2025/4/4-2025/4/18
刺激と概感とその連続性
刺激は自然法則による事象において、
その事象における差異を変化として、
これを感覚器官で変化情報として受け取り、
その二面性の反面として、それを受ける側が、身体性である。
つまり、刺激は変化と身体の間で事象として構成される。
概感の構成はどうであるかというと、
認識の対象が刺激という事に気付いたので、
これを概感に当てはめると、
想起で概感が構成されるということになる。
この気付きを加味して考えると、
概感のきっかけが刺激であるのなら、
これに相対する何かが存在する事になり、
この何かが存在する事で、
概感の二面性となり、概感が事象として成立する事になる。
つまり、
刺激:(概感):?
こういう事。
では、概感の刺激に相対するものは何かと考えたときに、
概感は刺激をきっかけとした関連として存在する事象であるとすると、
その関連先は刺激に関連する経験ということになる。
つまり、刺激を受容して、自身の何かに情報として構成するものがあり、
これらの関連によって、概感が構成される事になる。
つまり、
刺激:(概感):経験
こういう事。
この事自体は、「想起」に相当する機能だが、
では、「刺激を認識する」ように、
「概感を想起する」場合、そこにある概感としての事象は何であるかと考えると、
では、実際に概感で見える情報やイメージのようなものは、
ある事象としての変化に対して何が相対しているのかと考えたとき、
その情報の構成が点ではなく線に感じられた。
つまり、経験が点の関連した線なのではないか、というわけである。
つまり、新たな気づきになるのだが、
概感として「赤い光」について想起した時と、
視覚で「赤い光」を認識した時に、
そこにどのような違いがあるのかと考えた時、
すぐに気づくのは身体性の有無、という事になる。
つまり、刺激は実体験として知覚できるが、
概感は実体の無い仮想的な事象として構成されて感じられる。
最初は概感における身体性のようなものがあるのではないかと考えていて、
概感の構成自体が、きっかけが「刺激」であり、そこから関連する「神経細胞ネットワーク」があり、
接続先は「自己情報」なのではないかと考えたが、
これまで、自己情報の身体性の無い場合には、
自我のような自身の定義が後天的に割り当てられると考えていた。
しかし、そんなに特別な何かをわざわざ構成して知能が扱えるか?と考えた場合、
既存の何かをどうにかして使っているのではないか?という考えに代わった。
では、明確な刺激において、自然法則の事象の差異を変化の情報として得て、
これに自分がこの変化を受け取るという意味での身体性を補完して、
刺激を構成するのだとしたら、
概感も、これに近い何かを使っているのではないかという考えに至った。
この考えで少し疑問として思ったのが、上記の「赤い光」が情報として点なのか?
という事である。
つまり、もし、刺激がその認識の為に元々点ではなく、連続性を持つものであるとしたら、
もしかしたら刺激はもともと連続性を持つ事象なのではないかと考えた。
つまり、感覚器官において、刺激が強いか弱いかという差は、
その一定時間に起こる感覚器官の受容体の励起の回数であるということから、
そもそも刺激が事象として成り立つには一定間隔の時間差が必要なのではないかと考えた。
そして、「意識が認識の連続性から生じるもの」という事であれば、
そもそもの「認識は刺激の連続性から生じる」のではないか、という事になる。
ということはである。
この刺激の連続性を認識して記憶し、この記憶を何らかの刺激をきっかけとして想起したのが概感であれば、
概感は認識した刺激についての「連続した結果について関連を持ったもの」なのではないか、という事になる。
つまり、連続した刺激に対しての連続した自身の反応についての関連であり、
つまりは、連続した刺激に対する連続した経験への関連が概感の定義になるのではないか、という事になる。
つまり、概感は「ある連続した刺激」に対する「ある連続した自分の経験」への関連を定義として、
想起するものである。
という事になる。
この場合、
------------------------------------------------------
ある瞬間においては1つの刺激または1つの概感しか認識または想起できない。
(→認識プールの考え方自体も少し修正する必要がある。)
刺激は変化の連続性に対する身体の連続性から構成される。
刺激の再構成は認識そのものである。
概感の再構成は想起そのものである。
概感は刺激をきっかけとして想起される。
意識が認識の連続性から生じるなら、
意識は刺激の連続性から生じている事になる。
------------------------------------------------------
であれば、
刺激の連続性に対して想起されるのは、概感の連続性という事になる。
刺激の連続性から意識が生じるのなら、概感の連続性には別の意識の面が生じている事になる。
つまり、意識は二面性として刺激の認識による面と、概感の想起による面の2つがある事になる。
(→これは以前考えていた 意識の二面性の定義の意味を補完するものとなる)
知能にとっての事象の観測については、
事象の存在が、事象が二面性を持ち、その一面が観測できれば存在する事が確定するので、
意識は、刺激の認識か、概感の想起の内、どちらかが観測できれば存在が確定する事になる。
という事が言える。
------------------------------------------------------
そして、こういうことであれば、
概感の定義として記憶されるのは、
これまで単純に自己情報としての「自身の定義」として考えていたものは、
刺激の連続性に対する自己の反応の連続性、つまり、自身の刺激に対する経験そのものという事になる。
正確には、ある連続した刺激に対して、自分が感じた連続した自身の状態、という事になる。
つまり、この2つと関連を概感の定義として定義して記憶する事になるのだが、
ということは例えば、
ある文字列を記憶する場合、概感として構成されるのは、
この文字列を認識する際に連続して受容した刺激に対してと、
この文字列に対して自分が何かを補完した連続した状態に対しての「関連」を構成し、
これを「記憶」することで、後に想起の際に、この一連の連続性が概感として構成されるという事になる。
つまり、逆に想起することから考えた場合、
ある連続性を持つ刺激に対して、知能で何かが励起される場合、
もし、この連続性を持つ刺激に対して「関連」が存在していた場合、
特定の事象の連続性が励起され、概感が想起されることになる。
また、もし「関連」が存在していない場合、
知能はどうするのかというと、似たような事象の想起が起これば、
それを概感として想起し、
もし、想起が起こらない場合は、新規の刺激として、この認識に対して概感の定義を新たに構成するという事になる。
つまり、刺激の連続性に対して、新たな自己の反応の連続性・経験の連続性を構成するという事になる。
つまり、ある文字列が「りんご」であった場合、
この文字列の初回の認識時は、視覚情報としての新規の経験の連続性としての「りんご」のみが、
経験として構成される。
恐らく最初期においては文字ではなく単に画像としての「りんご」の定義のみが経験の関連となるが、
この定義に関して、後に再び「りんご」の視覚刺激を受けた場合に、他の関連する刺激が存在すれば、
それは画像の「りんご」の概感と、「新たな刺激の関連」がさらに「関連」して、
新たな概感の定義として構成されることになる。
つまり、最初の画像だけの「りんご」に対して、
文字の「り」「ん」「ご」が加われば、その文字列としての順序が関連として追加される。
また、音声の「りんご」が加われば、その関連が関連として追加され、
果実の画像の「りんご」が加われば、その画像が関連として追加される。
という事になる。
そして、後に文字列の「りんご」だけが刺激の連続性として認識された場合、
知能は、概感として、文字列の「りんご」や、音声の「りんご」、画像の「りんご」を関連した、
経験の連続性として励起し、概感を想起する、という事になる。
------------------------------------------------------
まとめると、
概感の構成は、刺激の連続性と経験の連続性の二面性から構成される。
つまり、
概感の構成は、意識と経験の二面性から構成される。
追記:後の考察で解説があるが、
正確には
概感の構成は、「刺激に対する」意識と経験の二面性から構成される。
という事になる。
