2025/5/18-2025/5/24
思考の状態と定義としての言葉
昨日の夜ふと趣味の作業の手を止めて考えたのだが、
何かを考える時、それは後天的定義の概感として思考が始まるというのは、
これまで考えてきたことだが、
この概感は身体において何か事象の状態として現れているのではないか?と思った。
つまり、先天的定義の無い、ある身体の状態に対して、
後天的定義を用いて、概感で、ある身体の状態を表しているのではないか、
そういった事象が存在するのではないか?
というわけである。
そして、この時、この状態の定義に用いられているが、ある言葉の表現が対応しているのではないかと、
思いついた。
これは、言語を想起しないで思考ができるか?という事は以前試した事があったと思うが、
この時はまだ概感の考え方をしていなかったので、結論には到達しなかったが、
今考えてみると、思考におけるある言葉、例えば「もし」とか「つまり」とか、
「なぜ」とか「例えば」などの用語は、
思考においては想起しないでは思考が行えないくらい重要な想起となっている。
つまり、「もし」の定義を持たずに、「もし~であったなら」というような思考はできない、という事になる。
そして、これは「もし」でなかったとしても「if」を同じ定義で知っていれば良い事にもなる。
ただ、論理的事象は知能の存在に関わらず、自然界には事象として存在しているので、
「もし」などの定義が存在する以前に、今の知能が「論理的」であると考えるような事象は存在していた。
そして、知能が「論理」を定義づける前に、既に知能は選択などを行っていたと考えられるため、
知能はそもそもの自然界の事象に対して、論理的である機能は持っていたという事になる。
逆に言えば、こういった自然界の事象に対応する機能として知能が生じたと言える事になる。
まあ、その事は結果的に自然界の事象が持つ情報に対して、
生命が「接触」して情報を得て、この情報に対して知能が「定義」を行い、
この「定義」を操作することが知能の機能であるという事になる。
つまり、先天的な論理操作機能だけでない、
後天的な論理操作機能を定義して、「もし」などのように用いている、という事になる。
そして、この思考における言葉、用語の想起は、
概感においては自己情報を含めた事象として構成されたものであり、
「想起」を「思考」として用いる時に重要な働きを持っているという事になる。
------------------------------------------------------
2025/5/23:追加
つまり、自然界に直接存在するような論理的事象については、
言語で論理的に定義する必要もなく、
もしかしたら先天的定義のみで知能は処理できるのではないかと考えられるが、
「思考」において、という、つまり、一度「自分」を介在させる事になる論理的処理においては、
知能はこの自分の介在に対して、自身のある状態の事象として「想起」するのではないか?
という事になる。
つまり、思考の用語そのものを想起する事で、
自分の知能が思考状態として自分に対しても連続性を持っているのではないか?という事になる。
これは、自然界の事象ではなく、個体としての生命としての人間における思考の事象として、
という事になる。
つまり、自然界に存在する事象が内包する論理性ではなく、
人間の知能が固有で持つ、自分としての事象が内包する論理性があるのではないか?という事になり、
そして、それは、人間が定義した論理の用語によって、
自然界の事象の論理性を参考にして、人間の知能が「定義」した論理なのではないか、
という事になる。
そして、この人間の知能が持つ固有の論理に対して、
「自分」も関連しているのではないか?という事である。
つまり、
自然界の事象→自然界の事象が内包する論理性がある
ならば、
人間の知能が構成する事象→人間の知能が構成する事象が内包する論理性
も存在するのではないか、という事になる。
つまり、知能が構成する事象は、刺激か概感であり、
刺激は先天的定義によるものであるから、
知能が扱う自然界の事象に対しての論理性は、
この先天的定義に含まれていると考えられ、
これは言語を介さずに用いることが出来る論理性という事になる。
一方で、
概感は後天的定義によるものであるから、
知能が扱う概感の事象に対しての論理性は、
この後天的定義に含まれていると考えられ、
これは「想起」することで用いることが出来る論理性、という事になる。
つまり、後天的定義による後天的な論理性を、
知能は想起で思考として用いているのではないか、という事になる。
つまり、知能には、
それぞれの個体で遺伝的に、ほぼ共通する自然界の事象が内包する論理性と、
個体毎の知能が定義する、共有する為の定義は存在するが、
個体が認識や想起する事象に対しての、固有の論理性を持つのではないか、
という事になる。
つまり、
言語を介さない論理性、特に「思考」というものはやはり存在せず、
