2024/11/22-2024/12/1
感情と身体の状態
数日前に少し不安を感じる事案があり、
その不安の感覚について考えていたのだが、
不安を感じる時、まあ今も少し、みぞおち辺りに何かモヤモヤしたものを感じるが、
この感覚というのは、身体内に何らかの変化が存在し、
それを体内のみぞおち辺りの感覚器官で受容しているか、
または、
知能として、実在する何かは無いが、そのみぞおち辺りに感じるモヤモヤを再現して、
認識しているという事になる。
いずれにしても、身体上にそのモヤモヤが存在するように刺激か概感として再構成されているのだが、
別の事に注意や意識を向けている間は、そのモヤモヤが存在している事には気が付かない。
つまり、このモヤモヤは認識して意識された時にのみ感じるもので、
刺激か概感のどちらかであろうと思われるが、
知能が不安に対してある状態を身体上に状態として存在するように出力しているという事になる。
つまり、入力と出力と定義の考え方において、
現実的な「不安を感じる事案」の認識に対して想起される実際には存在しない「不安な未来の事象」に対して、
知能は「みぞおち辺りのモヤモヤ」を刺激か概感として出力している、という事になる。
この場合の定義は、不安に対する予想や予期される「実際にはまだ存在していない未来の事象」を入力として、
「不安を感じる事案」に対して関連づいた「不安な未来の事象」の要素の出力の1つとして、
身体に起こる感覚として感じる事の出来る状態として再構成する事になる。
そして、これを知能は不安の入力に対する出力として、
定義に従い「みぞおち辺りのモヤモヤ」を構成して、
個体はそれを身体の状態変化として、
ここでは結果として不安という感情に対する身体の状態として認識する事になる。
現時点では、実際に身体内のみぞおち付近にモヤモヤが刺激として実際に存在するというものではなく、
概感として構成された何かであると考えている。
ただし、みぞおち辺りに何か不安を受容する器官が存在すると聞いたことは無いが、
そのモヤモヤ自体には身体性が感じられるので、刺激として存在する事も考えられなくもない。
今の時点では、刺激とも概感とも判断は付かない状態である。
今、分かるのは、ある状況として不安を感じた場合、その不安に対する未来のまだ存在していない、
自身が対面するかもしれない否定的な事象に対して、
知能は、不安であるという事を身体の状態として出力している、
その定義が存在する事である。
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見方を変えて、
睡眠中の夢などで見る不安などの事象の場合は、
恐らく概感であろうと考えられるが、
夢の中で、ある感情の身体の状態を認識していた場合は、
身体上にはその感情の状態は現れていると考えられる。
夢の中で心臓がドキドキするようなことがあれば、実際に心臓はドキドキしているはずである。
私自身も不安で目が覚めた時に、恐らくその不安によって心臓がドキドキしていたこともあった。
この場合、概感ではあるが、実際に身体性として刺激として存在していたという事であり、
夢の中で見ている事象は、想起をきっかけとした刺激の再構成として考えられる事になる。
つまり、夢として想起した事象に対して、その認識は実際の身体性を持つ刺激として解釈され、
それを入力とした出力は、現実で認識する刺激であるように夢の中でも認識されているという事になる。
つまり、夢の中で見ている事象は、想起を元にした概感であるが、
知能の認識においては刺激という扱いになっていて、その結果としてその概感から想起が起こっているという事になる。
結果、夢の中では想起による概感から想起した入出力を、刺激の入力と反応の出力として扱っている。
この場合、夢の中で見る不安は、想起した概感が入力となり、想起した概感を出力としている。
つまり、夢の中の不安は、概感をきっかけとして概感を想起している事になる。
ただし、知能内の認識においては、入力した概感は実際に存在する事象であるかのように認識されるため、
つまり、実際の身体性を持つ刺激として認識されている為、出力の概感は刺激のように認識されている事になる。