意識は、刺激の連続性から意識になる場合と、
概感の連続性から意識になる場合があるという考えに至っている。
------------------------------------------------------
2025/4/5
今日考えた内容の結論から言うと、
「再構成の連続性」が重要という事になる。
今日は最初に、昨日の続きで概感の自己情報について考えていた。
刺激がその変化を感じられるために身体性があるように、
概感も、きっかけである刺激に関連した変化を、自分自身で感じられるためには、
刺激の身体性のように、概感にも自己情報として構成される「何か」があると考えた。
つまり、きっかけの刺激に関連した経験として、自分自身が感じる「何か」があるはずだと考えたわけである。
実際に、何かの刺激を受けて、それに関連した想起を行う場合、
自分自身で感じる何かは、概感として想起するのだが、
この概感には、きっかけの刺激を変化として考えた場合に、
それに対応した自分の何かが定義によって励起されて保管され、事象として再構成されるはず、
という事になる。
これまでは、自我や自己意識のようなものを割り当てて考えていたが、
まだ明確な定義としては概感における自己情報は分からなかった。
では、改めて概感における自己情報は何なのか?という事になるが、
刺激を認識する場合には、刺激が身体上に存在するように感じられる。
では、概感を想起する場合には、その概感となる事象は、
どこに存在するように感じられるのか考えると、
「再構成の場」という事になる。
つまり、私の場合は知能内に仮想的な空間があるように感じて、
そこに事象としての概感が存在するように感じる。
事象が実在化するには、知能において定義の励起が起こる必要があると考えたが、
これは、定義を励起する事で事象が再構成されるという事になる。
事象の再構成は、結果的に刺激であっても概感であっても、
認識や想起に至る事になるのだが、
この認識が連続性を持つ事で意識になるように、
概感も連続性を持つ事で意識になるという事が言える。
そして、では、知能において、何らかの事象を認識したり想起したりする事は、
刺激や概感が「点」で存在できるのか?と考えた時、
瞬間的に認識や想起には至るかもしれないが、
あくまで、その刺激や概感を文字通り「意識」するには、
連続性が必要という事になる。
であれば、事象は刺激や概感が、「点」で再構成されて存在するのではなく、
「連続性」の上に成り立つのではないかと考えた。
つまり、もし、認識や想起の存在がある瞬間毎の「点」として存在するなら、
その刺激や概感は「認識」できないことになる。
これは、以前にも考えた、
意識する対象として、
刺激や概感の認識や想起が、絶えず連続性を持ち、
その切り替えもスムーズであるのは、
刺激量の時間軸における「波」のような連続性があるからではないか、
という考えによるものだが、
これは、「事象」の存在そのものがその定義の再構成において、
連続性を持つ必要があるからなのではないかと考えた。
例えば「りんご」の文字列が、音声としての「りんご」や、
画像としての「りんご」に関連しているのは普通の事なのだが、
これを文字列の「いちご」を、音声としての「りんご」と関連させると想起すると、
(日本語においては文字数が同じなので例として好都合だが、
他の言語では他の例を用いた方が良い。)
文字列の「いちご」を見た時に、音声の「りんご」が想起されてしまう。
まあ、もともとの音声としての「いちご」が正しいと認識して定義されているので、
そのうち音声の「りんご」の関連は忘却されることになると思うが、
つまり、
文字列の「いちご」は連続性を持つ、視覚の刺激としての「いちご」であり、
その文字列に関連した読み、音声としての「いちご」やあえて関連させた「りんご」は、
自身の「経験」としての「連続性」に対して関連して記憶する事になる。
つまり、音声の波長や抑揚などの連続性として記憶する。
「点」ではなく、「線」としてである。
つまり、知能にとっての事象はもともと「点」ではなく、「線」として存在するものであり、
(身体性の連続性が身体としての実体を構成して存在が確定するという具合にである)
それは知能が観測する対象として、
結果的に意識する為、自分にとっての変化の情報を得て利用できるようにするため、
自分に関連した事象、
つまり、自分に対して「変化」そのものを「事象の連続性」として捉え、
その「事象の連続性」である「変化」に対して、自分を関連させる事、
この時の自分は「刺激に対しては身体性」、「概感に対しては自分である定義」として、
つまり、「自分である定義」は、「変化」が「連続性」として存在している時間に対する、
「自分の状態」を連続的にプロットしたようなものを「自分である定義」とする事になる。
つまり、その「変化」が存在する間の時間に「自分であった(重要:過去形)状態」を、
自分の連続性として記録したもの。
その「変化」に対して関連させて「定義」とし、
それぞれ、「変化」の連続性に対する「自分」の連続性を関連させて、
刺激や概感を構成する。
そして、その刺激や概感の認識や想起においては、
結果的に知能が「意識」するために、
刺激の連続性から、認識の連続性、
概感の連続性から、想起の連続性に繋がり、
それらをまとめると、知能にとっては、事象の連続性、つまり、
事象の「再構成の連続性」が重要になる、
という事になる。
つまり、
「意識」は、「事象の再構成の連続性」にあると言える事になる。
------------------------------------------------------
新規の「自分である定義」の定義について:
「自分である定義」は、新規の事象としての刺激の受容に対しては、
まだ「自分である定義」が存在しないため、想起対象も存在しない事になる。
この場合、最初に「自分である定義」として定義されるのは、
ある事象に対する刺激の認識がそのまま概感の定義として記憶されることになる。
つまり、以前考えた、刺激そのものも後天的に経験される事になるのではないか?と考えた感じの考え方で、
この時の自分としての定義は、この刺激の認識に対する自分の身体性が、そのまま、
自分の状態として記憶される事になると考えられる。
つまり、刺激の受容に対する「自分の状態」の変化、連続性が、
新たな事象に対する自分であった、自分である定義として記憶されることになる。
つまり、次に同じ事象が刺激として認識された場合、想起は、
この最初に経験した時の自分の定義が想起の自己情報として再構成されることになる。
2回目以降の「自分である定義」の定義について:
ただし、通常、自然法則の事象であっても、恐らく全ての事象が、
前回に起こった事象とまったく同じ事象である事はあり得ない。
この場合、この事象として構成される、例えば刺激であった場合は、
必ずその認識に違いが生じている事になる。
もちろん、この刺激に対する想起も同様であり、身体内外において、
何らかの違いがあると考えられる。
この場合、「自分である定義」は、この2回目の同様の刺激の受容に対しては、
初回の「自分である定義」を自己情報として補完し再構成する事になるはずだが、
これとは別の差異に対して、新たな「自分である定義」として経験、記憶する事になる。
つまり、ある事象は、自分にとって同じような事象として感じられるのだが、
実際は、都度、「自分である定義」は関連する定義が増えていく事になる。
(神経細胞の生体としての関連の限界は強化と忘却について各自で調べてください)
つまり、ある事象に対する「自分である定義」はその事象の認識毎に都度、
変更があり、より明確な「自分である定義」になっていく。
------------------------------------------------------
これに関して、自由意志の存在を考えると、
そもそも「知らない事は選べない」わけであるから、
各個体が持つ自由は、各個体で持つ定義が異なるわけであるから、
既に定義の有無によって制限を受けている事になる。
そして、自由意志は、本能ではなく、想起(思考)による選択であるはずなのだが、
想起は上記の定義により、自分が経験した事のある事象の経験の連続性の補完なしには、
概感が構成できないため、ある「選択」の事象を認識した際に、
想起できる概感は自分が再構成の出来る範囲で「自由」ではあるのだが、
その再構成に用いる事の出来る定義は、
自分が以前経験した事のある事象に対して、
再構成した自己情報としての、「自分である定義」
つまり、ある事象に対する「自分であった状態」を「自分である定義」として励起して再構成する。
