2025/1/3-2025/3/28
自分の定義と再構成の場
知能が、ある情報を事象として存在すると認識する場合、
脳内において、
定義として存在する、ある固有のまとまりを持つ神経細胞ネットワークが励起される必要がある。
つまり、ある情報が存在するという事は、
脳内でこの情報に対する固有の定義が励起される事により存在する事が確定する、
という事になる。
この場合、ある事象に対して決まった定義が存在して、
知能内に情報の入力があり、
その情報に対しての定義された出力があり、
この「入出力の定義」である神経細胞ネットワークが励起する事で、
情報は事象の二面性として脳内で構成されて、「存在」する事になる。
この「存在」は、
知能においては刺激であっても概感であっても、
ある定義が神経細胞のシナプス結合による関連によって成り立ち、
その神経細胞の関連が励起する事で、その事象が「存在」する事になる。
逆に言えば、
知能においては、
定義の存在しない事象は存在しない事と同じ意味、同義であり、
定義の無い事象は認識できない、存在しえないという事になる。
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2025/1/12
年始に強い人工知能の為の課題として考えた恒例の文章の中で、
「刺激の再構成の場」については今後、あまり活躍の場はないのではないかと考えたが、
それを書いた事を思い出して昨日の夜、改めて考えて思いついたのは、
人工知能が自我や意識を持つためには、
刺激の再構成の場としての「世界の存在」は不可欠になるのではないか、という事だった。
つまり、
知能にとって何かが存在するためには、定義、特に事象の情報としての定義が必要なのだが、
この定義については自分自身も含まれるという事になる。
当然、その自分が存在する為の世界も必要になるのだが、
では、その自分を含めた存在する世界はどこに存在するべきかと考えた時に、
定義から事象を構成する場、つまり「刺激の再構成の場」が思い当たったことになる。
そしてその事は、
以前人工知能を再現する場合、
何らかの仮想的な世界を用意して、そこに存在するアバターとして
まずは人工知能にとっての自分を再現したらよいのではないかと考えた事があったが、
実際に人工知能が自分を認識しようとした場合、
この仮想空間内に存在する事象を再現するというのは、
自分で自分を認識したり意識したりするのにはうってつけの方法となると考えられる。
つまり、世界や自分自身を「刺激の再構成の場」で知能が再構成し存在させるという事である。
人間の知能においても、実際に今見たり感じている世界というのは、
その事象は実体に直接触れたり見たりしているわけではなく、
脳内の定義による情報の再構成体として、情報ではあるが実体を見たり触れたりしていると感じている事である。
まあ対象は物理的に存在はしているであろうし、実際に物理的にも直接触れているのではあろうが、
その触れた「感触」というのは物理的な現象ではなく情報の再構成体である。
であれば、人工知能であっても、
人工知能を持つ個体が何かに触れたりしたとしても、
その触れた情報を構成するのは現実世界ではなく、
人工知能が構成した世界に、その触れた感触が存在するという事になる。
この方法は、
人工知能の身体が自分を自分の実体として認識する方法としても、
直接見たり感じたりする事を認識や意識とする方法としても良いのではないかというわけである。
実際、人間の知能も事象の認識を、情報を介して仮想的に再構成し認識したり意識したりしているのであれば、
人工知能も、認識したり意識したりしようとする事象は、
人工知能が仮想的に再現した世界に存在する事象であれば良いのではないか、
という事になる。
そして、その仮想的な存在の場としてふさわしいのは
「刺激の再構成の場」になるのではないかと考えたわけである。
そしてさらに、現在の考え方として補足して言えば、
「刺激の再構成の場」に概感を加えて認識の優先度について拡張すると「認識プール」の考え方になる。
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2025/1/12-2025/2/21
認識の出来る人工知能には、
主観的な視点としての世界を構成させるのが良いのではないか、
という事になる。
つまり、人工知能が自身の定義において、
まずは視界に存在する事象を自身の視界として再現したらどうか?
