2025/6/17-2025/6/29
自我の本質と二面性
今回は最近あまり考えていなかった「自我」を中心にして、
その構成や定義、二面性について考えてみる。
今回は先にまとめまでを書いてあり、
執筆期間の途中の気づきなどは後半に書いてある。
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自我の構成と定義:
現代科学においてもまだ、明確な自我の定義は無いが、
私の理解での言い方をすれば、
自分が望む、その望みの集合が自我という事になると考えている。
そして、自分の在り様、自分と他との関係、
これらは、生まれついた環境や身体・身体能力などの先天的な要素を元にして構成されるが、
自我自体の構成について言えば、その構成はほぼ後天的に構成される、と考えている。
つまり、自我が単なる欲求などと異なるのは、
刺激の様に知能の関与なく先天的定義によって選択される事象ではなく、
最低限一度は意識され、自分に関わる事象であると定義された後に構成されるものである、
という事である。
つまり、反射や思わず行ってしまう何か、のような活動は自我とは関係なく、
ある変化の入力に対して、自分が明確に反応した出力の結果として活動する時、
そこに自我が関係する事になる、というわけである。
つまり、自我は、「自分が関係する」ものであるかどうかが重要で、
そして、その自分というものは、
刺激における身体性などの自己情報ではなく、
概感における自分であった経験の記憶としての自己情報に関わる事象ではないか、
という事になる。
つまり、自我の構成については、
まず後天的な「自分」の定義ありきで、かつ、
対象に対する「自分との関係」の定義が必要という事になると考えている。
例えば、自分と対象Aが存在し、
自分が最初に対象Aを刺激として認識した際には自我は関係しない事になる。
この初回の認識時、自分は存在し、対象Aも存在する事になり、、
自分の身体性の定義は存在し、認識する対象Aも定義としては構成されるが、
まだ、この時点では、自分と対象Aとの関係の定義は無い事になる。
つまり、刺激の構成として、
刺激=変化情報+自己情報
は、変化情報が対象Aで、自己情報が身体性になるため、
この時点では自己情報は対象を認識する為の身体性の定義はあるが、
この対象に対する自分との関わり合いとしての自己情報の定義は構成されていない事になる。
そして、その後、意識する際に、
事象再生の場において、自分と対象Aが構築され、
自分と対象Aの関係の定義が構成される事になるが、
この時に、自分が対象Aに対する「定義する関係」が後の自我を構成する定義になるという事である。
つまり、対象Aの最初の遭遇時においては、認識時はまだ自我とは関わらないが、
初回の対象Aの意識時には自我との関わり合いが構成され、以降は対象Aについては自我が関係する事になる。
つまり、自分と対象Aの関係の経験が定義となるというわけである。
つまり、刺激の認識準備として、
刺激が変化情報+自己情報から構成され、それぞれの情報に対して二面性を持ち、
変化情報:(刺激):自己情報
という二面性構成で、事象プールに認識候補の対象として構成される。
そして、次に事象再生の場で知能の観察対象として、
刺激は、
変化:(先天的定義による刺激の認識):自己の身体性
であり、一応、概感も書いておくと、
変化:(後天的定義による概感の想起):自己の記憶
さらに、意識は、
刺激の観測:(意識):概感の観測
認識:(意識):想起
ということであり、
意識は認識または想起の連続性の上に成り立つとこれまで考えてきた。
つまり、「432:定義「事象再生の場」について」の事象再生の場において、
刺激を認識する事象は、これを意識する為には、
知能の事象再生の場において自分を含めて再構成される必要がある。
つまり、認識時はまだ事象プールまでの事象としての情報だが、
意識される際には自分との関連を持つ事象として再構成される、
という事になる。
この内容は「432:定義「事象再生の場」について」を参照してもらう必要があるが、
初回の認識ではあくまで対象の存在の定義として、自己情報の身体性が用いられ、
この時点での事象としては、単に対象が自分に対して存在する、というだけの事になる。
ただし、この対象を認識の連続性において意識する場合、
意識する際には初回の認識後の自分と対象の関係性は連続性をもって構築済みである事になる。
