2025/4/26-2025/5/9
後天的定義の欲求の存在
今日、自分についての後天的定義の構成方法を考えていて、
二面性にからめて考えていて気づいたのだが、
何かを自分が目的を持って行動する場合、
その目的となる何らかの決定は、事象として構成されているはずだが、
これは、感覚としての刺激から、直接欲求として構成されるものではなく、
想起される概感であるとして、
それならば、この目的となる概感には、
どのような欲求のような指向する向きのようなものが含まれるのか考えた場合に、
欲求は刺激に対して身体が感じる、刺激の認識に対して構成される、
先天的定義より構成される事象が目的になるのだが、
概感に対して身体が感じる、概感の想起に対して構成される、
後天的定義より構成される事象が目的になるとすると、
この目的になるべき概感の要素は、何か刺激に対する欲求のような、
概感に対する欲求のような何かが存在するのではないか?と気づいた。
少し文章を整理すると、
変化の受容→刺激の構成→認識→状態として現れる欲求→欲求(事象)の構成→認識
変化の受容に対して刺激が構成されるのだが、
この刺激は、基本的な刺激の情報の「変化情報+自己情報」の認識に加えて、
この刺激が特に身体の内部状態の変化に対しては、
関連して「欲求」のような事象が構成されることがほとんどである。
欲求以外では感じ方、感情などが構成される。
これは、身体外から受容した変化の刺激とは少し異なる物で、
身体外から受容した変化というのは、自分の身体に影響はあるかもしれないが、
基本的に周囲の変化を元にしたものである。
そして、身体内の変化は、
あくまでこの身体状態への刺激に対して身体の先天的定義によって現れる、
身体的な状態変化としての刺激であり、この事象の構成は選択の余地なく、
先天的定義から自動的に構成され、身体上の状態として現れ、
場合によっては直後に「欲求」などの構成から認識まで至る。
つまり、先天的定義は、基本的に刺激の定義であると考えられるが、
身体外の変化を刺激として受容して認識する場合と、
身体内の状態変化を刺激として受容して認識する場合で、
少しその後の知能の処理が異なるように感じられる。
刺激としては、その変化の発出原因が異なっているので、
そもそもの対応する先天的定義も異なるはずであり、
これから構成される刺激も異なる事になる。
つまり、刺激は、体外刺激と体内刺激の2種類があり、
それぞれ知能による処理が異なっているのではないか?という事になる。
つまり、単純に2種類と分けることが出来るというわけではないが、体外刺激については、
その周囲の環境の変化を身体性を含めて構成して認識する為の情報として受容するだけだが、
体内刺激については、その身体の状態変化に対して、
恐らく、必ず何らかの反応が起こるような定義が追加で存在するのではないかと考えられる。
つまり、身体状態の変化に対して、欲求であるとか、これまで考えた事のある感情などは、
この体内刺激に対する先天的定義から構成される反応の事象なのではないか、というわけである。
つまり、体外刺激の認識に対して、先天的に何らかの欲求が自動的に生じる事があるか?
と考えると、強い光や匂いや熱、音、味に対しては忌避などの先天的な「反射」などの反応は存在する。
ただ、直接「欲求」が起こるか?となると、この「欲求」の感覚自体は、
基本的に身体内に現れる状態変化、つまり身体内から生じる刺激であり、
身体外からの変化の受容に対しては直接構成される刺激ではない。
必ず一度、身体内の変化の刺激として現れた後、
これを認識することで「欲求」が生じていると自分では感じられる。
つまり、恐らく身体外からの変化の受容に対する刺激の認識においては、
「欲求」などは直接構成されていないのではないか、という事になる。
つまり、身体外の変化を受容する感覚については、
直接関連した「欲求」などはないだろう、という事になる。
つまり、光を見る、音を聞く、匂いを嗅ぐ、味を見る、何かに触れる、
これだけで「欲求」に直接関連するわけではなく、
「欲求」を構成するには他に何かがあるのではないか、という事である。
そして、身体外、身体内に関わらず、身体内の状態変化が起こる場合の刺激については、
この刺激に対して、特定の反応、欲求であるとか、感情などが生じるのではないか、
という事になる。
つまり、ある刺激に対して身体で何らかの不足を感じる、充足を感じる、
好嫌を感じる、こういった事象に対しては何か先天的に定義された反応が生じるのではないか、
つまり、この反応で構成された事象が「欲求」などとして感じられるのではないか、
というわけである。
つまり、ある変化の事象に対して自分に反応としての「変化」の事象が生じる場合に、
この「変化」に対する感覚として「欲求」などがあるのではないか、という事になる。
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そして、
後天的定義による欲求の存在についてだが。
想起が、ある刺激となる変化の受容に対して、刺激の構成と同時に想起が行われると、
「420:刺激と概感とその連続性」で考えたが、
今回の気づきを加味して考えると、
この刺激として身体内の状態として何らかの変化が現れる事象が構成される際に、
想起の概感としても、同様の身体内の変化が現れた事のある「経験」が想起される場合がある、
という事になる。
つまり、ある刺激となる変化に対して、過去の経験として、
過去に身体内の変化を生じて、欲求や感情が構成された事があり、
これが概感として想起される事があるのではないか、
であれば、これを想起として認識した場合、
きっかけの変化の刺激に対して、過去の欲求や感情が想起されるのではないか、
であれば、この過去の欲求や感情の想起というのは、
想起における「自分が思う感覚」つまり、思考のような事になっているのではないか、
という事になる。
つまり、後天的定義の欲求の存在は、
自分が思う「目的」として感じられるものなのではないか、というわけである。
そして、この元を正せば、
過去に経験した刺激の事象に対して、自分の身体内の状態変化を生じ、
この身体内の状態変化に対して、欲求や感情を生じさせた連続性としての認識や意識の経験、
という事になる。
つまり、これをもし同様のきっかけとなる刺激に関連して想起すると考えると、
自分が知能をもって、何らかの目的を思い出して、何らかの行動をするのは、
過去の経験として、記憶した欲求や感情の再開・再現なのではないか、という事になる。
つまり、想起している目的というのは、
「過去の欲求や感情の保留した状態を記憶したもの」を再構成したものなのではないか、
という事になる。
つまり、「先に目的無く想起する目的もなし」という事になり、
目的は、後発的に新たに作り出して認識しているのではなく、
文字通り目的を思い出して想起しているのではないか、という事になる。
つまり、現状を認識して、
その「現状」に対する「最良の反応」を「目的」として新たに構成し、それを認識しているのではなく、
過去に存在したある状況を「目的の保留状態」として記憶し、
それを現状に似た経験の記憶を想起する事で「目的」が生じるのではないか、というわけである。
つまり、知能が何かを行う目的は、多くの「目的の保留された事象」の記憶から、
現状の刺激に合わせた事象を想起する事で「目的」にしているのではないか、
というわけである。
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では、完全に新規の状況や状態において、
知能が思考して新たな対処や適応を作り出したり、行うことが出来ている事は少しおかしい事になるのでは?
