2025/5/24

後天的定義の自己情報

刺激を構成する為の先天的定義において、
自己情報の定義から身体性が構成されるというのはこれまで考えてきたが、
では、
概感を構成する為の後天的定義において、
自己情報の定義と、自己として構成される何かについては、
まだ明確な定義が存在していなかった。

今回はその後天的定義における自己・自分の定義や存在について考えてみる。


今日考えた内容からすると、
事象プールに構成される概感において、
その自己情報は後天的定義に存在する事になるが、
例えば刺激が感覚器官からの受容に対し、
これをきっかけとして先天的定義から情報を収集し、
刺激を構成して事象プールに事象として再現するとなると、
刺激の場合は、感覚器官からの受容に対して、
この神経細胞ネットワークの励起の始まりをきっかけとして、
脳側に存在する定義から刺激を再構成している事になる。

つまり、以前考えた「きっかけ」と「定義」が明確であれば、
それらから自動的に「事象」は構成出来て、
この場合の「刺激」についても、
「きっかけ」は感覚器官による変化の受容であり、
「定義」は先天的定義として脳内に存在しており、
事象としての刺激はこれらから構成出来る事になる。

では、概感の場合はというと、
これまでの考えでは、
概感は想起される対象であるので、
「きっかけ」は刺激か概感を用い、
「定義」については後天的定義でその定義がされているので、
そこから概感が構成できると考えてきた。

刺激においても概感においても、
きっかけが必要になるにしろ、
そこからの構成は定義による半自動的という考え方は変わらないので、
定義が明確であれば、そこから構成される刺激も概感も明確になる。
刺激の場合は、変化情報は感覚器官の受容体で受容される変化であり、明確である。
刺激の自己情報は身体性であり、変化の受容箇所がそのまま身体性の再現箇所になる。

では、概感の場合はどうなるかというと、
変化情報は短期記憶にしろ長期記憶にしろ、
その定義が実際に経験した事象としての刺激に含まれていた変化情報の連続性になるので、
その再構成と考えれば、刺激の連続性における変化情報の連続性がそのまま、概感の変化情報の連続性となり、
明確である。
問題はここなのだが、概感の自己情報は概感の構成として先天的定義の自己情報を用いてしまうと、
これは、想起によって完全に刺激と同様の情報の構成となり、
想起なのに今感覚器官で受容したような変化情報として再構成されてしまう事になる。
だから、概感の自己情報は先天的定義における身体性ではないだろう、というのは以前も考えた。
これまでの概感の自己情報の定義としては、
身体性を「客観的な仮想的な存在としての自分」として定義し、
概感の自己情報は、変化をその仮想的な「自分」という存在が経験した、その経験としての定義の中の、
客観的な「自分」について定義したものであろう、と考えてきた。

つまり、身体が体験した刺激を、知能が客観的に観測するに当たり、
その客観性によって、知能にとっては客観的な仮想的な「自分」を、
この経験した自分として定義しているのではないか、という事になる。

つまり、情報の意味としては同じ「自分」なのだが、
刺激の場合は主観的な自分であり、
概感の場合は客観的な自分である、という事になる。

そして、話を戻すと、
では、この概感の「客観的な自分」はどのような定義であるのか、
という事になる。

定義の構成の大本は刺激の自己情報であるのは間違いない、
この場合は主観的な自分である。

ただ、これは先天的定義としての自己情報であるので、
後天的定義としてはそのまま定義に用いることが出来ないし、
そのまま用いる事も不都合がある。
(現象としてはフラッシュバックのような事になる)

つまり、刺激で用いた自己情報の内、何らかの情報が後天的定義の自己情報として用いられるが、
先天的定義である身体性としての定義ではない、という事になる。

これまでは、これが「客観的な自分」であろうと考えたわけである。

つまり、「自分」ではあるのだが、「自分の身体性は持たない」という情報の定義という事になる。

後天的定義の構成を考えると、
基本的に後天的定義は、先天的定義への関連を構成し、この「関連」自体が、
後天的定義になると考えてきた。

つまり、概感においては、この「関連」の中に「自分」の定義が含まれている事になるのだが、
身体性を用いないで「自分」を構成しようとした場合、
何が「自分」の身体性の定義に代わる「自分」となるのか、これが分からない、という事になる。

定義を呼び起こすきっかけは事象プールには存在する。
そのきっかけを元にして概感が構成されて想起が起こる。
ただし、身体性は用いることが出来ない。

そこからどうやって「自分」を構成するのか?