思考ではない論理的反応というのは、知能としての先天的定義に含まれるため、
一見、思考していなくても論理的判断や比較のようなものは出来る。
しかし、「思考」においては言語である必要性は無いが、記号でも何でも良いが、
知能内において、何らかの「定義」を介した論理的反応でないと「思考」は出来ない、という事になる。
まあ、自然界の事象を参考に定義した論理であるので、
自然界に存在しない事象としての論理というのは知能が定義しようがない事になる。
つまり、仮に私の知能が演算「X」を定義して、
「AXAB」である時、「B」は宇宙の外から持ってくることが出来る。と定義したとしても、
そんな事象は自然界に存在しないから、本来、論理としても成り立つはずもないが、
私の知能においては「A」も「B」も「X」も「宇宙」も「外」も「持ってくる」も、
そもそもの「論理」の定義も、存在して知っているので、
ここから「論理」自体を「定義」することはできるので、
そういう架空の論理も「想起・思考」して成り立たせる事が出来る、という事になる。
この場合になると、この想起・思考における「自分」の関与という事になると、
もともと私はこういう事象を「想起・思考」しやすいという事になる。
恐らく、これまでの考察の全てにおいて、
思考に関する「自分」の関与は、必ず存在していて、
思考の傾向や指向として現れていたはずである。
知能の観測として今客観的に考えてみたために気付いたが、
この今回の後天的な論理の存在の定義を知る前は、知る由もなかったが、
そういう点では、「思考」には「自分」が介在していると考えた方が自然という事になる。
そして、この「自分」も「自分の知能による定義」である事を考えると、
共有する為の共通の定義として「言語」を用いていたとしても、
この「定義」が知能における個々の固有の定義であることを考慮すると、
各知能が「思考」する「論理」においては、各個の「個」「自分」も「思考」や「論理」に、
関わり合いがあると考えられる事になる。
つまり、これまでの考え方として、
本来「自分」は主観的存在であり、
主観的知能が観測する対象ではあるが、
「自分」は仮想的に構成された事象として存在し、
「思考」や「論理」も後天的な定義であると考えれば、
「自分」の状態に対して、「思考」や「論理」が関連を持つ事も考えられる事になる。
つまり、例えば、自分の状態が安定した状態にあれば、
より客観的な常識の共通するような「論理」的な「思考」ができるが、
自分の状態が何か不都合のある状態「飢餓」とか「痛み」「病気」「不安」、
または「高揚」「興奮」「幸福」などの状態により、
ある事象として同じ「論理性」を持つ事象であっても、
それに対して「自分」の定義が関与することにより、
普遍的であるような「論理」も著しく偏った「定義」として用いられる可能性がある、という事になる。
つまり、最初の課題の自分の身体の状態として
「概感は身体において何か事象の状態として現れているのではないか?」という点については、
概感が身体の状態に現れるというよりも、
身体の状態が定義として概感に影響を与えるのではないか?という事になる。
つまり、思考する事によって身体の事象として現れるのではなく、
思考する事によって後天的定義として構成される連続性の先の次の概感に対して、
今の自分の状態が事象として関わっている、という事になる。
------------------------------------------------------
2025/5/18
私の「もし」の事象としての連続性:
用語1つ1つのフレーズとしては、「もし」の「も」と「し」には関連があり、
これが連続性を持った場合には、
思考における用語「もし」として、ある知能における想起される状態があり、
その事象の連続性において、
前の事象と後の事象と境界を接する「もし」という事象になる。
つまり、事象の連続性において、
・・・→前の事象→「もし」→次の事象→・・・
という事象と事象の間に「もし」が存在する事になる。
この場合、前の事象に対する「もし」は、
次の事象の選択の範囲を狭め、「もし」により関連した事象が想起されやすい事になる。
これは前回426で考えた連続性における「事象の差」において、
次の瞬間に認識か想起される事象が影響を受けることから考えられる。
そして、この事象の連続性は、
想起の連続性であり、意識の連続性になるのだが、
この「もし」を想起した後の「自分」の知能の状態はどうなっているのかというと、
「知能が想起を用いて、「もし」という思考をした状態」になっている。
この時点で「もし」は事象として閉じている、つまり次の事象と既に境界で接した状態で、
この時点では次の事象が知能によって構成されつつある状態になっているはずである。
そして、事象が思考の連続性で継続した場合、
次の事象が「もし」の結果として構成され、「もし~」の「~」が、
事象として構成されて想起対象になっていると考えられる。
そして、この「もし」を事象として想起している間の自分の知能の状態についてだが、