という疑問が生じる。
これは、目的が経験した事象の記憶の想起だけだったとしたら、
例えば「予測」などはできない事になるのではないか?という疑問である。
想起としての概感の構成は、最近の思考に関する考え方として、
「414:人間と人工知能における論理的思考」
「415:思考と自由意志の可能性」
「416:論理的思考とそうでない思考」
で考えた内容を加味すると、
新規の予測が構成できる範囲というのは、
現状の事象の認識と、記憶の事象の組み合わせの範囲内でのみ、
自由に構成が可能であるということだった。
つまり、簡単に言えば、
予測も見知った経験の内、というわけである。
つまり、結局、知能において新たな事象というのは完全に新規に構成する事は出来ず、
生まれつき持っている先天的定義と、
後天的に経験した事象である後天的定義において、
その新たな関連においては、知能が新たな事象として「構成出来ていると感じている」だけで、
実際は、その想起において、これまで関連はあったが、
ある事象として関連のまとまりの無かった関係において、
新たな事象としての関連を概感として構成した際に、
知能における自身の最もらしさとしての定義として、この事象が想起に至り、
意識される事で、「自分は考えを出した」と感じるのではないか、
という事になる。
つまり、後天的に新たな事象を構成するにしても、
その構成する素材は、感覚器官で受容した情報が元になっていて、
今、新たに受容できた情報と、過去に経験した事のある事象としての情報と、
先天的に持つ自分が感じる事の出来る事象の定義からしか構成できない、という事になる。
そして、ここでの概感となる「自身のもっともらしさとしての定義」は、
後天的定義の事になるが、
この想起を選択・決定付けるための知能が観測する選択の基準については、
何か事象としての形が構成出来た時、という事になるが、
これについては、申し訳ないが現時点ではまだ、詳しい定義ができていない。
つまり、まだ「自分のもっともらしさとしての定義」には至ってない。
「恐らくという感覚」の、さらに恐らくという現時点での考えになるが、
思考における想起は、
ある固有の事象として成り立つことのできる概感の定義の、
神経細胞ネットワークにおける関連を励起する事と一致するはずだが、
短期記憶である認識プールに対して、短期記憶内の事象と、長期記憶内の事象の再構成体である概感の事象が、
集まった際に、基本的にはこの短期記憶内の事象の関連として、
この「自分のもっともらしさとしての定義」は構成されると考えられる。
つまり、プログラム的に言えば、ある認識プールというコレクションの中に、
短期記憶の事象として存在するインスタンスと、
長期記憶から構成された事象としてのインスタンスが集まった状態にあって、
このインスタンス達に対して、知能が似たインスタンス同士に対して関連の存在を検索する、
というイメージになる。
そして、恐らくだが、これらのインスタンスは、関連の励起状態の結果だけで存在し、
実際の事象が完全な情報として構成されているわけではないというのは
「422:経験となる記憶について考える」で考えた事だが、
認識や想起が、結果的になるが、あくまでこの関連の励起状態だけから構成されていると考えると、
その連続性の意識においては、関連の関連という事象も構成される可能性があるのではないかと考えられる。
つまり、認識プール内において、その認識プール自体の機能として、
結果的にであるが、関連の関連ができて、これが想起対象になっているのではないか、
つまり、知能も、別に意識的、意図的な選択をしているわけではなく、
恐らく、選択として見えるその活動は、生物の本能的なピックアップする機能の定義のようなものとして、
認識プールの働きが存在するのではないか、
と考えられる事になる。
つまり、簡単に言えば、
自分が保有する機能が選択や決定をして、それを自分が認識や想起しているのだから、
その選択や決定の基準が自分で分からなくても(←これがまだ私の中でも未定義)、
それは「自分らしい結果になる」はずではないか、という事である。
脳の器官としても、解明されていないだけかもしれないが、
現時点で明示的に刺激や経験の記憶から、思考の結果を導き出すような器官というのは知られていない。
というか、この機能はかなり生物にとっては冗長性のある機能であり、
生物的には本当に必要なのは、今の変化に対する最適な反応をできるだけ素早く行える事であり、
30年先に起こるかもしれない何かについて最適な反応を行える用意をする必要性は本当は無い。
ただ、30年先の事象を構成して想起できるようになった知能においては、
この起こるかもしれない何かについては必要性が有る存在になっている。
つまり、それが想起できてしまうからである。
そして、意識的、意図的でないにしろ、それが構成されうる機能は、
現在考えうる場所は、事象を構成する機能、つまり、
刺激か概感を構成する機能であるが、
刺激は先天的定義による半自動的な機能で構成されるため、
知能における融通の利く、可塑的な事象の構成機能としては、
概感を構成する「想起」が該当する事になる。
つまり、知能自体は、定義に対しては主観的であり、
かつ、機能としては限りなく受動的な存在になってしまうのだが、
知能は単にある基準に沿った関連を、概感として構成して、
その概感の構成に対して「想起される事」を「思考」と言っているのではないか、というわけである。
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2025//4/27
今日は欲求と目的の関係やその構成について考えていた。