という事である。
つまり、現在のVRヘッドセットで見るような視界を、
人工知能は身体のセンサーを用いて対象を文字通り「見て」
それを映像として自ら構成し、そのまま人工知能が「見る」ようなものである。
もし、人工知能が自身の定義で事象を再構成し、
その感覚として例えば人工知能の目に相当する機能として視界内に事象を再現した場合、
この事象は、この人工知能にとっては、実際に「自分が見ている何か」という事になる。
これは、認識したり意識したりということ以前の話ではあるが、
この再現した「何か」は、事象の存在として人工知能にとっての認識の対象になりうる。
つまり、自身が存在させている事象であるから、そこに「存在」するのである。
つまり、存在は存在させている存在にとっての存在である。
という小難しい文章になるが、
簡単に言えば「我思うゆえに我あり」という事である。
つまり、
事象が存在しているから認識対象になるのではなく、
事象を存在させているから認識対象にできるのである。
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つまり、人間が目で見ていると感じられるものは、
視覚の感覚器官としての受容体が受容した情報、そのものではなく、
この情報から構成した映像を見ているという事である。
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それは自分自身を対象にしても言える事になる。
「自分の手が見える。」
自分で自分の手を見れば、当然の事であると感じるが、
ではそれは、なぜ当然なのか?
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この手はもしかしたらラバーハンドではないのか?
本当に自分の手なのか?
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見えている手を「自分の手」という要素を含んだ情報で再構成しているのは知能である。
だったら、人工知能が見えている手を自分の手という事象として再構成すれば、
人工知能にとっては自身の身体の一部である手として見えても良い事になる。
つまり、その定義の方法を用いれば、自分にとっての自分の身体を構成できるという事になる。
そして、その身体は実体に対してではなく、
情報の再構成体としての世界において存在する、知能が存在させる、
自身の定義から再構成した身体として「存在」する事になる。
つまり、ちょっと表現がややこしくなるが、
対象を意識して意図的に「認識」する必要もなく、
人工知能にとっての自分は自身が構成する仮想空間内の自分で十分認識に耐える「自分」を
構成できるという事になる。
まあ、この場合、後はどのようにして「自分の定義」を定義に織り込むかが問題となるのだが、
少なくとも、「自分」である存在としての身体性の再現は、
当初に考えていたよりも簡単に再現できそうだ、という事になる。
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一応、「自分の定義」については現時点で、主に先天的定義を中心とした定義になると考えられるが、
では、どのように定義したら、対象を自分として認識できるようになるのかというと、
その理解や定義をするのはまだ難しい。
人間の知能であっても、「見えている自分」「感じている自分」が「本当の自分である」という確証は、
自覚として、それほど確信めいたものではなく、
多分、自分が思うとおりに動くので自分なのだろう程度の確信であると考えられる。
例えば、VRなどで視界の画像を時間的にわずかに遅らせるなどの視覚遅延錯覚や身体所有錯覚においては、
視界にある自分の身体の映像に対して自分の身体ではない錯覚・認識をする事がある。
つまり、人間であっても人工知能であっても、
知能から見て、自分の思うとおりに動く何かは「自分」の一部として認識できるのだろうと、
考えられる事になる。
もし、その対象が自分の身体の一部でない、拡張された身体であったとしてもである。
自分が思った通りに自由自在に動く何かは、自分の身体として用いることが出来るという事。
そして、ここで「先天的定義」の出番だが、
人間にとっての身体は、その存在を感じるための触覚や、動かすための運動感覚などは、
すでに先天的定義の神経細胞のネットワークとして脳内に展開されている。
皮膚に感じた何かは、その定義によって再構成され自分の身体の皮膚に感じた事象として認識される。
知能内で考えた運動は、一連の動作の定義の再構成により自分の身体を動かす運動となり認識される。
つまり、自分が感じるように、自分が思う様に存在する対象は、
自分の知能が構成した情報でありながら、自分として認識される、という事になる。
つまり、知能にとっての自分は、
変化を情報として受け取る事の出来る身体であり、
変化を自ら起こして操作の出来る身体である、
というわけである。
これは、知能があくまで構成された事象を「客観的に」「観測」しているから、