そして、
この時には事象再生の場において、自己の存在と対象の存在は、自分にとっての関係を持つ対象として構成され、
自分との関わり合いを持つ事になる。
つまり、「自分にとっての対象への関わり合いの定義」は、
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上記の、
「刺激における身体性などの自己情報ではなく、
概感における自分であった経験の記憶としての自己情報に関わる事象ではないか」
という内容に照らせば、
自我の定義は、初回認識以降に構築されている自分と対象の関係の定義として、
構成されるものではないか、という事になる。
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これがつまり、「自分にとっての対象への自我の定義」、という事になる。
つまり、実在する対象に対して単純にその対象が欲しい、欲しくない、を含め、
概感として構成される、自分がこうあるべきという対象、こうあるべきでない対象、や、
単にそこに存在するモノに対して、思い入れがあっても無くても、
それらの、自分と対象への関わり合いの全ての定義が自我を構成する。
つまり、自我の定義は自分を構成する要素として、
自分にとっての対象との関係の定義を全て集めたものであり、
この定義は後天的定義であるから、この定義から概感が構成され想起されると、
これが「自我」になる、という事になる。
つまり、自我の定義は後天的定義の一部であり、
「自我」は「自分」の全てではないが、
「自分」を構成する要素の1つである、という事になる。
そして、自我は対象が意識される都度、構成される、という事になる。
つまり、初回の認識時を除く、その後の対象に対する意識に際して、
この対象に対する定義が「自我」の要素の1つとして構成されるが、
実際に事象再生の場においては、意識する対象であるときに、
この対象は存在するので、この対象に対する「自我」は、
この意識される可能性のある、事象再生の場において対象が再構成されている期間のみ、
「存在」する、という事になる。
つまり、意識されない間は、記憶としての定義として保持されるが、
自我としては存在していないという事になる。
対象Aの初回の認識から意識までの流れをおおまかに書き出すと、
対象A
↓
対象Aの変化情報
↓
感覚器官による受容
↓
変化情報
↓
定義←受容した感覚における自己情報(身体性)
↓
対象Aの刺激
↓
事象プール
↓
認識されるための選択(半自動)・必ず認識されるとは限らない
↓←対象Aが認識対象となった場合
事象再生の場
↓
事象再生の場における「対象A+自分」の構築
↓
知能の観測
↓
対象Aを認識する自分・ここで対象Aの認識は確定する
↓←認識が連続性を持った場合
対象Aの意識
↓
自我としての対象Aと自分の関係の定義の抽出
↓
対象Aに対する経験としての定義の記憶・必ず記憶されるとは限らない
事象再生の場で対象Aが再構成されても、
この時点では対象Aと自分の関係は構成されており、
認識には至っているが、
自我の定義としてはまだ抽出されていないと考えられる。
つまり、初回の認識については、対象Aの関連する定義として、
自我に関わる定義が存在しないので、
対象Aの認識のための刺激の構成においては、
自我を呼び出すきっかけとなる定義がまだ存在していない、
事になる。
そして、初回の意識時には、対象Aと自分の関わり合いが、
事象再生の場で必要になるが、
この時点での対象Aと自分の関わり合いは、
刺激の認識の意識であるので、身体性で現れるような自分と対象の関係の定義という事になる。
つまり、感覚やファーストインプレッションのようなものとして意識されるが、
これが「自我」の範疇に含まれるかと言えば、
少し違うと考えられる。
そして、初回以降の対象Aの認識、意識については、
自我の定義は構築された後であるため、
概感の構成にはこの定義からの構成情報が常に関連付くことになる。
そして、この概感の想起においては、記憶された対象Aに対する定義が、
対象Aの認識される変化情報にも自己情報にも概感として関連する事になるため、
初回以降で対象Aを認識して意識する事になれば、
「自我」の存在も意識する事になる。
というわけである。
つまり、一度認識した対象には、自我としての自分と対象の関係が定義として構成され、
