ではなく、ある現状の状態としての自分がその時認識している、
認識プール内の「事象達」に関連付けを行っているので、
(つまり、認識プール内に再構成されている事象に対して関連付けが行われる、
そして、事象として再構成の刺激量が多い対象ほど関連は強くなる)
刺激の身体性のような明確な定義のある自己情報ではなく、
現在の自分で自分を認識している「自分」の状態(自己)に対して関連付けている、という事になる。
恐らく、これが後天的定義には身体性が含まれないということになるのだと、考えられる。
そして、この「意味が分からないが存在する事象」は、その新規の関連において、定義が構成される事になる。
神経学や脳科学的には、この時点ではシナプスの形成はまだ大脳皮質では行われておらず、
主に海馬でこの関連自体が一時的に保管されるということになる。
先天的定義であっても、後天的定義であっても、
きっかけである入力に対して定義としての出力が揃えば、認識対象の事象が再構成できると考えているので、
神経学的にきっかけの信号が感覚器官の受容体由来であっても、
そもそもの記憶の想起であっても、入力の信号としてはどちらも機能は果たせると考えられる。
また、その関連はそのまま神経細胞ネットワークが役割を受け持ち、
新規であっても遺伝的な定義の展開であっても、これも機能は同じであると考えられる。
さらに、出力についても、先天的定義の出力として身体性の定義が既存の定義として存在しても、
後天的に新たな経験として、その事象に対する現状の自身の状態を自己情報として補完する事になっても、
同じ様に機能としての役割は果たせると考えられる。
ここまでは、過去に経験した事の無い意味の分からないが存在する事象に対しての知能の操作であるが、
もちろん、これを定義として記憶した後の、後天的定義として用いる場合は、
先天的定義の場合と同様の知能の機能、反応や対応、という事になる。
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2025/3/31
知能の成長と生体としての脳の成長:
後天的定義の形成が出来る状態は、脳が成長途中である事、とも考えられる。
つまり、人間の身体としての機能が終わりの直前であっても、
恐らく脳の後天的な経験の記憶能力などは衰えたとしても保持されていると考えると、
身体の寿命の時点では、後天的な記憶の能力はまだ成長途中にあるとも考えられる。
では、先天的定義に可塑性がないのはなぜか?
まあ、可塑性があっても困るのだが、
今考えられるのは、
関連となるシナプス接続が特別に強力(接続が異常に強化されている)なので追加の関連があっても問題ないのか、
先天的定義に関わる定義については後天的に関連できないのか、
後天的に関連しているのかもしれないが、先天的定義については意味がないのか、
関連が構成された後に元の状態に修復されるのか、
などの事が考えられる。
身体が負傷などして先天的に持つ機能が細胞レベルでは修復されうるという事を考えると、
先天的定義については、先天的な状態に戻ると考えるのが自然であると考えられる。
つまり、成長という考え方においては、
先天的定義は完成されたものであり、
基本的には維持のみが、その機能に対して必要性を持っている、という事になる。
では、後天的定義の可塑性についてはどうなのか、という事になるが、
遺伝などで定義されていない後天的に獲得した経験の記憶などの定義において、
修復などによって戻すべき状態の定義が存在しないわけであるから、
元々記憶していない状態を初期状態として考えれば、
基本的に後天的定義の
「新規の獲得」、「中途の変更」、「忘却による喪失」、は、
後天的定義が可塑性として持つ機能であるという事になる。
そして、成長という考え方においては、
後天的定義は、そのものの定義の存在自体が成長であるため、
獲得から変更、喪失までもがその機能に対して必要性を持っている、という事になる。
つまり、機能として先天的定義は完成されている、
後天的定義は、その機能自体が未完成であり、
未完成の機能のまま生命が獲得した機能であるが、
後天的定義は、成長を終えることなく、先に身体の生体としての機能の寿命を迎える、
という事になる。
つまり、例えば人工知能が後天的定義の機能を得たとした場合、
基本的に悟りや達観した状態には到達することは無く、
後天的な経験により成長を続けることが出来ると考えられる事になる。
唯一の後天的定義の完成は、自然法則の事象の完全解明、という事になる。
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2025/4/1
想起時における自己情報のありか:
恐らくこれが分かると、
思考や創造力の鍵になる部分が分かる事になると思うのだが、
なかなかに難しい。
刺激の自己情報が身体性であるように、
概感の身体性がどこにあるのか、
どのようなものであるのか考えると、
現時点で思いつくのは、
「過去に自分であった記憶」