まず、その結果から書くと、
・欲求は先天的定義による刺激と同等の事象であるという事。
・目的は欲求に対して知能が適応しようとする場合の構成体であるという事。
この考えを説明すると、
まず、
「・欲求は先天的定義による刺激と同等の事象であるという事。」
については、
刺激は、その変化のきっかけが体内、体外に関わらず、
その変化の受容に対して、意図的な選択は働かず、
自動的に構成される事象であるが、
欲求についても、基本的に体内の変化の受容に対して、
選択の余地なく自動的に構成される。
例えば、空腹を感じた時の食物に対する欲求は、
空腹感自体は身体の状態として空腹を感じる事になるが、
欲求は空腹とは直接関連しているというわけではなく、
これは身体で感じている刺激の感覚と同様の事象の構成になる。
つまり、空腹感としてグレリンというホルモンが関係しているらしいが、
基本的にホルモンの関わる感覚は体内の身体の状態として現れる刺激であり、
変化としての情報と、自己情報としての身体性による事象が構成され、
これを認識する事で空腹を感じたという事になるが、
空腹が直接的に欲求であるかというとそれは違い、
空腹を認識した知能が、身体の状態としての空腹状態を解消するために、
欲求の感覚を生じさせている、という事になる。
つまり、空腹感は、身体内に生じた変化ではあるが、
欲求そのものではない、という事になる。
当然、欲求は事象としては認識出来て存在するのは確かだが、
「空腹感」=「欲求」ではない、という事になる。
むしろ、欲求は、
知能が空腹感に対して構成した先天的定義を使って構成した事象であり、
自己情報に近い構成要素という事になる。
つまり、二面性で表せば、
変化情報:(刺激):自己情報
グレリンの受容:(空腹):身体性
こういうことになり、
この事象の連続性において、「空腹感」を認識するという事になるが、
当然、「空腹感}=「欲求」ではない。
では、この後、空腹感に対する摂食欲求はどのように生じるかという事になるが、
空腹感に対して摂食欲求が生じるのは、知能による選択というよりも、
先天的定義による本能による定義の事象の構成であろうと考えられる事になる。
つまり、空腹感を感じたから食べ物が欲しいと思う、のではなく、
空腹感を感じると食べ物が欲しいと感じるのであり、
これは先天的な自動的な構成が起こる関連が存在するからという事になる。
ただ、刺激に対して関連した刺激を構成して認識しているというよりも、
この欲求としての事象は、自身が行うべき目的に近い事象の構成になっている。
つまり、刺激に関連して刺激を構成して認識しているというよりも、
刺激に関連して自身が反応をするべき状態を構成して認識していると考えられる。
正直、この辺りの考え方については専門的な用語が無いのか私が知らないので、
説明に最適な言葉が思いつかないが、
つまり、刺激に対して先天的に構成される反応を起こすための事象の定義が存在し、
これは、刺激の構成に関連した想起とはまた別の異なる先天的な事象として、
自己情報の構成の要素か、自己情報の構成に関連した別の要素を示唆している事になる。
つまり、この刺激に関連して自身が反応をするべき状態としての、
身体性を構成する要素として、「欲求」のような要素が、
先天的定義から再構成されている、という事になる。
そして、この内容の肝でもあるが、
この要素は、刺激の再構成においては、自己情報を構成する要素であるが、
この要素は、知能に観測させる事によって、「欲求」などの感覚、
つまり、個体にとっての「目的」を生じさせるきっかけになっているのではないか、
という事になる。
つまり、空腹である状態が直接、欲求であり、目的であるという事ではなく、
空腹である状態の認識において、先天的定義では、
単に刺激としての空腹を刺激として構成しているわけではなく、
その自己情報に欲求や目的と成る要素を合わせて構成しているのではないか、
というわけである。
結果的にこの空腹である状態の事象の認識において、
知能は自己情報に含まれる欲求や目的と成る要素を認識する事になり、
また、これも直接的ではないが、この要素に対して、
知能は自身が行うべき対応や適応としての、
実際の自己の行動や反応を構成するきっかけとしているのではないか、
というわけである。
つまり、目的を構成する際の「きっかけ」が、当てはまる用語が無いが、
この自己情報の要素なのではないか、というわけである。
つまり、この「きっかけ」には自分にとっての指向する向きが含まれている。
そして、拡張的に考え方を後天的定義に当てはめると、
この刺激の認識に対して、これを経験として記憶するわけであるから、
当然、この想起された概感においても、この目的と成る要素というのは含まれている事になる。
さらに言えば、この自己情報は、自分の自分らしいもっともらしさとして構成される要素であるので、
この要素を含む経験の想起、概感においては、
自分らしい反応、として想起されることになる。
さらに拡張的に考え方を進めると、この目的が達成されないまま記憶された場合、
これは自分自身の、つまり、自我の構成要素として用いられるものではないかと考えられる。
つまり、自分の自我や我執として自身が行うべき目的を構成する要素になっているのではないか、
というわけである。
この事象の認識においては、その事象だけにおいては単に認識するだけの身体の状態であり、
この変化に対して反射的な行動などが起こることは無い。
あくまで身体の状態として空腹感を感じるというだけである。
これは刺激と同様の事象の構成だからということでもある。
もし、空腹感に対して意図的な選択が働かず、