この対象を認識する場合も想起する場合も、
実際にこの自我が認識や想起されるかは別として、自我も概感として構築されている、
という事になる。
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自我の二面性:
自我を定義の階層を用いて考えた場合、
事象としての自我は「定義」の集合であり、
実際に構築できる「存在」ではない、という事になる。
つまり、自我は、自分と対象の関係性の定義であるため、
その関係性自体は身体での感じ方や、別の評価や指標を用いて表されるものになる。
つまり、定義の階層と、二面性理論から、
存在:(定義):存在
という事から、自我が定義であれば、
存在:(自我):存在
という事になる。
この場合、自我を境界とする2つの存在について考えると、
これまでの表記通り、
対象:(自我):自分
という二面性を持つ事になる。
つまり、対象と自分の境界に生じる「定義」、
これが「自我」という事になる。
まあ、このままでも良いのだが、
もう少し詳しく説明すると、
分かりやすい側から言えば、
自分から見た対象に対する境界というのは、
つまり、
(対象←)自我←自分
これは、自我の先には対象が存在するのだが、
自我の境界までという事で言えば、
自分が対象に対して定義する情報、
という事になる。
この情報は、存在に対する後天的な関係の定義という事になる。
実際には自分からは自我を経由した先に対象があるので、
対象の存在そのものを認識する為の刺激となる定義も存在する事になる。
つまり、最近のLLMの人工知能的に分かりやすく言えば、
自分を元にして、対象に向かって定義する指向やベクトルのようなもの、
これが自我という境界まで伸びた物、
という事になる。
付け加えれば、対象の存在そのものの定義は、現時点ではLLMの人工知能には自分の定義や構成体はないが、
単純にトークンの意味を定義する指向やベクトルと同じような物という事になる。
そして、もう一面の対象から自我に向かう面、
こちらは少し説明が難しいが、
対象から見た自分に対する境界というのは、
対象から見た客観性で自分を見た場合の指向やベクトル、
という事になる。
対象→自我(→自分)
つまり、自分と対象の関係は、
常に自分が元になっているわけではなく、
対象が元になり、自分についての関係を定義する事もある、
という事になる。
恐らくこれは、「自我」においては、全てが主観的な「自我」ではなく、
客観的な「自我」のようなものがある事を示唆する事になる。
客観的であっても、最終的には「自分」が意識する事にはなるが、
つまり、上記の反対の面の書き方をすれば、
対象から見た自分に対する境界というのは、
対象が自分に対して「定義しているであろう」情報、
という事になる。
つまり、簡単に言えば、
周囲から見られているであろう自分の定義、
という事になる。
つまり、分かりやすく言えば、
自分が思う、他人が考えているであろう自分に対するレッテル、
のようなもの、という事になる。
他人が定義しているであろう、なのに、なぜ「自我」なのか、
というのは、後天的定義が自分が保有する定義から構成されるものであるから、
という事になる。
少し齟齬(そご)が生じるかもしれないが、もう少し分かりやすく言えば、
対象を構成する定義は、自身の知能が持ちうる定義からしか構成できない、
という事になる。
つまり、自分の知能が保有する定義の組み合わせでしか、後天的定義は定義できないという事。
この事は、対象を認識する際も、意識する際も同じで、
自分から対象に対して定義を行う際はもちろんだが、
対象から自分に対して定義を構成する場合も影響のある制限という事になる。
つまり、二面性理論においては、事象は一面では構成しえない、という制限がある。
つまり、自我を構成するには、
自分から見た対象への関係の定義だけでは不十分で、
対象から見た自分への関係の定義も必要になり、
この定義は知能においては客観的であっても、
知能自らが保有する定義しか利用できない制限がある。
つまり、自我を構成する際の二面性においては、
対象から見た自分に対する客観的な定義を、
自分が持つ定義から構成するしかない、という事になる。
この定義は、自分にとって自我の一面になり、
自らが望む、望みの定義の一面ではあるのだが、