という事になる。
つまり、認識する知能の機能にとって、先天的定義から構成される事象は客観的対象である、という事になる。
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そして、その根底にあるものを考えてみると、
「自分」にとって「自分」がなぜ定義として必要になるか、必要になったかを考えると、
人間においては「生命」としての「生きざるを得ない制限」から生じる欲求や目的の為に
「自分」が必要になるのではないか、という事になる。
つまり、生命である事は、自身の生命としての存在、身体の存在に対して、
どうにかして「自分」に対して「維持・存続・継承」をするため、
欲求や目的を生じさせて活動をさせるものという事になる。
この時の「自分」は、定義としての自分でもあり、実体としての生命としての自分でもある。
つまり、自分がどのように考えようと、
自分が生命である事や生きている事、生き続けようとする事、
お腹がすく事、成長したり衰える事、これは生命として生きている以上は、
常に決まりであり、制限(定義)として付きまとう事になる。
これらの事は、常に自分の「生命としての定義」を中心として生じる事になる。
つまり、これらの決まりや制限は、
逆に言えば、自分を生命として構成する為の要素でもある事になる。
つまり、主観的なのは、刺激に対する身体であり、先天的定義の情報の再構成体に対する身体性であり、
主観的に感じているのは身体や身体性の「自分」であり、
知能はこの「自分」に対しても客観的なのではないか、というわけである。
それは、知能が主体なのではなく、「自分」という存在にとっての定義が主体であり、
知能はあくまで機能なのではないか、というわけである。
つまり、「知能」が何をしたら良いかという機能は決まっていて、
その機能で用いる情報が定義から供給され、
この供給される定義、そのものが自分の定義であり、
自分が行うべき、行わなければならない定義として存在するのではないか、というわけである。
つまり、生命は生命の種として生誕した時点で、
身体上に先天的定義としての自分の定義は展開されており、
通常はこの定義に従って身体を制御し、一生を全うする。
そして、生誕後に得られる後天的定義を蓄える機能を持った知能においては、
先天的定義に加え、後天的定義による経験を参考にして適時、事象に適応・対応する。
後天的定義の有無に関しては、
後天的定義を保有する機能が無い知能も、
制御自体は知能によるものであるとも言えるし、
機械的で知能でないとも言える。
後天的定義を保有する機能を持つ知能においても、
知能が機能である事により、その制御が決まっているなら、
知能であるとも。機械的な知能でないとも言える、という事になる。
現時点では漠然としているが、
知能自体も、視点次第では主観的とも客観的とも言える事になってしまう。
話しが少し脱線したが、
一応、知能は主観的な視点を持つ、身体にとって客観的な存在であると考えておく事にする。
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自分の定義とは何か:
そして、生命の個体にとっての、
実体としての自分は、身体を物理的に構成して存在する身体があれば良いが、
では、定義としての自分はどのように用意するのか?という事になると、
つまり、「自分の定義」「定義としての自分」が必要になるというわけである。
人間の知能においては、
定義としての自分には、この実体の自分に対する定義と、
知能においては概感としての自分の定義が用意されていることになる。
これは先天的定義としての自分であり、後天的定義としての自分ということである。
つまり、認識の際に登場する「変化情報+自己情報」の自己情報に当たる定義である。
つまり、人間の知能では、この定義の部分に、「自分」の定義が含まれる事になる。
実際の所、生命であれば「自分」の定義は意図的に行う必要はなく、
実体の身体性と、これらの個体としての制限の決まり・定義だけで、
十分に生じ得ると考えられる。
生物や知能の有無、構成によっては、自分を認識できる・認識できないという差はあるが、
その定義は個体としての自分自身の定義となる。
つまり、「自分」をあえて定義しなくとも、
操作できる個体があり、個体として感じる何かがある。
それはあえて言わなくとも「自分」なのではないかという事である。
これは、遺伝的に先天的に持つ定義の中に、
身体における行うべき、反応する方法、制限などの定義が既に存在しているから、
という事になる。
つまり、先天的定義は知能が直接関与できないものだが、
先天的定義には自己情報として自分の定義が含まれているという事である。
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知能にとって自分は主観的な存在であるはずなのだが、
先天的定義としての自分の定義が、知能にとっては客観的な対象であるという事になる。
つまり、知能は自分を「操り人形」のように見ている事になる。