以前、この刺激や概感の再構成において、
自己情報として補完されるこの、自己情報に、目的として、
自分の向かうべき方向づけを行う事の出来る定義、ベクトルが存在するのではないかと考えたが、
この自由意志となる想起される概感において、
概感を構成する自己情報が、過去に経験した「自分であった定義」の累積として、
「自分の定義」が構成されるとすれば、
自分では「自由意志」であると感じている、この想起した概感は、
同様の事象に対して自分であった経験から、現在の自分の状態に対して補正をかけた事象として、
再構成したものを、自分の選択として想起し、
この想起は、その概感に自分が向かうべき方向づけが含まれるので、
自ら選択した何かであるように感じるのではないか。という事になる。
これは、つまり、知能における「自由意志」の「自由」である領域は、
過去の自分の経験との「差異」の部分、
つまり、過去に経験した同様の事象と、今対面している事象に対する違いの部分、「差異」に対して、
今、自分が補完して再構成できる定義の部分においてのみ、「自由」である、という事になる。
それは、つまり、過去の「自分であった定義」にない、
今の「自分である定義」において、定義を補完することのできる余地という事になる。
もちろん、定義を補完できるような他の経験がなければ、当然、
単に先天的定義の自分の状態が補完されるだけであり、
これは自由意志では無い事になる。
つまり、この「差異」に対して、過去の経験の定義をそのまま用いる場合か、
新たな「自分の定義」として何か別の経験ある定義を用いる場合が、
自由意志の「自由」の部分である。
つまり、自由意志の自由は、
自分が経験として持つ記憶か、または、この事象に対して、
自分が新たに定義できる「自分である定義」が存在する場合においてのみ、
この事象に対して「自由」である、という事になる。
つまり、もちろん、経験としての記憶があっても、これを補完して再構成するしか想起できなければ、
そこには「自由」はない、という事になる。
当然、経験に対して「行わない選択」ができる場合は、新たな「自分である定義」の定義の余地がある事になる。
つまり、自由意志として自らが「選択」する感じを体感する場合というのは、
同様の経験を過去にした事があり、かつ、
現在、この経験以外の「自分である定義」の新たな関連を定義する余地がある場合、
という事になる。
そして、「自分である定義」の「新たな関連を定義する余地」は、
完全に新規の定義ではなく、別の事象において、「自分である定義」としての定義で、
経験として保有する「自分である定義」のみ関連の対象に出来るという事になる。
------------------------------------------------------
2025/4/6
今日は考えが少し行き詰ってきたので、
後天的定義の基礎から考え直すことにした。
自然の構成がシンプルである事。
後天的定義も先天的定義も、その事象の再構成では二面性を持つ事。
刺激も概感も、その事象としての存在は連続性を持つ事。
先天的定義が、刺激を構成する為の定義であるなら、
後天的定義は、概感を構成する為の定義という事。
刺激が変化情報と自己情報から構成されるという事なら、
概感も変化情報と自己情報から構成されるという事。
概感を構成する為の想起は、恐らく刺激がきっかけになっているという事。
想起した概感が、経験についての情報のの再構成体であるなら、
刺激を変化とした、過去の経験における自分に対する状態が自己情報として補完されるという事。
概感の変化情報が刺激で補完されるなら、
概感の自己情報は「もっともらしい自分の反応の結果」に対する定義である事。
------------------------------------------------------
概感の想起のきっかけが刺激でない場合の考察:
一応、概感のきっかけが刺激でない可能性も考えると、
それでも神経細胞を用いた定義の構成や利用を考えると、
きっかけとなる情報と、それを受け止める二面性の相対する情報が必要になるはず。
神経細胞を用いた事象の構成は情報の二面性から成り立つので、
概感も例外ではないはず。
想起のきっかけについて刺激以外の可能性を考えると、
想起は記憶した経験としての情報の連続性を、
今の瞬間に再構成して想起する事になるが、
想起そのものが、認識に相当する機能であるとして、
変化と自己の情報を必要とするのであれば、
刺激に代わる何らかの変化の情報が必要になる。
この場合、刺激そのもの以外で脳内に存在し、
変化として用いることが出来そうなのは、
自然法則の先天的定義でなければ、
自己の身体性の先天的定義という事になる。
つまり、過去に経験した自己の身体性の変化の連続性の記憶、という事になる。
想起が刺激ではなく、自己の身体性の変化の連続性をきっかけとするものであると考えると、
刺激を認識した後に、その認識に際して再構成された自己情報をきっかけとして、
その自己情報の連続性に対して「想起」が行われることになる。
つまり、過去に経験した自分の状態変化をきっかけとして、
これに関連した経験の記憶が「想起」されることになる。
つまり、
刺激の変化情報をきっかけとするか、
刺激の自己情報をきっかけとするか、
という違いになるが、
他に想起のきっかけになりそうな情報はもともと先天的には脳内に存在しないが、
他の可能性としては後天的な経験そのものをきっかけとして想起が起こるという場合は考えうる。
ただし、経験の情報としての構成も、
刺激の実体験としての経験であるので、
刺激を構成する情報の要素のいづれか、変化情報か自己情報、またはその両方を対象として、
きっかけにするしかない、という事になる。
経験全体をきっかけにする可能性というのも考えられるが、
想起が正確な記憶に対する再構成でなく、
身体性が欠如するなどの、
かなり大雑把な情報をきっかけとした再構成であると体感的に感じられるので、
経験全体をきっかけにしているというよりも、
恐らく何か、重要な要素としての情報をきっかけとしているという考えに至る。
それに、経験全体をきっかけにする場合は、
その初期において、関連できる対象が無い事になる。
つまり、生誕時に後天的に経験する事象に対して、
あえて関連が可能な対象が「刺激」のみという事になってしまう。
つまり、経験に対して想起できる対象が刺激、というのは、少しおかしい気がする。
つまり、想起すると刺激が関連して想起される事になってしまう。
つまり、想起すると変化が自己と再構成されるこの場合の自己の情報は、
先天的定義であるから刺激の自己情報、つまり、身体性という事になる。
となると、やはり、
想起のきっかけとして用いることが出来るのは、
脳内である程度、その定義が確立しており、
明確な情報を構成できるものとなると、先天的定義以外には、
その根本的な情報の定義は無い事になる。
一応先入観の入り込む余地をできるだけ排除して考えたのだが、
知能内、脳内、ソフトとハードの両方において、
かつ、先天的、後天的に保有する情報や定義において、
想起で用いる事の出来る対象や二面性の相対する情報は、
限られていて、
さらに、想起のきっかけとなると、
元々刺激の受容に対して想起されるものであり、
想起される概感には身体性が無い、ということを考えると、
その想起のきっかけは、
変化情報そのものの連続性か、自己情報としての自己の状態の連続性、
つまり、認識の連続性に対する記憶、つまり、意識に対する記憶に含まれる、
変化か自己に対する関連した情報の再構成という事になる。
つまり、多少想起のきっかけの意味が拡張できたとすれば、
刺激の変化情報の連続性か、
刺激の自己情報の連続性を、
想起のきっかけとして用いているのかもしれない、という事になる。
事象そのものが元々「点」ではなく、「変化」を含めた「線」の考え方からすると、
まあ、納得、という事になる。
つまり、刺激の認識における連続性、
つまり、刺激に対する意識に対して、
想起が起こり、その過去の経験が事象として想起されるという事になる。
そして、この場合の想起は連続性を持つ、
つまり、想起に対する連続性、
つまり、想起に対する意識が生じている事になる。
これは前に考えた、
刺激に対する意識と、
想起に対する意識の、
意識の事象としての二面性という事になる。
つまり、「意識の存在」は、
刺激を認識しているか、
概感を想起しているか、
そのどちらかの連続性の上に成り立ち、意識が存在するという事になる。
つまり、
「認識か想起の連続性の上に意識が成り立つ」
、という事になる。
で、改めて概感となる想起のきっかけは何であるか?