という事になる。
つまり、想起時に自己情報として何を補完しているのかと考えた時に、
きっかけの刺激から経験の刺激を想起した時に、
何を自己情報として認識ができているのか考えると、
概感では身体性が感じられないのに関わらず、
それが自分の考えであるように感じるのは、
過去の自分であった記憶が想起されることによる、
客観的な自分の観測対象としての自己情報が相当するのではないかという事になる。
例えば、想起として、自分でない誰かが、自分の名前を呼んでいる場面を想像したとする。
この時の想起は、自分が認識を経験したことのある「誰か」が、
さらに言えば、この「誰か」が仮想的な人物や有名人で、見た事や声を聴いた事はあるが、
実際に自分の名前を呼んでいるところを自分自身で経験していない相手だったとしても、
その誰かや声や名を呼ぶという事象自体は想起できて概感として構成できる。
実際に自分が経験した事でもないのにである。
この時に用いられる後天的定義は、対象の人物や、声の音声、自分の名前の言語、
名を呼ばれる場面、それらは個別に自分は過去に認識した事があり、
それぞれの要素のどれかが今回の想起とは違っているかもしれないが、
実際に認識して経験した事のある事象であるということは間違いない。
しかし、今回の自分の名前を呼ばれる場面の想起は、
個別の要素は実際に認識し経験した事があるが、
それをまとめた今回の場面の事象は、実際に直接経験した事が無い事象という事になる。
それでも、自分は想起できるのだが、
この時の自己情報が何かと考えると、
それぞれの要素に含まれる「過去に自分であった記憶」としての自己情報が、
恐らく身体性の代わりに用いられているのではないか、と考えられる。
つまり、刺激の再構成の場において、過去に自分であった身体性を、
想起の自己情報に補完して、認識対象の概感を構成しているのではないか、というわけである。
概感において、直接的な身体性を感じないのは、
想起時に用いられる経験した記憶としての自己情報の身体性は、
後天的定義の想起においては、先天的定義である身体性を直接励起するものではないためで、
ここが難しいのだが、
つまり、一度事象として認識した刺激の記憶を、想起する場合、
後天的定義の中心は、その経験の事象の認識における情報の関連のみになるのだが、
この時に用いられる自己情報は、
知能が客観的に観測した経験だけになっているのではないか、と考えられる。
つまり、刺激はその事象の認識の為の再構成において、
実際に体験した変化情報と自己情報の身体性の定義が励起される。
これは、先天的定義であるために、選択などは起こらず自動的に行われ、
知能はこの事象を自分が体験した事象であるが、客観的に認識する事になる。
そして、知能はこの刺激を経験として記憶する場合、
後天的定義として定義される「関連」は、
先天的定義で再構成された「刺激」そのものではなく、
この「刺激」を認識した、という事実、事象の存在について記憶するのではないか、
というわけである。
直接「刺激」の経験を記憶するのと何が違うのかという事になるが、
もし、直接「刺激」の体験のみを経験として記憶した場合、
そこにあるのは「刺激」の事象のみである、
つまり、恐らく刺激の再構成の場にある事象のみを経験として記憶するのであれば、
単にその刺激を認識したという事しか記憶できない事になる。
知能は、変化に対する適応や対応のための機能ということは以前から言っているが、
では、自分にとっての変化に対する適応や対応を行うには他には何が必要かということになると、
客観的な自分と他に対する「関連」という事になる。
つまり、客観的な関連、つまり、「認識プール」という事になる。
途中で気付いてしまったのでいきなり書いたが、
上記の知能が刺激に対して経験として記憶する場合の、
後天的定義として定義される「関連」は、
この「認識プール」内の事象に対する関連なのではないか、
という事になる。
つまり、記憶や経験は「認識プール」内の事象に対する「関連」を記憶するのではないか、というわけである。
そして、再び上記の「自分の名前を呼ばれる場面の想起」に戻ってみると、
目的としての刺激が恐らくきっかけになっていると思うのだが、
この目的に対して、ここに構成される事象を構成する要素のそれぞれが、
過去に経験した事象の要素として記憶され、その記憶に対して想起を要求された場合、
何を想起するのかというと、過去に実際に経験した認識における刺激としての、
変化情報と自己情報の身体性という事になる。
ただし、知能は客観的に観測した結果であり、想起対象は刺激を直接ではなく、
過去の状態としての「認識プール」に対して想起する事になる。
さらに言えば、認識それ自体は、「認識プール」内におけるある上位(刺激量の大きい)事象のいくつかに対して、
のみ関連して認識されるので、記憶する事になる刺激に関連した事象の、
過去の体験した際の優位な事象のいくつかに対して、関連して、構成されたものという事になる。
つまり、簡単に言えば、刺激の記憶は、