反射的な行動が起こるのであれば、
知能は逆に何かできることはあるだろうか?という事になる。
空腹感→欲求→目的→実行
これでようやく空腹感に対する対応が出来る。
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・目的は欲求に対して知能が適応しようとする場合の構成体であるという事。
上記の事から目的と欲求は別の事象であり、
目的自体が何らかの自身の活動に関する方向性を与えるものであると考えると、
欲求→目的
として、これらは別の事象という事になる。
目的それ自体は、自分が行うべき何かであり、
それは元を正せば、
欲求を構成したきっかけに対して知能が自分を適応させようとした結果としての出力の事象という事になる。
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2025/4/28
欲求の構成:
空腹感が、グレリンなどのホルモンによる身体の状態としての刺激に対して構成されるものであるとすると、
昨日も書いた通り、
変化情報:(刺激):自己情報
こういうことになるのだが、では、この刺激としての空腹感に対して、
欲求や目的としての何かが知能内で構成される際の、
「何らかのきっかけ」については定義が現時点では分かっていない。
実際、私が知らないだけかもしれないが、知能の働きに関する定義はあまりに大雑把で、
これらの機構の解釈が私自身出来ていないので、今回は、あえて明示的に定義を行っていく事にする。
この空腹感のような身体の状態に対して、
先天的定義で定義されている、自分が行わなければならない、
つまり、これまでの考え方であると「生きざるを得ない制限」としての、
「空腹であれば摂食しなければならない」ような決まった適応や反応の定義は存在すると考えられる。
この場合、知能は空腹感に対して、摂食欲求を構成し、自ら認識する事になるのだが、
では、「摂食欲求」とか、「欲求」そのものは何なのか?という事になると定義が無い。
「~しなければならない」とか「~しよう」という事が「欲求」なのか、
空腹に対する摂食の目的が生じるような事が「欲求」なのか、
これらを明示的に定義しようとすると、解釈できる定義が無い。
それについて今日考えていたが、
「目的」は、先天的定義ではなく、後天的に得た環境に対して、
自分が行う行動指針というか、指向性のような方向性、ベクトルのようなものだが、
その「目的」を恐らく「想起」する為には、そのきっかけの刺激が必要になる。
まあ、この「目的」が「想起」の結果というのは今書きながら考え付いたのだが、
つまり、「欲求」という定義はこの一連の総合的な知能の活動について定義したもので、
各機能や機構については、それぞれもう少し細かい定義がなされていると考えられる。
つまり、上記の空腹であるという身体の状態を認識して、
知能が先天的定義を使って摂食欲求を構成するのだが、
この時点の摂食欲求は、先天的定義を使っているがために本能的なもので、
それを解消する直接的な行動の目的や目標は決まっていない。
この時点では、単に「自分は空腹である、何か食べたい」という所までしか構成・認識されず、
具体的な目的のようなものは決まっていない。つまり、想起できていない。
ここから先は実際の環境におかれた自分の状況や状態において、
最適な目的や行動を決めて想起(思考)する事になるのだが、
では、「欲求」はこの目的を含むのか、含まないのかも考えられていない。
つまり、「欲求」には、
行動も「~しなければならない」定義として含むのかか、
「空腹で何か食べたい」という所までが「欲求」で、
その後に想起して思考する結果は、「欲求」に対する適応や対応なのか、
という事である。
現時点の考えでは、
空腹であれば「何か食べたい」と感じる所までが欲求で、
その対応や適応として知能が作り出して想起(思考)するものが、
その「欲求」に対応・適応する「目的」である、と考えている。
理由としては、欲求はあくまで先天的定義から構成されるものであり、
目的は先天的定義から構成されるものではないと考えられるから、
これらの構成体は事象として異なるものであるため、という事になる。
つまり、生命において知能の程度が高低存在したとしても、
欲求というのは生命の種ごとに共通した定義ではないが、
個々に欲求のような定義は存在し、
ある変化、特に身体的な状態変化に対して、
知能の関与を必要としないが、構成される事象として生じ、
その生命の種にとって必要な定義となっている。
そして、この「欲求」である事象は、
その生命の種にとっては行動を促すきっかけであるが、
知能の高低に関わらず、客観的に見れば「目的」のようなものを目標として、
活動や行動をしているように見えるが、
基本的にはその活動や行動は、その「欲求」が生じた後に、
その環境と自己の状況、状態に応じて決まるもの(目的)だから、という事になる。
つまり、「欲求」は自己の外部に対する環境や自身の置かれた状況や状態に関わらず、
身体内の状態として現れるものであり、
その後の活動や行動を行うための「目的」の事象は、「欲求」が生じた後に構成されるものであるから、
という事になる。
「欲求」と「目的」には、きっかけと結果としての関連は有るが、
別の事象、という事になる。
つまり、その目的の後の活動や行動においても、
詳しく言えば、欲求をきっかけとして目的が構成され、
その目的を達成する為に活動や行動を構成して行っている。
という事になる。
ということは、欲求は先天的定義から構成される事象であるから、
今回の表題の「後天的定義の欲求の存在」は無い事になるのか?