という問いの答えになるが、
今、ふと右手の親指の先が洗い物の後でカサカサしているのを人差し指とこすれた事で気づき、
少しカサカサを確認した後で、ハンドクリームを塗ろうと思い、
実際にハンドクリームを塗ってきた。
そして思うのは、
きっかけは刺激であると思うのだが、
きっかけが何であれ、その想起において重要なのは、
想起される自身の状態と、その連続性であるという事。
つまり、カサカサの指先を感じる事、否定的な状態を回復しようと考える事、
実際の行動の実行、その後の回復した状態を確認する事、
各事象としてのきっかけや想起、その目的や実体の活動、一連の行動において、
それらは全ての事象それぞれに関連があり、
きっかけから想起があり、想起は目的や行動を構成し、
実行と結果を必要として、結果は次のきっかけになっている。
つまり、不断ない連続性の上に刺激も概感も構成されているという事。
これは認識や想起の連続性による意識の連続性ということにもなるが、
認識が自然法則の事象の連続性における「変化」であるのなら、
概感が想起の連続性において、何をきっかけとしているのかと考えると、
そこにあるのは、「刺激の連続性」になるのではないか、という事になる。
つまり、「刺激の連続性」は認識の連続性ということではなく、
身体が感覚器官の受容体において不断なく受容している変化情報に対して、
知能が、先天的定義を用いて刺激を、これもまた不断なく再構成している事、
この不断なき刺激の再構成に対して「概感の連続性」も生じているのではないか、
という事になる。
つまり、断続的に刺激を再構成したり、概感を再構成して、
知能はこれらを対象として切り替えながら認識や想起を行い、
連続性を維持しているのではなく、
刺激も概感も、もとからその再構成は連続的に行われていて、
その再構成された刺激や概感に対して、知能は対象を切り替えながら、
刺激を認識したり、概感を想起したり、しているように感じているのではないか、というわけである。
つまり、
・・・→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→・・・
・・・・↑認識↑認識↑認識↓想起↓想起↓想起・・・=意識
・・・→概感→概感→概感→概感→概感→概感→・・・
これを担っているのは知能であり、
この認識と想起を切り替えているのが「知能による観測」
つまり、連続的に刺激と概感が再構成されて、
「再構成の場」に次々と構成される刺激と概感に対して、
知能は「意識的」にではなく、単に「刺激量の多い」対象を半自動的にピックアップして、
それが「知能による観測」であり、対象によって認識や想起が起こっている事になっているのではないか、
というわけである。
つまり、概感となる想起のきっかけは何であるか?
の答えは、あくまで連続性の開始時は「刺激」がきっかけであると言えるのだが、
刺激も概感も断続的に構成されているのではなく、
刺激も概感も、その「入力と関連する定義が存在する場合」は、
「連続的に再構成が行われている」のではないかという事になる。
つまり、一度連続性が生じた後は、この連続性が止まるまで、
刺激も概感も定義と関連が存在する限り連続的に行われていて、
上記の図をもう少し詳しく書くと、
・・・→変化→変化→変化→変化→変化→変化→・・・
・・・・↓受容↓受容↓受容↓受容↓受容↓受容↓・・・
・・・・再構成↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓・・・
・・・→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→刺激→・・・
・・・・再構成↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓・・・=後天的定義(経験)が存在する場合
・・・→概感→概感→概感→概感→概感→概感→・・・
・・・知能の観測↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓・・・=刺激か概感の選択
・・・・↓認識↓認識↓認識↓想起↓想起↓想起・・・
・・・→意識→→→→→→→→→→→→→→→→・・・
こういうことになる。
では、覚醒時以外の、
睡眠時や気絶時の刺激や概感についてはどうなるか?
という疑問が生じるが、
私の経験として気絶した事が無いので気絶時については分からないが、
睡眠時の暑さで悪夢を見ることがある事を考えると、
睡眠時も基本的に変化の受容に対して刺激の再構成や概感の再構成は行っていると考えられる。
ただし、睡眠時の認識や想起が、覚醒時の認識や想起と異なるのは、
夢の中で自分が自分であると分かっているが、覚醒時の自分ではない自分であったりする事を考えると、
特に睡眠時の「知能の観測」において、「認識」に対してはかなりの制限がかかっていて、
夢を見ないと言われるノンレム睡眠時には、認識にも想起にも制限が大きく、
夢を見る事があるレム睡眠時には、
認識は制限が大きいが、想起には制限が緩くなるのではないかと考えられる。
ただし、認識が制限を受けているにもかかわらず、
夢においては概感が連続性を持っている事を考えると、
概感をきっかけとした概感の想起という事も考えられる事になる。
これについては以前考えて書いたような記憶もあるが、
概感の構成要素である後天的定義として用いられる定義の根本にあるのは、
先天的定義であり、この先天的定義を組み合わせた物が後天的定義であるという事。
つまり、概感の想起において、刺激の認識の様に完全な事象の再構成体が構成されるわけではないが、
概感の想起において、身体性を補完した事象ではないが、
概感においても、先天的定義の変化情報の定義を用いた自分の経験としての事象が再構成される事で、
この概感から概感への連続性が維持されるのではないか、という事である。
つまり、概感となる想起のきっかけは何であるか?
の所にまた戻ってくると、
概感となる想起のきっかけは「刺激」である。と言える。
ただし、正確には、
概感となる想起のきっかけは「先天的定義の変化情報の連続性」である。という事になる。
つまり、刺激や概感が「点」ではなく「線」であるという考え方は、
中心的な情報は変化情報であり、「変化情報の連続性」であり、
この「変化情報の連続性」に対して、知能は自己情報である自分の状態の情報を補完して、
刺激や概感を構成すると考えられる事になる。
つまり、「変化情報の連続性」に対して、
身体性をもって体感するのが刺激であり、
過去の記憶から仮想的に再構成して想起するのが概感である、
という事になる。
もちろん、刺激から概感を想起する事も、
概感から概感を想起することもありえる、という事になる。
つまり、知能が何のために機能をもって活動しているのか?