過去に刺激を構成して、この刺激が認識された時の「認識プール」内で、
結果的にこの認識される刺激に「関連」することになる他の同時に存在していた優位な事象に対する「関連」が、
後天的定義の定義として記憶されるのではないか、というわけである。
つまり、刺激を直接記憶しているのではなく、刺激を認識した時に存在していた他の事象に対する「関連」を、
後天的定義の定義として記憶するのではないか、というわけである。
だから、後天的定義を想起する場合、刺激や関連した事象も想起する事になるのだが、
それは、刺激として直接励起される定義ではなく、
認識プール内で、既に構成済みになっている事象に対する「関連」が励起されるので、
概感は、事象の存在などは感じられて認識できるが、そもそもの刺激を励起するわけではないので、
身体性が無いのではないか、という事になる。
つまり、後天的定義の想起は、刺激の構成とは異なり、
事象を想起して構成するのではないか、という事になる。
何が違うのか、という事になると、
刺激の構成は、先天的定義として、自然界の自然法則で起こる変化の事象に対して、
これを変化情報として生命の感覚器官の受容体が受容し、この励起に対して、
脳内で変化情報の定義による情報の再構成と、受容した身体性を自己情報として構成させるが、
概感の構成は、ある刺激の認識に対して、過去に同じ刺激に対して経験した際の認識プールの状況、
つまり、このきっかけの刺激と同時刻に存在して、同時に認識していた、
きっかけの刺激と他の事象に対する関連、この関連が後天的定義として用いられて、
再構成に用いられるという事。
そして、この場合に認識されるための概感は、
きっかけの刺激の事象として存在していた事実、経験だけが再構成の対象になり、
これに相対する二面性の対象は、認識の連続性、つまり、結果的に自己意識のようなものが構成されるのではないか、
ということになる。
つまり、概感は単独で、刺激のようなものを再構成するのではなく、
認識の連続性を概感として構成するのではないか、というわけである。
つまり、刺激は連続する事象の中の点として存在できるが、
概感は連続性の中の連続性の一部が再構成されるのではないか、というわけである。
つまり、刺激は確定的な点(身体性)として事象が存在するが、
概感は連続性を持っているから身体性が独立して認識できないのではないか、という事になる。
まあ正確には、先天的定義は、知能の管轄外なので、身体性を用いることが出来ないが、
知能が先天的定義の無い新たな事象について、
先天的定義の機能の構成を模倣して(用いる事の出来る機能を総動員して)、
後天的に定義を構築できるようにした結果、
事象の関連を定義として構成することで、「経験」を記憶できるようになった、というわけである。
そして、この時の「経験」は、単独の変化の事象としての刺激や身体性ではなく、
自分を客観的に観測している知能ならではの方法として、
認識の連続性つまり、意識をそのまま切り取って記憶することにした、というわけである。
結果的に意識した時間範囲をそのまま後天的定義として記憶する事になった事で、
刺激の変化情報や自己情報もそのまま客観的だが記憶する事になった、というわけである。
となると、
では、概感における連続性の中に在る、個別の「点」については、
何が想起されるのか?という疑問が生じるが、
おそらくこれが上記でも書いたが「自己意識」、つまり、
過去に「自己」であった認識の連続性の一部、点なのではないか、というわけである。
つまり、
自分が身体が体感した刺激を、客観的に観測していた知能が、
その認識の連続性としての意識した経験として記憶し、
その連続性の中に在った個別の刺激ではなく、認識した、その事を点として記憶したのではないか、
というわけである。
つまり、恐らく、先天的定義の中には、身体性以外の部分において、
音声の音の構成要素であるとか、顔などの形状に対する画像の構成要素があって、
この定義自体は、直接ではないが後天的定義でも用いる事、つまり、想起対象にすることが出来るのではないか、
という事になる。
おそらく先天的定義の身体性は直接想起できないので、意図的に想起は出来ないが、
身体の構成などについては、想起して身体部位を認識出来たり、
夢において実際に身体性を感じるような認識に至る事があるので、
完全に「関連が無い」、ということにはならないと考えられる。
つまり、後天的定義の想起においては、認識して意識して、後天的定義を構成した定義の中に、
何か想起した事象の自己情報に相当する定義があると考えられる。
まあ、上記の内容からすると、自己意識として書いたものだが、
先天的定義の身体性以外に、自己を感じられるような定義が構成されていると考えられる。
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2025/4/2
今日考えていた事。
概感の構成について。
概感は、単体の刺激のような構成ではないのではないか?