必ずしも良い望みとして定義されるばかりではない、
という事になる。
つまり、意識は常に自分が元であり、対象はその先の向きを持ち、
これが先に定義されることになると考えられるが、
これに合わせて二面性として、
この定義に対する反対側からの対象が元になり、自分がその先の向きを持つ定義が、
自分の知能が持つ定義から構成される、という事になる。
つまり、例えば自分が好ましいと感じる対象への定義が構成された場合、
自分の自我としては、対象から自分に対しては「好ましい」事が望ましいという定義が構成される。
しかし、それらの定義は自分が持つ定義しか、その定義に用いることが出来ない為、
必ずしも関係性の本質に対して、正しい定義である保証はない。
つまり、どちらの向きの定義においても、
自我として自分は正しい定義であると意識する事になるが、
関係性の本質とその意味が一致するわけではない、という事になる。
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今回のまとめ:
今回の内容から自我について考えてみると、
現代科学において自我の定義はまだ確定していないが、
現時点で判明している自我の基本的理解としては、
まず、
自分に関係する事、
自分と対象が必要である事、
そして、自分も対象も認識可能である事。
そして、自我と意識は似ていて、
意識が生命としての個体としての存在と、
対象は何でも良いが、その対象の変化の関係として生じるものであり、
この場合、自我は生命としての個の存在から観測した自分と対象の関係なのではないかという事。
また、
自我の存在意義は、人間の各個体の生命としての存在意義になる。
つまり、先天的、後天的、どちらについての自身の生命の個体としての欲求や望みに対して、
自分と対象を関連付けるもの
例えば自我の構成の逆説的に、
病症による自我の崩壊などによって自我の存在意義を考えると、
自我が崩壊したとしても、先天的な欲求や反応が喪失する事は考えづらいので、
自我は後天的な定義によって構成されるべきものではないかという事。
であれば、自我は、生命として誕生した後の、自分の環境に対する適応の定義なのではないかという事。
後天的な自分と何らかの対象の定義として構築する機能について言えば、
人間がなぜ「自我」を必要とするに至ったかについては、
「自我」は意識同様に副次的に定義するに至ったもので、
その根源にあるのは、知能を得て、
人間の生命としての環境への適応方法の定義を経験として記憶し、
想起することができるようになったためではないかという事。
つまり、自我は、明示的に定義できない意識の様なものなので、
知能としての機能が完全に定義できるようになれば、
あえて意識や自我は定義しなくとも、その知能の機能の上に生じるものだと考えられる事。
つまり、意識や自我は、その現象を起こす定義を定義しなおそうとするような事なので、
自己言及に陥り、明示的に定義できないという事。
一応、課題としては、
「自分と対象」の関係を定義する方法と、この定義の評価をどうするかという事になるが、
これについては、「413:先天的定義の基底の要素」に関わる、
定義の根源的な要素の「定義」、
まあ、恐らく人工知能に与える先天的定義について考える必要がある、という事になる。
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今回はこの辺で。
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以降は、まとめに至るまでの気づきや考え方についての記録
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2025/6/21
昨日の話の続きとなるが、
自我の定義としては、
自分→対象
この関係の定義と、
対象→自分
この関係の定義が必要である、ということであった。
自分から対象の定義は比較的理解しやすいのだが、
対象から自分への定義を、自らの知能が持つ定義だけで構成しようとする事になると、
急に難しい事になる。
ただ、昨日から考えていた事に対する気づきとしては、
自分→対象
この方向にとってのベクトルは、
そのまま、自我にとっては定義の二面性を構成する要素になるのではないか、という事に気付いた。
つまり、
その逆も何かベクトルで表せるのではないかという事である。