簡単に言えば、知能は夢の中では、思い出した何かを実際に起こった何かと勘違いしている、
という事になる。
現実においても、嫌な事を思い出せば嫌な感じがするし、
楽しい事を思い出せば楽しい気分になる。
つまり、刺激であっても概感であっても、ある事象の入力に対して感情となる状態の出力には、
身体性が関係しているのではないかという事は言えそうである。
ただし、まあ、まだこの考え方でも感情が刺激か概感かは判断がつかない。
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少し話は変わるが、
不安に対する対処方法は以前考えた事のある、
事象に対する正確で詳細な対応方法の構成(想像)と認識となるが、
この不安に対する対処方法として明確な対応、つまり、
不安という入力に対する明確な定義としての出力を持つ事が
不安の解消に役立つというのは、
感情としての不安、それ自体は、
知能においてのある入力に対する反応として出力が明確に定義されていないため、
あれこれと明確な出力を想起できないから、
不特定な想起を予想として出力する事が不安の反応になっているわけだから、
明確な対応が出力として定義されれば、
それ以外の出力が行われなくなるという事で、不安な事象は出力されないという考え方になる。
つまり、入力に対する反応の出力が明確に定義として存在しない場合、
今回の不安の場合は、入力が自身にとっての不利益を被る可能性のある事案であったため、
知能はその入力に対する想起として、
経験として持ちうる不利益に対する記憶をあれこれと関連によって出力するため、
漠然とした不安な未来の事象だけが出力されるという事になる。
つまり、実際には明確な不利益の定義が存在しない為、
定義による入力と出力が完結せず、
あれこれと異なった不安な未来の事象が出力され続ける事になる。
そして、結果的に、その不安な未来の事象の認識は、
知能にとっては感情としての「不安」としての状態の出力として、
「みぞおち辺りのモヤモヤ」が構成されたものなのではないかという事になる。
つまり、次に不安の事象を入力した場合に出力が明確でないために、
どうしてよいかわからないので不明瞭な出力が行われ続けて、
不安になるというわけである。
そして、これに対応する手段として、明確な反応の出力を作り出して認識すれば、
少なくとも経験で持ちうる不利益な記憶より明確な関連を持ち、
こちらが優先されて出力される為、
不明瞭な不安な未来の事象は出力されなくなる為に、
不安を感じないという事になる。
まあ実際には明確な反応も定義を作り出したものであり、
現実の体験に比べれば刺激量の度合いが低く、やや漠然とした定義であるため、
完全に不安を取り払える事にはならないが、
しかし、この方法でも、私の場合、ある程度の不安な感覚というのは軽減出来て、
不安であるという感情の状態が変わるという事は、
感情の状態は、想起される対象によって変化するという事になる。
つまり、不安の入力に対する出力の種類によって感情の状態も変化するという事になる。
そしてそれは、刺激か概感としての出力に感情の状態を表す何かが含まれているという事になる。
感情が実体の身体の状態の感覚として受容され認識されるのであるから、
定義の根本にあるのは先天的定義である。
しかし、感情自体は刺激としての入力によって刺激の様に出力されるというよりも、
概感のように出力され、認識される。
つまり、
概感=変化情報+自己情報
感情の状態は身体に現れる。
自己情報=先天的定義の身体性
感情で現れる身体の状態は認識対象である
認識対象は刺激か概感である
感情で現れる状態の変化=変化情報
感情で現れる状態の変化は感覚器官で受容していない
感情で現れる状態の変化=刺激?か概感?
ここがはっきりしないが、
不安の事象は直接不安として感覚器官で受容していないので概感のようだが、
出力される不安の感覚は実際に身体上に現れ刺激に近いものとなる。
感情で現れる状態の変化=概感の変化情報または刺激の変化情報
感情=刺激の身体性+概感の変化情報?
または
感情=刺激の身体性+刺激の変化情報?
感情の定義=先天的定義+後天的定義?