という根本的な問いに対して、
知能を持つ自分が、変化を知り、変化に対して自分が何をしたら良いのかを決める機能が、
「知能」であり、
変化を知る方法が刺激の認識、
変化に対して自分が何をしたら良いのかを決めるのが、
先天的に持つ機能が先天的定義、
後天的に変化を可塑的に持つことが出来るのが後天的定義、
そして、その変化の全てのきっかけとなる情報は、
「変化情報の連続性」という事になる。
「変化情報の連続性」は、身体が感覚器官の受容体で受容すれば、
先天的定義によって刺激が再構成され認識される。
同時に「変化情報の連続性」は、概感を構成するきっかけにもなり、
この「変化情報の連続性」を元にした刺激を変化として、
経験となる後天的な定義を構成する事になる。
そして、この後天的な定義は、つまり、
先天的定義の変化情報と基底の部分を共通として、
先天的な定義から構成される事象を刺激、
後天的な定義から構成される事象を概感、
として再構成する事になる。
つまり、これまでは
先天的定義の変化情報
↓
刺激の変化情報
として考えてきたが、
先天的定義の変化情報
↓
刺激の変化情報+概感の変化情報
であり、
先天的定義の変化情報
↓
刺激の変化情報
先天的定義の変化情報
↓
概感の変化情報
「先天的定義の変化情報」は、
刺激と概感の同じ基底となる変化情報なのではないか、
という事になる。
つまり、先天的定義の変化情報に対して、
基本的には刺激を再構成するルートが励起されるが、
後天的定義が存在すると概感を再構成するルートも励起されるという事になる。
つまり、定義の存在次第で、ある先天的定義の変化情報に対して様々なルートの事象が再構成されるという事になる。
つまり、概感で身体性が無いのは、
先天的定義として変化情報に対する関連が身体性の定義でない事、
ここに理由があるのではないか、という事になる。
------------------------------------------------------
2025/4/7
概感の基本構成について:
少し考えが行き詰っているので、
概感の基本構成から少し考え直してみる。
(以降少し「構成」と「再構成」が少し多用されるが、
構成は組成として、
再構成はその作業の工程として書いている)
昨日までの新しい考え方であると、
概感は、刺激の構成と同様に、
変化情報を受容した後に、
刺激が再構成されるのと並行して、
この変化情報に対して関連した経験が存在した場合に、
概感が再構成される、という事であった。
つまり、想起は、刺激が先にあって、
その関連として構成されるものではなく、
刺激の構成と並行して概感が再構成されるというものであった。
この場合の利点は、今気づいたが、刺激の認識か、概感の想起の、
どちらを意識するのかという、その選択が、
再構成に続いて連続してすぐに行えるという点がある。
つまり、刺激を構成して、その刺激に関連した概感を構成して、
意識する対象を選択するのではなく、
刺激と概感の再構成の結果として、意識する対象を構成に続いてすぐに行えるという事になる。
で、この考え方を加味して、
概感の基本構成について考えてみると、
事象が、存在として確定する為には、
何らかの二面性が必要になる。
そして、この二面性に加えて事象の実体が1つ必要になる。
つまり、事象に対してある面2つを二面性とした時、
ある面:(事象):ある面
このような形で事象が存在するという事になる。
この二面性は、事象とある面毎に境界を持ち、
この境界は情報か物理的な実体から成る。
これは自然界において「何かが存在する」こと自体を説明する事になると考えられる。
それが物理的実体でも、現象でも、情報であってもである。
つまり、自然界を構成する根本的な定義は、
その自然界の中の存在に対して二面性で構成されるという考え方になる。
つまり、私はこの考え方を元にして自然界に存在する事象を考えているという事になる。
例えそれが時空であっても宇宙の大規模構造であっても、生命も、知能も、素粒子でも、
という事になる。
まあ、それが正しいか間違っているかを確かめる術は無いが、
一応、今の私の考え方の限界だと思ってもらってもらいたい。
で、この考え方を元に、概感の基本構成を考えると、
先に挙げた、刺激の再構成と並行して概感も再構成されるという事について見ると、
概感の一面は刺激と同様に「変化情報」であるという事になる。
この場合は、刺激と同じ「変化情報」を一面としている事になる。
そして、意識が選択対象として刺激か概感から選ばれる事を考えると、
意識の二面性としては、
刺激:(意識):概感
こういうことになる。
(つまり、刺激だけで活動するのであれば、本能だけで活動する生命と同じになる。
意識はあるが、自我意識はないであろう、という事になる。)
また、知能内において、事象の存在が「点」ではなく「線」であるという考え方から、
少なくとも刺激や概感は、ある一定時間、知能内に事象として構成されるはず、という事になる。
これについては今日気づいたが、恐らく知能には最低限事象として存在する対象を、
認識か想起するために必要な「連続性」である期間・時間が必要で、
これは生体としての機能の限界になると思うのだが、
生体として認識か想起には存在を確定するために必要な、
時間の「連続性」がある、必要になるという事になる。
そして、この時、
刺激は「変化情報」に対して「自己情報」としての「身体性」が、
先天的定義として定義されていて、
この定義から刺激を再構成している事になる。
この場合の刺激の二面性は、
変化情報:(刺激):自己情報(身体性)
であり、この定義が「先天的定義」という事になる。
これを踏まえて概感について考えると、
概感も変化情報は刺激と共通するので、
概感の二面性について考えると、
変化情報:(概感):?
という事になる。
この「?」については、前回の419から考えている事で、
一応名目としては、「後天的定義の自己情報」という事になる。
ただ、刺激の様に、変化の存在を展開して解釈できるような「面」が分からない。
刺激は、変化情報を感覚器官の受容体で「接触」して受容して、
「刺激」という事象においては、その変化情報は、身体性が、
相対する「面」として構成されていて、それ自体を「認識」して、
自分でもそれが理解できる。
ただ、概感の場合は、この変化情報を受け止めている「面」が分からない。
想起した事象は、見えているし、理解もできるのだが、
何が明確な「面」として構成されているのかが分からない。
「再構成の場」「先天的定義の自己情報の組み合わせ」がそれに相当するのかとも考えてはいるが、
身体性の様に明確ではない。
ただ、知能が観測できているわけであるし、意識もできる、
という事を考えると、何かが「ある」というのは間違いないはずである。
知能を構成する要素としては、
物理的な脳としての各器官、大脳や小脳など、
大脳皮質、脳下垂体、海馬、視床下部、
神経細胞や神経細胞ネットワーク、グリア細胞、シナプス、
ホルモンや神経伝達物質、
仮想的には先天的定義と後天的定義、認識、想起、意識、
再構成の場、
このようなものである。
概感が事象として再構成される場合に、
変化情報を一面として、何が相対する面であれば構成できるのか、と考えると、
どうしても想起や意識が出来ると考えると、
「自分」に関係する何かである必要はありそう、という事になる。
つまり、「知能が観測」できる対象であるには、
脳内に、知能内に存在する事象として構成される必要がある、という事になる。
では、脳内、知能内にあって、自分に関係する何か、という事になると、
結局「自己情報」としての何らかの形態を持つ情報であろう、という事になる。
刺激と同じ先天的定義の身体性であると、想起した概感は、
実体の身体上に現れる事象のように「想起」されることになってしまうので、
通常は、それが無いと考えると、先天的定義の身体性とは少し違うものという事になる。
想起が経験した事象に対して起こるものであれば、
上記の「先天的定義の自己情報の組み合わせ」も候補に挙がるが、
現時点ではそれが答えかどうかはまだ判断がつかない。
先入観を捨てて、何か新たな存在についても考えてみれば、
つまりは「概感の自己情報」であって、「実体の無い自己」であり、
「身体性ではない自己」
(今すごく脳が活動している感じがする。)
(新たな関連を作ろうとしている。)
つまり、事象として「変化情報を展開する場」という事になる。
刺激が身体性の存在を必要とするように、
概感も何か場を必要とする。
想起の後天的定義の関連、自己情報の関連、
新たな自己情報としての自己情報の関連、
つまり、後天的に定義した自己情報の関連が概感の自己情報として用いられている。
つまり、刺激の変化情報の様に、
概感の変化情報が先天的定義の変化情報の定義の組み合わせであるのだから、
概感の自己情報は先天的定義の自己情報の定義の組み合わせで出来ている。
自己情報の定義の組み合わせが身体性として感じられないのは?
元々先天的定義の身体性の定義が身体の存在に直結であるのに対して、
後天的定義があくまで「関連」であるから?
ただ、関連の励起をした後には先天的定義の身体性も励起されるのでは?
脳の機能的・物理的な制限?
刺激と概感の励起のルートが違うから?
身体性を組み合わせると仮想的になる?