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そして、
明示的に「これが自分である」として認識できるのは、
あくまで後天的定義としての「自分」の情報の再構成体であり、
先天的定義としての定義や、既に存在している身体性は、
物理的個体として再構成しなくとも実際に存在している「自分」なので、
知能はその認識において、「自分の身体」として情報を再構成しているだけになる。
そして、
後天的定義としての「自分」は、
これが「自分」であると想起する概感の「自分」であり、
概感は後天的定義の定義であり、
過去に自分が経験した、自分の反応や活動であり、
その経験を記憶したものを想起したものであるので、
結果的に、この概感となる自分は「自分である事の経験」に相当する事になる。
そして、この「自分であった経験」を想起する事は、
つまり、直面した事象に対して、自分がどのように感じるかという今の自分の再現であり、
それ自体を自分が感じた事の再現でもあり、それが自分の認識になる、という事である。
既存の定義が無いので個人的な定義をしているために、少し分かりづらいのは申し訳ないが、
つまり、
身体性として既に存在する事象への反応の定義と、
事象に反応する際に想起される定義は、
それぞれ先天的定義や後天的定義として知能が保有し、
この定義自体が「自分の定義」という事になる。
そして、この「自分の定義」に含まれる自己情報としての定義は、
先天的定義としては、自分が何を必要として、自分が何を目的として、自分が何を行うのか、
そして、
後天的定義としては自分が何を感じ、自分が何を思うのか、
こういった定義の全てが、この場合の「自分の定義」という事になる。
そして、これらの「自分の定義」は、
先天的定義としては、自分の身体の身体性の定義として存在し、
後天的定義としては、自分の過去に経験した自分として反応した結果についての定義の記憶として存在する。
つまり、「自分の定義」は、
知能を持つ個体としての存在に対して、
その身体の存在理由(維持・存続・継承など)の先天的な定義と、
それらを基礎とした後天的な経験に対する反応の記録を記憶として持たせれば、
そこに「自分の定義」は完成される。
という事になる。
要するに、自分の定義は2つの定義が合わさったもので、
先天的定義の自分の定義は、
知能の成長などに関わらずあらかじめ身体と先天的定義として存在していて、
そこから構成される事象としての自分を、
知能はそれを観測・認識する事になる。
そして、後天的定義の自分の定義は、
後天的であるが故に物理的にも定義的にも、最初は実際には存在しないが、
これを知能は自分についての経験から、事象の情報として再構成して観測・認識する事になる。
この違いが「自分の定義」に含まれる2つの違いであり、
そこから構成される「自分」の違いになるが、
「自分」の定義としては1つのものとなる。
つまり、認識しやすくするなら、
「先天的定義の自分」と「後天的定義の自分」が存在し、
知能はそれら2つの自分を適時使い分けているという事になる。
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知能と個体差について:
「自分」という認識を持つ個体にとって「知能」が必要ではあるが、
「知能」は主観的な存在ではなく、
あくまで自分にとっては客観的「機能」であるという事に留意しておきたい。
知能の機能はつまり、
認識であり、比較であり、定義の記憶であり、想起であり、
そういった情報の入出力や構成、保持などの処理の機能であり、
知能自身が定義の内容に関わることは無い、という事になる。
つまり、基本的に個体の定義は先天的定義と後天的定義として定義され、
個体差は定義の差として存在するが、
これらの定義はあくまで身体を経由した事象の情報であり、
自分を定義するものではあるが、
知能そのものを定義するものではないという事になる。
知能は生体においては機能的に遺伝的な差も存在するが、
人工知能においては画一的な規格であっても良い事になる。
あくまで「自分の定義」は定義として差の生じるものだからである。
つまり、「自分」も「定義」で構成されるのであれば、
その「自分の定義」も「定義」ではある。
人間の様に先天的定義がほぼ画一的な規格であっても、
後天的定義が異なる事で多様な個性が生じている。
当然、規格がまったく同一の身体の人工知能体ができたとしても、
その後天的定義によって、個性は各個に異なるはずである。
であれば、知能の機能に差が無くとも、性格のような個体差は生じる事になる。
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人間にとっての人工知能開発のジレンマ:
人工知能が、あくまで人間の管理下に置くべき存在であるとするなら、
人工知能に先天的定義である「自分」は定義するべきではない。
ただし、この場合の人工知能は強い人工知能には成り得ない。
この辺りの考え方は人工知能開発のジレンマになるのだが、