または
感情の定義=先天的定義
つまり、感情は、身体上に現れる刺激と、概感として構成した自己から構成されるか、
完全に先天的定義で構成されるのではないかという事になる。
言い方を変えれば、
知能内で構成された概感のように感情は発生するが、
この感情となる概感は、
その出力先として実体の身体上に現れるという事になる。
例えば今、自分の手を叩いて「痛み」を感じたとする。
少しして、その「痛み」を刺激として感じなく、認識できなくなってから、
想起として先ほどの手の「痛み」を思い出すとする。
この場合、概感として想起した変化情報としての「痛み」は、記憶として後天的定義に関連した、
「痛み」の先天的定義を励起したものであるが、
この時の自己情報は、実体の身体ではなく、経験の記憶した身体性である後天的定義の自己となる。
この場合、概感として想起した先ほどの手の「痛み」は、
過去に実際に存在していた自身の身体と手と痛みの記憶から作り出したものとなる。
そして、この概感の認識においては、今の実体の身体の手は別に痛いと感じることは無いが、
確かに手のその位置が「痛かった」というものとして想起される。
感情でモヤモヤが実際存在するように認識される場合とは少し異なるが、
例えばこの手の痛みが、誰かとゲームをしていて罰ゲームとして手を叩かれたものだとして、
その手を叩いた人が「大好きな人」の場合と「大嫌いな人」の場合で「痛み」を想起した場合。
そこに何か身体に現れる感情のようなものは現れるか?
自分の場合において想像すると、
相手が「大好きな人」であれば、叩かれて手が痛かったとしても「まんざらでもない」気がするし、
「大嫌いな人」であれば、「少しムカッと」すると思う。
感覚としては弱い反応だが実際に身体上の状態として感情らしき反応は現れるように感じる。
以前も同じような事を書いたが、
例えばのこの手を叩いた人物が誰かわからない状況であれば、
叩かれた「痛み」に対する感情となる反応は、その対象が不明瞭であるので、
感情においては単に「痛み」に対する反応が主な反応になるが、
この叩いた人物が、自分にとって何らかの意味のある対象である場合、
この「痛み」に付随する反応には、単なる「痛み」に対する反応だけでなく、
感情などの別の反応も含まれる事になる。
つまり、刺激以外の関連する情報の要素によって、感情の反応が生じている事になる。
402で考えた腔腸動物の神経細胞らしき反応は、
この対象に関係しない、単なる刺激とその反応という入出力と定義の話だけなのだが、
感情というのは、この単なる刺激とその反応という基本的な神経細胞の働きに加え、
別の要素としての入出力と定義が存在しているという事になる。
腔腸動物であっても、接触した何かが捕食対象であるか、忌避対象であるかによって、
その接触に対する後の運動の反応は異なる。
つまり、接触したという入力以外の要素によって、
その後の反応が変わるという事になる。
これを人間の知能で考えてみると、
認識プール内で、複数の刺激が関連して認識される際、
単なる刺激以外に構成されていた刺激か概感が、
関連して入出力を行っているという事になる。
つまり、同時に認識される事象には関連が生じて、
今回の感情の場合、刺激と、人物などの別の事象の認識は、
事象としては別々のものであるが、1つの認識として関連するという事になる。
そして、感情においてはある刺激の入出力の定義とは関連しているが別の事象として、
その刺激の認識における状況としての事象として、
別の入出力と定義が働いているという事になる。
簡単に言えば、
自分を取り巻く事象はいくつか同時に存在していて、
ある1つの事象を認識した場合、同時に存在していた別の事象も、
関連して同時に認識される、
という事になる。
今回の場合においては、
感情が生じる事象Aは、ある別の事象Bの認識に関連していて、
その事象B自体の認識には別に感情と関連していないが、
その事象Bを認識した「自分」にとっては感情の状態を生じる事象Aが併存して関連していたという事になる。