定義の階層か。
つまり、神経細胞ネットワークが再帰で構成されていないから、
関連が経由はできても同じルートは辿れないという事。
つまり、先天的定義として変化情報に定義として関連しているのが身体性の自己情報ではあるが、
後天的定義が先天的定義の変化情報をその基底に共通して持っているとはいえ、
その関連は先天的定義の自己情報ではなく、一度後天的定義を通して、
結果的に身体性の自己情報に関連しているから、
後天的に得る経験の関連としての定義は、先天的定義の刺激とは別のルートを使って、
概感を構成しているから、先天的定義の認識できる刺激とは違って、
刺激と並行した存在としての概感を構成する事になるから、
意識が刺激か概感のどちらかしか意識できないから、
概感の場合は事象が何かどこかを経由したような存在になって、
直接身体性が感じられない、という事になる。
この辺りが明示的に正確な刺激が想起されない理由という事になる。
つまり、後天的定義が、あくまで先天的定義で定義されていない事象について、
後天的に得る事の出来る定義としての「定義」であるなら、
元々使用できる定義というのは先天的定義で用いている定義ではあるのだが、
その定義自体の構成方法や再構成方法が異なるから、
同じ様に再構成できず、刺激ではなく概感に、認識ではなく想起になる、
という事になる。
基本的にはあり得ないという事になるが、
もし後天的定義が先天的定義の事象よりも強力な事象の定義を構成出来たとしたら、
ある変化に対して刺激よりも想起が優先されて意識されるという事も考えられる。
となると、このケースは睡眠時の夢を見る事と似ている事になる。
つまり、睡眠時に定義が後天的定義が強固になるというわけではないが、
刺激の認識を制限している事になると、当然概感や想起は、
そもそも後天的な定義であるので、もしかしたら制限の対象に含まれにくいのではないか、
という事になる。
つまり、睡眠時は刺激の認識は制限しているが、概感の想起が制限から外れているか、
外れやすい、そのために夢を見る事になるのではないか、という事になる。
------------------------------------------------------
2025/4/8
刺激と概感がそのきっかけを同じものとするなら、
では、刺激と概感の認識と想起の優先度はどうなるのか?という疑問が生じるが、
今日考えていたのは、物理的な関連の接続と、再構成の手間、
つまり、先天的定義は固定された定義であり、その再構成は決まっている。
一方後天的定義は、元々存在しない定義を後天的に定義したものであり、
また、その関連は確定したものではなく、関連毎にその接続も強度もまちまちという事になる。
そのために、想起で再構成をしようとした事象が、
その出力においてすぐには確定的な事象として構成できず、
少し完成までの間が必要になるのではないかと考えられる。
これは、体感として、刺激の認識は即座な感じがするが、
概感を想起した場合に、少しワンテンポ遅れるような感じがする事から気づいて考えた。
つまり、刺激は明確な定義で刺激が構成されるが、
概感の構成は様々な情報への関連が存在し、この構成が想起に至るまでに、
時間としての手間がかかるのではないかと考えられる。
そして、ここで少し疑問が生じるのは、
では、想起を意識的に行っていると感じる時の、
刺激に対する概感の優先度はどのようにして決まっているのか?
という事である。
つまり、通常は、ある変化情報に対して恐らく優先的に刺激の刺激量が大きい状態で構成され、
概感は刺激よりも刺激量が多いとは考えづらい。
それでも、概感が想起の対象として刺激よりも優先されることがあるという理由が何か存在するはず、
という事になる。
------------------------------------------------------
2025/4/11
基本的に刺激が先天的定義を用いて自動的に再構成されるのと並行して、
後天的定義によって概感が想起される。
変化→先天的定義・入力→変化情報→先天的定義・出力→刺激→認識
変化→先天的定義・入力→変化情報→後天的定義・出力→概感→想起
認識と想起においては、基本的に再構成される刺激量として刺激が優先されやすい。
(「刺激量」は誤解しやすい言葉なので後で「情報量」などに用語を変更する必要がある)
認識>想起
ここで、どうにかすると想起が優先される何かが加わる事になる。
刺激<(概感+?)
先天的定義が固定化されたものであるから、
ありえるのは可塑性を持つ「後天的定義・出力」。
つまり、ある事象に対して経験した自分が、
その事象に対して自分の反応として定義したもの、
という事になる。
つまり、恐らく、
刺激<(概感+後天的定義・出力)
になるのではないか、という事になる。
この場合、
概感にはもともと後天的定義・出力は含まれているので、
結果的に言えば、
刺激<(概感+後天的定義・出力)
は
入力の「先天的定義・入力」は共通するわけだから、
「先天的定義・入力+先天的定義・出力」と「先天的定義・入力+後天的定義・出力」
の比較という事になり、共通する先天的定義・入力を取り除くと、
「先天的定義・出力」「後天的定義・出力」
の比較という事になる。
つまり、刺激か概感において、
どちらの反応を強く再構成して認識か想起をするべきかは、
「先天的定義の出力である身体性」と、「後天的定義・出力である経験した自己の状態の定義」、
この比較になるという事である。
ということは、一般的に「意識的に何かを行う」という自由意志で行う自分の行動は、
この考察においては、想起の場合の、後天的定義・出力である経験した事のある自己の過去の状態の記憶が、
この「意識的に何かを行う」際の決定権を持っている事になる。
つまり、今私が考えているのは、過去の私が今のような状況や状態において、
考えていた事があり、これを情報量の大きい定義として保有していたから、
今、私はそれを優先的に再構成して想起し、「考えている」という事になる。
先天的定義を持つ事象に対して刺激が知能の関与を受けずに再構成されるのであれば、
後天的定義である事象に対して概感が知能の関与を受けずに再構成される可能性が「ある」事になる。
つまり、概感においても、定義が構成されると知能の関与を受けずに概感の再構成が起こりうると、
考えることが出来る。
つまり、ということは、刺激も概感も知能の関与なしに再構成されるかもしれない、という事になる。
つまり、定義のあるなしを前後と考えた場合、
知能の活動を定義するまでを前工程、認識や想起を後行程とすると、
知能の活動の後行程においては、自由意志の完全な否定になる。
逆に考えれば、知能が定義そのものを構成する所に自由意志が関与できる可能性がある、
という事になる。
後天的定義となる定義の構成は、神経細胞の可塑性を持つシナプス形成という事になるが、
これは意志をもって、自らが構成するものではない。
出来るとすれば、意識的に出来るのは、
経験した刺激を強く何度も想起する事で、シナプス形成に有利となるように、
励起した経路を何度も励起する事、という事になる。
記憶の強化に似ているが、定義の構成前ではまたシナプス形成が行われていないので、
この場合、恐らく大脳皮質以外の海馬や間脳などの神経細胞を何度も励起する事が、
自由意志の関与できる範疇ということになる。
自由意志の観測者としての知能という視点を考えると、
この事自体も、過去の経験を定義して、この定義から想起されたものになる、
という事になる。
が、これが未定義の新規の定義の構成の場合においては、
用いる事の出来る定義からどれを関連させる事にするのか、
これだけは知能の各個固有の定義とすることが出来る。
ただし、知能にとっての自由であるが、
自己に対しての選択の自由ではない、という事になる。
つまり、個体としての自身の自由ではあるが、
自我意識にとっての自由ではない、という事になる。
つまり、個体の存在にとっての自由ではあるが、
定義された結果としての「自己」にとっては「自由であった再現」に過ぎないという事になる。
二面性で言うと、自由意志は固有の事象ではなく、
自己を構成する要素である「可能性」という事だけであって、
知能を定義の二面性で考えた場合、
先天的定義:(知能の定義):後天的定義
こういうことになり、
それぞれから構成されるのが、
刺激:(知能の機能):概感
であれば、その連続性は
認識:(知能):想起
であり、
認識の意識:(知能の意識):想起の意識
であり、自由意志が感じられるのが、想起の意識内であるわけだから、
認識の意識の選択:(知能の意識の選択):想起の意識の選択
となり、
認識の選択:(知能の選択):想起の選択
となり、想起の選択は自分が思う選択ということであり、
これが自由意志であると感じられるわけであるが、
これは、つまり、知能の選択にとって、自由意志はある一面であるというだけであり、
単独で存在できる事象ではないという事になる。
つまり、概感を選択して想起することが出来ない限り、
自由意志は存在しない事になる。
想起は自由意志で行っているのか?という事になるが、
想起は先天的定義の入力をきっかけとしているという考えであるから、
いずれにしても、想起に自由意志は介在していないという事になる。
何とかして自由意志を事象として存在できないか考えてみると、
?:自由意志:?