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2025/6/22
今日は新たに「自我」について考えなおす。
最初の例と重複するが、
例えば、自分と対象Aが存在し、
自分が最初に対象Aを刺激として認識した際には自我は関係しない事になる。
この初回の認識時は自分は存在し、対象Aも存在する事になり、、
自分の身体性の定義は存在し、認識する対象Aも定義としては構成されるが、
まだ、この時点では、自分と対象Aとの関係の定義は無い事になる。
つまり、刺激の構成として、
刺激=変化情報+自己情報
は、変化情報が対象Aで、自己情報が身体性になるため、
この時点では自己情報は対象を認識する為の身体性の定義はあるが、
この対象に対する自分との関わり合いとしての自己情報の定義は構成されていない事になる。
そして、その後、意識する際に、自分と対象Aの関係の定義が構成される事になるが、
この時に、自分が対象Aに対する「定義する関係」が後の自我を構成する定義という事になる。
つまり、対象Aの最初の遭遇時においては、認識時はまだ自我とは関わらないが、
初回の対象Aの意識時には自我との関わり合いが構成され、以降は対象Aについては自我が関係する事になる。
つまり、刺激の認識準備として、
刺激が変化情報+自己情報から構成され、それぞれの情報に対して二面性を持ち、
変化情報:(刺激):自己情報
という二面性構成で、事象プールに認識候補の対象として構成される。
1つ、考え方を変更する必要があり、ここから分かるのは、
刺激の認識に関しては正確には自我を構成する「自分」については、
初回以降も関係しない、という事である。
つまり、事象プールに刺激としての事象が構成されるだけでは、
初回以降であっても「自我」は関係していない事になる。
つまり、概感であっても、その構成だけでは「自分」には関係せず、
「自分」や「自我」が関わるのは、認識や想起が行われる、
次の「事象再生の場」か、「知能の観測」において、という事になる。
そして、次に事象再生の場で知能の観察対象として、
刺激は、
変化:(刺激):自己の身体性
という対象の二面性の構成であり、
知能の観測においては、
変化の観測:(刺激の観測):自己の身体性の観測
これは、
変化の存在:(認識):自己の存在
ということであり、その連続性が生じた場合、
最終的に意識される際は、意識の構成が、
変化の存在の連続性:(認識の連続性):自己の存在の連続性
であり、認識の連続性は意識を生じる事になり、
また、意識の構成は、二面性として、
刺激の観測:(意識):概感の観測
認識:(意識):想起
であり、意識の二面性の内、
今回は刺激を中心とした「刺激→認識→意識」であるので、
この認識側の「意識」が構成される、という事になる。
そして、ここから分かるのは、
自我が「自分」と「対象」の間の関係性の定義であるという事は、
この意識の構成時の認識または想起、つまり、
「刺激の観測」または「概感の観測」時に、
「自分」と「対象」の関係性が生じているのではないか、と考えられる事になる。
つまり、「自我」の構成には、
その要素として、事象再生の場における対象と自分の関係性が用いられているのではないか、
という事になる。
今回の例は刺激を中心として考えているが、
では、事象再生の場と知能の観測において、
「自分」と「対象」の関係がどのように構築されるのか、考えてみる。
事象プールにおける刺激の情報は、単に刺激を構成するための情報、
というだけであり、対象と自分は存在するが、
その関係性は単に刺激であるという境界を持つ二面性に過ぎない。
そして、次に事象再生の場で、対象と自分が存在する実体として構成されるのだが、
恐らく知能の観測においては、既に構築された関係性を観測する事になり、
関係性、そのものが構成されるのは、事象再生の場において、
それぞれの「存在」が構成され配置される時に生じるものなのではないか、と考えられる。
つまり、事象プールまでの情報としての刺激は、
確かに対象と自己の情報を含むのだが、
その関係性は、刺激を構成しうるものだけである。
しかし、実際に事象再生の場で、それぞれの対象が実体する存在として構成される時は、
事象再生の場の空間において、それぞれの対象が個別の存在として「配置」されることになる。
つまり、この時、刺激という境界として接していた2つの要素が、