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これは、心理学的な「つり橋効果」などでも言えて、
心臓のドキドキは、緊張だけではなく、恋愛に対するドキドキも、
同じ身体の状態を事象として用いているという事になる。
異なるのは状況であり、
状況次第でその認識は、単なる緊張にもなるし、恋愛感情にもなる、
という事になる。
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であれば、感情の定義は、
単なる先天的定義の入力に対して出力される場合も考えられるが、
基本的には、その他の同時に存在して認識される事象の入力に対する出力として、
構成されているのではないかという事になる。
であれば、感情の定義は、
入力対象として先天的定義と後天的定義の事象のどちらでもあり得て、
出力は基本的には先天的定義による身体性を持つ身体の状態として構成されるという事になる。
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感情の定義:
感情の定義は、先天的定義としても後天的定義としても存在するという事になる。
例えば、
今回の不安は先天的定義であり、
以前考えた優越感などは後天的定義である。
優越感は、実際にはその根底には満足感などがあると考えられ、
後天的な状況や状態によって優越感を感じる事になると考えられる。
基本的にどの感情の状態においても、その根底にあるのは先天的定義である。
これは感情の定義に限らず、どのような定義でも同様である。
つまり、ある状況や状態の入力と認識に対して、
その反応であり出力となる感情は、
先天的定義か、後天的定義を用いて出力している。
この定義が「感情の定義」という事になる。
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感情の定義が先天的定義が元になっていると考えられるので、
感情によって生じる身体の状態の種類はある程度限られているはずである。
ただし、状況や状態と定義の組み合わせによって多様な感情を表していると考えられる。
感情が状況などの事象の入力に対する反応の出力であるなら、
自然法則の変化を単独で受容する感覚単体の入力では感情は生じないが、
感情が状況に対する反応であったとして
恐らく身体に状態として現れない感情は存在しないと考えられるため、
先天的定義として考えれば、
感情は、ある瞬間の自身の状況や状態に対して入力された事象に対する
ホルモンや神経伝達物質によって生じる反応の種類に限られるという事になる。
つまり、身体上に感情を直接する感覚器官が存在しないなら、
直接的な自然法則によらない刺激に対して感情の反応が出力される事になる。
つまり、状況や状態に対する入力と出力、その定義として感情は存在するという事になる。
これは、生命体としての自身の存在に対する状況や状態という事であり、
定義は先天的定義であるが、直接的に自然法則から生じた定義ではないという事になる。
つまり、自身の身体にとっての状況や状態に対する入出力と定義であり、
生命が自然界の中に存在する、その状況や状態に対して、
生命自体が定義した定義という事になる。
例えば、初日の出は自然法則による事象であり、
それ自体には感情の何も定義は存在しないが、
それを見た人間が初日の出を見て何か感動を得て感情の変化を呼び起こすのは、
人間自身が持つ別の定義が存在するから、という事になる。
もう少し簡単な例であれば、
生命が空腹である状態は自然法則ではないが、
生命体としては身体の状態として空腹を感じ、
その空腹に対して何かを感じるという事である。
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感情を構成する自己情報は実体の身体性か、仮想的な自己情報か?
今回の不安のみぞおち辺りのモヤモヤは、感覚器官が存在するわけではないが、
身体上に感じられる刺激として存在している様に感じられる。
この場合感情は概感であると考えられるが、
刺激であるとも言える。
これはどういうことか?