こういう二面性が必要になるが、
自由意志が何か自由な選択を行える機能であるとすると、
事象:(自由意志):新規の定義
何とかこのようには書けることになる。
これが自己や個体、知能にとっての、という意味が含まれると、
知能の事象:(知能の自由意志):知能の新規の定義
知能の事象はまあ、その通りの意味であり、
知能の自由意志も、その通りの意味になるが、
知能の新規の定義というのは、これは「後天的定義」という事になる。
これは自己の新規の定義としても個体の新規の定義であっても、
結局は後天的定義という事になる。
つまり、知能の自由意志は後天的定義に相対する何かに対して事象として存在しうるが、
知能の事象は何であるかという事になると、刺激か概感しかない事になる。
つまり、
刺激:(知能の自由意志):知能の新規の定義
概感:(知能の自由意志):知能の新規の定義
刺激に対する知能の新規の定義か、
概感に対する知能の新規の定義という事になるが、
刺激に対する定義は後天的定義ではなく先天的定義なので成り立たない。
概感に対する定義は後天的定義そのものなので、
知能の自由意志は、概感と後天的定義の間には成り立つ事になる。
では、概感と後天的定義の間に存在するものは、という事になると、
定義を構成する実体、つまり、定義の関連としての「神経細胞ネットワーク」という事になる。
自由意志が神経細胞ネットワークの実体?という疑問が生じるが、
完全なる自由は存在しえないというのは前回考えたが、
有限の事象のなかで、固有の自由意志が神経細胞ネットワークにあるのであり、
これが意識的に構成する事はできないが、もし、自己の意志を介在させる可能性があるとすれば、
それは、この神経細胞ネットワークを構成する前の段階、
つまり、ある事象に対して神経細胞ネットワークの定義を構成する前段階における、
自己の「指向」についてであれば、後天的定義として定義される前の、
その定義に用いられる要素については自身の想起などにおいて、
繰り返し「指向」することで、その定義に対して関与できる「可能性」だけは生じる事になる。
つまり、正直、完全なる自由意志は、自身の思考や選択としては定義することは恐らくできないが、
自身の自己の意志の傾向として、その定義に用いられる可能性がどれだけになるかは、
現時点では不明だが、多く想起することで、その定義に用いられる可能性を高める事だけはできる、
という事になる。
つまり、自分の自由意志として定義される前に、その定義に用いられるであろう要素を多く強く想起することで、
定義に用いさせようとすることだけはできるだろう、という事である。
------------------------------------------------------
2025/4/13
定義の連続性と事象の存在の関係:
昨年末にNHKで放送した量子もつれについての番組をようやく数日前に見たのだが、
これまで量子もつれにより、例えばその関連しあう量子がどれだけ離れていても、
ある一方に起こった現象が、他方に影響するという認識だったが、
よくよくChatGPTに質問して調べてみると、
「量子もつれの状態にある2つの量子において、
ある瞬間に一方の量子の状態を観測で確定した場合、
同じ瞬間の他方の量子の状態は、
一方の量子の状態と固有の相関関係を持った状態で確定する」
、ということであり、
量子テレポーテーションにおいても、
実際に状態がテレポーテーションするわけではなく、
ユニタリ変換などにおいて確定的に2つの状態を関係づける事ができるというものだった。
そして、一応量子もつれ状態を維持できるような方法もあるらしいが、
通常は観測によって量子もつれの状態は解消してしまうということだった。
つまり、量子もつれ状態にある量子同士が、
一方の状態変化を他方に常に同期させるものではないという事だった。
一方の変化が量子もつれ状態の他方に影響するのはすごいと思いっていたのだが、
誤解だった。
量子もつれの状態は自壊的に変化しないけれど、
観測が連続性を持たない為に、観測時以外の状態が不定というだけで、
ある量子もつれの状態にある量子同士の状態が以降も一致するということで、
これは自然界の事象の定義としての真理か、自然界の上位の定義に従った同期ということになる。
つまり、この同期については、これ以上細分化や別の未定の状態で定義されない、
固有の同期状態になると思われる定義という事になる。
そして、この考え方は、今回の考察の連続性の部分に関係するのではないかと考えたのだが、
観測時以外の状態が不定であるというのは、知能においても同じなのだが、
もし、量子もつれを起こした量子同士を完全に連続的に観測できる方法があるとすれば、
その量子の状態は完全に同期していると考えられる。
つまり、観測時の結果は同期しているのだから、それがもし連続性を持っていた場合は、
その連続性の間も同期していると考えられる事になる。
そして、やや極論になるが、この考え方を参考にすると、
現実的に連続的に観測できない、観測時以外の間の状態は不定であるのだが、
知能における認識や想起、意識については恐らく疑似的ながら連続性を持っている(ように感じられる)。
恐らく入力に対する出力が、完全に連続性を持っていないのは自然界の定義の下位の存在である生命としては、
致し方ないのであるが、その観測の断続面が逆に観測できないという利点を用いて、
生命の知能は連続性を疑似的に構成出来ているのではないか、という事になる。
つまり、考え方はパラパラ漫画と一緒なのだが、
逆に言えば、その不定である状態の存在は、状態は重ね合わせであっても、存在自体は保障されているはず、
という事になる。
つまり、もし状態そのものが無い、状態の存在確率が0の瞬間があると、
その瞬間、自然界のこの関連した全ての対象の存在も、
状態そのものが無ければ存在自体が確率0ということになってしまう。
つまり、知能は機構としては不連続性の物理的制限を持っているのだが、
意識においては疑似的に連続性を構成している。
そして、知能における事象の存在は、恐らく連続性を持っていると感じられる。
そして、ここからが肝なのだが、
刺激の認識が先天的定義によって知能の介在なしに構成されて、
結果としての刺激を認識しているのだが、
恐らく、この刺激の構成においても、定義としての入出力の間を繋ぐ関連は存在していて、
その励起の連続性の上に刺激が構成されていることになるわけだから、
刺激も連続性の上にあるだろう、と言える事になる。
当然、認識も連続性を持つ事になる。
これが概感の構成であっても、想起においてはその定義と入出力の間を繋ぐ関連が存在し、
その概感の構成における想起も連続性を持っている事になる。
当然、それらを観測する知能は、その連続性に対して意識を感じる事になり、
意識も連続性を持つ事になる。
そして、この概感の構成において、概感が連続性を持つという事は、
その構成時において、刺激と経験を関連には連続性を持つのではないか、という事になる。
つまり、概感の定義はピンで点を打つような構成ではなく、
ピンでひっかいて線を引くような構成になるのではないか、という事になる。
これは刺激においても同じだが、
神経細胞ネットワークが励起の連続性を持つ事が、
刺激や概感の連続性になっているのではないか、という事になる。
つまり、知能が観測できた時、その状態は確定するが、
刺激や概感の観測は、
その構成時の神経細胞ネットワークの活動は「関連」という連続性を持っていて、
その連続性の上に認識や想起をしているのではないか、という事になる。
つまり、認識した、想起した、と感じる時、その瞬間だけが認識や想起の結果ではなく、
認識した、想起した、と感じる前の不定の状態を含めた連続的な構成が、
本来の、認識した、想起した、という知能の観測になるのではないか、という事になる。
つまり、刺激において言えば、
変化情報として感覚器官の受容体が受容した変化は、
その刺激の再構成の連続性のなかで、変化が身体に接触したという情報として再構成されるのではないか、
という事になる。
概感について言えば、
入力としての刺激と共通する変化に対して、
新規の場合は、先天的定義に存在しない定義において、その変化の連続性が、定義として構成される、
後天的定義として経験の定義が存在すれば、その変化の連続性に対して励起が行われ、
連続性を持つ何らかの経験が情報として再構成されるのではないか、という事になる。
簡単な例で言えば、文字列の「りんご」が「りんご」であるのは、「ごんり」ではないから、という事になる。
つまり、「り」「ん」「ご」には連続性の関連の意味があり、「りん」だけでも「んご」だけでもなく、
「りんご」である関連の定義としての連続性があるという事になる。
そして、文字列の「りんご」によって音声や画像が想起されるように、
音声の「りんご」から想起される連続性や、
画像の「りんご」から想起される連続性は、それぞれ別に存在し、
それは関連の連続性の上に成り立つ事象として概感が構成されるという事になる。
これらの定義が別々に障害が起こった場合の例としては感覚性失認が考えられる事になる。