ああ「事象プール」そのものか。

つまり、概感として構成された事象プールの事象そのものの観測により、
概感が想起されたことになるから、
そこに含まれる自己情報は、感覚器官由来の関連の自己情報の身体性ではなく、
刺激が概感に関連する定義由来の自己情報であるので、
実体を構成する身体性の定義を用いなくとも自分が構成できる、ということか。

少々ややこしい表現になってしまったが、
まとめると、概感の事象としての構成体は事象プールに発現することになるが、
この再構成のきっかけは、もともと事象プールに存在していた刺激または概感であり、
感覚器官の受容体由来の刺激の情報そのものではない、という事になる。
つまり、もともとの概感を構成する為のきっかけは、
既に自分の内側、知能内にあり、そもそも身体性を構成する要素が含まれていない事になる。
つまり、まあ変化は変化をきっかけとするのだが、
刺激の様に身体性が不可欠で変化を身体性と合わせて構成するのではなく、
もともと事象として構成された情報体自体を変化の元として、
そこから関連した概感を構成しているので、身体性はそこには無いが、
経験自体としての定義においては、先天的定義への身体性の定義も含まれていても、
身体の実体験としての事象としては構成されない、という事になる。

つまり、身体の実体験を構成する為の変化のきっかけがそもそも無いのだから、
そこから事象を構成しても実体としての自分は構成できないという事になる。

まだ少しややこしいが、
つまり、刺激は身体性の定義を呼び出す変化が実体の感覚器官に由来するので身体性が再構成されるが、
概感の自分の定義を呼び出す変化は、その時点で定義から再構成された事象になっている、
というわけである。

つまり、概感を構成するきっかけは事象プールにある「事象」であり、
この事象に関連して再構成される概感には実体の身体性に直接関連していないという事になる。

つまり、概感は「事象をきっかけにして再構成される事象」という事になる。
まあ、それこそが「想起」である。という事になる。

つまり、概感の自己情報として先天的定義の身体性が含まれていても実質的に問題は無い事になる。
それは、二面性において、

概感は刺激と同様に、

刺激=変化情報+自己情報
概感=変化情報+自己情報

であり、

変化情報:(刺激):自己情報
変化情報:(概感):自己情報

こういう二面性を持つが、

ここで概感で使われている変化情報と自己情報は、

変化情報=きっかけの事象に関連した刺激または概感の変化情報

自己情報=きっかけの事象に関連した刺激または概感の自己情報

という事になる。
ここで刺激の場合は、自己情報が確定的に「身体性」になるのだが、

変化情報:(刺激):自己情報としての身体性

概感では、この自己情報が「身体性であった自己情報」の再構成体になる、
というわけである。

つまり、概感は主観的な事象ではなく、
事象に対する事象という、一段階主観から引いた場所にある存在という事になる、
つまり、概感の二面性は、

事象に関連する変化情報:(概感):事象に関連する自己情報

ということになるから、
自己情報に身体性を用いても、
変化情報自体が事象プールにある事象に由来している為、
概感の観測先は「事象プール」に存在する「事象」という事になる。

つまり、刺激の認識において、変化情報が身体性の自己情報と二面性を持つ事によって、
実体で体験した事象として構成される事になるが、
概感の場合は、その変化情報が元々事象プールにある情報塊の事象であるので、
それに自己情報としての身体性をもし用いる事になったとしても、
事象プール内にある変化情報に対する自己情報となるため、
実体を持たない、主体的になれない事象として構成される、というわけである。

認識も想起も、対象は事象プール内の事象であるが、
特に概感においては、その変化が事象プール内にあるため、
たとえ身体性を自己情報に用いても、身体性としての実体を構成できないという事になる。

つまり、事象の定義の階層において、

自然界の事象:存在

先天的定義:定義

刺激:存在

後天的定義:定義

概感:存在

こういう事になり、
これらの存在は、その存在する対象として、

世界→自然界の事象
身体性→刺激
知能→概感

こういう関係を持ち、
だから概感をどのように想起しても、知能内にあるように「想起」されるが、
身体性を伴って「認識」されることは無い、という事になる。

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今日は意外に良い結果に到達できた。
今回の内容は想起に関してかなり重要な内容であり、
これを元にすれば思考や想像なども今までより明確な定義ができるようになると考えられる。

今日はこの辺で。

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