今回の考え方で、感情が概感でもあり先天的定義でもあるという事は、
例えば私が不安を感じた時のみぞおち辺りのモヤモヤは、
これまで、どのような不安であっても、みぞおち辺りのモヤモヤとして認識されてきたと思う。
この不安は手足に現れるわけではなく、頭の中でもなく、いつもみぞおち辺りのモヤモヤであったと思う。
つまり、私が持つ不安の定義において、その出力の定義は「みぞおち辺りのモヤモヤ」なのである。
これは、私が持つ不安の先天的定義の出力の定義であり、
私がどのような不安を感じたとしても恐らく同じ様にみぞおち辺りにモヤモヤを感じるはずである。
概感の身体性は記憶による自己の再構成であるので、実体は無いが、
みぞおち辺りのモヤモヤは実際に身体上に感じられる刺激として感じられる。
ただ、みぞおち辺りのモヤモヤは、実際にそのモヤモヤを感じる感覚器官があるわけではない。
直接受容している変化ではなく、あくまで再構成された変化情報である。
モヤモヤ=刺激として認識される
モヤモヤ=先天的定義の再構成体
感情の定義=先天的定義
しかし、モヤモヤを感じる感覚器官はない、
認識できるが感覚器官がないなら、
モヤモヤ=概感
再構成された変化情報と、再構成された身体性が、
実際に存在するように認識されるのか?
それとも、あくまで、ある事象に関連した認識であるが、
実体の身体性のように認識されるということか?
例えば、幻肢は実際に存在しない四肢が、実際に存在している様に認識される。
存在の定義としては先天的定義であるが、認識しているのは概感である。
そして、概感でありながら、実際の身体性として認識している。
感情は定義は異なるが、この幻肢と同じような認識のされ方である。
概感自体の定義は、刺激同様に「概感=変化情報+自己情報」であるが、
概感であっても限りなく刺激に近い、
つまり、先天的定義に近い定義から構成された概感があるということなのだろうか。
それとも、感情は先天的定義の「刺激」なのだろうか。
感覚器官の存在しない「刺激」があるということだろうか。
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2024/11/25
今日も昨日の続きを考えていた。
今日考えていた結論から先に言うと、
感情は先天的定義から構成されるという事になる。
これは、どのような感情においても、先天的定義である、という事になる。
一番の理由は、感情により決まった反応が出力される事。
つまり、私の不安であれば、不安の事象に関わらず、
不安を感じる時は、必ず「みぞおち辺りのモヤモヤ」として出力が起こる事。
私の記憶における喜怒哀楽他の感情においても、
決まった出力が身体上に現れていると思い出される事。
ただし、現在感情として考えられているある種の感情、
例えば以前例に挙げた「優越感」などは後天的定義の感情であるという事。
今日の結論とさっそく異なるのではと思うが、
この「優越感」は、定義としては後天的定義なのであるが、
その構成要素として先天的定義の感情の定義を含むという事になる。
上記で刺激以外の何らかの要素が感情の出力に関係しているのではないかと考えたが、
後天的定義自体が、先天的定義の定義を用いて定義するものであるからこういう事になるが、
つまり、自然法則から成り立つ生命において、
不安は先天的定義の定義として遺伝的に継承される感情(身体の状態の出力を持つ定義)であるという事になる。
しかし、
優越感は、人間が活動する上で定義された感情らしき状態であり、
その根底にあるのは先天的定義の感情である、という事になる。
実際、優越感で感じられるのは満足感、自己満足、であり、
これは、お腹が一杯で感じられる満腹感などの満足感に似たものであるという事になる。
そして、この満足感は、
さらに根底にあるのは「満ち足りた感覚」という事になる。
ちなみに不安の根底には、その逆の安定した状態の「不足した感覚」がある。
つまり、感情はいくつかの基本的な感情として先天的定義で定義されたものがあり、
それぞれに身体上に現れる状態が存在する。
これらは先天的定義であり、その定義によって構成された出力が、
身体上に状態変化として現れる場合に、
知能は感情の状態が生じたと認識する事になる。
そして、
その状態を励起する感情のきっかけになる事象、要因は、
先天的定義の場合も存在するし、後天的定義の場合もも存在する。
例えば暗闇が怖いのは先天的定義であるし、