何らかの定義で、自分の状態を「もし」で定義している、という事になる。
今回気づいた内容からすると、
「もし」を想起している、この自分の状態は、
恐らく自分が以前に経験した事のある事象の経験として定義が存在しているはずなのだが、
私の場合は、「もし」の前の状態の連続性に境界で接する状態として、
何か前の定義に関係する事象か、関係するが何か異なる事象を想起する事を意図して、
つまり、この意図する事を過去に経験していたために、
それを再現の様に再構成して、思考の事象の連続性を継続させようとして想起した「もし」なのではないか、
という事になる。
あくまで私が用いる「もし」なので、「もし」の定義が一般の「もし」とまったく同じではないと思うが、
恐らく似たような「もし」であると思われる。
つまり、私の経験として、この想起の連続性に対して「もし」という定義を行い、
今回、ある知能の状態に対して過去の連続性に似ていたために想起対象となり、
その過程において「もし」を想起した、という事になる。
つまり、私は今回のそのある状態に対して、過去に定義した「もし」に似た状態を、
今回の事象に自身の知能の状態の連続性に対して「似ていた」事に対して、
自分の思考、想起の状態として、想起したという事になる。
------------------------------------------------------
2025/5/19
思考が事象として存在する事について:
今日気づいたのは、思考が事象であるという事について。
昨日考えていた「もし」が思考として想起可能な対象であるということは、
「もし」が、何らかの定義を持った「存在」である、という事になる。
二面性理論から考えると、「もし」が存在であるなら、
「定義」に接している事になるので、
何かの定義:(もし):「もし」の定義
という事になる。
そして、「もし」などの存在を使う「思考」について考えてみると、
「思考」それ自体は「存在」ではなく「定義」なので、
「もし」に対する存在:(思考):「もし」
こういう二面性を持つ事になる。
「何かの定義」は、人間の知能が認識、理解できる、
現実に生じる事の出来る「定義」である事になる。
つまり、これで言えば、
「思考」は、「もし」においては、「何かの定義」と一致する事になる。
つまり、「もし」を使った「思考」は、ある「「もし」に対する存在」に対する、
もう一面の「存在」が接した「定義」になる。
つまり、思考には様々な思考の方法や手段があるが、
「「もし」の思考」だけについて言えば、
固有の定義と存在によって定義される「事象」という事になる。
------------------------------------------------------
「もし」の思考としての経験と学習について:
普通に考えれば、人間が「もし」を理解しようとした時に経験する連続性、
恐らくこの場合は、「もし」を学ぶ時に体験する、事象の仕組みについて、
「定義」として体験、学んだ経験、その全体の連続性自体になると考えられる。
つまり、例えば「もし」を初めて経験、学んだ時は、
「もし」という言葉に対して、何らかの実体する存在、
この場合は、実際の知能の働きそのもの、
つまり、何かを仮定として想起して、その仮定の存在に対して、
何か別の仮定の存在を想起する、といった連続性を持つ経験を、
「定義」として割り当てる、という事になる。
つまり、これが「「もし」の定義」として連続性の経験、
記憶の対象になるという事である。
私がいつ「もし」を学んだ、体験した、記憶したのかは覚えていないが、
今「もし」について想起して言える事は、
恐らく、「もし」を知る前に何か、現実に存在しない事象について想起した事、想起する事があり、
この過程の連続性に対して、「もし」を用語として関連付けたのではないかという事になる。
つまり、確固たる思考の手法としての「もし」という定義は知らなかったかもしれないが、
恐らくそれを知る前に「もし」に相当する知能の活動は経験していたと思われる。
もしかしたら本当に「もし」を学んだ時に「もし」そのものの仕組みを知ったとも言えるが、
「もし」が自然界に存在しない定義や存在で、
人間の知能が作り出した後天的定義であるとすれば、
その知能における一番最初の「もし」の可能性も含めて、
その定義を構成するための存在の連続性は、
知能がもともと構成できる要素を持っていた、という事になる。
つまり、それは、恐らく後天的定義を定義できる事と、想起することが出来る事、
これだけで十分で、「もし」という言葉や厳密な思考としての定義は、
後から共有する為に定義付けられた要素、用語、という事になる。
------------------------------------------------------
「もし~であれば~である」事について:
「もし」には続きがあり、
「もし~であれば~である」と考える事が一般的である。
