2025/6/6-2025/6/9

欲求の本質と二面性

430で様々な定義についてもう一度考え直した方が良いのではないか、
という一環で今回は「欲求」について考え直してみる。

最近の「欲求」に対する考え方としては、

「424:欲求と目的ともっともらしさ」をまとめると、
生命が個体として身体を持ち、身体の状態に対する定義を持ち、
そこから身体が動くようになり、動く定義を行うに際し、
自身の状態の好ましい状態の維持・存続・継承の為に、
この「動く」という機能を定義して、
その「動く」ための目的を実行する為のきっかけとして
「欲求」を定義するに至った。
という事になる。

では、その「欲求」の本質や二面性はどのような構成になっているのか?
という問題が生じるが、

まず、「欲求」は身体外には無く、
身体内に存在する事象という事になる。

つまり、身体表面より外の世界に存在するものではなく、
身体内に起こる事象として存在するもの、ということになる。
そして、実際に認識できる対象であるため、
定義ではない、という事になる。

そういう事なので、事象の階層としては、
少なくとも先天的定義よりは下位となる。

先天的定義:定義←上位

欲求:存在←より下位

次に後天的定義の概感より下位であるか?
という事になると、
後天的定義でなくとも先天的定義で「欲求」を構成する定義は存在するので、

欲求←上位

後天的定義←より下位

という事が考えられる。
ただし、「欲求」が概感で構成できるかどうかについて考えると、
「欲求」それ自体を想起する事は出来るが、
現時点での考え方としては想起された「欲求」は、
本来の「欲求」とは異なるのではないか、と考えている。

これは、424の中でも考えたが、
想起自体が欲求をきっかけとして行われる場合もあるので、
424にもある欲求の二面性の定義
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身体上の状態変化:(欲求):身体性
------------------------------------------------------
から、
この定義は、あくまで欲求は身体性に関わるもので、
後天的定義である概感として構成できるものではない、
という事になる。

ただし、概感から概感を想起する場合もあるので、
必ずしも「欲求」が「概感」として構成できない、
と言い切れるわけではない。

また、欲求を刺激として認識した事・経験を、
想起する事は出来て、この場合、
想起した欲求は、本来の欲求の構造ではなく、
「欲求であった経験」として概感を構成し想起されたもの、
という事になる。

つまり、現時点で「欲求」は、定義の階層から言えば、

先天的定義:定義

欲求:存在

後天的定義:定義

このような定義と定義の間の存在としての事象として構成されるもの、
という事になる。

もう少し詳しく言うと

先天的定義:定義

欲求:存在

後天的定義:定義

想起できる「欲求であった経験」:存在

後天的定義:定義

という関係も存在すると考えられるので、
この「欲求」と「欲求であった経験」は同じものとして考えないように、
注意が必要である、ということも付け加えておく。

そして、
欲求の二面性の定義自体は424で既に定義しているが、
これを敢えて疑ってかかると、
上記の、例えば、先天的定義でない後天的定義の「欲求」も存在するのではないか?
という事が考えられる。

つまり、
概感としての欲求も存在するのではないか?という考え方である。
実際、本能では定義されていない、権力欲や金銭欲といったものは、
「欲求」として考えられているが、先天的定義にはその定義が無い。

当然後天的定義で定義されるべき「欲求」になるのではないか、という事になる。

では、さらにそれにも疑う事が出来て、
そもそも権力欲や金銭欲のようなものは「欲求」なのか?
という事が考えられる。

つまり、権力欲や金銭欲のようなものは「欲求であった経験」なのではないか?
という事になる。

つまり、権力欲や金銭欲には、その元となる本来の「欲求」があり、
その経験の想起の対象として権力欲や金銭欲を概感として想起しているのではないか、
という事が考えられる事になる。

私自身が考える方向性なので、今は最終的に後天的定義の欲求は存在しないだろう、
という結論に向けた考え方なのだが、
権力や金銭に対して「欲求」を構成する場合、
その「事象」はどのようなものになると考えられるか?

より身近なので「金銭」にしてみるが、
この場合、現在の人間は、「金銭」を得る事自体に価値を見出し、
その「金銭」で何をするのかなどの目的を持たないやや本末転倒な場合もあるが、
通常は人間にとって、別の何か目的を達成する為に金銭を必要として「欲する」事が、
本来もっとも一番多く起こる事象という事になる。

この場合、「金銭」は社会構造の中での価値の代価を表現したもので、
社会構造内に存在する商品などの対象、価値に対して、
対価として支払われる価値の代価、という事になる。

つまり、「金銭」は社会構造内で価値を持つ事象として存在している事になる。
そしてその考え方は社会の間で共通する定義になっている。

ここに人間の個体が関わる場合、人間が「欲求」を感じるのは、
本来「金銭」ではなく、「商品」などの価値である。

基本的な先天的定義の欲求としては「食物」などの生体的欲求を満たす商品を得る事が目的となるが、
社会内には先天的定義では定義されない、後天的定義の事象もある。
そして、この定義された事象に対して、
個体がその対象を「得たい」と感じれば、それは「欲求」であろう、という事になる。
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と、ここまで考えて気づいたのだが、
刺激が先天的定義で定義されていて事象として構成され認識されるように、
欲求も本来は先天的定義で定義されていて事象として構成されて認識される。
この考え方は良い。
であれば、
概感が後天的定義で定義されていて事象として構成され想起されるのなら、
「欲求であった経験」は後天的定義で定義されていて事象として構成されて想起される。
これも良い。
ならば、
後天的定義て定義される「欲求」は、「欲求」そのものではなく、
後天的定義で定義されていて事象として構成されて想起されるもの、という事になる。