お化けが怖いのは後天的定義である。
そして、怖いのはどちらも先天的定義による出力である。
そして、感情が構成される場合、
その変化情報と自己情報は、
変化情報は身体上に現れる状態であり、
自己情報は身体性である、という事になる。
つまり、刺激の構成と同じという事になる。
ただし、五感などの刺激と異なるのは、
感情の構成が、全て自然法則による事象の変化に対して構成されるものではなく、
後天的定義の事象に対しても出力として刺激と同じ構成で出力が行われる事、
という事になる。
つまり、五感などの刺激を構成する場合、
感覚器官で受容した変化情報はそのまま再構成されて変化情報となり、
身体性と合わせて刺激になるが、
感情の場合は、感覚器官が受容した変化ではない変化に対しても、
感情の刺激が再構成される場合があるという事になる。
つまり、先ほどの例の暗闇は先天的定義の恐怖であるが、
お化けは後天的定義の恐怖であるという事。
そして、その恐怖はどちらも同じ恐怖であるという事。
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2024/11/26
今日は感情が刺激としてどのように構成されているのか考えていた。
今日考えていた結論から言うと、
「感情は刺激の構成同様に先天的定義で身体性の定義を持つという事」
「感情を発現させるきっかけは刺激と概感のどちらでも当てはまるという事」
「感情の身体性は、ホルモンや神経伝達物質の受容に対する身体性の定義なのではないかという事」
「感情と空腹感などは似たもの同士で先天的定義の身体の状態として現れるという事」
こういうことが言える。
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まず最初に、
「感情は刺激の構成同様に先天的定義で身体性の定義を持つという事」
これは、例えば不安を感じた時に身体上に現れる「みぞおち辺りのモヤモヤ」は、
感情が先天的定義として定義されているものであれば、
他の五感などの感覚同様に身体性の定義を持っていても変ではないという事になる。
つまり、定義の入出力として、五感などの刺激が変化に対して、
変化と自己の情報を構成する際に、自己の身体性をその刺激の発現部位として用いるなら、
感情の身体の状態を、特定の身体上に表しても不思議はないと考えた。
つまり、私が不安を感じる際に常にみぞおち辺りにモヤモヤとして不安を感じるのは、
私が不安を刺激として感じる際にその変化を身体上に表す部位として、
「みぞおち辺り」として決まった定義を持っているからという事になる。
恐らく、先天的に持つ感情は、その状態を表す特定の身体の部位の定義を持っていて、
怒りの際に背中から首の辺りにかけて毛が逆立つように感じたり、
喜びの際に全身が軽やかにふわっと浮き立つような感じになるというのは、
この身体性としての定義なのではないかという事になる。
現在感情として分類されている中には先天的定義ではない後天的定義としての感情もあるが、
この後天的定義としての感情の場合も、
身体上に現れる感覚というのは、いずれかの先天的定義として身体性を持つ感情への関連を持ち、
その身体性を借りて身体上に感情としての状態の変化を表していると考えられる。
つまり、
例えば優越感などの感情は、
感情として満足感のようなものを関連付けて構成しているのではないかという事になる。
そのために、優越感を感じた時は、身体上で満足感のようなものを感じる事になる。
つまり、感情は先天的定義で定義されるものであるが、
その定義の組み合わせによって、別の感情として後天的に定義する感情も作ることが出来るという事になる。
細かい所を考えると、
本来、基本的な感情は先天的定義で定義されたものだけであり、
他の感情として考えられている後天的に定義されたものは、
基本的な感情から派生したものという事になる。
例えば何か運動の競技などで優勝して感じる感覚は、
テストなどで良い点を取って褒められた時の感覚と似ているはずという事になる。
もちろん、他人が持っていない何かを持っていて優越感を感じるとか、
それこそ他人を見下して自己満足を感じるような場合も、
その根底にある感覚は「満足感」のような共通する感覚があるはずである。
それぞれの感情の感覚は、状況や状態が異なり、
別の物として扱われているが、その基底の定義には、
先天的定義で定義された出力としての「満足感」のようなものが共通して存在し、