この場合、「もし」には、連続性として、
次に関連する概感と、その概感に連続性として関連する別の次の概感が想起対象となる。
「もし~だったらなあ」と思うだけの事があるかもしれないが、
実際は「~だったらなあ」の後には何か自分の感情や状態として仮想的に想起している事象があるはずである。
では、「もし」を使わないでこの同様の連続性の思考ができるかどうか考えてみると、
(「if」などを使うとかは無し)
私は脳がくすぐったくなったが、実際に想起はできなかった。
「~であれば」という事で想起してみたりはできるが、
「だから何なのだろう?」という事しか思い当たらなかった。
つまり、知能がある事象について認識し、これを経験として短期でも長期でも記憶し、
この事象に対して関連する別の事象を想起しようとした場合、
必ず「もし」に相当する知能の機能が割り当てられている、という事になる。
つまり、「もし」に相当する知能の機能を用いないようにしようとした場合、
この想起は行えないのではないか、という事になる。
逆に考えると、
この事自体は、実際に刺激などの経験を完全に再現するわけではない「想起」そのものである可能性もあるが、
この記憶の事象を構成する要素を一部置き換える、または、置き換えられた事象を想起する場合、
知能は「もし」を再現できる機能自体は既に持っていて、
後付けで、つまり、後天的定義として「もし」を関連付けているのではないか、
という事になる。
恐らく定義や存在の順番としては、
「もし」は後付けのこじつけに近く、機能が先に存在していたと考えるのが自然になる。
知能、それ自体も、これまで定義の集合体のようなものと考えてきたので、
私の考え方では同じ結論に到達するのだが、
知能が思考として用いている機能と、その機能に相当する思考する機能の用語、要素は、
人間の脳であれば、個体差は有るにしろ、ほぼどの脳であっても共通して持っていると考えられる。
もちろん、「もし」などの用語がこの機能を定義したものであり、
どの人間の個体の知能であっても「もし」について同じような理解で、定義を持っていると考えることが出来る、
というのは、人間の脳に共通する機能、定義があるからなのではないか、と考えられるからという事になる。
であれば、と、つい書いてしまったことに気付いたが、
この事象の連続性は、定義の階層の考え方を加味すると、
知能より上位、自然界の事象としてその存在の可能性が有るから、
下位の知能が、その可能性について理解することが出来る、という事になる。
つまり、例えば保冷ボトルのキャップが紫色をして見えるが、
このキャップが青色であれば、と考える事はできる。
これは、自然界の事象の存在として、保冷ボトルのキャップが青色であることが出来る可能性が有るから、
つまり、これを知能が事象として構成できるから、という事になる。
つまり、もし、保冷ボトルのキャップの色が、紫外線でしか見えない色であったならと想像するという事象は、
生身の人間の知能には想像できない事象になる、という事になる。
人間の目には紫外線が見えないからである。
当然、人間の知能にその先天的定義はなく、事象も認識も想起もできない。
つまり、「もし」に相当する機能は、知能が持つ上位の自然界の存在に対する定義の組み合わせの可能性において、
有効な機能になり、逆に言えば、これを操作できる知能は、
この上位の存在の定義に対して、仮想的な可能性を想起する機能を持つのではないか、という事になる。
つまり、「知能は定義を構成し、定義を操作する機能なのではないか」、という事になる。
これは昨日の夜、寝る少し前に思いついた、という事を今思い出した。
この考え方を、今回の「もし」の定義の考え方について当てはめると、
「もし」を構成する知能としての機能の定義は、
その定義する為の要素は、知能が獲得する事の出来る定義として構成される用意はあり、
この要素が経験によって加算されていき、
この要素が揃った時点で「もし」は構成可能な状態となり、
後に明示的に「もし」という知能の機能として定義されることになるのではないか、という事になる。
------------------------------------------------------
2025/5/24
現時点で何か上手くまとまりそうにないが、
「428:後天的定義の自己情報」を先に書き上げてしまったので、
ここでは結果の後付けになるが、
想起における自分の状態は、
「身体上には現れない」という結果になる。
ただし、自分が想起したものである、という意識はできる事になるが、
これについては428を参照して欲しい。
そして、想起や思考における「言葉」の存在意義や意味ということになると、
上記の5/23に書いた内容としての共有や論理性の獲得自体を目的とした後天的定義という事になり、
身体性とはあまり関係ない事になるが、
「選択や決定において、知能を上手く使うための後付けの定義」という事で間違いないとは考えられる。
今回はこの辺で。
TOPに戻る