事象再生の場の空間内において、2つの存在として離される事になる。
つまり、考え方として、
事象再生の場の空間に元は1つの刺激の要素だった二面の要素が、
引き離されて個別の存在として配置される、という事になる。
つまり、この2つの存在として離される時に、
互いの関係を維持する「何か」が存在している事になるのではないか、
という事になる。
この事象を想像して、私がすぐに思いついたのは、
2つの存在の間にベクトルのような向きを持つ情報が生じているのではないかと、いう事なのだが、
つまり、
変化情報:(刺激):自己情報
の構成の情報が事象プールに作られ、
これが認識候補の対象として、
事象再生の場の空間に、
「刺激の元の対象」と「自己の身体性」がそれぞれ個別の存在として配置される。
この時に
「刺激の元の対象」←→「自己の身体性」
という2つの間に、
それぞれの向きを持つ「←」「→」こういうベクトルが生じ、
次の「知能の観測」において、つまり、認識として、
「対象」と「自己」に加えて、その2つの関係性となる、
「←」「→」というベクトルが観測されて、
これが認識される2つの関係性の「定義」として用いられるのではないか、
というわけである。
そして、結果的に認識には、この対象と自己の関係性が含まれ、
この定義から「自我」が構成されるのではないか、という事になる。
つまり、簡単に言えば、
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自分が存在する、
対象が存在する、
自分が対象を「知る」、
この「知る」は、
「知能」が「自分」と「対象」と「自分と対象の関係」を観測して定義する事。
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であり、「自分と対象の関係」が「自我」であり、
「自分と対象の関係」の定義が「自我」の定義という事になる。
では、この「自分と対象の関係」はどのようなものか?
という疑問が生じるが、
事象再生の場の空間で対象が存在として引き離される前は、
「刺激」の二面性として境界の各面を構成する要素、という事になる。
つまり、
変化情報:(刺激):自己情報
こういう事である。
刺激はこの二面性の境界そのものであり、
まだ関係性としてベクトルを持てるだけ離れてはいない。
となると、事象再生の場において、
それぞれの存在を配置する際に、
この関係性が必要になるという事になる。
つまり、存在をそれぞれ配置する前に、
この関係性の定義は構成されている必要がある。
そして、事象プールでの事象としての刺激には、
また、関係性は構成されていない。
つまり、この事象プールから事象再生の場に移され、
事象再生の場で存在として配置される間に、
この存在同士の関係性が構成される必要がある、という事になる。
事象としての刺激の構成
↓
事象プール
↓←ここで関係性が構成される
事象再生の場
↓
事象としての存在の配置
そして、現時点で簡単に思いつき、最も「それらしい」と考えられるのは、
「概感」である。
つまり、想起するために概感を構成して、
これを対象の関係性として補完する事である。
最初に考えていた「自我が後天的定義である」、という事にも繋がるのだが、
つまり、自我を想起する概感として構成して、
これを事象再生の場における存在の配置に用いているのではないか、
という事になる。
つまり、自我としての「対象と自分の関係」を、
その想起の元、概感を構成するきっかけの「刺激」の構築に対して、
半自動的に想起が起こるための概感が構成されるが、
これをそのままの意味で「想起」するのではなく、
刺激の認識における「自我」としての「対象と自分の関係」に用いているのではないか、
というわけである。
概感は元は刺激の経験としての記憶であり、
その経験の記憶があれば、想起されるかどうかは別にして、
刺激→概感
は半自動的に構成される。
恐らく初回の認識では「自我」が構成されないと感じたのは、
この記憶としての定義の有無が引っかかっていたのだと思うが、
結果としては、初回に限らず刺激の構成だけでは自我は関りが無いという事になった。
そして、刺激が認識される際、
上記の
事象としての刺激の構成
↓
事象プール
↓←ここで関係性が構成される
事象再生の場
↓
事象としての存在の配置
は、