身体上で感じられる状態として現れる事になる。
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次に
「感情を発現させるきっかけは刺激と概感のどちらでも当てはまるという事」
そして、
「感情の身体性は、ホルモンや神経伝達物質の受容に対する身体性の定義なのではないかという事」
昨日までに考えた事で、例えば暗闇に対して人間は先天的に不安や恐怖を感じる事がある。
また、例えば不安な何かの事象を思い出すことによって、みぞおち辺りのモヤモヤを感じる事もできる。
五感などの刺激の想起の場合は、自己情報となる身体性は、記憶された自己情報であり、
概感自体が実体の身体上に刺激として現れる事は基本的には無い。
ただし、感情で考えられる場合においては、想起した概感によって感情として、
身体上に刺激の様に構成することが出来る。
これは実際に感覚器官を身体上に持つ五感や身体の感覚と異なり、
感情の受容する機能が、ホルモンや神経伝達物質として受容される、
という違いによるものなのではないかと考えられる。
つまり、定義の違いということになるのだが、
五感などの刺激は、実体の身体上に現れた変化として身体性が構成されるが、
感情の刺激の構成場所は、本来特定の身体上のどこか、受容部を身体性とするなら、
小脳や大脳などの脳の器官内のどこかということになる。
実際、脳の各器官の神経細胞のどこかでホルモンや神経伝達物質は受容されることになるが、
これを身体性として定義した場合、脳はその認識において脳自身のどこかを認識する必要があるという事になる。
認識の機能において、脳は観測者であり、脳が脳自身を観測することは無い。
この矛盾を回避する為の定義が、例えば不安な時の「みぞおち辺りのモヤモヤ」になるのではないかという事になる。
つまり、感情を身体上のどこか特定の部位に現れる定義とする事で、
感情を感じた時の身体性を構成することになるのではないかというわけである。
これであれば、感情が生じた場合に身体性も確保できたうえで、
脳はこれを観測することが出来る。
実際には身体上に現れる状態の変化として認識する。
まあ感情の最初の定義という所まで遡る事になるが、
恐らく危険や飲食の好き嫌いなどの情報を生命の身体の全体で感じる為に、
感情の最初の身体の状態変化を情報として用いるようになったのではないかと考えるが、
生命が身体を持ち、その機能や規模、身体のサイズを増大させ、
何らかの変化に対して情報として得ないと成り立たない規模になった時、
身体の全体でその情報、状態を共有する方法の定義が「感情」だったのではないかと考える。
つまり、五感のような特定の身体の部位ではなく、
身体全体の状態・状態変化として情報を構成する必要性があり、
その定義が「感情」としての身体全体に及ぶ変化情報の共有になったのではないかというわけである。
感情の発現に対して、刺激か概感をきっかけとするというのは、
結果的なものであり、あくまで「感情」として「身体のある状態」を再現する為に、
その「感情」の定義を入出力として励起する事、
その関連の構成の方が重要という事になる。
つまり、現在の人間で言えば、
刺激によって感情が発現する事も、
想起によって感情が発現する事も、
どちらも行えるし、必要であったという事になる。
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最後に、
「感情と空腹感などは似たもの同士で先天的定義の身体の状態として現れるという事」
これはこれまでのまとめのような事になるが、
感情も刺激として構成される情報であり、
身体上に現れる変化情報があり、
感情=刺激=変化情報+自己情報
これが成り立つという事になる。
変化情報は先天的定義である何らかの感情を元にしたものであり、
自己情報は先天的定義で定義された身体の一部か全体として定義されている。
結果として感情を認識する場合、
先天的定義として自己情報として指定される身体のどこかに、
先天的に持つ何らかの身体の状態変化が現れ、
これを認識した時に個体は感情を認識する事になる。
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人工知能への実装について:
感情を身体性の状態の変化として構成するなら、
先天的定義の定義として実装する事になる。
ただし、実装については身体性が必要になるが、