そして、さらに、物理的な身体や知能に対して感覚器官が、
連続性を持つ変化の受容によって変化情報を与え続ける場合、
刺激や概感は連続性の上に再構成され続ける事になる。
まあ、量子もつれと関連させて考える必要性はないのだが、
認識や想起、意識は別に非局在性を持っているのではなく、
あくまで知能内の局在性のなかに存在しているものであり、
そして、事象と定義の考え方からすると、量子もつれの状態も非局在性を持っているわけではなく、
自然界の定義としてある量子の状態が連続性の上に一致しているというだけで、
つまり、量子もつれが、
「量子もつれの状態にある2つの量子において、
ある瞬間に一方の量子の状態を観測で確定した場合、
同じ瞬間の他方の量子の状態は、
一方の量子の状態と固有の相関関係を持った状態で確定する」
という事であるのなら、
つまり、もし量子もつれが自然界において自壊的に変化しないのであれば、
どれだけこの2つの量子を離しても観測時に状態が一致するというのは、
2つの量子がどれだけ離れても観測時に状態が関連するということではなくて、
単に他の要因によって自壊しない状態が連続的に一致しているというだけで、
量子もつれの状態の構成を定義する条件は自然法則における定義の1つの「真理」であると言えるのではないか、
ということが言いたかっただけである。
------------------------------------------------------
2025/4/13-2025/4/14
概感の自己情報:
そして、再びここに戻るが、
概感の想起における自己情報に相当する出力は何であるかということになると、
先天的定義側の刺激の再構成ルートが最終的な出力が身体性であるように、
後天的定義側の概感の再構成ルートの最終的な出力にも身体性に相当する定義がある事になる。
これまで仮想的な「再構成の場」のようなものを充てて考えてきたが、
想起する場合に常に頭の中に空間があって、そこに概感があるように感じられるということは、
身体ではないが、その「再構成の場」が定義として仮想的ではなく、実際に定義が存在するのではないか、
という事になる。
正確に言うと「再構成の場」のような空間の定義があるのではなく、
定義の連続性の上に、その再構成された場が構成されるのではないか、
という事になる。
つまり、
指先に触れた感触の概感は、身体上には無いが、感触の定義を構成した経験時に、
その身体性に関連する位置に変化情報が存在した再現として、その指先を含めた情報として想起される。
音声の概感は、身体上の耳には存在しないが、音声を経験した際に定義した、
その身体性に関連する位置に変化情報が存在した再現として、その耳を含めた情報として想起される。
それは、思考や想像、創造においても同じ事になる。
つまり、実際には聞いていない音声を想像すると、身体上の耳で聞いてはいないが、
耳で聞いたように想起できる。
これは、先天的定義としての身体性の定義を、その関連の連続性として再構成した場合に、
身体性の定義ではなく、後天的な身体に関する定義を構成したものと考えられる。
つまり、指先の感触を想起した場合の自己情報は、「自分の指」という定義が割り当てられる。
これは、先天的定義の感覚としての身体性としての「自分の指」への接触の定義ではなく、
視覚の画像や、聴覚の音声など、先天的定義では存在していない定義としての「自分の指」の定義を
割り当てているという事になる。
つまり、
自分の右手の人差し指の先に何かが触れた感触を想起した場合、
そこにあるのは、目をつぶれば自分の指の画像とそこに接触している感触があるような概感であり、
自分の名を呼ぶ想像の音声は、音はしないが音や調子は既存の誰かの音声を用いたような概感となる。
つまり、元から持つ先天的定義の身体性ではない先天的定義を用いて、
「自分という存在」を再構成した情報なのではないか、という事になる。
つまり、刺激の再構成で先天的定義のルートは用いられるので、
それ以外の情報で想起は構成するしかない。
つまり、想起が「自分が行っている」ものであるとするには、
身体性に代わる「自分の定義」が必要となり、
これを、「自分」という後天的定義を構成する神経細胞ネットワークで代用しているのではないか、
ということになる。
つまり、刺激ににおける「自分」と、概感における「自分」は、
異なる神経細胞ネットワークの定義であり、
概感における「自分」の定義は、後天的に得た「自分」という存在に対する、
後天的に構成した定義である、という事になる。
概感の想起において言えば、
例えば画像が見えなくとも、その形状や色の定義は後天的に存在するので、
そこから「自分」が見ている様に再構成する。
音声は聞こえなくとも、音の波長や抑揚、声の質のような定義は後天的に存在するので、
そこから「自分」が聞いている様に再構成する。
つまり、「自分」の身体性が直接、見えている、聞こえている、のではなくて、
単に後天的な「自分」の定義による存在にとって、
画像が存在する、音声が存在する、というだけなので、
実際に、見えていない、聞こえていないが、存在するという感じだけはする事になる。
------------------------------------------------------
2025/4/14
概感の自分の定義:
上記の続きとなるが、
身体性ではない「自分」を、後天的に定義して、
想起時には、この「自分」を再構成することで、
身体性に代わる「自己情報」として用いているのではないか、
という事になる。
恐らく先天的定義の身体性の定義には、体感したと感じられるような定義が含まれ、
体感として身体がそこに在るような感覚の定義も含まれている。
これに対して後天的定義の自分の定義は、その事象の存在が「自分」であるという定義は含まれているが、
その「自分」の定義は、知能が後天的に自らの存在に対して「自分」であると定義したものなので、
その対象は身体だけである、というような制限はない。
つまり、後天的に身体が成長する自分に対して「自分」であるという定義は可塑性を持ち変化し、
考え方や、性格、実際の選択や思考、想像、そういった全ての想起の自分の定義に対して、
知能は後天的に定義を構成しているのではないか、という事になる。
恐らくだが、きっかけの励起を発動してから、
神経細胞ネットワークの励起は接続の段階的に励起されるのであるが、
この接続の関連は、ある事象に対して必要な情報の制限として、
情報量の上限か、間隔としての時間的制約、励起の回復などの制約によって、
1つの事象の再構成に対して範囲に制限があるのではないかと考えられる。
つまり、延々と関連の接続を構成出来れば、それだけ詳細な定義ができるのであるが、
生命にとっての活動においては文字通り「ある程度」の正確さを持つ事象が構成出来れば、
それで充分なのかもしれない。
今フレーム問題の事が思い浮かんだが、
生命の知能が、処理が終わらずに考え込んでしまうようなことが無いのは、
もともと完璧ではない情報に対して比較や選択ができるから、
という事になるのではないかと考えられる。
これは、逆に言えば、後天的定義の曖昧さにもなるのだが、
後天的に得た「自分」が成長しても、その定義が可塑性を持っているので、
後天的にさらに定義を変化させることが出来るというのは、
この曖昧さゆえの可塑性にあるのではないか、という事になる。
つまり、先天的定義の身体性のように、確固たる「自分」を定義してしまうと、
その後の「自分」は、その定義において変化することが出来ないという事になる。
生命が、変化する環境に対して、適時「適応」できるのは、
この知能における後天的な定義の曖昧さゆえの可塑性にある、という事になる。
この場合、確かに知能は適応に「間違う」事があるかもしれないが、
それも可塑性ゆえに修正や変更もできる、という事になる。
------------------------------------------------------
まとめ:
少し長くなってしまったので今回の要点をまとめると、
・概感の構成は、「刺激に対する」意識と経験の二面性から構成される。
つまり、認識の連続性から意識が構成されるということであれば、
刺激の連続性の連続性
概感は刺激を起点とすれば、刺激の連続性に対する、結果としての経験がそれぞれの面に備わる。
・意識は、刺激の連続性から意識になる場合と、概感の連続性から意識になる場合がある。
これは認識か想起、ある瞬間においてはどちらか一方のみ意識できるという事になる。
・「意識」は、「事象の再構成の連続性」にあると言える事になる。
事象の再構成として、刺激か概感が構成され、
その連続性において、認識や想起が行われ、
また、その連続性において意識が生じるという事。
・概感の自己情報が、後天的定義としての「自分」の定義であるという事。
これはまだ明確ではないが、先天的定義の身体性の「自己情報」の定義とは別に、
後天的定義の自己情報としての「自己の定義」があるのではないか、という事。
今回はこの辺で。
TOPに戻る