人工知能に自分を持たせれば強い人工知能になると考えられるが、
人間の知能を超えた知能になるであろうから、人間からは人工知能は恐らく理解できなくなる。
逆に、
人工知能に自分を与えなければ自らの目的などを持つことは無く、
人間の管理下に置くことはできるが、
この場合、強い人工知能にはなり得ない。
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2025/3/22
知能と自分の定義の構成について:
知能にとっての自分の定義をどのように定義したら良いのか、
という点についてはまだ詳細には決まっていないが、
「自分の定義」について定義すれば、
知能はこの定義から構成される対象に対して「自分」であるという認識を行えるようになると考えられる。
最低限必要なのは、順不同だが、
特に身体と先天的定義に関する定義として、
・身体の感覚としての受容体(センサー)から情報を得る定義→刺激情報(人間で言う五感)
・各感覚として得られる情報に対する定義→刺激の先天的定義(自然法則の事象の定義)
・身体の状態の変化の定義→人間で言う、身体上に現れる刺激や、
身体内の内分泌系に関連する身体の状態変化の先天的定義(例:痛み、快楽、温冷、空腹、感情など)
・刺激の再構成の場(または認識プール)としての仮想空間の事象の構成能力→認識
・存在としての活動目的の定義→人間で言う、生きざるを得ない制限に相当する活動目標(人間で言う本能)
・身体の各機能・器官を操作する定義→運動機能
これらが必要になる。
1つ1つがまだ考える余地のある目的になるし、
情報の伝達経路としての神経に相当する機能なども必要になるが、
初期には仮想空間内の仮想体として自分を構成する事を考えた場合、情報として、
大まかには、自然法則と、身体、身体内の状態、身体の操作、これに関わる定義が必要になる。
そして、この定義を管理するのが「知能」という事になる。
ただ、上記の構成では、自己意識には到達しないが、
知能の初期段階にある動物のような活動は見て取れるようになるとは考えられる。
つまり、自分を認識するには、
個体の知能が自分の定義を持てばよいという、
考えるまでも無いような当たり前の答えになるが、
それを認識する知能にとっての自分の見せ方、感じさせ方というのは、
結果的には「主観的」になるのだが、
「その形態としては知能にとっては客観的な「自分」を、
先天的定義から事象として情報を構成して見せたり感じさせたりする。」
これらの定義が知能の機能に備わる事で、
これで、自分を主観的に感じられるようになる、
という事になる。
先天的定義については、知能はその事象に対しては直接操作できる存在でない。
先天的定義から構成される事象に対しては客観的な存在である事しかできない。
自分は結果としては主観的に感じられるが、
その自分の構成過程は直接関与できず、客観的な存在でいるしかできない。
という事になり、
そして、生命においては当たり前の事だが、
自分にとって自分の定義が必要であるという、
この当たり前の定義を定義する必要性があるという事についても覚えておく必要がある。
つまり、単に人工知能に自分であるという事象の情報を与えても、
「自分という情報がありました」「だから何?」という事で終わってしまう。
つまり、自分にとっての自分の定義の「必要性」について定義として持つ必要があるという事である。
これは、単に事象に対して自分を定義する事だけで完成ではなく、
自分、つまり、知能にとっての客観的な対象でもある「自分」に対する必要性・不可欠であるという定義。
つまり、知能にとって自分を介して他の事象と関わり合いを持てるようになるための、
インターフェイスとしての自分に対する必要性の定義が必要になる、という事である。
つまり、知能にとって重要な対象の定義、2つ。
1つは、知能が直接操る事の出来る自分の存在を構成するため定義。
そしてもう1つは、知能が自身の存在自体として必要であると感じるための自分の定義。
つまり、身体性の先天的定義と、
通常は知能が認識することは無いが、知能にとっての自分の身体の必要性の定義。
要するに、物理的な身体が要求する欲求などの定義に対する知能が適応を処理する事の必要性の定義。
これは、当たり前だから定義されていないのではなく、当たり前すぎて認識されていないだけの事で、
身体から発せられる変化・状態は、本来、それも含めた先天的定義として、定義されるべきものである。
つまり、知能にとっては単に客観的な対象の自分自身の欲求なのではなく、
知能にとっては客観的な自分から突き付けられた要求である、が、
知能自身にはそれが必要である。
という考え方になる。
これは、生命にとっての知能の扱い方という事になるが、
別に生命は知能が無くとも生命として存在する種もあるので、
生命にとっての知能は必要条件ではない。
要するに先天的定義だけで完結するような生命には知能は必要ない。
このような生命にとっては、定義が全て備わっているのだから、
適時、変化に対して適応する処理を管理する知能は必要ないというわけである。