つまり、
金銭欲などの後天的定義で定義できるかもしれない「欲求」というのは、
概感と同じ事象で、もともと本来の「欲求」とは少し違うという事になる。

つまり、
「金銭」が欲しい、「商品」が欲しい、のは、
「欲求」そのものではなく、「欲求」に関連した後天的に経験した事象の定義。
になるのではないか、というわけである。

その違いは少し分かりづらいのだが、
つまり、別に人間は本質的に「金銭」が欲しい、「商品」が欲しいのではなく、
後天的定義として「自分」がその対象を「欲しい」と定義しているのではないか、
というわけである。

つまり、先天的にそれが欲しいわけではなく、
後天的に「自分」が欲しいと「定義」して、それを想起したのが、
「金銭欲」などの後天的に感じられる「欲求」なのではないか、
というわけである。

つまり、本来の「欲求」とは構成する定義自体が違うが、
その関連として「刺激と概感」の関係として「欲求と自分の欲する対象」が関連しているのではないか、
という事になる。

つまり、もう少し分かりやすく言えば、
刺激としての欲求と、概感としての欲求があり、
権力欲や金銭欲は「概観としての欲求」であり、
本来の「欲求」とは異なる「事象」という事になる。

まあ、「概感としての欲求」という表現しかできないので、
少し分かりづらい事になるのだが、
つまり、刺激に対する概感のように「欲求」に対する何か後天的に定義される「欲する定義」のようなものがある、
という事で分かってもらえるだろうか。

そして、その「欲する定義」というのは、
生命の先天的な定義ではなく、後天的で、かつ、特に「自分」に関連したものであるという事。

これは、定義として「欲求」に対象の事象が存在するように、
後天的な「欲する定義」にも欲する対象の事象が存在する、という事になる、
さらに、「欲する」事自体はその欲する主体が存在するはずであり、
これが「自分」ということになる。

424の定義に戻って、
欲求が

身体上の状態変化:(欲求):身体性

という二面性で定義できるなら、
後天的な「欲する対象」「概観としての欲求」は、
二面性で表せば、

経験した変化情報:(概感としての欲求):経験した自己情報

という事になる。

つまり、
「経験した変化情報」というのは、事象としては後天的に存在するものであり、
これが「商品」や「金銭」、「権力」などという事になる。
そして相対する面の「経験した自己情報」は、これも二面性では存在する事象、
ここでは後天的に構成される「自分」という事になり、
その境界面にある「概観としての欲求」は定義、という事になる。
そしてこの定義は、後天的に経験する上記の「欲する定義」としての後天的定義そのものになる。

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2025/6/9

昨日の続きだが、
つまり、
欲求には2種類あり、
1つが先天的定義で定義される、本来人間が生命として保有して定義された対象と、
その対象に対する「欲する」事象、これが「欲求」であり、
もう1つが、後天的に定義される、先天的に定義を持たない事象・対象に対して、
「自分」が、その事象や対象を「欲する」という後天的定義から構成される、
「概感としての欲求のようなもの」、
この2つがある、という事になる。

簡単に言えば、
生命として欲する感覚が、刺激としての「欲求」であり、
「自分の定義」で欲した感覚が、概感としての「欲求のようなもの」である、
というわけである。

つまり、後天的定義で欲する何かは、
本来の「欲求」とは少し異なり、
「自分」の定義、つまり、「自我」などの定義として、
ある事象・対象を、「自分」が欲しいと後天的に定義した定義から構成された「概感としての欲する事象」である、
という事になる。

つまり、
この「概感としての欲する事象」は、

後天的な対象の情報:(概感としての欲する事象):後天的な自己情報

という二面性を持つ事になる。

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「欲する」事の本質:

そして、この2つの欲する事象に対しての本質を考えると、
424で考えていた、

受動的必要性=不足
能動的必要性=欲求

この考え方が思いつく。

424の内容そのままの考え方ではないのだが、
つまり、不足している対象に対して「欲求」が生じるのではなく、
対象について欲する定義が存在する対象について欲求は構成される、
という事になる。

つまり、
上記の先天的定義がある対象については、
もしそれが不足していて、その不足に対応する為に個体の知能が活動すると、
その個体の知能はこの先天的定義から、この不足の対象に対する「欲求」を構成する。
というわけである。

後天的定義の場合も、ある対象に対して個体が不足の定義を作成し、
その後天的定義から自分はこの対象に対して不足していると、この場合は「概感」として「想起」することで、
「ああ、自分はこの対象に対して不足しているのだな」と思う事になるわけである。
これは先天的定義の「欲求」とは似ているが、やはり少し違うもので、
想起した後に「不足」や「欲する」事を意識する事になる。

つまり、先天的定義の「欲求」を刺激として認識して意識する事と、
少し知能の活動の行程が少し異なる事になる。

ただ、どちらも「欲する」事を定義したものであるという事は同じである。
これは、後天的定義の定義が、基底部分では先天的定義を利用しているから、
そう言える事になる。

つまり、先天的定義の中に、個体が対象を「欲する」という定義、または、
個体が対象を「不足している」という定義が存在し、
これらの定義を用いる事で、後天的定義の「欲求のようなもの」が定義されたり、
当然、先天的定義の本能の「欲求」であるような定義も構成されている、
というわけである。

この先の定義の詳細は、生命としての維持・存続・継承や、
生命の個体としての不足や充足の話などが必要になるが、

この内容については、
現時点では以前考えた事のある
411:事象の選択とベクトル
412:先天的定義の成り立ち
413:先天的定義の基底の要素
があるので今回は割愛する。

もし、新たな気づきがあった場合はその際に掲載する。
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「概観としての欲求」についても何か適当な用語が定義できると理解しやすくなるが、
それはまた後で決めるとして。

今回はこの辺で。

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