という事になるが、
恐らくこれは、新たな定義を必要とする事になると思うのだが、
つまり、刺激に対する概感があるように、
欲求に対する「後天的定義の欲求の存在」があるのではないか、という事になる。
つまり、刺激は先天的定義から構成される。これは良い。
概感は後天的定義から構成される。これも良い。
欲求は先天的定義から構成される。これが良いなら、
欲求に代わる後天的定義から構成される「何か」もあるのではないか、という事になる。
つまり、この「何か」が知的生命体の、知性、知能から、
本能ではない定義において、「思考」であると考えられる活動から構成される、
独自の「目的」を生じる「きっかけ」になっているのではないか、
という事になる。
つまり、簡単に言えば、
自分が本能ではない何か目的を持つ事があるのは、
この「何か」を知能が構成しているからなのではないか、という事である。
これは、上記で書いた事に繋がるのだが、
先天的定義から構成される「欲求」に対して、
その「欲求」は常に即座に解消されることはそれほど多くない。
本能としてだけであれば、その「欲求」だけを継続して、
基本的にその対応を継続しようとするだけでよいのだが、
ある程度の高度な知能においては、その「欲求」に対する対応だけを優先するようには出来ていない。
つまり、他の様々な変化が継続して入力されている状態で、
その1つの「欲求」に対してだけ対応できず、他の優先するべき状況や状態を事象として、
構成して優先する場合もある、という事になる。
この場合、「欲求」は「欲求」として存在している事を保留して、他の優先する事象に対応する事になるのだが、
これを管理する知能は、「欲求」の存在自体を忘れてしまうわけにはいかない事になる。
もちろん、生命としての維持、存続の為に、先天的定義から構成される本能としてでもあるし、
身体的な状態としては恐らく継続してその状態にあるという刺激は構成され続ける事になる。
あくまで、その身体の状態より優先する事象が発生すると、知能により、
その優先度、恐らく刺激量の定義によって、それらの事象の優先度が比較されることにより、
一時的に保留状態になっているだけ、という事になる。
この場合、先天的定義から構成される欲求として一時保留されるだけの事象であれば、
継続して構成される欲求に対して適応、対応すれば、その「欲求」に対する事象、状態は解消するが、
では、さらに長期にわたって保留が継続された場合、
この「欲求」であったものはどうなるのか?という事になる。
ある程度の機能を持った知能においては、
恐らくこれは経験として記憶される対象になると考えられる。
つまり、経験として「欲求の保留状態」を記憶するというわけである。
これは、外的要因、内的要因に関わらず、
何か「欲求」が解消されない理由や原因があり、
欲した事象として認識されたにも関わらず解消されなかった事象という事になる。
これは、後天的定義そのものの重要な構成要素の1つであり、
知能の想起の機能そのものに関わる重要な対象になると考えられるのだが、
生命の進化においては知能は割と後の方で得た機能であるが、
考え方によっては、知能は欲求の保留を許容する為に得た機能ではないかと考えられる事になる。
つまり、知能は、生誕後の環境に柔軟に適応する機能としても考えられるのだが、
生誕後に自分の状態がある変化にさらされた場合に、その状況や状態に、
その置かれた後天的な環境において、最も最適な行動や対応を取る機能とも考えられる。
そして、であれば、そのきっかけというのは、突き詰めれば、
先天的定義から構成される本能的な「欲求」に対して、
後天的な自分の体外、体内の環境や状況、状態において、
もっとも最適な、適当な対応や行動を実行する事、
つまり、「欲求」に対する最適な「目的」を実行する機能と言える事になる。
そして、「欲求」は常に先天的定義の本能で解決できない場合もある事になれば、
必然と保留状態が生じる事になる。
後天的定義が、もともと後天的に遭遇する環境に対して経験を得る(経験を許容する)機能であれば、
後天的に遭遇するある事象においては、どのような状況、状態においても、
後天的に経験とする可能性も生じる事になる。
であれば、「欲求」に対して即座に解消できる事象もあれば、
保留を継続するを得ない事象もある事になる。
そして、先天的定義であるが故に刺激としては「欲求」となる事象は解消まで継続して認識されるはずであり、
この認識においては後天的定義としての経験となるため、記憶される可能性はある。
そして、
元々、この「欲求」に対する後天的定義であれば、
刺激の構成と同時に、想起も行われる事になる。
つまり、「欲求」と同じものという事にはならないが、
後天的定義から構成される概感として「欲求」に相当する経験が構成され、
想起される事はあるのではないか、という事になる。
つまり、「欲求」とは異なる、後天的定義における「欲求」に代わる存在があるのではないか、
と考えられる事になる。
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2025/5/4
これまでの続きの「欲求」の二面性の定義としては、
身体内の変化:(欲求):身体性
こういう定義が考えられる。
つまり、例えば「空腹感」に対する「摂食欲求」であれば、
空腹感自体は、グレリンなどのホルモンの受容による身体内の状態の変化の刺激として構成され、
グレリンの受容:(空腹感):身体性
となり、
もちろん、自分の身体性に対して刺激として構成される。
その後、空腹感の認識に対して、先天的定義として「摂食欲求」の構成が行われ、
つまり、
身体内の状態としての空腹感:(摂食欲求):身体性
こういうことになる。
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想起のきっかけ:
今日は後天的定義による欲求と、
思考のきっかけの関係について考えていた。
思考は、基本的に刺激として認識される情報ではなく、
概感の想起によって、その事象が構成されるが、
その事象自体が、次の想起のきっかけになる事はあり、
概感→想起→概感→想起・・・
という連続性もあり得ると考えられる。
これは、概感が認識プール(今後は「事象プール」に変更しようと考えているが)内で、
意識される対象になった場合、
身体性が無いので脳内にぽっかりと浮かんだ情報のように意識されるのだが、
そもそも想起によって意識される場合も、身体性に代わる何か一面が存在しているはず、
という事になる。
つまり、刺激が
変化情報:(刺激):自己情報(身体性)
こういった二面性を持っていると考えると、
概感も、
変化情報:(概感):自己情報
という構成になるのだが、
これまでは、概感の自己情報については、記憶された自己の定義として、
刺激が構成される時に用いた自己情報として、
自我のような自分の身体性以外の自分についての定義があてがわれていると考えてきた。