事象としての刺激の構成→概感の構成↓事象プールへ
↓
事象プール←概感
↓←ここで関係性が構成される
事象再生の場
↓
事象としての存在の配置
つまり、事象プールには、その刺激の経験(定義)があれば、
刺激の構成と合わせて概感も構成される事になる。
ということは、つまり、
刺激の構成が「自分→対象」の関係性で、
概感の構成は「対象→自分」の関係性なのではないか、とまで考えられる。
つまり、「自我」は自分にとっての何か特別な存在ではなく、
「自我」は、ある「対象」に対して、
認識する為の刺激を構成しうる定義と、
想起する為の概感を構成しうる定義を合わせた定義から構成されるもの。
という事になる。
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現時点でのまとめ:
自我について簡単にまとめると、
自我は、ある対象に対して、
自分から見た主観的な思い入れと、
自分に対する客観的な思い込みの定義から、
認識したり想起したりする際に生じるもの。
という事になる。
今回の内容に沿って言えば、
「自我」は、
単独で取り出せて自分を表すものとして「自我」は明記できるものではなく、
ある対象に対して認識や想起する際に、
その対象に対する自分との関係性の定義から構成され、
今回はベクトルを用いたが、
そのベクトル1つ1つが自我を構成する要素であり、
認識や想起の度に現れ、意識される可能性が有るもの、という事になる。
今回は主に刺激を中心として考えたが、
概感をきっかけとする場合における自我についても言えば、
「刺激→概感」の想起ではなく、
「概感→概感」の想起になるため、
事象再生の場においては、
「自分→対象」の関係性は、
自己情報が身体性ではなく「過去の自分であった経験」が元になるので、
「自分であった経験→対象であった経験」の関係性という事になり、
以前の自分から以前の対象に対して定義した関係性の再現に対して、
今回想起される概感が補完されることになり、
「対象→自分」の関係性は、
新たな「対象であった経験→自分であった経験」の関係性が構成されることになる。
つまり、以前の自我の定義に対して、新たな自我の定義を想起する、
という事になる。
そして、事象再生の場の考え方においては、
刺激と概感のレイヤは別であり、
自我に関する概感や想起というのは、
「自分→対象」も「対象→自分」の観測はどちらも身体性がないので、
自我は主観的にはならない。
つまり、まとめの上記の表現を利用するなら、
概感の自我は、ある対象に対して、
自分から見た主観的な思い入れの記憶と、
自分に対する客観的な思い込みの記憶の定義から、
想起した際に生じるもの。
つまり、概感の場合、
「自分→対象」も「対象→自分」も、
事象再生の場の知能の観測において、
この概感に関しては、どちらも客観的に想起、意識されることになる。
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2025/6/22-2025/6/23
今日、自我の二面性について考えていて気づいたのだが、
自我が自分の在り様の定義であるとして、
自我が事象として成り立つ事を考えると、
自我を自分を主観的に見る方向を「知能の観測」であると考えると、
反対側の対象から自分を見る方向の客観性があるのではないかと考えた。
つまり、最初に気付いたのは、
自分→対象
の定義は、
知能の観測する視点から見ると、
自分に向かって光を照射するような配置であると考えると、
光に対して対象に向かう「影」がこの時の自我の定義として見えるのではないかと考えた。
つまり、
知能の観測(光)→自分→対象(影)
こういうことになる。
そして、それなら、逆側の
何かの影となる像(影)←自分←対象からの観測(光)
こういう向きの定義もあるのではないかというわけである。
つまり、自分を境界とした時には、
自分に二面性が生じているのだが、
この時の自分の二面は、
「自分から見た対象」と「対象から見た自分」
から成るのではないか、というわけである。
そして、この各面を事象として観測する場合、
自分側の視点は「知能の観測」で良いと思うのだが、
逆の対象側からの視点というのも存在するのではないか、というわけである。
そして、今日のもう1つの気づきとして、
知能の観測点→自分→対象
という向きで、
自我は、主観的な知能の観測によって、