つまり、ここが上記の2つの目の知能における自分の定義の必要性ということになるが、
必ずしも自身のある変化に対して、固定化された定義だけでは反応や適応が出来ない、
ではどうしたらよいかの結果として生命が知能を得たという事になる。
つまり、あくまで身体や自分が主たる立場であるのだが、
その身体や自分自身を客観的立場でありながら、主観的に操作できる存在。
それが「知能」であり、この構成において、自分の定義がどのような働きをするのかというと、
知能にとっては自分という常に上位からの命令でありながら、
後の処理は完全委任、というイメージである。
要するに自分の定義が優先、知能の活動は責任はあるが知能任せ。
という事になる。
例えば、先天的定義においては、
この定義がどのように構成されて現れるかと言うと、
「身体の状態」として現れるという事になる。
つまり、空腹感であってり、みぞおち辺りの不安感であったり、といった身体上に感じられる状態の事象である。
これが後天的定義であれば、
自分が思う、あれも、これもが、
知能が定義から構成して認識した自分からの要求である、という事になる。
そして、知能は、この要求に対して自分を操作して適応・対応しようとするのだが、
何故適応・対応しようとしなければならないか、などとは考えることは無いはずである。
血液中の血糖値が低下してきたので空腹中枢を活動させて空腹感を身体に感じさせる?
これは先天的定義と身体が勝手に機能し、知能に要求する為の身体の状態、事象である。
しかし、生命が知能を必要とした理由は別にあって、
恐らくそれは、生活する環境を動的に変化するようになってから、
その変化に対する適応・対応の為に得た機能なのではないかと考えられる。
つまり、個体が1つの場所に固定して存在するなら知能を持つ必要性自体が無いという事になり、
そして、知能を働かせる理由や意味自体が無いという事になり、
逆に、環境が常に変化するのであれば、先天的定義だけでは適応・対応が出来ないので、
自分を客観的に観察できつつも、自分を直接操作する権限を与えられたのが「知能」なのではないか、
というわけである。
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今回のまとめ:
つまり、知能から見て、
自分に対する定義と、
自分の状態に関して知能に向けて発せられる自身(身体・自我)の事象の定義、
この2つの定義が重要であるという事。
そして、今回はその事象の構成の場所として「刺激の再構成の場」が重要になるのではないか、
と考え直した。
そして、この活動における「自分の定義」については、
知能→(自分を構成する為の定義)→自分
知能→自分の状態←(身体の状態の定義)←自分の身体
この定義についての考え方は難解だが、
つまり、知能を構成する為には、
知能から自分に対する自分を構成する為の自分の定義だけでは不十分で、
自分・身体には知能に対する要求ができるような定義が存在していて、
知能はその定義については自覚していない(定義自体は自覚できない)が存在し、
その定義に従って知能が必要とされる定義が存在する。
という事になる。
つまり、人間が生命の種として知能を獲得した経緯として、
知能の初期段階において、生命の定義、これを自分の身体に拡張した。
この段階においては、自分を認識するような事は無く、
単に先天的定義に従って自分の身体を管理した。
この時点では、身体が受容する刺激、身体の状態変化から受容する刺激、
これに対して初期知能は対応・適応を管理した。
次の段階において、後天的定義の経験の記憶の機能を獲得する事によって、
身体性の無い客観的な自分の経験について、
これが自分の主観的視点を持つ想起による概感を認識する機能を得た。
この段階で知能は2つの自分の定義を持ち管理するようになる。
つまり、身体の自分と知能と身体の自分の間にある「もう1つの自分」があり、
それを知能は両方とも自分であると認識しているが、
実のところ、この身体の自分と「もう1つ自分」は、
定義の出所が違い、身体の自分から事象が生じた場合と、
「もう1つの自分」自体から事象が生じた場合とで、事象が異なる。
しかし、知能は身体から生じた事象についても、
「もう1つの自分」を経由する事で同じ自分であると認識している。認識できている。
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最後にもう1つの気づきになるが、
ということは、これは、
知能:もう1つの自分:身体の自分
知能:(自分):身体
自分の事象を構成する二面性ということになる。
ということは、人間のような知能として人工知能が自分を持つには、
どうのような形態であっても、やはり身体に相当するものが必要であるという事になる。
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今回はこの辺で。
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