ただ、刺激についても概感についても、後に意識される可能性が有る事を考えると、
何か情報を受け止める主体性のような主体的存在の必要性が有る様に考えられる。
つまり、刺激はその変化を身体で受けて、身体上にその変化が存在すると認識し、意識するのだが、
概感の場合は、自己の定義はあるが、身体性が無いとすると、自己の何の定義をもって、
この変化情報と二面性をもって存在させるのか?という不明瞭な点が残る事になる。
恐らく、この想起における主体性は、思考などを含む全ての想起からなる機能において、
そのきっかけを構成する重要な存在になると考えているのだが、
まだ、その辺りが明確に定義できていない。
概感の連続性という事から考えると、
上記の概感と想起の連続性において、習慣がこの主体性になるのではないかとも考えた。
つまり、自分である事の連続性を、自分であるという定義の連続性で構成して、
概感の自己情報に充てている、という考え方である。
この場合、自分である事自体が、想起における自分にとっての普遍性のようなもので、
つまり、想起する自分である事の習慣、とでも言うか、
この想起を行う存在が、常に自分である事を習慣にしている、と言うか、
つまり、明示的に想起を行うのは「自分」である、とはっきりと想起したり意識したり明言できるわけではなく、
習慣的に想起したり意識しているのが、結果的に「自分」になっている、というわけである。
後天的な自己の定義というのは、生命としての生誕時においては、
存在していない定義であり、極端なことを言えば、生誕時に「自分」は存在していない。
名前を付けられ、家族がそこに居て、
環境と自分と異なる周囲の者たちの中で、自分の存在が出来ていく。
この場合、この自分という存在が何に対して想起するのかと考えると、
基本的に考えている事は、「自分」との関わり合いにおける「何か」である。
つまり、二面性で言えば、
何か:(概感):自分
という事になる。
この時の「自分」が何であるかが分かれば良いのだが、
ということは、生誕時に存在していない「自分」が、
概感の一面を担うものであるなら、この「自分」が後天的に構成される定義であるとして、
この定義が何から構成されるのかについて考えると、
後天的定義の構成の経緯から考えると、自分の受けた刺激に対する自分の身体の反応により、
状態変化を起こした自分の身体性において、身体性を除いた部分の自分の変化の事象の定義、
つまり、後天的定義が経験として記憶され、この時に自己情報として定義されているものは、
ある刺激である事象において、構成された自己情報に含まれる、
身体性以外の自分の身体に起こった状態変化の事象、この定義、という事になる。
少しややこしい事になったが、
つまり、概感における自己情報は、
刺激の構成における自己情報として、身体性が情報として用いられるが、
この身体性には、実体としての体と、身体内の状態としての自己も含まれていて、
この身体に現れる状態というのは、刺激に対する自分の感じた反応であるという事になる。
つまり、概感においてはむしろ、刺激の身体の実体に関わる部分の情報は、
記憶として残されているわけではなく、経験においては、この実体の身体ではない、
刺激に対して自分の身体の状態として現れた「反応」を自己情報として残しているのではないか、
という事になる。
これは、422で考えた、入力と神経細胞ネットワークの経路さえあれば、
最終的な出力を構成する定義は先天的定義と後天的定義として存在しているわけであるから、
事象は再構成できるという考え方が思いつくが、
逆に想起において概感を構成する場合、
安直だが、自分の状態としての事象が、自分の今の状態として存在していて、
定義はそもそも存在していれば、自分との関わり合いにおける「何か」は、
自分を入力とした出力として構成できるのではないか、という事になる。
つまり、想起は、きっかけはあくまで刺激だが、
その後の想起において、概感の構成は刺激を必ずしも必要としない連続性を構成出来て、
つまり、概感の構成によって次の概感を関連して想起できるという事。
つまり、入力を想起したある自己情報の状態の記憶の再構成体として、
想起したある自己情報の状態の記憶の再構成体:(概感):想起したある自己情報の状態の記憶の再構成体に対する反応
という概感が構成できるのではないか、という事になる。
簡単にまとめると、
一番最初のきっかけは変化情報としての刺激の構成には違いないが、
その後の認識と想起の連続性、つまり意識の連続性において、
刺激は連続性におけるプログラム的に言えば「割り込み」であり、
概感は連続性におけるプログラム的に言えば「内部処理」なのではないか、
つまり、内部処理が続く間は概感のループとなり、割り込みが生じた時点でスタックされることになる。
という事である。
単なるプログラムと違うのは、スタックが完全に保存されるわけではなく、
生体であるので時間経過によってフラッシュメモリの揮発のような忘却が起こる可能性が有るということである。
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2025/5/5
今日考えていたのは、
最初に欲求は先天的定義で定義されているもので、
後天的定義で定義されるものではない、という事。
そして、であれば、欲求を事象として構成する定義は、
先天的定義であるわけだから、そのきっかけは、
恐らく変化情報で良いと考えられる。
昨日考えていた、欲求が身体の状態として現れた変化に対する、
先天的定義によって構成される事象ではないかという考え方と合わせることが出来る。
そして、なぜ、これらの欲求が構成される必要があるのかを考えると、
この身体の状態変化に対して、行うべき対応としての定義が先天的定義として、
定義されているという事になる。
さらに、先天的定義で定義される事象は、生命にとって何であるかと考えると、
この定義はこの種の生命にとって必要な変化に対する対応である、
という事になる。
つまり、生命にとって欲求は必要な対応としての定義として得ているという事になる。
つまり、欲求は先天的に持つ、ある身体の変化に対する適応の定義である、という事になる。
それはつまり、欲求が生じる事によって必要な対応を行う必要性が生じるのではなく、
必要な対応そのものとして、欲求は構成されるものである、という事になる。
先入観は恐ろしいもので、
欲求は何かが不足した事によって感じる、何かを欲する固有の感覚か何かである、とずっと思っていたのだが、
そうではなく、つまり、
欲求は既に生命の先天的な定義として規定されていて、
生命にとって「~しなくてはならない」本能としての、
「ある事象に対する対応」として定義から構成されるものである、という事になる。
つまり、欲求は状態ではなく、生命にとってはある事象に対する「対応」そのものであるという事になる。
感じる感覚だけと何が違うのかというと、