「みぞおち辺りのモヤモヤ」などというあいまいな定義はできないので、
身体上のある個所、できれば人間が感じるのと同じ身体上のどこかの定義として、
出力の身体性を定義し、
変化情報については、「モヤモヤ」などの定義は出来ないので、
変化の根本的な情報の要素である「充足」と「不足」か、
その発展形である「好ましい」「好ましくない」を基礎とした状態変化を表現として定義する。
そうすれば、人工知能は感情を呼び起こすある事象を入力として受容した場合、
定義によって自身の身体上に現れたある状態を認識する事になる。
この状態は定義として、充足や不足、好ましい、好ましくないという状態が含まれているので、
人工知能はこの認識した事象に対して、特定の状態を持ち、
この状態に対して定義された感情を出力して認識するという事になる。
また、後天的に感情を獲得する場合、
先天的定義で定義された特定の感情としての出力に関連させる事になる。
この定義は、恐らく人間の知能においても、
その定義は個体によってまちまちであると考えられる。
例えば不安によって私と同じ様にみぞおち辺りのモヤモヤを感じる人もいれば、
異なった場所や異なった身体の状態として認識する人もいると考えられる。
人工知能においてもこれは言えて、個体差としてそのまま許容するか、
解釈で用いる定義をできるだけ互いに共有して同様の定義とするか、
これは実装方法として別に考える必要はある。
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今回のまとめ:
感情の定義は、刺激のような先天的定義であるが、
その入力の対象は基本は先天的定義による事象だが、
入力の事象が後天的に定義される場合もある、という事になる。
つまり、生命として誕生して間もなくは、その個体が感情らしき入力として持つ定義は、
先天的定義だけであるが、成長の過程で、その入力の対象について、
後天的な定義が出来る(獲得する可能性がある)という事になる。
出力においては、身体上に状態として出力する必要があるので、
先天的定義の出力しか存在しないが、
その入出力の定義が、先天的定義の場合と、後天的定義の場合が存在するので、
感情=入力(先天的定義)+出力(先天的定義)
の場合と、
感情=入力(後天的定義)+出力(先天的定義)
の場合が存在するという事になる。
いずれも出力は先天的定義であるために、
身体上に状態として現れ、身体性を含む刺激の様に認識される事になる。
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今回はこの辺で。
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2024/11/29-2024/11/30
おまけ:
話は少し変わって
上の続きで考えたのだが、
もし、感情が入力した刺激か概感に対して、先天的定義の自己情報の出力を構成するものとした場合、
入力が先天的定義で、出力が後天的定義の場合もあるのではないかという事を考えた。
これは普通に考えれば、刺激を入力して関連した想起により概感を構成するという、
想起そのものなのだが、
出力の後天的定義を限定的に自己情報の再構成による概感であるとした場合、
身体が直接、感覚器官で受容した変化の入力に対して、
後天的定義の自己情報を再構成する事になるが、
こういう事象は存在しえるのか?
つまり、実際に認識できるような刺激に対して、
現実的な身体性ではなく、思い出したかのような自分と組み合わせて認識できるか?
という事を思いついた。
つまり、他人が認識している刺激を自分が実際に認識している様に感じる事なので、
「共感」も思いついたが、共感は他人が感じた事象を想起した概感だが、
この場合は、自分が受けた刺激が自分の内に居る他人が認識している様に感じる事。
自身の内側で完結する共感の逆という事になるだろうか、
つまり、
自分が受けた刺激が自身の内の概感として認識して事象が存在している様に感じる事。
可能性としては存在しそうな組み合わせだが、
現時点では私自身認識した事の無い感覚であるし、
存在しない感覚になるだろうか。
入力が先天的定義であれば、定義は先天的定義で出力が決まっているはずだから、
起こり得ないとも考えられるが、
一応記録として残しておく。
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