自分→対象
のベクトルを知る事ではないかと考えたのなら、
その反対側
自分←対象←視点A
こういう向きのベクトルを知る事も、その二面性において存在するはずだから、
自分←対象
という自我の面があるなら、
知能の観測に代わる視点Aという観測もあるのではないかと気づいた。
つまり、自分を自我や自我の定義として置き換えると、
自分→対象
という何らかの定義のベクトルは、
自分や自我として、知能の観測側の面が見えている事になり、
つまり、
知能の観測→自我→自分→対象
こういう事になる。
そしてその逆、
自分←対象
という何らかの定義のベクトルは、
自分や自我として、対象の背景からの観測側の面が見えている事になり、
つまり、
自分←自我←対象←視点Aの観測
こういう事になる。
要するに自分を挟んで、
知能の観測→自我→自分←自我←対象←視点Aの観測
こういう事になるのではないかというわけである。
そして、この場合、
知能の観測→自我→自分→対象
の時の自我は、文字通り自ら思う「自分が望む、その望み」という事になるが、
逆側の、
自分←自我←対象←視点Aの観測
この自我は何であろうかと考えた時、
思いついたのは「他から見た自分の姿」という事だった。
つまり、対象から見える自分の在り様、という事になる。
これは、自我として「自分が望む、その望み」であるのか?
という事が疑問に思うが、これは、
我欲としての「他に見せたい自分の姿」というよりも、
単に「他に見られている自分の姿」の想像したものではないかと考えた。
そして、これを考えた時、
生命として根源的な要素として思いついたのだが、
それは「外敵からの視点で自分を見る事」だった。
つまり、自我として、我欲として自分を見せるのではなく、
もう少し根源的に、「他から見られる自分を想像する」、という事。
つまり、その定義は、「自分をこういう様に見せたい」、という定義ではなく、
「自分はこういう様に見られている」という定義ではないか、というわけである。
結果的に、その後、「自分をこう見せたい」と考えるかもしれないが、
この考えの時点では、自我の定義は
自分→対象
の向きに既に置き換わっている事になる。
つまり、自我の定義として、「自分←対象」の側の定義は、
見せたい自分の姿ではなく、見られている自分の姿を想像したものなのではないか、
というわけである。
考え方としては、見られている自分の姿の「影」という事でも良いだろう。
そして、この場合、二面性として、
知能の観測→(境界)→自分→対象
と、
自分←(境界)←対象←視点A
という配置になり、この「境界」に相当する「自分の二面性」が「自我」になるのではないか、
という事になる。
つまり、定義の階層から言えば、
自我については自分という「存在」として自我の事象が存在するわけではなく、
「定義」として自我が存在するという事になる。
つまり、定義の階層としての
存在:(定義):存在
として、自我は定義であり、
自分:(自我):対象
であり、
自我は自分に対する定義であるので、
自分:(自分の定義):対象
こういう二面性を持つ事になる。
これはどういうことかというと、
視点Aは、
事象再生の場で、自分から離れていった対象と、
自分を繋ぐ定義の一方、という事になる。
つまり、認識や想起される刺激や概感の変化情報と自己情報が、
知能内では境界をもって接しているのに対して、
事象再生の場の自分と対象はある関係を持って離れている。
つまり、この離れた関係性の定義が「自我」を構成するのではないか、
という事になる。
つまり、自分に対する対象は無数に存在するが、
自分が認識したり想起したりする対象は特定の対象である。
それも、「自分にとって」重要な対象である。
つまり、この自らが対象を「特定」する定義が、
「自我」になるのではないか、という事になる。
それは何をもって定義されるのか?
これまで考えてきた刺激の根源的な要素として考えれば、
「413:先天的定義の基底の要素」の
身体外から得る情報に対する定義と、
身体内から得る情報に対する定義。
という事になるが、
つまりは、「自我」の定義について言えば、
この根源的な身体の内外から得られる情報に対して、
自分という存在を介して、その関係性を定義したもの、
という事になる。
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