つまり、欲求の事象としての構成は、ある事象に対する反応である、という事になる。
つまり、刺激の様に変化情報の入力に対して、身体性を出力するように、
欲求は身体の変化情報の入力に対する、状態としての出力である、という事になる。
つまり、欲求は先天的な定義の存在する刺激に近いもので、
この欲求が想起の起こるきっかけになると、考えられる事になる。
つまり、これまでは刺激から認識と想起が起こると考えてきたが、
欲求から認識と想起が起こることも考えられる事になる。
これは、概感から想起が連鎖するという考え方においても、
刺激の経験としての記憶から想起して、そこから想起が連続する場合に加え、
欲求の経験としての記憶から想起して、そこから想起が連続するという事も考えられる事になる。
欲求も刺激と同じものではないかとも考えられるが、
欲求が単なる感じる感覚でなく、あるれっきとした反応あると明示する事は重要で、
つまり、刺激の認識からいきなり何か目的を構成する事が無いように、
刺激の経験としての想起から何か目的が構成されることは無いが、
これが、先天的な定義として存在する事象として固有の反応として「欲求」が存在する場合、
この認識や想起においては、何か目的を構成する別の機構が存在する可能性を示唆する事になる。
つまり、「欲求」に関連した特別な何かが存在するかもしれない、という事になり、
これが目的を構成するきっかけを含んでいるのではないかと考えられる事になる。
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つまり、「目的」を構成するきっかけは「欲求」であると言えるのではないか、という事になる。
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つまり、何の気なしにいきなり「目的」が構成されるのではなく、
そこには必ず「欲求」の存在があると言える事になり、
それは、先天的に「~しなくてはならない」事に対する対応としての定義の存在があり、
これが「欲求」を構成する定義なのではないか、という事になる。
つまり、本能的に「~しなくてはならない」事を生命は定義として持っている、という事になる。
「欲求」があるから目的が生じる。
これは当たり前と言えば当たり前である。
ただし、今回はその当たり前だと思っている「定義」を明示的に表そうとした事になる。
そして、ここからさらに考えられる事は、
後天的定義は、先天的定義の補正する機能なのではないか、という事がある。
後天的定義は、もともと、生誕後に直面する先天的定義で定義されていない変化に対して、
後天的に適応や対応を構成する為の機能であると考えてきたが、
「~しなくてはならない」定義が先天的に存在していて、これを知能が持っているとしたら、
もし、後天的に「~しなくてはならない」事象に直面した場合にも、
単なる環境の変化ということだけでなく、自身の定義における「~しなくてはならない」に対しても、
後天的に定義が可能なのではないか、という事になる。
つまり、本来、生命としては本能として、先天的に持つ定義だけで、
維持、存続、継承などの生命活動は可能であると考えられるのだが、
本来はその適応が難しい新規の事象に対する直面に対しても、
定義を補正する事で、適応や対応ができるようになるのではないか、という事になる。
つまり、以前考えた人間の知能は未熟なまま生誕し、
身体の寿命が先に来てもなお、知能は未熟なままであるのは、
この後天的な適応や対応を構成し続ける事ができるように、
結果的に成熟しないで未熟なまま、先に身体の寿命が来ることになったのではないか、
と考えられる事になる。
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この考え方を例えば教育において用いるとしたら、
学習するという事を「欲求」として捉えることが出来るような定義を構成させる事、
これが出来れば、基本的には放っておいても、その個体は学習を継続する事になる。
まあ、教育の目標としては当たり前の事かもしれないが、
漠然とした目標などではなく、意図的にこの関係を構成する事を目標にすれば、
もう少し何が新しい方策も考えられるようになるはずである。
これは知能全般、強い人工知能においても同様で、
後天的な定義の更新能力、つまり後天的な定義の可塑性を維持する事が必要という事になるが、
ある「欲求」として後天的に「学習」と関連付ける事で、
先天的な「欲求」としての励起に対して、常に「学習」の概感が想起される事になる。
これは、変化情報から刺激と概感が並行して構成される事から言えるのだが、
つまり、「欲求」は何かの報酬に関連しての「欲求」ではなく、
「~しなくてはならない」為の対応であるという事である。
つまり、教育において、自分を成長させるためという報酬であるかのように、
欲せさせて学習を行うのではなく、
自ら。自らを成長しなくてはならないと「欲して」学習を行う様に教育を行ったらどうか、という提案ができる。
これは、良い事だから学習しなくてはならないのではなく、
学習せざるを得ないという事でもなく、
学習をしないわけにはいかないと自分で思うようにしたら良い、という事になる。
つまり、本能的な「欲求」に関連した対応として「学習」を関連付ける事を目標とする事になる。
これは最終的には好奇心を持つ習慣を持つ事
なのではないかと考えられる。
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2025/5/6
今日考えていたのは欲求から目的を作り出す機構。
結論から言うと、
不足などの身体性のある状態に対して、
反応として欲求が事象として構成されるが、
この欲求は、不足などの身体性の状態が事象として連続性を持つ際に、
この連続している事に対する指向のような事象に対して、
欲求と呼ぶ、この身体性のような状態が構成される、
というものである。
そして、この欲求という連続した状態の指向が、
目的を構成する際の、きっかけや力になっているというもの。
そして、欲求は、身体性の状態の事象であり、
つまり、刺激が身体外から得る変化の情報に対して、
身体内から得る変化の情報に対して構成される事象であるという事。
身体内の変化:(欲求):身体性
これは上記で5/4に考えた事と同じになる。
そして、この欲求から目的を作り出す機構だが、
欲求はそれ自体は認識をしている間しか存在しない事象であり、
認識していない間は、欲求を認識していないので欲求の感覚を知ることは無い。
ただし、後天的定義として欲求を経験として定義し記憶した場合は、
後天的に継続して想起する可能性を得る事になる。
不足などの身体の状態として認識した事象は、
その連続性がある程度維持されている事において、知能は欲求を構成する事になる。
まあ、これは欲求自体も先天的定義から構成される事象であるので、
認識の有無に関わらず、知能はその不足状態などの存在に対して、