昨日の考え方からすると、
刺激の連続性、認識の連続性、意識なのではないかと考えたが、
変化の連続性そのものが何かと言うことになると、
関連の連続性ということになる。
つまり、関連を伝わりながら刺激の連続性を想起して概感と成している?
しかし、自然界でそんなに複雑なシステムを採用するのか?
自然界のシンプルさ優先の考えで行くと、
概感も別に難しい機構を構成しているわけではなく、
刺激の機構を流用しているだけなのではないか?
であれば、刺激についても逆に概感のような機構を用いていて、
それは、定義と経験による構成になるのではないか?
ということなら、
刺激は先天的定義こそ先天的だが、刺激そのものは後天的なのではないか?
つまり、刺激は先天的定義で事象の先天的定義を持つが、
刺激を構成する時の関連自体は、考え方としては関連に相当するが、
刺激だけは成長段階であらかじめ関連が構成されるのではないか?
つまり、関連こそが本来、後天的な定義で、
概感は先天的定義を用いた後天的な定義になるのではないか?
つまり、身体性が刺激にあって、概感にないのは、
身体性についての先天的定義に対する関連が、
先天的なものであり、後天的には構成できないものなのではないか?
つまり、後天的に身体性に関連できるようなきっかけの変化情報が存在しないのではないか?
つまり、感覚器官などが先天的に用意されるものであり、
後天的に身体が用意されて関連がつくられるものではないから、
後天的に身体性に関連させる刺激や概感がつくられないからではないか?
概感で赤い光を見ることを想起できるのは、赤の光を想起しているのではなく、
言語や文字としての「赤い光」を想起したから、
その関連で光線としての「赤い光」が想起できるのではないか?
つまり、先天的な刺激を想起しているのではなく、後天的な言語について先に想起して、
それに関連して刺激を想起しているのではないか?
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概感にも事象を構成する二面性が存在するはず。
刺激が身体内外の変化と身体性なら、
概感は何がこの二面性の要素として相当するのか?
身体内外の変化情報:(刺激):身体性
?:(概感):?
刺激が生命における身体の変化の事象であるなら、
概感の事象としての存在の意義は何か?
概感は何を目的とした機構・機能なのか?
刺激が身体内外の変化を情報として受容することなら、
概感は何か?
想起の目的ということになる。
想起の目的が分かれば、その必要な対象の情報と、
構成する相対する存在が分かる。
想起の目的は、単なる過去を懐かしんだり、哀愁を感じたりということではないはず。
想起で得られるのは何か?何を得するのか?
自然界における想起の重要性は何か?
恐らく思考や創造は、かなり後発的な想起の応用方法に過ぎないはず。
もっと根本的に生命にとって有利な機能面が存在するはず。
後天的な経験として想起すると得な情報は何か?
つまり、先天的に定義しきれない定義であり、
後天的に得る事になる情報。
生命の目的である、維持、存続、継承などに役立つ情報。
衣食住、敵、食物、自然環境、仲間、社会、運動、など。
つまり、先天的定義としての本能だけで活動する生物には必要なかったが、
生物の進化の結果必要になった情報。
逆に進化としての適応の方法を進化させたということか?
つまり、あらかじめ適応を定義するのではなく、定義を後天的に得る方向へ進化した?
つまり、成長を先延ばしして、生誕時に完成した身体ではなく、
生誕時にはまだ成長が続いている状態である事。
つまり、先に考えた、脳の機能は生命の寿命が尽きる寸前の段階においてなお、
記憶する能力があることなどから、
生物的には老化して衰えているが、機能は成長途中の状態であるという事。
つまり、本来生命として完成しているなら、
知能は先天的定義だけで全て活動が賄えるはず。
それができないから成長を先延ばしする事を進化として選んだ?
では、改めて想起の目的や利点は何か?
というより、後天的定義の目的や利点は何か?
後天的定義の利点は上記の成長が継続できる事。
新たな場面における自分のもっともらしい対応や適応を定義できる事。
想起の目的や利点は、自然法則の決まりきった変化の事象に対してではなく、
後天的な自然法則に無い事象に対して、その適応や対応を「できるだけ」早く再構成して、
活動できるようにする事。
つまり、後天的定義は先天的定義のように明確ではないし、高速ではないが、
多様な適応を適時追加して利用することが出来る。
つまり、想起は刺激の認識に対する存在。
刺激→認識
概感→想起
ということになる。
つまり、想起は認識ではなく、想起そのものであるということ。
つまり、知能は刺激を認識しているのと同様に、
知能は概感を想起している、という事になる。
つまり、
刺激の構成は、事象の構成であり、事象の構成が認識されるのと同様に、
概感の構成は、事象の構成であり、事象の構成が想起されるのと同じであるという事になる。
刺激は、先天的定義から変化情報と自己情報の関連したもの全体を励起して構成され、
この定義の励起自体が認識と同義になる。
一方で、
概感は、後天的定義から変化情報と自己情報の関連したもの全体を励起して構成され、
この定義の励起自体が想起と同義になる。
では、これらの考え方から、
改めて概感の変化情報と自己情報は何か考えてみると?
概感の変化情報は、先天的定義では直接対応できない事象の変化についての定義を関連させた全体となる。
つまり、
刺激の変化情報→固有の先天的定義(自然法則)
刺激の変化情報→(先天的定義)
概感の変化情報→先天的定義(自然法則)の関連体
概感の変化情報→先天的定義の関連→(先天的定義+先天的定義+・・・)
そして、
概感の自己情報は、先天的定義のでは直接対応できない身体性の変化についての定義を関連させた全体となる。
刺激の自己情報→固有の先天的定義(身体性)
刺激の自己情報→(先天的定義としての身体性)
概感の自己情報→先天的定義(身体性)の関連体
概感の自己情報→先天的定義の関連→(先天的定義+先天的定義+・・・)
つまり、概感の自己情報が、
自己の身体の連続性にあるのではないかと感じたのはここに意味が収束してくるのではないかと考えられる。
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想起の二面性は
先天的定義(自然法則)の関連:(想起):先天的定義(身体性)の関連
という事になる。
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つまり、想起した事象を認識しているのではなく、
想起そのものが認識に相当するという事である。
つまり、意識であれば、
認識の連続性が意識になるのと同様に、
想起の連続性が意識になると言える。
つまり、想起において身体性が感じられないのは、
認識における自己情報の補完と相対する、
想起における自己情報が、身体性の関連体であるために
実体の身体を感じられないということになるのではないか。
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今回のまとめ:
概感の構成は、刺激と同様の仕組みを持つとは思うのだが、
まだ不明瞭な点が多い。
きっかけの刺激に対して関連と、自己情報のようなものを持つと考えられるが、
特に概感の自己情報については今回も明確な答えには到達していない。
ただ、今回の気づきとして有用だったのは、
刺激が認識で、
概感が想起で構成され、
その連続性が意識になるという考え方で、
シンプルな考え方ではあるが、
実際に意識においても、それらしいふるまいをしているように感じる。
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次回も概感の自己情報辺りについて考えてみる事にする。
今回はこの辺で。
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