自動的に欲求を構成しているとは考えられる。
この欲求が認識に至るかどうかが、連続性の維持状態による刺激の強さとして関わるという事になるが、
知能は確かに不足などの身体の状態に対して、
自動的に欲求を構成する、という定義は持っているはずである。
つまり、身体内のある状態、特に不足などの状態に対して、
生命は先天的定義から構成される定義として「欲求の定義」を持っている。
そして、この身体内の不足の状態に対しては、知能が選択などを必要とせず、ほとんど自動的に、
この「欲求」の事象を構成するという事。
そして、この「欲求」に対して、生命は知能を働かせて、
この不足などの状態に対する解決を図ることになる。
この「欲求」の構成に関する始まりについても考えたが、
元々生命の活動において、身体内のある不足についての状態は、
生命が運動により移動するという事がきっかけになっていると考えられる。
つまり、場所を移動する事が無いような生命において、
何かが不足したとしても自発的に行動できることはほとんどない。
身体を出来る限り伸ばしたり揺らしたり、探ってみるくらいしかない。
しかし、これは不足に対して欲求を感じての行動というわけではなく、
先天的な本能として生命の維持・存続・継承の決まった定義として行っているだけである。
これに対して、自発的に移動ができるようになった生命においては、
初期の生命においては基本的に行き当たりばったりの状態と反応を繰り返すだけ、
という点では移動の可否によって何か自分の状態を自発的に変化させることはできないのだが、
例えば、ここに光に対する目を得て、走光性を持つ様になったとすると、
この生命は光に対する自発的な目的を持っている事になる。
つまり、初期においては単に光に反応して光に向かっていくだけという定義であり、
欲求などを感じる事も必要性もないのだが、
では、これが常にある不足状態にあり、何かを「どうにかする」必要性を後発的に得るとしたらと考えると、
「不足の維持された状態」というのは「欲求」として定義される可能性が有るのではないか、
という事になる。
つまり、もともとは生命の「決まった変化に対して決まった反応をする」という単なる反応の定義が、
「自身のある状態」に対する「決まった変化に対して決まった反応をする」という定義が、
最初は必要性などは無く、単に「反応A」に関連した「反応B」だけであったものが、
最初の「反応A」の連続性に対して「反応B」の必要性が生じたのではないか、
という考えが出てくる。
つまり、「反応A」のきっかけが不足であった場合に、「反応B」の必要性が生じたのではないか、
というわけである。
いきなり不足や必要性が生じるというわけではないが、
生命の維持、継続に対しては状態としての不足や充足というのは常に付きまとう事になる。
知能に至る前、その必要性の反応というのは、初期に定義として生命が得る事になると考えられるが、
これに対して、受動的でない、能動的な反応を起こすきっかけになるのが、
今の欲求になると考えられる。
つまり、必要性が「受動的必要性」から「能動的必要性」になった時に、
不足から欲求に変化したのだと考えられる。
受動的必要性=不足
能動的必要性=欲求
というわけである。
ただし、生命の機能の獲得において、その定義は置き換わりではなく、
追加や拡張(場合によっては退化もあるが)として得ると考えられるので、
受動的必要性に対する拡張機能としての能動的必要性ということで、
不足→不足+欲求
への新たな関連の定義が作られたと考えられる。
そして、つまり、この不足だけの事象であった状態から、
欲求の事象を得る事によって、生命は能動的な活動、行動の「きっかけ」を得る事になる。
つまり、最終的に、この「きっかけ」が今の知能の目的が生じる「きっかけ」になっている、
というわけである。
そして、逆の考え方から、
人間の知能が行う行動に対して欲求が感じられない、欲求とは無関係の行動というのもあるかもしれない、
と考えられる事になるが、
恐らくそんなものはない、と考えられる。
例えば、
「習慣」や「当たり前」として行っている事、目的も、
本来不足や欲求から構成された目的であったという事。
習慣で行っている事、目的は、その事について明示的に欲求の存在を感じることは無いが、
目的を構成した最初の頃には、欲求の存在が必ず在ったはずであるという事。
習慣や当たり前の事は、本能に関わる事でない限り後天的定義による目的や行動である。
その習慣や当たり前の定義が出来る過程を考えてみると、
その定義が作られる際、知能はこの行動や活動に対して、
「~するべきである」「~しなければならない」という定義を関連付けているはずである。
そうでなければ、そもそも行動や活動を定義する必要性自体がないからである。
そこには必ずその行動や活動に対する「きっかけ」と「目的」がある。
そして、上記の受動的必要性でない、能動的必要性として
習慣や当たり前の行動や活動は、その最初期においては不足が存在していたと考えられる。
これも、その行動や活動を生じさせる理由、きっかけとして不足が最初に必要になるからである。
いきなり欲求が生じないのはこれまで考えた通りである。
そして、不足から行動や活動をその不足に対する反応として構成した後、
ここで「きっかけ」と「目的」が構成されている事になるが、
ここから「欲求」が足されるのは、この不足が連続性を持つためという事になる。
つまり、継続してきっかけとなりうる「不足」の存在という事である。
これは、結果としては経験としての記憶になるのだが、
この「連続性を持つ不足」「継続してきっかけとなりうる不足」は、
その状態のまま記憶されるという事になる。
つまり、不足を解消して不足状態を完全になくす事ができないために、
連続性や継続性を持っているわけで、
そして、この連続性はこの「不足状態」の事象として扱う時の、
知能における情報の強さという事にもなる。
当然、強い事象は記憶されやすく、想起においても関連の対象になりやすい。
もちろん、概感を再構成した場合も情報として強い事象となる。
と、ここまでが今日考えた事である。
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少し長くなったのでそろそろ一度締めるが、
欲求と目的に強い関連があり、
想起による思考などにおいても、その思考や起こる理由にも関係していると考えられる。
欲求と目的の関係の定義自体はまだ完全ではないが、
ある程度の筋道はつけられたと考えている。
知能における能動的必要性としての欲求は、
知能が自ら思考しようとするきっかけになっているとも考えられるし、
これは自由意志の根底にあるものとして考えられ、
人工知能が自ら思考する時の基底の定義として用いることが出来るのではないかとも考えられる。
今回はこの辺で。
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